
大学受験で志望校に合格したばかりの大学生など、「自分には何でもできる!」と、一歩引いて見れば恥ずかしい万能感に包まれているわけで、そのような状態の教え子たちに苦言を呈しては現実に目を向けさせることが自分の役割だと思ってやっています。とはいえ、僕自身も恥ずかしく、また忘れられない苦い思い出があります。
大学受験で自分が落ちることなど考えてもいなかった尊大な僕は、第一志望の大学しか受けていませんでした。それがうまくいき、教え始め、教えていけば教えていったで、他の東大生よりはまだ視野が広い分、より一人一人にコミットして教えられるわけで、教えるアルバイト自体が自分の「万能感」にも繋がる、という悪循環でもありました。もちろんそのことに自分では気づかず、です。
その当時働いていた塾では、校舎の教室長の先生が我々大学生チューターに仕事の裁量権を広く任せてくれていたおかげで、自分から仕事を見つけては一人一人の生徒の役に立てないか、ということを拙いながらもやり始めていました。そのときに、映像授業をとるために通ってくれていた社会人の医学部再受験生の生徒と出会い、彼の勉強の現在のレベルと受けている映像授業のレベルとの乖離から、このままではせっかく続けていても力がつかない!と思い、出来る限り僕が今の彼に必要な勉強をデザインし、教えるということをやり始めました。
その生徒は社会人の学生であったため、自分の仕事が終わってからようやく勉強ができます。勉強の開始が20時、21時からとかになり、当然その塾を閉めるまででは長く教えることもできないために、連日泊まり込みで教えては、家に帰るのは週に1,2回ということが続きました。朝まで教えて、そのまま大学の講義を聞きに行き、また塾に来て教える(もちろんその夜遅くになるまでは他の生徒も教えていました)という生活の繰り返しの中、「こんなゆるい進級条件なのに、更に自分がサボるためにシケプリ(「試験のプリント」の略語。講義をクラスの各学生が分担してノートを取ることで講義をサボる制度で、東大には残念ながら根付いています。)とかやってるなんて、頭の悪い東大生は本当に救いようがないな!」と入学時に全てのシケプリを拒絶して自分で勉強していた僕は、大学の勉強に手が回らなくなり、大学の試験前日も徹夜で塾で教えてはその足で試験を受けに行っていたため、ドイツ語の単位を一つ落として留年することになりました。
しかし、それほどに心血を注いで教えていても、その当時は所詮ハタチ前後の大学生なわけで、教える勉強の内容はわかっても、どのように力を伸ばすかについてはまだまだ圧倒的に自分の理解が足りていませんでした。もちろん、社会人として働く彼のトータルの勉強時間も彼自身がどんなに努力する人であったとしても限界があるわけで、かといって生活のためには仕事を辞めるor休んで受験勉強に専念する、ということも物理的に不可能でした。その状態を続けていても、やはり彼の学力は伸びず、入試でも点数が取れず不合格に終わりました。
そして、年度の終わりに、これをいつまで続けていくのか、ということを改めて彼と話し合いました。
僕が自分の教える力の不足を詫び、改めて次の一年をどうするかを相談したときに、彼から
「ここまでしてもらったからには、先生がどうすべきだと思うように決めてください。このまま続けていけば合格できると先生が判断するのであれば、しんどくても続けていくし、逆にこれを続けても無理だと先生が判断するのであれば、諦めます。」と言ってもらいました。
そこで僕は、
「残念ながらこのままの状況を続けていったとしても、医学部に合格できるとは思えません。仕事を休んで受験勉強に集中できるのであればまだ可能性が見えてくるとしても、この状況の中で歯をくいしばって勉強したとしても、今の学力から仕事をしながら医学部に合格するのは難しいと思います。」と言いました。
それを受けて彼は、
「わかりました。きっぱり諦めます。今まで有難うございました。」
と言って退塾していきました。
そのときの僕がどういう気持であったのかは一概にはわかりません。もちろん保身の気持ちもあったでしょう。自分自身が少なくとも多大な労力と犠牲を払って、それでも力になれなかったという事実から距離を置きたいという気持ちがなかったかと言えば、嘘になります。しかしそれ以上に、だいぶ年下の僕に彼がそのように自分の人生を左右する判断を委ねてもいいと言ってくれたことに対して、その場しのぎの嘘をつくわけには絶対にいかない、という思いだけは覚えています。
そしてそれは、僕自身にとって人生で初めての挫折でした。自分が努力をして結果を出すことなど勉強であれスポーツであれ、その他何であれ、極めて容易なことであると思っていたその当時の僕にとって、
自分が必死に努力したにも関わらず、一人の心ある、努力を惜しまない人のなけなしの努力、かけがえのない努力を自分の力量が足りないがゆえに見殺しにしなければなりませんでした。僕自身は自分や自分の家族の人生を生きるくらいなら十分に余力があるとしても、その外の人を支え、力になっていくためにはこの上なく無力で愚かであり、
偉そうな自己満足のような「努力」をいくら言い訳のように積み重ねたとしても、その自身の無力さや愚かさは決して拭えはしないという事実に気付かされました。
もちろんこれを自分の失敗ととらえないことはできます。恐らく多くの人は
それを自分の失敗とはとらえないことで、何とか傷つかないように生きているのかもしれません。しかし、
たった一度の自分の人生において、これはやはり僕の失敗ではないのか。これを僕の失敗ではないと切り離して
生きるとして、それで僕に親しい友人や家族は皆幸せそうに暮らすことができたとして、果たしてそのような人生に
何の意味があるのか。
