
自学自習の教育のことについて、山程書きたいことはあるのと、またこの状況だとそのような情報を必要とされている方も多いだろうとは思っているのですが、(他にも山程書きたいことがあるのに)それだけをあれこれと書かねばならない、という気持ちでブログに向かうモチベーションが上がらなかったので、今日は少し他のことを書きたいと思います。
さて、僕も一応 twitterをやっていまして、まあ使い方といえばブログの更新の告知と、どくんごがあればどくんごの宣伝くらいしかつぶやいていないのですが、この前久々につぶやいたものが、僕にしては比較的広く読まれました。これについて、
詳しく書きたいと思います。
まず受験生の動向、特に同じ大学の同じ学部を受ける受験生の動向(まあ、入試本番の手応えですね。)を把握するために、僕はよく受験生の twitterを見ています。問題の難易度は問題を見ればわかりますが、それに対して普段の模試でどれくらい取れている受験生がどれくらい点数を取れているかを調べるために、そのように同じ志望学部・大学の受験生のtwitterをチェックしてはその子達の反応を見ることで、受験当日を戦う受験生に的確なアドバイスができるように、とやっています(もちろん、うまくいかないときの励ましがメインなので基本的には「みんな点数取れていないから大丈夫!」というトーンで話さなければならないわけですが、それがいかに「事実に基づいた」励ましであるかこそが大切です。逆にそこが口からでまかせの気休めであれば、人生を懸けて闘っている受験生には、一瞬で露呈します)。
さて、そのように受験生をフォローしていて、そして嚮心塾はどうしても医学部・東大受験が多いので、そういう受験生を多くフォローすることになるのですが、その子達のtweetを遡っては模試の成績とかを見て、「このレベルの子がこれだけ点数取れてる/取れていない」をチェックしていくときに、当然彼らの他のtweetも目に入ります。
そのときに感じるのはこういった「優秀な」大学受験生というのは、圧倒的に自民党支持者が多い、ということです。
「そんなこと言ったって野党よりは自民党の方がマシ!」という態度をそれらの若い子たちは、驚くほど広範に共有しています。もちろんそれが、しっかりと政治について勉強し、国会中継をしっかり見てそこで行われている議論を丹念に追っては考え抜かれたものであれば、それも一つの識見でしょう。しかしまあ、率直に言ってそれらの子たちが政治に関心をもって調べたり本を読んだりしている痕跡はありません。
結局この彼らの「結局、野党よりは自民党がマシ!」というしぐさは、受験勉強に忙しい彼らが、「いかに政治のことについて勉強するという労力を取らないで、賢いふりをするか」という効率性の問題であるように思います。
政治のことについて勉強すれば、とても時間がかかります。それらを端折って、しかし政治は誰の生活にも関わってくる以上、意見や態度表明を求められることが多い。そのような事態にあたって、「最小限の努力であたかも何かがわかっているかのような振る舞いができる」という点でこの、「野党よりは自民党がマシ!」というシニシズムに陥るのだと思います。
(話は逸れますが、このシニシズムは別に若い世代だけではありません。仕事に忙しい30代、40代には特に似たような傾向が見られるとも思います。)
そこではいかに「楽して勝ち馬に乗るか」ということだけが彼らの関心です。もちろんこの「勝ち馬」は、別に国有地を格安で払い下げてもらった、とか首相主催のお花見に招待された、とかそういう具体的な利益ではありません。ただ、「政治について考えたり調べたりすることなく、それなりの意見が言えている体をとれる」という彼らの処世術のようなものです。(もちろん、これは自民党支持だけではなく、「9条改正反対!」さえ唱えていればあたかも自分が政治についてしっかり考えているかのように振る舞える、という別のパターンもあります。問題なのは党派性ではなく、政治的態度が、個々人の、「考えも勉強も足りないままに、いっぱしの意見を言える自分でいたい!」という非常にくだらないサボり心によって決定されてしまっている、ということです。
「まあまあ。若いときってそんなものだよね。」と言えればよいのです。実際に僕自身の若い頃を振り返っても、「自分の意見」として主張するものがいかに人からの借り物でしかなかったか、それなのに、いっぱしの顔してあたかも自分がよく考えて生きているかのように振る舞っていました。まったくお恥ずかしい限りです。
そのような未熟な、調べることも考えることも足りていない態度が、この社会の中で揉まれ、問題に直面しては苦い思いで反省をして、ということの繰り返しで成熟してくるのであれば、そのようなシニシズムに安住して思考停止する態度をことさらに指摘する必要はないのかもしれません。
