
この緊急事態宣言以降のstay homeというかけ声のもつ暴力性は、たとえば「自粛警察」と呼ばれるような営業している店舗に同調圧力をかけようとする人々の恐ろしさだったり、あるいはhomeを持つことができていない人々への切り捨てだったりと、様々な形で現れました。そういった同調圧力の一つ一つに対して、「緊急時だから仕方がない」ではなく、どのように露呈した問題点に対して取り組んでいくか、ということを私達は考えねばならない、と思っています。
ただ、どうしても見落としがちな悲惨さとして、homeが気の休まらない場所である人もまた、そこに居続けなければならない、ということがあると思っています。親がいる家を「home」とは思えない若い世代もいるわけで、そうした子達が家にいなければならないことの苦痛(それはphysicalな虐待であったり、モラハラであったり様々な形があるとは思いますが)を散々に突きつけられざるを得ない、という事実に対して、もっと一人一人が敏感になる必要があると思っています。そこへの共感や問題意識なしに、「家にいる価値を見直す」的なキャンペーン(これは芸能人とかスポーツ選手とかの善意でなされていたわけですが)が押し付けがましく拡散されていく、という事態に絶望をせざるを得ない若い世代も多かったのではないでしょうか。
介護にせよ、教育費用にせよ、日本において公的制度で支えられている部分というのは非常に小さく、「家庭」がその殆どの機能を担うことに国家が頼り切っているのが現状です。これは新型コロナ対策を「自粛要請」で乗り切り、政府としてはほぼ何もしないのと同じですね。このような状況の中で、その支えとなるべき「家庭」に頼ることができない子たち(家族と死別や離別、あるいは困窮している家庭)は放っておかれています。その子達の苦しみはもちろん、なんとかしていかねばなりません。
さらに言えば、支えとなるべき「家庭」が自分にとってはマイナスでしかない子たちもいます。物理的金銭的援助を得られないとしても、まだそこに共感があるのならばマシです(もちろん経済的困窮が、虐待に繋がりやすいのもまた事実として、ですが。)。しかし、DVや性的虐待その他を受けている、あるいは受けていた子たちにとって、「stay home」というかけ声が、どれだけ絶望的な響きをもっていたか。そのことに対する想像力をもたないままに、なされるすべての感染症対策は、僕には「homeの中に閉じ込めておいた君たちがどうなろうと、それは私達の責任ではない。(だって、私達のhomeは君たちのhomeとは違うから)」という死刑宣告のようなものにしか感じ取れません。
問題であるのは、そういった子たちを救えないことだけではないのです。救うも何もそのような存在にすら思い至らないままに、(僕も含めて)私達のほとんどは生きていくことができて、ちょっとした不便や不自由に文句を言う自由すら享受しています。どのようにひどい扱いを受けようと、子どもたちにとってはそこをhomeと見なして、どんなにひどい親でも愛するしかない。そこを否定することは、そんな親との関係にも何らかの心のやり取りを探そうと苦しみ続けてきた、彼ら彼女らのアイデンティティをも掘り崩すことになるからです。しかし、そのような子たちにとって、「stay home」と言われることの絶望といったら。。
僕自身が何かができているわけではありません。 本当に恥ずかしながら、「stay home」 ができる家庭に育ち、自身もそのような家庭を築いているつもりです(もっとも、僕の子どもたちは全くそうは思っておらず、抑圧や暴力ばかりを感じ取っているかも知れませんが)。しかし、そのように自らの家庭を「幸せ」にすることは、決してその「home」がないことに苦しむ子たちや、その中で苦しむ子たちへの愛情へとは繋がっていかずに、むしろそれらを自分には理解できないものとして視野に入れないことへと繋がっていきます。このことを太宰治は『家庭の幸福』で描いていたわけですが、あれでもまだ片手落ちで、現実の厳しさに抗することができない家庭の悲惨さだけではなく、家庭自身が暴力と束縛の装置として機能している現実に対しては、「自分の家庭の幸福」があるせいで私達は目を向けることができなくなっていきます。
このひどい時代に、子どもたちは少しでも自由に生きてほしい、と希望を繋いでいこうとする「祈り」のようなものが教育であると思っています。しかし、その教育ですら、どのようなhomeに生まれついたかで大きな格差が出てきてしまいますし、学習塾などもそのような格差拡大に加担してしまっているわけです。だからこそせめてでも、塾をhomeにできないか。そのように考えてやり続けているわけですが、この「stay home」の暴力性には、それをも根こそぎ殺されかけている、というのが現状です。それでも何とか、無力さに絶望しがちな自分を鞭打っては、ほんの少しでもhomeに苦しむ子たちの力になり続けていきたいと思っています。
