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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

内申点の暴力性について、再び。

中学の定期試験が終わり、高校受験の内申点がそろそろ決まる頃です。良かった子は良いとして、仮内申が発表されて、それで思ったよりも取れていなかったとしても、落ち込むことはありません。大切なのはここからの勉強であり、入試でしっかりと点数を取ることです。そのためにここからできることは山程あります。そこに向けて集中していくことが何より大切です。

しかし、高校受験に関われば関わるほどに高校受験での中学の先生のつける「内申点」の不透明さには辟易します。テストの点数が良くても「授業態度」「意欲」「関心」などを中学の先生が主観的につけ、90点オーバーの点数を取っていたとしても、それらの不透明な要素で5段階で3にされる、ということもざらにあります。塾でも毎年毎年中3生がこの内申点で理不尽な成績をつけられ、苦しんでいます。本当に良くない制度であると思っています。

「テストの点数が良くたって、授業中寝てたら成績悪くなるの当たり前でしょ!」という反論も先生側からはあるのでしょうが、なぜ授業中寝るのか、ですよね。たとえば授業がつまらない(「つまらない」には既習分野でわかっているから、もあれば、担当の先生の努力不足もあるでしょう)から寝てしまうとして、それを「つまらないけど内申点が悪くなるから起きて聞こう!」という姿勢を中3の子に強要するのは、端的に言って奴隷を再生産する制度でしかないと思います。おかしなこと、つまらないことであろうと、それに従わなければ自分が不利益を被るということを15歳の子たちに叩き込むような社会に未来などあるのでしょうか。。強く疑問に思っています(中には「授業中に手を上げた回数」で評価が決まる、などという例もあります。。こんなの、本末転倒も甚だしいですよね。。)。

もちろん学校の先生としては自分の目に映る姿がその子のすべてになりがちです。自分の授業中ずっと寝ている子がいるとしたら、その子はその先生にとっては「落第」なのでしょう。しかし、同時に教師が想像力を働かせなければならないのは、自分の目に映るその子が、決してその子の全てではない、という事実についてです。いつも自分の授業で寝ている子は、夜は必死に塾で勉強しているのかもしれません。あるいは家の事情でアルバイトや家の手伝いに明け暮れているかもしれません。その必死の努力故に、授業で眠ってしまうものの、しかし勉強はなんとか頑張って、定期試験ではしっかり高得点をキープしても「授業態度」故に内申点を低くつけられ、そのせいで行きたい高校にいけなくなるのだとしたら…。その子達は夢も希望もなくしてしまうのではないでしょうか。そのように15歳の子の人生を左右する権力を教師が握っている、ということに対して、もっと中学の先生方には恐ろしさを感じていただいた上で、基準をreasonableなものに明確化していくことを徹底していただきたいと思います。それをしていないせいで、苦しんでいる中学3年生がどれだけいるのか。。塾で教えているだけでも毎年、本当に理不尽なケースに出会います。このような理不尽な内申点の付け方によって、優秀であるのに公立高校を受けられなくなってしまう子もいるのです。仮に私立に受かったとしても、そのような暴力によって、子どもたちの心は本当に傷つき、そこから回復するのが難しくなってしまうケースすらあります。

