
私立大受験も大詰めで、早慶の入試がこれから始まります。その後はすぐに国公立前期入試です。もちろん都立高入試もあります。一年の集大成のこの時期だからこそ、一人一人の受験生が最後まで力を尽くせるように、こちらも朝から晩まで塾に缶詰状態で、さらにはその前や帰宅してからも添削に追われる毎日です。(今日は(この後の最終盤のために)一ヶ月ぶりに塾に来て教えない(しかし添削はする)オフの日にしようと思ったのですが、「面接の練習を入試直前にしたい!」とのことで朝から塾に来たものの、それをすっぽかされてブログを書いています。ちなみに、すっぽかされ、裏切られ続けることが教育の実践でもあると思っていますのでノーダメージです!)
さて。どうしてもこの時期は受験についての話題が増えてしまうので、別の話題を。
先日卒塾生の披露宴に参加した際に、他の卒塾生と色々と話しました。僕自身、他人と話すときに雑談というものができないので、どうしても話す内容となると進路相談、人生相談、人間関係の相談など、その子達の今抱えている悩みに対して、僕から言えることがないか、というしんどい話ばかりになります。
その中である一人の卒塾生に「魂を、売れ。」という話をしました。これはどういうことかというと、何か一つに人生を懸けている人間には、何もかもをできようとする人間は決してかなわない、という話です。
世の中には「万能の天才」信仰というものが根強くあります。あるいは、このように学問も技術も高度に発達したがゆえに細分化され、たとえば世界最高の数学者ですら数学の全体像は見渡せないこの時代においては、この信仰というのがダ・ヴィンチの時代を「失われた理想」として強化されているのかもしれません。
あるいはそんな遠くを見なくても、学校生活においては「文武両道」がいまだにもてはやされます。どの親御さんも自分の子供が勉強ができるのはもちろん望むとして、スポーツや楽器や委員会活動やその他なにか他のことも(より高いレベルで)できればできるほどに「自慢の子供」であるように思うでしょう。
医学部在学中に司法試験に合格する学生もいます。サラリと東大に入った上で音楽でプロになる人もいます。また逆のパターンで何かのプロになるためのトレーニングを幼少期から積んできた中でその道を断念せざるを得ずに大学受験で難関大学に入る人もいます。これらはある意味当たり前で、一定以上の量の努力ができること、その努力を結果へとつなげる方法論の構築、そのような忍耐によって得られる成功体験への確信、というものが揃っていれば、ある分野で結果を出せる人間が他の分野でも結果を出せることは自明であるからです。
しかし、このような「文武両道」「万能の天才」感におぼれて、「自分には何でもやればできる!」と思ってしまうと、その人の人生は非常に惨めなものになります。結局人生においては、何か一つのことに「魂を売」っている人間には敵うわけがないからです。その事実に気づかないままに、キャリアを華々しく、あるいは自分の「能力」を華々しく身に着けていこうとする人間ほどに、偽物になるしか道がなくなります。そうなってしまえば、自分を偽物であると自覚したままにそのような目先に騙される人々を騙す詐欺師になるか、あるいは自分を偽物であるとは自覚しないままにピエロとして生きていくしかない、という悲喜劇になってしまうと言えるでしょう。
恐らく、このような記述には誤解が生じると思います。「専門家には勝てない」的な理解をされてしまいがちかと。しかし、僕は専門家であっても、何かができるわけではない、と思っています。学問であれ、技術であれ、芸能であれ、職人であれ、どのような世界においても一つのことに専心し、そのために人生を徹底的に費やしてでもなお、できることは本当に少なく無力さを味合わされるしかないのが人生であると思っています。他者と比較して「あいつよりはできる!」「この業界では上位だ!」と言ったとしても、客観的に見れば大したことはできません。イチローですら、6割以上は失敗なわけですから。だから、専門家に何かができるわけではありません。専門家にも何もできないし、専門家でない人にも何もできない。この両者は何もできない、という意味では対等であると言えるでしょう。その中で多少の誤差はあるとしても、しかし本当に微々たる誤差であるとは思います。しかし、その「何もできない」自分の無力さをどのように捉えるか、というところで態度が変わらざるを得ないのが、専門家と専門家でない人の違いである、と思います。(ちなみに、なのですがここでは「専門家」を「その分野で飯を食っている人」という意味では使っていません。世の中にはお金を稼ぎやすい分野と稼ぎにくい分野があるからこそ、自分が「魂を売る」分野がたまたま稼ぎにくい分野であれば、生計を立てるための職業につかざるを得ず、見た目は「兼業」にならざるを得ないからです。しかし、むしろこのような場合にはその分野で生計を立てている人よりもはるかに、その分野に「魂を売っている」人が多いこともまた事実です。主に俳優とか音楽家、舞踏家、芸術家、あるいは在野の研究者は皆このたぐいの「魂を売っている」人たちです。)