ただ、どうしても見落としがちな悲惨さとして、homeが気の休まらない場所である人もまた、そこに居続けなければならない、ということがあると思っています。親がいる家を「home」とは思えない若い世代もいるわけで、そうした子達が家にいなければならないことの苦痛(それはphysicalな虐待であったり、モラハラであったり様々な形があるとは思いますが)を散々に突きつけられざるを得ない、という事実に対して、もっと一人一人が敏感になる必要があると思っています。そこへの共感や問題意識なしに、「家にいる価値を見直す」的なキャンペーン(これは芸能人とかスポーツ選手とかの善意でなされていたわけですが)が押し付けがましく拡散されていく、という事態に絶望をせざるを得ない若い世代も多かったのではないでしょうか。
介護にせよ、教育費用にせよ、日本において公的制度で支えられている部分というのは非常に小さく、「家庭」がその殆どの機能を担うことに国家が頼り切っているのが現状です。これは新型コロナ対策を「自粛要請」で乗り切り、政府としてはほぼ何もしないのと同じですね。このような状況の中で、その支えとなるべき「家庭」に頼ることができない子たち(家族と死別や離別、あるいは困窮している家庭)は放っておかれています。その子達の苦しみはもちろん、なんとかしていかねばなりません。
さらに言えば、支えとなるべき「家庭」が自分にとってはマイナスでしかない子たちもいます。物理的金銭的援助を得られないとしても、まだそこに共感があるのならばマシです(もちろん経済的困窮が、虐待に繋がりやすいのもまた事実として、ですが。)。しかし、DVや性的虐待その他を受けている、あるいは受けていた子たちにとって、「stay home」というかけ声が、どれだけ絶望的な響きをもっていたか。そのことに対する想像力をもたないままに、なされるすべての感染症対策は、僕には「homeの中に閉じ込めておいた君たちがどうなろうと、それは私達の責任ではない。(だって、私達のhomeは君たちのhomeとは違うから)」という死刑宣告のようなものにしか感じ取れません。
問題であるのは、そういった子たちを救えないことだけではないのです。救うも何もそのような存在にすら思い至らないままに、(僕も含めて)私達のほとんどは生きていくことができて、ちょっとした不便や不自由に文句を言う自由すら享受しています。どのようにひどい扱いを受けようと、子どもたちにとってはそこをhomeと見なして、どんなにひどい親でも愛するしかない。そこを否定することは、そんな親との関係にも何らかの心のやり取りを探そうと苦しみ続けてきた、彼ら彼女らのアイデンティティをも掘り崩すことになるからです。しかし、そのような子たちにとって、「stay home」と言われることの絶望といったら。。
僕自身が何かができているわけではありません。 本当に恥ずかしながら、「stay home」 ができる家庭に育ち、自身もそのような家庭を築いているつもりです(もっとも、僕の子どもたちは全くそうは思っておらず、抑圧や暴力ばかりを感じ取っているかも知れませんが)。しかし、そのように自らの家庭を「幸せ」にすることは、決してその「home」がないことに苦しむ子たちや、その中で苦しむ子たちへの愛情へとは繋がっていかずに、むしろそれらを自分には理解できないものとして視野に入れないことへと繋がっていきます。このことを太宰治は『家庭の幸福』で描いていたわけですが、あれでもまだ片手落ちで、現実の厳しさに抗することができない家庭の悲惨さだけではなく、家庭自身が暴力と束縛の装置として機能している現実に対しては、「自分の家庭の幸福」があるせいで私達は目を向けることができなくなっていきます。
このひどい時代に、子どもたちは少しでも自由に生きてほしい、と希望を繋いでいこうとする「祈り」のようなものが教育であると思っています。しかし、その教育ですら、どのようなhomeに生まれついたかで大きな格差が出てきてしまいますし、学習塾などもそのような格差拡大に加担してしまっているわけです。だからこそせめてでも、塾をhomeにできないか。そのように考えてやり続けているわけですが、この「stay home」の暴力性には、それをも根こそぎ殺されかけている、というのが現状です。それでも何とか、無力さに絶望しがちな自分を鞭打っては、ほんの少しでもhomeに苦しむ子たちの力になり続けていきたいと思っています。