明示されてるとしてもreasonableではない基準を生徒をコントロールするための道具に用いているのも問題ですが、そもそも基準が明示されない、というのはさらに大きな問題です。しかし、このような例も内申点の付け方には多々あると思っています。そして、基準が明示されないままに評価をつけられる、というのは、簡単に言えばカルトとか、社長がワンマンのブラック企業とかに似ていると思っています。どのような基準で自分が評価を上げられたり下げられたりがわからない環境に置かれ続けるとき、人間は思考を停止してひたすらに「上」の人の機嫌を伺い続けます。そしてそのように「上」の人の機嫌を伺い続ける内部の人々は何が基準かがわからなければわからないほどに、身も心も捧げ尽くすようになるのです。そしてそれを「自発的にそうしている」と自分で思い込み、それができない人々を排斥するようになります。そのような「地獄」を中3の子たちに味わわせていて良いのでしょうか。(こう書くと、「東京の内申点制度はまだ緩い!」とか「他の地域は3年間それが続く!」ということも言われるのでしょうが、どちらにせよこのように曖昧な基準に従い続けなければ自分が不利益を被るという「地獄」です。一方の地獄が別の地獄よりはまだマシということで正当化できるものではありません。ペーパーテストだけである方が、よほど自由であると思います。また、「それは勉強のできる子の意見だ!」ということも言われるのでしょうが、勉強ができない子が先生に盲従することで内申点で下駄を履かせてもらったとして、それは果たしてどこまでその後の社会においてその戦略で生きていけると言えるのでしょうか。それはlocalには最適の生存戦略だとしても、その後決して通用しなくなるのではないでしょうか。もちろん、日本社会全体を「上意」を理不尽でも踏まえることにひたすら特化した人々が出世していく社会にしていくことは可能です。あるいは、既に政府であれ会社であれ、そうなっている部分もあるのでしょう。しかし、そのような社会はたとえばこの新型コロナのような外部からの難題については、取り組む力を完全に失った社会になってしまうのだと思います。)

中学校での内申制度をこのようにたとえるのは不穏当と思われるかもしれませんが、それぐらいにひどい事実に毎年ぶつかる、ということにこちらもまた愕然としている次第です。まず、人間が人間を主観的に評価する、ということにはどのような天才が評価者になろうとも必ず限界がある、という事実を直視すべきです。その上で、中学校の先生方には自身の主観的「評価」のせいで、15歳の子たちの人生が大きく変わってしまう、という事実に対してもっと恐れを抱いていただきたいと思っています(ここまで書いてきましたが、もちろんこれは「中学の先生が個人的にひどい!」ということだけではありません(中にはそういうケースもありますが)。たとえば僕がこのように「主観的評価を(成績以外で)しろ!」と同じ要求をされたら、やはり何らかの基準を作ってそれを明示したとしても、それが誰かにとっては暴力的な評価になってしまうことも当然起こりえます。それほどに、主観的評価というのは難しいもので、どうしても教師の「好き嫌い」にすぎないものが評価基準の中に混入してきてしまいます(これは医学部入試の面接試験もそうですよね)。それぐらいに、人間が人間を評価する、というのは極めて難しい。だからこそ点数だけで決めることが一番フェアである、と考えています。)。

その上で、理不尽な内申点が出て、それに絶望している中3の子たちに。
こんな腐った制度のせいで、君の人生が狭められていくことが本当に申し訳ないですが、それでも君を受け入れてくれ、君の頑張りを認めてくれる高校は必ずどこかにあります。近くになかったら、通信制の高校や高卒認定試験で大学受験をにらんで勉強してもよいです(何なら、そっちのほうが勉強も進みます!)。勝負は大学受験です。君の人生を中学教師の恣意的な判断で左右させないことが、一番の復讐です。ぜひ、生き抜いてください。力になれることがあれば、何でも言ってもらえたら。

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嘘つきにつける薬。『ディスタンクシオン』

相変わらず塾はバタバタと忙しいのですが、今その合間を縫ってピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいます(「ディスタンクシオン」とはdistinction「区別」のフランス語です)。本当に素晴らしい本であるので、やるべきことを後回しにしては、ついつい読み進めてしまっているところです。。

この本の何が素晴らしいって、本当に容赦のない、何ら手心を加えることのない考察の数々ですよね。私達自身が自分の「個性」や「長所」だと思っているものがいかに、それ自体の内容を気に入っているかのように私達がうやうやしく振る舞おうとも、それが他の階級との差異を生み出すために選択されたコード(code)にすぎず、その内容について実は私達はさほど興味ももっていないし理解もしていない、ということを暴露してくれます。私達が「運命の出会い」と信じたいであろう自分のパートナーとの出会いですら、いかに打算に満ちたものであるのか、いかに暗黙の了解としての所属集団のハビトゥスに囚われたものであるのか、を示してくれます。自分のidentityとして信じたいものを私達は信じようとしているだけであり、しかしそれは社会の中での所属階級(それは現在所属している階級であるだけでなく、自身がそこに所属したいと思っている階級)への帰属感を示すためである、という意味ではそれはむしろ自分自身ではないために用いられるものであるわけです。