あることに「魂を売っている」人間にとって、それができないという事実は自分という存在の全否定であり、どうにも避けられない事実です。その絶望を何かで紛らわすことはできません。それに対して、様々なことができるという人間にとってある分野でできないことは、避けることのできる事実であるように思えてしまいます。そして、自分という存在が全否定されることにどのように向き合い、どのようにそれを乗り越えようともがいていくかのみが人間の価値である以上、自己を全否定しないで生きていくことのできる人間が全否定をせざるをえない人間よりも素晴らしい何かを生み出せるわけがありません。それは自明のことであると思います。
であれば、何かに「魂を売る」ことを決めている子たちにとって、受験勉強など無駄なものです。先に言ったように、自分が魂を売る分野が生計を立てることが難しい分野である場合に、生計を立てながらそれを続けていくために必要であることくらいでしょうか。しかし、ほとんどの高校生はそのように自分が「魂を売る」べき対象を未だ見つけられていないのが一般的です。そのような際には、受験勉強は一つのトレーニングになります。努力をすること、努力を結果へと結びつけるための方法論、その上でそれを続けていけば成功できるという成功体験への確信。それはいずれ自分が魂を売るべき対象を見つけたときに、必ずプラスになるでしょう。
もちろん、受験勉強の弊害としては「何かに魂を売る」という決断をしなかったとしても、それなりに「成功」を得られてしまう、という歪んだ成功体験を得てしまうことがあると思います。いわゆる東大生や医学部生、あるいはその出身者の何もできず、何も知らない自身を省みることのない「全能感」を引きずった、イタい状態というのは、本当に見ていて恥ずかしいものです。端的に言えば、それは一つの成功であるとはいえ、その後の人生すべてで成功を保証するものではありません。というより、どのように優秀でどのように努力を惜しまない人であったとしても、一つの分野に魂を売っては人生のすべてを注ぎ込んだとしても達成できるものはごく僅かであり、失敗に次ぐ失敗の連続であるのです。人生のすべてを彫刻に捧げ続けた彫刻家のジャコメッティは最晩年に、「あと1000年生きたい。あと1000年あれば、私の彫刻も少しはまともなものになるはずなのに。」と言いました。問題はそのように「失敗」を感じ続けることができるか、絶望を感じ続けることができるか、です。
失敗を感じ続けられ、絶望を感じ続けられる中でそれに対してどう抗い続けるかを模索する人生だけが、人間として死んでいく唯一の道である、と思います。そしてそのためには、自分に何ができるかを探し続けた上で、どこかの時点で自分は何に魂を売るのかを考えては自分の退路を絶たねばなりません。
これに関しては僕自身の幼少期を振り返っても苦い思いが残ります。僕はなにかに魂を売ることなく、何もかもをできることが自分の自由に繋がる、と思って生きていた子供でした。それは自身の臆病さだけでなく、この世界の(学問的)細分化への嫌悪感、専門職への社会的高評価への疑い、細分化された社会による人間疎外への懸念など、個々を見れば首肯すべき要素はあったものの、結果として自身の人生を「分化」させること、即ち魂を売っては一つの「歯車」(それが「勝ち組」であれ、「負け組」であれ。総理大臣ですら、一つの歯車です。)になってしまうことへの恐れを温存しすぎてしまっていたと思っています。それはある意味で魂を既に売っている同年代の友達から見れば、卑怯な立ち位置であったと思っています。そのような自分への苦い思いから、教育へと「魂を売る」ことを決意し、ただの一教育者として死んでいくことを決意してもがき始めてから20年以上が立ちますが、いまだに失敗ばかりです。
恐らく、その一つ一つの失敗をどのように乗り越えようか、というこの僕の人生は失敗続きで終わることが予定されています。どのように工夫し、どのように努力しても自分の無力さを思い知らされ続ける毎日でしょう。それでも僕は努力を続けることを辞めはしないし、そのように「失敗」として終わっていく自分の人生を、「失敗を感じとり、失敗し続けられた」という意味では幸せである、と定義したいと思っています。僕にとってはたとえばベートーベンの第九も、「喜びを謳った歌」ではなく、「この苦難や滑稽さにまろび続ける自らの人生を「喜び」と定義しよう!」という定義の歌であると感じ取れれるように、ですね。
