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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

政治について学ぶことの大切さ。

自学自習の教育のことについて、山程書きたいことはあるのと、またこの状況だとそのような情報を必要とされている方も多いだろうとは思っているのですが、(他にも山程書きたいことがあるのに)それだけをあれこれと書かねばならない、という気持ちでブログに向かうモチベーションが上がらなかったので、今日は少し他のことを書きたいと思います。

さて、僕も一応 twitterをやっていまして、まあ使い方といえばブログの更新の告知と、どくんごがあればどくんごの宣伝くらいしかつぶやいていないのですが、この前久々につぶやいたものが、僕にしては比較的広く読まれました。これについて、
詳しく書きたいと思います。

まず受験生の動向、特に同じ大学の同じ学部を受ける受験生の動向(まあ、入試本番の手応えですね。)を把握するために、僕はよく受験生の twitterを見ています。問題の難易度は問題を見ればわかりますが、それに対して普段の模試でどれくらい取れている受験生がどれくらい点数を取れているかを調べるために、そのように同じ志望学部・大学の受験生のtwitterをチェックしてはその子達の反応を見ることで、受験当日を戦う受験生に的確なアドバイスができるように、とやっています(もちろん、うまくいかないときの励ましがメインなので基本的には「みんな点数取れていないから大丈夫!」というトーンで話さなければならないわけですが、それがいかに「事実に基づいた」励ましであるかこそが大切です。逆にそこが口からでまかせの気休めであれば、人生を懸けて闘っている受験生には、一瞬で露呈します)。

さて、そのように受験生をフォローしていて、そして嚮心塾はどうしても医学部・東大受験が多いので、そういう受験生を多くフォローすることになるのですが、その子達のtweetを遡っては模試の成績とかを見て、「このレベルの子がこれだけ点数取れてる/取れていない」をチェックしていくときに、当然彼らの他のtweetも目に入ります。
そのときに感じるのはこういった「優秀な」大学受験生というのは、圧倒的に自民党支持者が多い、ということです。

「そんなこと言ったって野党よりは自民党の方がマシ!」という態度をそれらの若い子たちは、驚くほど広範に共有しています。もちろんそれが、しっかりと政治について勉強し、国会中継をしっかり見てそこで行われている議論を丹念に追っては考え抜かれたものであれば、それも一つの識見でしょう。しかしまあ、率直に言ってそれらの子たちが政治に関心をもって調べたり本を読んだりしている痕跡はありません。

結局この彼らの「結局、野党よりは自民党がマシ!」というしぐさは、受験勉強に忙しい彼らが、「いかに政治のことについて勉強するという労力を取らないで、賢いふりをするか」という効率性の問題であるように思います。
政治のことについて勉強すれば、とても時間がかかります。それらを端折って、しかし政治は誰の生活にも関わってくる以上、意見や態度表明を求められることが多い。そのような事態にあたって、「最小限の努力であたかも何かがわかっているかのような振る舞いができる」という点でこの、「野党よりは自民党がマシ!」というシニシズムに陥るのだと思います。
(話は逸れますが、このシニシズムは別に若い世代だけではありません。仕事に忙しい30代、40代には特に似たような傾向が見られるとも思います。)

そこではいかに「楽して勝ち馬に乗るか」ということだけが彼らの関心です。もちろんこの「勝ち馬」は、別に国有地を格安で払い下げてもらった、とか首相主催のお花見に招待された、とかそういう具体的な利益ではありません。ただ、「政治について考えたり調べたりすることなく、それなりの意見が言えている体をとれる」という彼らの処世術のようなものです。(もちろん、これは自民党支持だけではなく、「9条改正反対!」さえ唱えていればあたかも自分が政治についてしっかり考えているかのように振る舞える、という別のパターンもあります。問題なのは党派性ではなく、政治的態度が、個々人の、「考えも勉強も足りないままに、いっぱしの意見を言える自分でいたい!」という非常にくだらないサボり心によって決定されてしまっている、ということです。