しかし、日本においてはどうしても経済優先で政治、という問題はあまり考えて生きている大人までが少ない以上、そのまま大人になってしまっている、というケースがどうしても起こりやすいと思います。(これは一つには日本のアメリカに対する従属的関係からスタートした戦後日本が、自らの「民主主義」にも「戦争放棄」にも大きな自己矛盾を抱えていたのにも関わらず、その難題からは目を背けてきた、という歴史にもよると思います。)
専門家が自分の専門外のことについてしゃべる意見は、その専門家がどれほど自分の専門分野での権威であったとしても、
しろうと意見でしかありません。それが合っていることもあれば、間違っていることもあるとは思いますが、それはその専門家がどんなに自分の専門分野で超一流であるか、によって確率が変わることはありません。
それほどに細分化され、各学問の中ですら隣接分野のことがよくわからないような現代において、特に「誰もが素人でしかない」分野が「政治」であるのです。そして日本の戦後の特殊事情から「政治のことはとりあえずおいといて、経済発展目指そう!」という積み重ねによって、日本人は政治について学ぶこと、関わることの大切さをわからないままに育ち、そして安易なシニシズムによって自分が努力せずに一定の政治的意見を持っているかのように振る舞う仕草を身に着けてしまっている、と危惧しています。
仮に東大理三やその他難関大医学部に合格して、その理三の受験での偏差値が80であろうと、その子が政治について語ることに一定の知性が現れているかはわかりません。というより、今のような事情を鑑みれば、むしろそこには知性が発揮されていないことの方が蓋然性は高い、と言えるでしょう(なぜなら彼らがそこに勉強時間というリソースを充てるメリットがこの社会で生計を立てていく上ではあまりないからです)。ただ、その子が医師になり、社会的発言権を持つようになると、それが「識者」の意見として、世間に流布することになってしまいます(ここも僕はあまりよくわからないのですが、なぜ医師や大学教授が「知的職業」とみなされるのか、医療や学問のある特定分野に関してはもちろん彼らは専門家であるとして、それ以外の分野になぜ知性や判断力があるとみなされているのか、が極めて疑問です。)。
「いやいや。ワイドショー以外に医師が医療の事以外にコメントすることなんか、ないでしょ!」とこの影響を甘く見積もるのはまずいです。彼らが専門であるはずの医療のことについて情報発信をするときにすら、彼らの持つバイアスは彼らの立場を必ず規定します。その立場から縛られたままで繰り広げられる彼らの主張に客観性や科学的態度があるかのように思ってしまうと結果として大きな失敗になりうる、ということがこの新型コロナの「専門家」の提案する「対策」についてでも、よく見えたのではないかと思います。(STAP細胞騒動のときにも露呈しましたが、発表される「データ」を学問というのは基本的には信じた上で推論をするしかありません。もちろんその「データ」が改ざんされていたり、隠蔽されていたり、都合のよいものだけを公表したりというその推論の前段階で操作をされてしまっていると、そこに基づく推論、あるいはその推論に基づく対策自体が、最高の知性を集めても的はずれなものにならざるをえません。そして、森友問題や桜を見る会その他の様々な政治的スキャンダルを見ても、コロナ対策においてもまた、今の政府が自分たちに都合の悪い数字を改ざんや隠蔽をしない動機があまりないと思います。森友問題や加計問題、桜を見る会などはネポティズムという腐敗の現れであったとしても、問題としてはそれほど大きな問題ではありません。しかし、その「小さな」問題ですら、公文書改ざん・隠蔽を徹底的にしては、自らの非を認めない政府が果たして、より大きな自らの失政に対してデータや文書を改ざんしたり隠蔽したりしないわけがないのです。「小さな」問題に目くじらを立てない、というある意味日本人の鷹揚さが、コロナ対策に限らずより「大きな」問題に対するチェックをできないものにしている、と言えるでしょう。これも政治について考えることを放棄した帰結です。)
「学べば学ぶほど、自分がわかっていないことに気付かされる」のは、どの学問においてもそうであるわけですが、
しかしましてや、専門外となると、ですね。学ぶべきことは多く、人生はあまりにも短いです。
そしてそれは狭い分野でのちっぽけな成功で「天才」だの「賢い!」だの言われている人間たちにとっても
またそうであるのです。だからこそ、自分の愚かしさを直視して、知らないことを学び、わからないことを調べ、考えていくことが大切であり、専門外のことについて自分が気軽に言える意見は、あまり突き詰めて考えていない誰かの意見の受け売りでしかなく、それを表明することがこの社会にとって害悪を垂れ流すことに繋がっていないかを厳しくチェックしていかねばなりません。そのことを僕自身も肝に銘じて、生徒たちにもしっかりと伝えていきたいと思います。
その上で政治、というテーマはそのように皆が専門に特化する中でみんなにとって盲点となりやすい
ところです。誰の人生にとっても、左右してしまうだけの大きな力を持つのに、です。
