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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

絶望をしないために、絶望をし続ける、ということ。

気がつけば、もう9月も後半です。いつもここからが早いのですが、今年は特に受験生が多く、日々を忙しく過ごしている間にあっという間に時間が経ってしまいます。とはいえ、ブログも何とか書いていきたいと思います。

安倍政権も終わりました。終わってみて改めて気がつくのは、「安倍さえ辞めれば世の中は少しはマシになる!」という希望を抱くことがいかに儚いか、です。私達はどうしてもそのように「これさえ変われば!」と儚い期待をしてはみるものの、その一つが変わったとしても全体としては何も変わらずに裏切られては絶望する、という失敗をしがちではないでしょうか。

減量する、という意味でのダイエットも同じです。「これだけ食事制限をしている!」「これだけ運動をしている!」という自分の努力ばかりに目をやっては、そのことだけから「こんなに努力してたら、一週間で3キロは痩せちゃうな!」などと勝手な期待をしてしまいます。もちろん、それとは別にアイスを食べてるとか、糖質制限をしてもその分肉を食べる量を増やしている、とかいった負の側面には目を向けないで、です。そしてそのような都合の良いところだけをかき集めてはようやくそのように定義できるレベルの「努力」を続けても結果が出ないことに勝手に絶望し、そしてさっさとその目標を諦めます。

これはまた、受験勉強もですね。努力をしたことがすぐに結果にでるわけがないのが受験勉強です。学校の小テストや定期試験は努力すればそれなりにすぐに結果が出ます(その代わり、その努力は実力としてはほとんど残りませんが)。それに対し、受験勉強にはそのように短期間にガーッと頑張ったらすぐに結果が出る、ということがありません。また、勉強量や時間としては十分であっても正しい方向性の努力でなければ、結果は出ません。そのようにすぐには結果が出ないことに対して、自身の努力の仕方や量が間違っているかどうかをしっかりと反省をすることなしに「どうせやってもムダなんだ!」と性急な結論を導き出しては絶望する。誰にでも経験のあることではないでしょうか。

ことほどさように、私達は絶望したがっているのです。あまり絶望先生(久米田康治先生の名作です)を笑えませんね。多様な事実の断片を都合よく取り出しては、自分の努力がいかに報われないか、自分がいかに悲劇の主人公であり自分に非はないか、などと自分が諦めていい理由を探し続けています。人間の理性は、そのように自分が努力をしないためにならフル回転をしてくれます。一方で、そのような厳しい現実をどのように切り開くのか、についてはかなりお尻を叩いてもあまり働こうとしてくれないのに、です。

そのような人間の情けなさ、だらしなさに対して、しかし受験だけは言い訳がききません。どんなに「私は頑張った!」と言い張ろうと、落ちればそれはその子の努力が足りなかったことを表します。もちろんこれはどこの大学に進むかに極めて大きな価値がある、ということではありません。この尺度をこの社会がどのように不当に高く評価しようとも、その尺度では測れない努力や実力があることもまた厳然たる事実です。しかしそれは、言い訳がきかない。先生に気に入られてごまかせるものでもない(最近の推薦入試やAO入試の拡大はそれを掘り崩すものでもありますが)。そのように自分がちっぽけな努力を言い訳にして諦める理由を見つけては背を向ける、ということを許さないだけの一つの関門が受験である以上、それは自らが絶望をする理由を探すことをやめて、諦めないで必死に結果を出そうとする、というトレーニングにはなるはずです。

そして、そのためには厳しい現実を見つめ続け、日々絶望し続けなければなりません。自分のちっぽけな努力では何も動かないことを直視し、それでも方法を工夫したり、時間や量を増やしたり、他に改善できるポイントがないかどうかを探し続ける、ということをやっていっては、再び自分に実力がない、という現実に絶望を突きつけられる。この「何とかしよう!」とするがゆえの日々の絶望を、どれだけ毎日毎日、いや毎瞬間毎瞬間繰り返すことができているのか。そこにこそ、希望があると思っています。

翻って、政治についてもまた同じですよね。ささいな努力に何らかの効果を期待してはそれがうまくいかずに絶望するのでは、三日坊主のダイエットやすぐに諦める受験生と何も変わらないといえるでしょう。日々絶望し続けては、しかしより良い方向へと変えられないか、努力をし続ける。その一人一人の地道な積み重ねを通してしか、変わりようがないのです。圧倒的に、日々の絶望が足りない。それを自分にも生徒たちにも言い聞かせては、必死にやっていきたいと思います。

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