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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

結婚式のスピーチ

昨日、卒塾生の結婚式に参加してきました!本当に素晴らしい結婚式でした!
そこで読んだ僕のスピーチをこちらにも載せます。

(スピーチここから)
ただいまご紹介にあずかりました、新婦、Sさんの通っていた塾を主催する柳原と申します。
このたびは、Hくん、Sさん、ご結婚おめでとうございます。
ご両家のご両親はじめ、ご親族のみなさま、心より御祝いを申し上げます。
と、ここまでは型を踏まえてみたのですが、「型を踏まえる」という行為は真情の吐露を避けるためになされることが多いのかもしれません。ここからはいつもどおりに話したいと思います。

さて、Sさんを教え始めたのは彼女が高2のときからですが、その当時から「この子はただものではない。」と思っていました。飛び抜けて輝く個性や人格、才能とともに、どうにもアンバランスで危うい全体。そのSさんに対して、自分に何ができるのか。それは僕にとっても日々自問自答しながら教える日々でした。

「世の中とは残念ながらこういう風になってしまっている。その中で君がどう生き抜くかを考え、準備していかねばならない…」と戦略的に生き延びていくことを彼女に語るとき、そのような陳腐な戦略を説くことが彼女の天才性を抑えつけることになってしまってはいないだろうか。僕は常にそのように恐れおののきながら教えていました。自分のやっていることは、天駆ける可能性を持つ才能につまらない鎖をつけるだけのことではないかと。

幸いなことに、彼女は努力して自分自身の道を切り開いただけではなく、世間的「成功」にとらわれることなく、伸びやかに成長していきました。先程僕について「恩師」とご紹介を受けたかもしれませんが、Sさんはあらゆることにセンスオブワンダーを見出し、誰であっても自らの教師として学ぶ力があります。そのうちの一人が僕に過ぎなかったということです。

そのようなSさんがHくんと付き合い始められたことは本当に素晴らしいことでした。Hくんの包容力がSさんにとっては確かに必要であり、またSさんの感性がHくんには必要であると思います。その事実をお互いに理解し合い、互いに違うタイプの人間同士であるからこそ互いの存在をかけがえがないと感じて付き合い続けておられるお二人は、本当に誰もが認めるベストカップルであると思います。

しかし、です。そのようなお二人にも、「互いに違う人間である」という事実に直面するときが、いずれ来るかもしれません。どのように思いやろうとも、違う人格として生きる相手を本当の意味で理解できることはないのかもしれません。そのようなときのために、有島武郎のこの言葉を贈りたいと思います。

昔の私の信仰の友の中には、今でも私の為めに熱実な祈をして下さる人のあるのを聞かされる。その祈を私は信ずる事が出来ない。しかしその祈を祈るやさしい心を私はしみじみ有難く感ずる。それは私を引き上げる。私の心を明るくする。少くともあなた方と私とは信仰で結ばれずとも心で結ばれている。それだけで今は満足してください。/これから独りで出懸けます。左様なら。(『リビングストン伝 第四版序文』から)

相手への愛ゆえの働きかけが、お互いを傷つけ合い、相手の信じているものが自分には信じられないと思ったとしても、それでも相手を思う気持ちを持ち続けることだけは、心で結ばれる可能性を確かに準備しているはずです。互いに理解はできないかもしれません。それでも心を寄せ合い、思いをやり続けることはできます。そのことを信じ続けてほしい。そのように願っています。

心なき型ばかりが溢れるこの世界の中で、お二人が結婚という名の「型」に、どのように懸命に心を込めていこうとするのか。その難しい取り組みへと勇気を持って踏み込もうとするお二人に、心からの祝福と励ましを送りたいと思います。本当におめでとうございます。

ご清聴ありがとうございました。
(スピーチここまで)

結婚する二人のためにどのような言葉を届けたいか、という思いだけで一心に書いたのに、書き上がったものを自分でチェックすれば祝辞にはNGのワードばかりという。。なんていうか呼吸をしているだけで誰かを傷つけざるを得ない自分の人生の悲しみを感じました。