今年も最後まですべての失敗を自分の失敗として捉え続けられるように、必死に闘い抜きたいと思います。そして、
このようにともにもがき合う受験生たちの一人一人が、いずれは「魂を売れる」人生を生きられるように。その思いを込めて必死にやっていきたいと思います。
さて。どうしてもこの時期は受験についての話題が増えてしまうので、別の話題を。
先日卒塾生の披露宴に参加した際に、他の卒塾生と色々と話しました。僕自身、他人と話すときに雑談というものができないので、どうしても話す内容となると進路相談、人生相談、人間関係の相談など、その子達の今抱えている悩みに対して、僕から言えることがないか、というしんどい話ばかりになります。
その中である一人の卒塾生に「魂を、売れ。」という話をしました。これはどういうことかというと、何か一つに人生を懸けている人間には、何もかもをできようとする人間は決してかなわない、という話です。
世の中には「万能の天才」信仰というものが根強くあります。あるいは、このように学問も技術も高度に発達したがゆえに細分化され、たとえば世界最高の数学者ですら数学の全体像は見渡せないこの時代においては、この信仰というのがダ・ヴィンチの時代を「失われた理想」として強化されているのかもしれません。
あるいはそんな遠くを見なくても、学校生活においては「文武両道」がいまだにもてはやされます。どの親御さんも自分の子供が勉強ができるのはもちろん望むとして、スポーツや楽器や委員会活動やその他なにか他のことも(より高いレベルで)できればできるほどに「自慢の子供」であるように思うでしょう。
医学部在学中に司法試験に合格する学生もいます。サラリと東大に入った上で音楽でプロになる人もいます。また逆のパターンで何かのプロになるためのトレーニングを幼少期から積んできた中でその道を断念せざるを得ずに大学受験で難関大学に入る人もいます。これらはある意味当たり前で、一定以上の量の努力ができること、その努力を結果へとつなげる方法論の構築、そのような忍耐によって得られる成功体験への確信、というものが揃っていれば、ある分野で結果を出せる人間が他の分野でも結果を出せることは自明であるからです。
しかし、このような「文武両道」「万能の天才」感におぼれて、「自分には何でもやればできる!」と思ってしまうと、その人の人生は非常に惨めなものになります。結局人生においては、何か一つのことに「魂を売」っている人間には敵うわけがないからです。その事実に気づかないままに、キャリアを華々しく、あるいは自分の「能力」を華々しく身に着けていこうとする人間ほどに、偽物になるしか道がなくなります。そうなってしまえば、自分を偽物であると自覚したままにそのような目先に騙される人々を騙す詐欺師になるか、あるいは自分を偽物であるとは自覚しないままにピエロとして生きていくしかない、という悲喜劇になってしまうと言えるでしょう。
恐らく、このような記述には誤解が生じると思います。「専門家には勝てない」的な理解をされてしまいがちかと。しかし、僕は専門家であっても、何かができるわけではない、と思っています。学問であれ、技術であれ、芸能であれ、職人であれ、どのような世界においても一つのことに専心し、そのために人生を徹底的に費やしてでもなお、できることは本当に少なく無力さを味合わされるしかないのが人生であると思っています。他者と比較して「あいつよりはできる!」「この業界では上位だ!」と言ったとしても、客観的に見れば大したことはできません。イチローですら、6割以上は失敗なわけですから。だから、専門家に何かができるわけではありません。専門家にも何もできないし、専門家でない人にも何もできない。この両者は何もできない、という意味では対等であると言えるでしょう。その中で多少の誤差はあるとしても、しかし本当に微々たる誤差であるとは思います。しかし、その「何もできない」自分の無力さをどのように捉えるか、というところで態度が変わらざるを得ないのが、専門家と専門家でない人の違いである、と思います。(ちなみに、なのですがここでは「専門家」を「その分野で飯を食っている人」という意味では使っていません。世の中にはお金を稼ぎやすい分野と稼ぎにくい分野があるからこそ、自分が「魂を売る」分野がたまたま稼ぎにくい分野であれば、生計を立てるための職業につかざるを得ず、見た目は「兼業」にならざるを得ないからです。しかし、むしろこのような場合にはその分野で生計を立てている人よりもはるかに、その分野に「魂を売っている」人が多いこともまた事実です。主に俳優とか音楽家、舞踏家、芸術家、あるいは在野の研究者は皆このたぐいの「魂を売っている」人たちです。)