この本は私達が「私」や「貴方」として信じたいと思っているものがいかに一人称や二人称ではないのか、徹底的に外被を剥ぎ取っていきます。この本の中に出てくる様々な人々が「自分の趣味や好みを語るパート」の残酷さといったら!彼らが自慢気に語る自らの「趣味」や「思想」、「芸術観」といったその全てが、社会学者の冷徹な目によっていかに彼ら自身のものではないかが浮かび上がる、という仕組みです。本当に性格が悪いったらありゃしないですよね。

しかし、それが本当に素晴らしい。何より、言葉がこんなに容赦なく、真理を穿つために用いられ続けることに感動を覚えます。私達はとかく嘘をついては自分自身の立場を擁護するために言葉を使い続けてしまっているので、この社会全体にもそのような嘘の言葉ばかりが、政治でも仕事でもその他全ての人間関係の中にも充満して、あたかも本当のことをしゃべること自体が何か「空気の読めない」「社会人ではない」かのように非難されてしまう、という狂気の沙汰になってしまっています。そんな中で、これほどに言葉をひたすら、私達の信じたいもの、そうであってほしいと願うものを容赦なく剥ぎ取っては、私達自身のアイデンティティがいかに空虚で無内容なものでしかないかを描くために用いてくれていることに、本当に深いところから呼吸させてもらえる気がします。

嘘は、本当のことを伝えるために使われるとしてもなお、嘘であり続けます。その嘘に内包された善意によって一時的に正当化されたとしても、その内包されていたはずの善意すらも嘘は自分の都合の良いように定義し直してしまいます。そのようにして、不正に手を染める誰もが「これは仕方のないことだ」とゴールポストを動かし続けることになり、それを何とか正当化し続けようとする人生になっていきます。

私達に必要なのは、自分が見たいものを見たり信じたいものを信じたりするために嘘を吐き続けることではなく、自分の見たくないものを容赦なく見ようとしていくことなのではないでしょうか。言葉はこれだけ嘘を吐くことに用いられ続けてもなお、嘘を吐かないために用いることもまたできるのです。

衒(てら)い、とは自己イメージを作り上げては見せびらかすためであり、つまりそれは他者との「差異」を作るために内容を必要とする、ということです。これは前衛的な芸術を追い続ける、という態度にもまた現れるのだと思います。

どのような熱烈な「信仰」告白も、私達が追い求めるその価値が、「差異」を示すための「アクセサリー」あるいは「IDカード」以上の何かを内包していることを自明には示しえません。僕が信じる価値も、僕がそもそもこういった本を自分で「読まねばならない!」と感じて読もうとすることも、ブルデューの言うように僕の人格の奥底にインストールされた、自己を他者と弁別しては優位性を保つための権力意識に引きずられて行われる行為であるのかもしれません。それは光るものを集めるカラスのように、意味を理解しないままに習性として行われる、悲しい行為であるのかもしれません(もっともカラスに聞いてみたら、彼らには彼らなりの内実のある動機があって、我々人間の方がよほど内実のない動機から「文化的」に振る舞おうとしているのかもしれませんが。。)。

しかし、それでもなお、嘘の言葉ばかりが溢れかえる中で、このように本当のことを語ろうとして紡がれるむき出しで命がけの言葉には、誠実であらねばならないと感じます。そのような言葉には僕自身が「差異」を作ることでこの社会の中で立ち位置を確保しては生きていくためなどという低俗で下らない目的よりも、はるかに大切な価値があると信じています。それが、マタイの福音書でイエスがペテロを「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱ったときの「神のこと」であるのかな、と考えています。もちろん僕はそれを「神のこと」とは言いませんが、「人のこと」より大切なものがあることもまた確かである、とは思っています。


という本当に素晴らしい本である『ディスタンクシオン』がなんと、岸政彦先生の解説でNHK教育テレビの『100分 で名著』で12月に4回に分けてやります!!大部の本ですし、読むのは大変ですが、テレビは必見です!!

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