その結果が現在の日本の状況である、と思っています。だからこそ、皆が素人ながら学び、調べ、考えては
誰かの受け売りで思考停止する自分を許さぬように、徹底的に疑っていく必要があると思います。
さて、僕も一応 twitterをやっていまして、まあ使い方といえばブログの更新の告知と、どくんごがあればどくんごの宣伝くらいしかつぶやいていないのですが、この前久々につぶやいたものが、僕にしては比較的広く読まれました。これについて、
詳しく書きたいと思います。
まず受験生の動向、特に同じ大学の同じ学部を受ける受験生の動向(まあ、入試本番の手応えですね。)を把握するために、僕はよく受験生の twitterを見ています。問題の難易度は問題を見ればわかりますが、それに対して普段の模試でどれくらい取れている受験生がどれくらい点数を取れているかを調べるために、そのように同じ志望学部・大学の受験生のtwitterをチェックしてはその子達の反応を見ることで、受験当日を戦う受験生に的確なアドバイスができるように、とやっています(もちろん、うまくいかないときの励ましがメインなので基本的には「みんな点数取れていないから大丈夫!」というトーンで話さなければならないわけですが、それがいかに「事実に基づいた」励ましであるかこそが大切です。逆にそこが口からでまかせの気休めであれば、人生を懸けて闘っている受験生には、一瞬で露呈します)。
さて、そのように受験生をフォローしていて、そして嚮心塾はどうしても医学部・東大受験が多いので、そういう受験生を多くフォローすることになるのですが、その子達のtweetを遡っては模試の成績とかを見て、「このレベルの子がこれだけ点数取れてる/取れていない」をチェックしていくときに、当然彼らの他のtweetも目に入ります。
そのときに感じるのはこういった「優秀な」大学受験生というのは、圧倒的に自民党支持者が多い、ということです。
「そんなこと言ったって野党よりは自民党の方がマシ!」という態度をそれらの若い子たちは、驚くほど広範に共有しています。もちろんそれが、しっかりと政治について勉強し、国会中継をしっかり見てそこで行われている議論を丹念に追っては考え抜かれたものであれば、それも一つの識見でしょう。しかしまあ、率直に言ってそれらの子たちが政治に関心をもって調べたり本を読んだりしている痕跡はありません。
結局この彼らの「結局、野党よりは自民党がマシ!」というしぐさは、受験勉強に忙しい彼らが、「いかに政治のことについて勉強するという労力を取らないで、賢いふりをするか」という効率性の問題であるように思います。
政治のことについて勉強すれば、とても時間がかかります。それらを端折って、しかし政治は誰の生活にも関わってくる以上、意見や態度表明を求められることが多い。そのような事態にあたって、「最小限の努力であたかも何かがわかっているかのような振る舞いができる」という点でこの、「野党よりは自民党がマシ!」というシニシズムに陥るのだと思います。
(話は逸れますが、このシニシズムは別に若い世代だけではありません。仕事に忙しい30代、40代には特に似たような傾向が見られるとも思います。)
そこではいかに「楽して勝ち馬に乗るか」ということだけが彼らの関心です。もちろんこの「勝ち馬」は、別に国有地を格安で払い下げてもらった、とか首相主催のお花見に招待された、とかそういう具体的な利益ではありません。ただ、「政治について考えたり調べたりすることなく、それなりの意見が言えている体をとれる」という彼らの処世術のようなものです。(もちろん、これは自民党支持だけではなく、「9条改正反対!」さえ唱えていればあたかも自分が政治についてしっかり考えているかのように振る舞える、という別のパターンもあります。問題なのは党派性ではなく、政治的態度が、個々人の、「考えも勉強も足りないままに、いっぱしの意見を言える自分でいたい!」という非常にくだらないサボり心によって決定されてしまっている、ということです。
「まあまあ。若いときってそんなものだよね。」と言えればよいのです。実際に僕自身の若い頃を振り返っても、「自分の意見」として主張するものがいかに人からの借り物でしかなかったか、それなのに、いっぱしの顔してあたかも自分がよく考えて生きているかのように振る舞っていました。まったくお恥ずかしい限りです。
そのような未熟な、調べることも考えることも足りていない態度が、この社会の中で揉まれ、問題に直面しては苦い思いで反省をして、ということの繰り返しで成熟してくるのであれば、そのようなシニシズムに安住して思考停止する態度をことさらに指摘する必要はないのかもしれません。
しかし、日本においてはどうしても経済優先で政治、という問題はあまり考えて生きている大人までが少ない以上、そのまま大人になってしまっている、というケースがどうしても起こりやすいと思います。(これは一つには日本のアメリカに対する従属的関係からスタートした戦後日本が、自らの「民主主義」にも「戦争放棄」にも大きな自己矛盾を抱えていたのにも関わらず、その難題からは目を背けてきた、という歴史にもよると思います。)