あることに「魂を売っている」人間にとって、それができないという事実は自分という存在の全否定であり、どうにも避けられない事実です。その絶望を何かで紛らわすことはできません。それに対して、様々なことができるという人間にとってある分野でできないことは、避けることのできる事実であるように思えてしまいます。そして、自分という存在が全否定されることにどのように向き合い、どのようにそれを乗り越えようともがいていくかのみが人間の価値である以上、自己を全否定しないで生きていくことのできる人間が全否定をせざるをえない人間よりも素晴らしい何かを生み出せるわけがありません。それは自明のことであると思います。
であれば、何かに「魂を売る」ことを決めている子たちにとって、受験勉強など無駄なものです。先に言ったように、自分が魂を売る分野が生計を立てることが難しい分野である場合に、生計を立てながらそれを続けていくために必要であることくらいでしょうか。しかし、ほとんどの高校生はそのように自分が「魂を売る」べき対象を未だ見つけられていないのが一般的です。そのような際には、受験勉強は一つのトレーニングになります。努力をすること、努力を結果へと結びつけるための方法論、その上でそれを続けていけば成功できるという成功体験への確信。それはいずれ自分が魂を売るべき対象を見つけたときに、必ずプラスになるでしょう。
もちろん、受験勉強の弊害としては「何かに魂を売る」という決断をしなかったとしても、それなりに「成功」を得られてしまう、という歪んだ成功体験を得てしまうことがあると思います。いわゆる東大生や医学部生、あるいはその出身者の何もできず、何も知らない自身を省みることのない「全能感」を引きずった、イタい状態というのは、本当に見ていて恥ずかしいものです。端的に言えば、それは一つの成功であるとはいえ、その後の人生すべてで成功を保証するものではありません。というより、どのように優秀でどのように努力を惜しまない人であったとしても、一つの分野に魂を売っては人生のすべてを注ぎ込んだとしても達成できるものはごく僅かであり、失敗に次ぐ失敗の連続であるのです。人生のすべてを彫刻に捧げ続けた彫刻家のジャコメッティは最晩年に、「あと1000年生きたい。あと1000年あれば、私の彫刻も少しはまともなものになるはずなのに。」と言いました。問題はそのように「失敗」を感じ続けることができるか、絶望を感じ続けることができるか、です。
失敗を感じ続けられ、絶望を感じ続けられる中でそれに対してどう抗い続けるかを模索する人生だけが、人間として死んでいく唯一の道である、と思います。そしてそのためには、自分に何ができるかを探し続けた上で、どこかの時点で自分は何に魂を売るのかを考えては自分の退路を絶たねばなりません。
これに関しては僕自身の幼少期を振り返っても苦い思いが残ります。僕はなにかに魂を売ることなく、何もかもをできることが自分の自由に繋がる、と思って生きていた子供でした。それは自身の臆病さだけでなく、この世界の(学問的)細分化への嫌悪感、専門職への社会的高評価への疑い、細分化された社会による人間疎外への懸念など、個々を見れば首肯すべき要素はあったものの、結果として自身の人生を「分化」させること、即ち魂を売っては一つの「歯車」(それが「勝ち組」であれ、「負け組」であれ。総理大臣ですら、一つの歯車です。)になってしまうことへの恐れを温存しすぎてしまっていたと思っています。それはある意味で魂を既に売っている同年代の友達から見れば、卑怯な立ち位置であったと思っています。そのような自分への苦い思いから、教育へと「魂を売る」ことを決意し、ただの一教育者として死んでいくことを決意してもがき始めてから20年以上が立ちますが、いまだに失敗ばかりです。
恐らく、その一つ一つの失敗をどのように乗り越えようか、というこの僕の人生は失敗続きで終わることが予定されています。どのように工夫し、どのように努力しても自分の無力さを思い知らされ続ける毎日でしょう。それでも僕は努力を続けることを辞めはしないし、そのように「失敗」として終わっていく自分の人生を、「失敗を感じとり、失敗し続けられた」という意味では幸せである、と定義したいと思っています。僕にとってはたとえばベートーベンの第九も、「喜びを謳った歌」ではなく、「この苦難や滑稽さにまろび続ける自らの人生を「喜び」と定義しよう!」という定義の歌であると感じ取れれるように、ですね。
今年も最後まですべての失敗を自分の失敗として捉え続けられるように、必死に闘い抜きたいと思います。そして、
このようにともにもがき合う受験生たちの一人一人が、いずれは「魂を売れる」人生を生きられるように。その思いを込めて必死にやっていきたいと思います。