しかし、死までの過程の中に生があり、別れまでの過程の中に愛があるからこそ、別れを語らずして愛を語ったり、死を語らずして生を語るのは人間の自分勝手な妄想に現実を従えてしまう傲慢な態度でしかないと思います。

そんなうわっつらで嘘っぱちな言葉なんか望んでないだろう!とこれを読んだのですが、新婦のご両親への手紙が期待をはるかに上回るラディカルで素晴らしいもので、最高でした。彼女を信頼して自分のスピーチを「消毒」してしまわなくて、本当に良かった!まあ、司会進行役の方には泡を食わせてしまい、申し訳なかったのですが。(最後の新婦の手紙が一番ラディカルで、司会の方が「お前が一番そうするんかい!」と突っ込みたそうに見えました。)

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「安心」を剥がす。

センター試験も終わり、息をつく暇もなく私大医学部入試が始まりました。ここからさらに私大入試、中学入試、高校入試(私立→都立)、そして国公立大入試、と1ヶ月間は勝負所が続いていきます。こちらも朝から晩までずっと塾に詰めている状態です。

ではこの時期に何に注力して塾で教えているのかと言えば、(もちろん勉強の足りないところがまだまだ多い受験生は徹底的に基礎がためをしていくしかないのですが)十分に勝負できるレベルにある受験生に対してはひたすら彼らの思考や勉強の盲点を探し出し、指摘していく、という作業をしています。

勉強の盲点については比較的わかりやすく、入試問題を解いては弱い分野の復習、ということを徹底させていくことで補えていきます(もちろんこれも細かいことを言えば、実は難しい作業もあります。たとえば高校範囲の中で弱点を発見した大学受験生にその復習をさせることは比較的容易ですが、中学範囲、あるいは小学生の範囲において弱点が見つかったとき、それをどこまで復習させるかについては極めて難しいものです。それがスムーズな解答プロセスに於いてどのくらいボトルネックになってしまっているかの度合いとそれを練習して習熟するのにかかる時間との兼ね合いの中で、最適な復習方法を考えていかねばなりません。かつてはそれで直前期に東大受験生に中学の連立方程式を練習させたり、医学部受験生に二桁×一桁の掛け算を練習させたり、ということもしてきました。(そしてこの二人とも受かりました!))。

もっと難しいのは思考の盲点の方です。不安な立場で答えのわからない入試を解かねばならない受験生にとって一番ほしいのは「安心」です。だからこそ直前期の勉強は必然的に「これだけできるから大丈夫!」「ここはできるから大丈夫!」と自分にとって得意な方ばかりにどんどん偏っていきます。これは不得意科目を避け、得意科目ばかりをやる、という比較的わかりやすいものから、一つの科目の中で得意分野ばかりが解いた入試問題に出たときは高得点であることに安住しては、苦手分野がたまに出て失点したことをさかのぼって復習しない、というわかりにくいものまで、さらには同じ分野であっても自分が引っかかりやすいプロセスを試験時間内に何とか乗り越えて間に合わせることができているだけなのに、それを結果としての「高得点」にかまけてそのプロセスを集中的に練習しない、などといったものもあります。こうした受験生にとっての「安心」をいかに掘り崩し、その中に確実に含まれているリスク要因を特定して名前を与えては、鍛えていく、という「性格の悪い」作業を徹底していくことで受験生の合格率が全く変わってくるわけです。