「まあまあ。若いときってそんなものだよね。」と言えればよいのです。実際に僕自身の若い頃を振り返っても、「自分の意見」として主張するものがいかに人からの借り物でしかなかったか、それなのに、いっぱしの顔してあたかも自分がよく考えて生きているかのように振る舞っていました。まったくお恥ずかしい限りです。
そのような未熟な、調べることも考えることも足りていない態度が、この社会の中で揉まれ、問題に直面しては苦い思いで反省をして、ということの繰り返しで成熟してくるのであれば、そのようなシニシズムに安住して思考停止する態度をことさらに指摘する必要はないのかもしれません。
しかし、日本においてはどうしても経済優先で政治、という問題はあまり考えて生きている大人までが少ない以上、そのまま大人になってしまっている、というケースがどうしても起こりやすいと思います。(これは一つには日本のアメリカに対する従属的関係からスタートした戦後日本が、自らの「民主主義」にも「戦争放棄」にも大きな自己矛盾を抱えていたのにも関わらず、その難題からは目を背けてきた、という歴史にもよると思います。)

専門家が自分の専門外のことについてしゃべる意見は、その専門家がどれほど自分の専門分野での権威であったとしても、
しろうと意見でしかありません。それが合っていることもあれば、間違っていることもあるとは思いますが、それはその専門家がどんなに自分の専門分野で超一流であるか、によって確率が変わることはありません。
それほどに細分化され、各学問の中ですら隣接分野のことがよくわからないような現代において、特に「誰もが素人でしかない」分野が「政治」であるのです。そして日本の戦後の特殊事情から「政治のことはとりあえずおいといて、経済発展目指そう!」という積み重ねによって、日本人は政治について学ぶこと、関わることの大切さをわからないままに育ち、そして安易なシニシズムによって自分が努力せずに一定の政治的意見を持っているかのように振る舞う仕草を身に着けてしまっている、と危惧しています。

仮に東大理三やその他難関大医学部に合格して、その理三の受験での偏差値が80であろうと、その子が政治について語ることに一定の知性が現れているかはわかりません。というより、今のような事情を鑑みれば、むしろそこには知性が発揮されていないことの方が蓋然性は高い、と言えるでしょう(なぜなら彼らがそこに勉強時間というリソースを充てるメリットがこの社会で生計を立てていく上ではあまりないからです)。ただ、その子が医師になり、社会的発言権を持つようになると、それが「識者」の意見として、世間に流布することになってしまいます(ここも僕はあまりよくわからないのですが、なぜ医師や大学教授が「知的職業」とみなされるのか、医療や学問のある特定分野に関してはもちろん彼らは専門家であるとして、それ以外の分野になぜ知性や判断力があるとみなされているのか、が極めて疑問です。)。

「いやいや。ワイドショー以外に医師が医療の事以外にコメントすることなんか、ないでしょ!」とこの影響を甘く見積もるのはまずいです。彼らが専門であるはずの医療のことについて情報発信をするときにすら、彼らの持つバイアスは彼らの立場を必ず規定します。その立場から縛られたままで繰り広げられる彼らの主張に客観性や科学的態度があるかのように思ってしまうと結果として大きな失敗になりうる、ということがこの新型コロナの「専門家」の提案する「対策」についてでも、よく見えたのではないかと思います。(STAP細胞騒動のときにも露呈しましたが、発表される「データ」を学問というのは基本的には信じた上で推論をするしかありません。もちろんその「データ」が改ざんされていたり、隠蔽されていたり、都合のよいものだけを公表したりというその推論の前段階で操作をされてしまっていると、そこに基づく推論、あるいはその推論に基づく対策自体が、最高の知性を集めても的はずれなものにならざるをえません。そして、森友問題や桜を見る会その他の様々な政治的スキャンダルを見ても、コロナ対策においてもまた、今の政府が自分たちに都合の悪い数字を改ざんや隠蔽をしない動機があまりないと思います。森友問題や加計問題、桜を見る会などはネポティズムという腐敗の現れであったとしても、問題としてはそれほど大きな問題ではありません。しかし、その「小さな」問題ですら、公文書改ざん・隠蔽を徹底的にしては、自らの非を認めない政府が果たして、より大きな自らの失政に対してデータや文書を改ざんしたり隠蔽したりしないわけがないのです。「小さな」問題に目くじらを立てない、というある意味日本人の鷹揚さが、コロナ対策に限らずより「大きな」問題に対するチェックをできないものにしている、と言えるでしょう。これも政治について考えることを放棄した帰結です。)

「学べば学ぶほど、自分がわかっていないことに気付かされる」のは、どの学問においてもそうであるわけですが、
しかしましてや、専門外となると、ですね。学ぶべきことは多く、人生はあまりにも短いです。
そしてそれは狭い分野でのちっぽけな成功で「天才」だの「賢い!」だの言われている人間たちにとっても
またそうであるのです。だからこそ、自分の愚かしさを直視して、知らないことを学び、わからないことを調べ、考えていくことが大切であり、専門外のことについて自分が気軽に言える意見は、あまり突き詰めて考えていない誰かの意見の受け売りでしかなく、それを表明することがこの社会にとって害悪を垂れ流すことに繋がっていないかを厳しくチェックしていかねばなりません。そのことを僕自身も肝に銘じて、生徒たちにもしっかりと伝えていきたいと思います。