専門家が自分の専門外のことについてしゃべる意見は、その専門家がどれほど自分の専門分野での権威であったとしても、
しろうと意見でしかありません。それが合っていることもあれば、間違っていることもあるとは思いますが、それはその専門家がどんなに自分の専門分野で超一流であるか、によって確率が変わることはありません。
それほどに細分化され、各学問の中ですら隣接分野のことがよくわからないような現代において、特に「誰もが素人でしかない」分野が「政治」であるのです。そして日本の戦後の特殊事情から「政治のことはとりあえずおいといて、経済発展目指そう!」という積み重ねによって、日本人は政治について学ぶこと、関わることの大切さをわからないままに育ち、そして安易なシニシズムによって自分が努力せずに一定の政治的意見を持っているかのように振る舞う仕草を身に着けてしまっている、と危惧しています。
仮に東大理三やその他難関大医学部に合格して、その理三の受験での偏差値が80であろうと、その子が政治について語ることに一定の知性が現れているかはわかりません。というより、今のような事情を鑑みれば、むしろそこには知性が発揮されていないことの方が蓋然性は高い、と言えるでしょう(なぜなら彼らがそこに勉強時間というリソースを充てるメリットがこの社会で生計を立てていく上ではあまりないからです)。ただ、その子が医師になり、社会的発言権を持つようになると、それが「識者」の意見として、世間に流布することになってしまいます(ここも僕はあまりよくわからないのですが、なぜ医師や大学教授が「知的職業」とみなされるのか、医療や学問のある特定分野に関してはもちろん彼らは専門家であるとして、それ以外の分野になぜ知性や判断力があるとみなされているのか、が極めて疑問です。)。
「いやいや。ワイドショー以外に医師が医療の事以外にコメントすることなんか、ないでしょ!」とこの影響を甘く見積もるのはまずいです。彼らが専門であるはずの医療のことについて情報発信をするときにすら、彼らの持つバイアスは彼らの立場を必ず規定します。その立場から縛られたままで繰り広げられる彼らの主張に客観性や科学的態度があるかのように思ってしまうと結果として大きな失敗になりうる、ということがこの新型コロナの「専門家」の提案する「対策」についてでも、よく見えたのではないかと思います。(STAP細胞騒動のときにも露呈しましたが、発表される「データ」を学問というのは基本的には信じた上で推論をするしかありません。もちろんその「データ」が改ざんされていたり、隠蔽されていたり、都合のよいものだけを公表したりというその推論の前段階で操作をされてしまっていると、そこに基づく推論、あるいはその推論に基づく対策自体が、最高の知性を集めても的はずれなものにならざるをえません。そして、森友問題や桜を見る会その他の様々な政治的スキャンダルを見ても、コロナ対策においてもまた、今の政府が自分たちに都合の悪い数字を改ざんや隠蔽をしない動機があまりないと思います。森友問題や加計問題、桜を見る会などはネポティズムという腐敗の現れであったとしても、問題としてはそれほど大きな問題ではありません。しかし、その「小さな」問題ですら、公文書改ざん・隠蔽を徹底的にしては、自らの非を認めない政府が果たして、より大きな自らの失政に対してデータや文書を改ざんしたり隠蔽したりしないわけがないのです。「小さな」問題に目くじらを立てない、というある意味日本人の鷹揚さが、コロナ対策に限らずより「大きな」問題に対するチェックをできないものにしている、と言えるでしょう。これも政治について考えることを放棄した帰結です。)
「学べば学ぶほど、自分がわかっていないことに気付かされる」のは、どの学問においてもそうであるわけですが、
しかしましてや、専門外となると、ですね。学ぶべきことは多く、人生はあまりにも短いです。
そしてそれは狭い分野でのちっぽけな成功で「天才」だの「賢い!」だの言われている人間たちにとっても
またそうであるのです。だからこそ、自分の愚かしさを直視して、知らないことを学び、わからないことを調べ、考えていくことが大切であり、専門外のことについて自分が気軽に言える意見は、あまり突き詰めて考えていない誰かの意見の受け売りでしかなく、それを表明することがこの社会にとって害悪を垂れ流すことに繋がっていないかを厳しくチェックしていかねばなりません。そのことを僕自身も肝に銘じて、生徒たちにもしっかりと伝えていきたいと思います。
その上で政治、というテーマはそのように皆が専門に特化する中でみんなにとって盲点となりやすい
ところです。誰の人生にとっても、左右してしまうだけの大きな力を持つのに、です。
その結果が現在の日本の状況である、と思っています。だからこそ、皆が素人ながら学び、調べ、考えては
誰かの受け売りで思考停止する自分を許さぬように、徹底的に疑っていく必要があると思います。