こう書くと「すべてお見通し!」の状態で教えられているようにも聞こえますが、教える側としても全てが見えているわけでは当然ありません。一人ひとりの受験生の思考を徹底的にトレースして、その中でどのような盲点がうまれやすいか仮説を立てます。徹底的な受験生との議論や相談の末にようやく「鍵」となるようなその子の盲点が、入試直前に見えてくることも多々あります。また、仮にその仮説が正しいとしても、それを受験生が受け入れられるかどうかも問題です。なぜならそれは受験生にとっては一番うけいれたくないものであり、自身が不安の中でなんとか固めた、なけなしの(しかし偽りの)「安心」という名の足場を徹底的に疑い、掘り崩していく作業であるからです。その作業を納得して、徹底してもらっていくためには、教えるこちら側との揺るぎない信頼関係こそが必要になります。そうでなくとも受験生は「俺はこうしたから受かった。おまえもこうすれば必ず受かる!」という、根拠も何もないn=1の自己満足的な「アドバイス」を親や兄弟、教師からさんざん受けては苦しんでいるわけで、そんなしんどい状況の中で「これをやれば安心!」という詐欺的なアドバイスではなくむしろ「ここはできているはず!」という安心を掘り崩しては「見たくない現実」へと漸近していこうとする、というこの嫌な作業をともにしていかなければ、やはり受験はうまくいきません。

もちろん思いつきで、あるいはソクラテスぶって何でも根本から懐疑的アプローチをすればよい、というものでもないのが難しいところです。こちらが一人ひとりの受験生の受験や人生を必死に考え、徹底的にトレースした上で出てくる必然的なかつ精密な懐疑でなければ、伝わるべくもありません。

今年もそのような受験生の「安心」を剥がしては現実に少しでも漸近してもらう作業を徹底していくために、日々考え抜いていきたいと思います。

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この身をうち震わせてでも。

センター試験初日が終わりました。うまくいくこともいかないこともありますが、
その中で黙々と明日の準備をしている受験生に囲まれて今これを打っています。

受験は厳しいものです。徹底的にあらゆる想定のもとに準備をしてきたつもりであっても、その我々人間の卑小な想像力を超えるような失敗が当然起こりえます。ときには自身のこれまでの頑張りなど、何も意味がなかったかのように思えるかもしれません。しかし、それでも前を向いて何とかどうにもコントロールしきれないその現実に対して何とか戦おうとする彼ら、彼女らの姿は本当に美しいと思っていますし、それは僕にとっては、人間の可能性を諦めない理由である、とも言えます。

何故僕が商売というだけでなく、この受験という仕事に関わり続けているのかと言えば、そのようにどうにも思い通りには行かない現実に立ち向かおうとする彼ら彼女らは、僕にとっては同志である、という理由からであると思っています。それは血縁やその他のつながりなどを超えて、はるかに深く語り合えるものがあります。

もちろん、いつまでもそこを語り合えるわけではありません。ある種の極限状況である受験もまた、そのような極限状況に陥らないために努力されるものである以上、「受験に成功する」ということは、より困難な現実へと立ち向かわずに済むための「切符」を手に入れようとする、ということでもあります。「切符」を手に入れた後の彼ら彼女らが絶望に直面し続けることを選ぶ必要は一般にはありません。

しかしそれでも、今この瞬間に自身の無力さと直面しては絶望に打ち震えてでもそれでも何とか跳躍しようともがく受験生に何かが伝えられるのであれば、それがうたかたの夢に終わろうとも、あるいはその繰り返しの僕の人生が虚しく何も成さずに終わっていくことであったとしても、僕は構わないと思っています。それは何も僕の信仰の告白ではなく、仮説の検証として僕の人生を用いることができる、という喜びでもあります。

明日のセンター試験も、その後本格化する入試も、絶望に押しつぶされそうになる瞬間は幾度となくくるでしょう。
しかし、それを受け止めては乗り越えていくためにこそ、ここまで多くの時間を費やしてきました。
一人ひとりの塾生がそこで、自分から陥りたがる絶望からは踏みとどまれるように、必死に戦ってきてもらいたいと思っています。

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骨折しました。

この受験直前のクソ忙しい時期(さらには卒塾生の結婚式にも出るという!)に、なんと人生初の骨折をしました。

しばらくはご迷惑をおかけしますが、何とか最後の追い込みを乗り切っていきたいと思います。
片手でキーボードを叩くので、ブログが書けないなー(普段からあまり書いていない)とか、片手だと塾の看板も出せないから宣伝ができないなー(これも普段からあまり出していない)とか、色々ありますが、ブログのネタもできた、と肯定的に捉えてはまあ元気にやっていきたいと思います。

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