その上で政治、というテーマはそのように皆が専門に特化する中でみんなにとって盲点となりやすい
ところです。誰の人生にとっても、左右してしまうだけの大きな力を持つのに、です。
その結果が現在の日本の状況である、と思っています。だからこそ、皆が素人ながら学び、調べ、考えては
誰かの受け売りで思考停止する自分を許さぬように、徹底的に疑っていく必要があると思います。

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自学自習マニュアル(その3:補遺その1「教科書だけをやろう!」)

バタバタと忙しい日々を送っていて、間が空いてしまいました。
その間にこの休校期間中の勉強を授業では穴埋めが不可能なので、文部科学省の方から
「教科書を主体に他の教材も含めて、家庭で学習を進めてほしい」という指示が出ているようです。

この指示は基本的に正しいものの、注意点もあります。この「教科書を主体に」というのは自学自習に取り組む場合、「教科書以外に問題集もやってほしい」というように解釈されがちです。そして、小中高生というものは、「教科書を含めて問題集をやってほしい!」という指示をされてしまうと、ほとんどの子は教科書を一読、あるいはもはや読まずに、
「ふんふん。これはわかった!さて、問題を解こう!」ということになってしまいます。

しかし、教科書の未習分野を一読してわかる天才などほとんどいません。だからこそ、このような学習法は結局、
「自分ではよくわかっていないところを教科書に乗っている公式を覚えてもいないし、もちろん理解や導出なんかできていない状態にも関わらず、なんとなく見様見真似で解く」という最悪の勉強法へとつながってしまいます。。

なぜこの勉強法が最悪か、というと、あまりよくわかっていないままに問題を解くので、とても時間がかかります!
しかし、それだけ時間をかけても、結局覚えていても理解してもいない公式やルールを無闇矢鱈と「これかな?」という当てずっぽうで使ってみては、解答を見て正解と一致しているというだけで、「これでわかった!」と勘違いしては次に進んでしまう、ということになります。このような勉強をしても、多大な時間がかかり、何も残りません。しかし、勉強を長時間やった気にはなるので、成果が出ないまま疲れ果てて勉強自体への意欲もどんどん薄れていく、という最悪の事態に陥ります。

このような失敗を防ぐためにはどうしたらよいのか。それが「教科書だけを勉強する。」という方法であると思っています。教科書だけであれば、説明が多く、理解していないところをしっかりとたどることができます。さらには問題数が多くないため、それに関してはわかるところまで繰り返すこともできます。そして分量が少ないからこそ、何回も読み返すことができ、そして読み返せば読み返すほどに、自分がよくわかっていなかったことが見えてくる、というように力がついてきます。

未習分野を勉強する際に問題集まで手をのばすのは、自学自習の仕方としては、最悪だと考えてください。
問題集が役に立つのは、既習分野の復習という局面か、あるいは未習分野を教科書でしっかりと理解しながら進めていった後に、理解という点ではこれ以上教科書を読んでもあまり変わらない、と「飽和」してきたときであると考えるとよいかもしれません。逆にその状態に至るまでは、問題集を解いてはいけない。それぐらいの気持ちで教科書を読み込むことが大切です。

新型コロナウィルスの収束も、5月上旬までというスパンではおそらく難しく、休校期間も延長することにならざるを得ないと予測されます。その中で自学自習をしていかねばならないわけですが、この状況で未習分野を進めていくときに「問題集だけを解く」というのは基本的に(それをすべて解説できる大人が横に居なければ)最悪の手法であると思ってください。しかし、学校でも「講義は学校側できちんとしました。あとは問題を解くことが君たちの勉強だ!」という方式で普段進めている以上、その学習習慣を引きずったままに「自学自習」を子どもたちが求められれば、必ず「読む」ことを雑に終わらせては「解く」ことだけをやり、そして何も力が着かない、という無駄な時間を過ごしてしまうという失敗に陥ってしまいます。

だからこそ、「解く」前に「徹底的に読む」ということが、自学自習においては大切です。そのためにも、未習分野を進めていく際には、教材はまずは教科書だけに絞って繰り返す、というのが賢明であると思います。

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2020年度受験を振り返って(その6)

日本社会事業大学社会福祉学部合格(進学先)   S・Hさん(都大泉高3)

私は有名大学には一つも合格することができませんでしたが、とても明るい未来を想像しています。私が勉強についてどのような悩みを抱えてきたか、受験を終えての気持ちなどを伝えたいと思います。

私は中学生の頃から勉強をする習慣がないことに危機感を持ちつつ、なかなか変わることができない自分に苦しみ続けていました。部活や行事など、興味のあることには積極的に取り組みましたが、勉強が全てでは無いと考えていた私は、中高一貫校で高校受験がなかったこともあり、高3までにどうにかすればいい、と思っていた面もありました。両親も、私の強みを理解していたからか、成績について口出しをすることはありませんでした。自分なりに工夫して勉強をしようとしたことも何度もありますが、どれも三日坊主でした。

そして私はそのまま受験生になってしまいました。将来は福祉の分野で人の役に立ちたいと思い大学を探しました。第一志望は国公立大学にしましたが、偏差値が低くても福祉を専門的に学べる大学が近所にありました。このことは私にとって安心材料であると同時に、怠慢の原因にもなりました。成績が悪いことはもちろん気になりましたが、それ以上に、焦りや不安を抱えながらもなかなか勉強に取り組めない自分がとても嫌でした。この嫌な気持ちを抱えたまま受験を終えたくない、今こそ変わらなければいけない!という思いで塾を探し歩きました。勉強するということへのハードルが高くなっていた私でも頑張れそうな塾は、嚮心塾しかありませんでした。

嚮心塾はアットホームな雰囲気で、勉強のことはもちろん、生活リズムや人間関係のことなど、どんな些細な悩みでも一人ひとりの声をしっかりと聞いてくださるので、勉強嫌いな私でも塾を嫌いになることはなく、毎日通うことができました。基礎の基礎から勉強を始め、夏休みが終わった頃、自分のペースで少しずつ成長していることを嬉しく思う反面、このペースでは受験に間に合わないという焦りが再び現れました。しかし、その漠然とした不安を言葉にできず、塞ぎ込むようになりました。冬になる頃、不安はついに爆発し、先生と話しながら大泣きしてしまいました。それまでは先生に言われた通りに勉強をするだけで、どのように勉強したら良いか、自ら考えることができていませんでした。受け身の姿勢ではぐんと成長することはできないと理解しました。しかし、どうしたらいいのだろうと考えては脳内がグルグルになり、一皮剥けることができず苦しかったです。その後も頑張れる日と頑張れない日を繰り返しました。受験直前になっても、先生と話しては塾で泣き出すことが多く、他の塾生の皆さんに迷惑をかけたことは、本当に申し訳なく思います。そして気がつくと私の受験は終わっていました。

受験を終えても、私には大きな悩みが残りました。それは進学するか、浪人するか。合格したのは先ほど述べた近所の大学のみでした。総合大学で様々な人や学問に触れたいという気持ちもあったため、小さな専門的な大学への進学に迷いがありました。あと一年勉強すれば、国公立は難しくても、もう少し名の知れた総合大学に合格できるのではないかとも思いました。

私は本当にやりたいことは何かを考え直しました。そして、どこの大学に通うかということと、どんな大学生活を送るかということは、同じ問題ではないと気付きました。仮に私が総合大学に通ったとしても、主体的に学ぶことができなければ進路に迷ってしまうでしょう。それよりも、本来興味のある福祉を専門的に学びながら、他に興味を持ったことは自ら大学を飛び出して挑戦したいと思いました。受け身の姿勢ではなく、自ら学び成長したいと思ったのです。私は進学することで、受験期に乗り越えることのできなかった壁を乗り越えることを決めました。

嚮心塾には勉強が得意な人も苦手な人もいますが、分け隔てなく相談に乗ってくれます。勉強のことはもちろん、人生において大切なことをたくさん教えてくれる塾だと思います。そのため、どの大学に進学する人も、浪人する人も、その選択が自分の将来のためになると信じて進むことができます。自ら学ぶ姿勢を身につけ、充実した大学生活と輝かしい未来を掴むことで、塾への恩返しになればと思います。そして福祉の専門家として多くの人の役に立てるよう、頑張ります。読んでくださりありがとうございました。

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自学自習マニュアル(番外編:学校に反転授業を!)

この前の内容に続けて自学自習についてのその他の押さえるべきポイントを書こうと思っていたのですが、
文部科学大臣が「休校期間中の授業は実質補填できないから、一定の要件を満たせば家庭学習で単位をとれたものとする」という発表をしました。これは実質的に学校教育の責任の放棄だと思いますので、先にこれについて書きたいと思います。

GW開けにはこの新型コロナの蔓延が収束している、というかなり楽観的な見通しが万一実現したとしても、
従来の学校の授業でこの「失われた2ヶ月」を取り戻すことは夏休みを丸々潰しても難しいというのは確かです。
この厳しい現実に対して、どのように取り組むべきか、というのは簡単なことではありません。

しかし、だからといって「家庭学習で学んだものとする!」と言い切ってしまうのでは学校がその教育に担う責任を放棄するようなものです。それはやはり、あまりにも無責任なのではないかと思います。

この解決策としてはやはり「反転授業」形式しかないと、思っています。具体的にはいつからかはわかりませんが、
学校が仮に再開できたとして、本来進むはずだった範囲の学習内容に関して、範囲を区切っては自習してきた子もそうでない子も教科書を読み返し、そこでの疑問点を逐一先生が教えていく、という形こそがこのような講義の穴を埋めていくためには現実的、かつ効果的な手段ではないかと思います。

僕自身は講義形式ほど効率の悪い学習はないと思っているため、このような反転授業形式の学習塾をやっているわけですが、学校がそれを全面的に取り入れるのはまだまだ難しいと思います。しかし、学校には現在のままでは質問を受ける時間、というのがカリキュラムの中にほとんど組み入れられていません。だからこそ、学習内容についてわからないところの質問は、休み時間に生徒が自主的にするもの、というような「添え物」扱いです。これでは率直に言って、勉強ができるようにはならないと思います。

たとえば一週間に一コマだけでも、各授業の中でそのような質問タイムを作る、とか、もちろんそれがコマ数の少ない授業なら2週間に一回とかでもよいのですが、そのように振り返る時間を作るだけでも学習効果は高まります。ギチギチの予定で講義と演習だけで終わり、生徒が疑問点については質問する時間がまとまって定期的には取られない(まあ、定期試験前の1コマあるかないか)、という今の「とりあえず講義予定を消化することが優先で、生徒が力がつくかどうかはあまり考えていない」学校の状態からはとりあえず前進する改善案ではないでしょうか。

そして、この休校によって「従来通り講義をしていては、そもそも追いつかない!」という状況はある意味でその反転授業形式を試すための絶好のチャンスです。ここで、そのように学校側が「教科書を読む」あるいは「講義動画を見る」ことを
生徒に休校期間中に課した上で、そこでの疑問点を休み明けに徹底的に質問に答えて一つ一つ潰していく、という授業スタイルをとれば、むしろ子どもたちの実力はただ講義をリアルタイムでしていたときよりも必ず上がります!
そして、そのような成功例が出てくれば、教えている先生方も「ただ質の高い講義をしていればいい!」と講義の質を上げることだけに専念するのではなく、このように立ち止まって生徒の質問に徹底的に向き合って教えることに時間をしっかり割いていく方がむしろ生徒の力を伸ばすためにはいいのだな!と気づけば気づくほどに、公教育自体が今の形骸化した状態から、意味のあるものになっていくと思います。

だからこそ、「講義の遅れた分を取り戻すのは無理だから、やったことにしよう!」とごまかすのではなく、むしろこのピンチを反転授業を試験的にでも導入していくチャンスと捉えて、学校側が取り組んでいただけると本当に嬉しいです。
(それをしていただけると、本当に素晴らしいと思うのですが、、まあなかなかやらないですよね。。この理由として、どうしても学校の先生方に「授業こそ教育の生命線!」という固定観念があるからだと思っています。しかし、目の前の生徒を教えるのに、様々なアプローチを用意することは、教育という極めて難しい取り組みに携わるものの責任でもあると思います。是非これに関しては、学校の先生方にしっかりと話し合い、考えてもらって、反転授業形式を試験的にでも導入していただきたい、と思っています。)

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自学自習マニュアル(その2:教科書学習が有効ではない例外。)

前回、教科書学習の利点と欠点について記事を補う形で書きました。
様々な教科でこの教科書学習が有効である、と思っていますが、やはり例外となる科目があります。
それが、英語です。

これは英語の教科書は、そもそもその一冊で力がつくようには作られておらず、むしろある程度英語ができる人でないと取り組みようがないからです。端的に言い換えれば、小中高の英語教育において、「英文法」の教科書がない、というただ一点が致命的であると思います。

もちろん、中学の教科書も高校の教科書も各単元の中に文法事項は、それなりに入れてあります。しかし、
この程度の解説でわかる子は、最初からある程度英語ができる子です。中にはprogressシリーズのように、そもそも
英文法の解説がほとんど載っていないものさえあります。

嚮心塾には今年の理三や阪医の子のように勉強が得意な子達だけではなく、様々な子が通ってくれます。
その中で、「致命的に英語ができない」ままに高校を卒業してしまった浪人生たちの殆どは、「気がついたら英語の教科書に載っている内容が何一つ理解できなくなっていて、試験前に教科書の英文の和訳や単語・熟語をムリヤリ覚えて何とか定期テストを乗り切ったものの、受験ではどうしようもなかった」というケースです。

そしてこれは、ある意味現在の中高の英語教育の傾向からすれば、当然の結果であるのです。なぜなら、中高の英語教育において、英文法をあまりにも軽視することが「コミュニケーション英語」という美名に基づいて推し進められた結果として、「英語の教科書を読んでも英文法についてはあまり学ぶことができない」という状態になってしまっているからです。
これに関しては、英語の教科書を使わずに英文法の参考書を繰り返し読んでいくことが大切であると考えています。
(2,30年前に比べて(我々の頃は、『ロイヤル英文法』とか『英文法解説』とかを必死に読んだものでした…。)、最近では英文法の参考書もだいぶ取り組みやすい様々な参考書が揃ってきています。たとえば大学受験用の高校英文法であれば、『Evergreen』『ジーニアス総合英語』『be』『breakthrough』などです。これらのうちどれでもいいので一冊を繰り返し熟読すると、英文法のルールについて理解ができるようになってきます。これをしっかりとやれば、ほぼ高校の英語の授業は必要ないくらい、です。実際に嚮心塾でも、全く英語ができないままに高校を卒業してしまった浪人生が、英語が単語や熟語を覚えてもどうしようもない状態から始めて、これらの英文法の教材を熟読することで、英語でしっかりと点数をとれるようになっています。ここに関しては、英語ができない子のほとんどは、英文法をそのようにしっかり鍛えてあげれば、100%力がつきます!)

こう書くと、高校の英語の先生方は「いやいや。うちの高校は英文法にもしっかり力を入れている!たとえば『Nextage』とか『Vintage』とか小テストを徹底している!!」と反論されるかもしれないのですが、これでは絶対に力がつきません。これらの問題集を、英文法を理解していないままにいくら反復して解いても、何も残らないで実力もつかないことは、
以前にも別の記事で書きました。あるいは、「解くよりまず理解!」とも前回の記事で書きましたね。

そもそも人間は、「理解できないものを覚える」ということが極めて苦手です。有名な話をあげれば、将棋や囲碁のプロ棋士の方々は、超人的なくらい自分の対局の盤面を覚えていて、それを再現することができるわけですが、しかし、「(自然な対局ではない)ランダムな駒の配置や石の配置を覚えろ!」というようなテストをすれば、その超人的な記憶力は全く発揮できません。なぜなら彼ら彼女らはその盤面の意味(そこに至るまでの経緯)を理解しているから覚えられるわけで、自然な対局では決してないような配置にしてしまえば、単純に暗記するしかないからです。

英文法を理解していない中高生に、英文法の問題集だけを何回も解かせる、というのはこの「ランダムな盤面の配置」をただ反復によってできるようにしようとすることです。しかし、そのような能力は当然大学入試では全く求められていません。このように英語の勉強時間を空費させられては、「あんなに努力したのに、何も英語の力がつかなかった。。」という悲惨な状態の中高生が多いのです。

だからこそ、そのような悲惨な事態にならないためにも英語の教科書ではなく、「英文法書を読んで理解する」ということがとにかく大切です。嚮心塾でもまずはそれを徹底的にやらせています。
(もちろん、心ある中高の英語の先生方はそれに気づいた上で、しっかりと対策を練っておられる方もいるはずです。いるはずなのですが…教えている実感としては、あまりにも「文法は問題集を解け。」で終わらせている高校が多すぎる。。と思っています。)

国語も似た傾向があるのですが、古文や漢文はちゃんと「文法の教科書」があるので、それを読んで理解していけば
大丈夫です!例外としてはこういったところでしょうか。

次回はオンライン講義や指導の際の学習の注意点を書いた後に、では「自学自習の洗練」とはどういうことなのか、実際に嚮心塾でやっていることを書いていきたいと思います。

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