そこからの僕は、様々な紆余曲折があろうとも、結局は「自分にもっと力がなければ、目の前の人たちを救えない。」という動機に衝き動かされてここまで生き永らえてきた、と言えます。そうは言っても「だからもう今の僕は力がついたので、誰でも救えます!」となっていればよいのですが、23年前のあの頃の自分と比べて、
できるようになったことはとてつもなく増えてはいます(増えたのは体重だけではありません!)し、
力になれる子の幅もはるかに広がっているとは思うのですが、できるようになればなるほどに、
それでもまだまだ無力感を感じることばかりです。
しかし、その失敗を相手のせいにするのではなく、あくまでも自分の失敗としてとらえ、どう乗り越えようとしていくか、
という課題については恐らく死ぬまでずっと取り組み続けることになると思っています。
ということを書こうと思ったのは、あの23年前の再受験生のお子さんが今年嚮心塾に入塾してくれたからでした。
久しぶりの再会に照れくさそうに「娘が先生のところの塾を気に入ってさ。」と話す彼に、
僕はいつもの軽口を出すこともできずに、深く頭を下げることしかできませんでした。
あれからも僕はたくさんの失敗をしてきました。そのたびに打ちひしがれ、必死に反省し、何とかできることを増やそうとしてきました。それらの試行錯誤を彼のお子さんの力にも変えていけるように、必死に教えていきたいと思います。
大学受験で自分が落ちることなど考えてもいなかった尊大な僕は、第一志望の大学しか受けていませんでした。それがうまくいき、教え始め、教えていけば教えていったで、他の東大生よりはまだ視野が広い分、より一人一人にコミットして教えられるわけで、教えるアルバイト自体が自分の「万能感」にも繋がる、という悪循環でもありました。もちろんそのことに自分では気づかず、です。
その当時働いていた塾では、校舎の教室長の先生が我々大学生チューターに仕事の裁量権を広く任せてくれていたおかげで、自分から仕事を見つけては一人一人の生徒の役に立てないか、ということを拙いながらもやり始めていました。そのときに、映像授業をとるために通ってくれていた社会人の医学部再受験生の生徒と出会い、彼の勉強の現在のレベルと受けている映像授業のレベルとの乖離から、このままではせっかく続けていても力がつかない!と思い、出来る限り僕が今の彼に必要な勉強をデザインし、教えるということをやり始めました。
その生徒は社会人の学生であったため、自分の仕事が終わってからようやく勉強ができます。勉強の開始が20時、21時からとかになり、当然その塾を閉めるまででは長く教えることもできないために、連日泊まり込みで教えては、家に帰るのは週に1,2回ということが続きました。朝まで教えて、そのまま大学の講義を聞きに行き、また塾に来て教える(もちろんその夜遅くになるまでは他の生徒も教えていました)という生活の繰り返しの中、「こんなゆるい進級条件なのに、更に自分がサボるためにシケプリ(「試験のプリント」の略語。講義をクラスの各学生が分担してノートを取ることで講義をサボる制度で、東大には残念ながら根付いています。)とかやってるなんて、頭の悪い東大生は本当に救いようがないな!」と入学時に全てのシケプリを拒絶して自分で勉強していた僕は、大学の勉強に手が回らなくなり、大学の試験前日も徹夜で塾で教えてはその足で試験を受けに行っていたため、ドイツ語の単位を一つ落として留年することになりました。
しかし、それほどに心血を注いで教えていても、その当時は所詮ハタチ前後の大学生なわけで、教える勉強の内容はわかっても、どのように力を伸ばすかについてはまだまだ圧倒的に自分の理解が足りていませんでした。もちろん、社会人として働く彼のトータルの勉強時間も彼自身がどんなに努力する人であったとしても限界があるわけで、かといって生活のためには仕事を辞めるor休んで受験勉強に専念する、ということも物理的に不可能でした。その状態を続けていても、やはり彼の学力は伸びず、入試でも点数が取れず不合格に終わりました。
そして、年度の終わりに、これをいつまで続けていくのか、ということを改めて彼と話し合いました。
僕が自分の教える力の不足を詫び、改めて次の一年をどうするかを相談したときに、彼から
「ここまでしてもらったからには、先生がどうすべきだと思うように決めてください。このまま続けていけば合格できると先生が判断するのであれば、しんどくても続けていくし、逆にこれを続けても無理だと先生が判断するのであれば、諦めます。」と言ってもらいました。
そこで僕は、
「残念ながらこのままの状況を続けていったとしても、医学部に合格できるとは思えません。仕事を休んで受験勉強に集中できるのであればまだ可能性が見えてくるとしても、この状況の中で歯をくいしばって勉強したとしても、今の学力から仕事をしながら医学部に合格するのは難しいと思います。」と言いました。
それを受けて彼は、
「わかりました。きっぱり諦めます。今まで有難うございました。」
と言って退塾していきました。
そのときの僕がどういう気持であったのかは一概にはわかりません。もちろん保身の気持ちもあったでしょう。自分自身が少なくとも多大な労力と犠牲を払って、それでも力になれなかったという事実から距離を置きたいという気持ちがなかったかと言えば、嘘になります。しかしそれ以上に、だいぶ年下の僕に彼がそのように自分の人生を左右する判断を委ねてもいいと言ってくれたことに対して、その場しのぎの嘘をつくわけには絶対にいかない、という思いだけは覚えています。
そしてそれは、僕自身にとって人生で初めての挫折でした。自分が努力をして結果を出すことなど勉強であれスポーツであれ、その他何であれ、極めて容易なことであると思っていたその当時の僕にとって、
自分が必死に努力したにも関わらず、一人の心ある、努力を惜しまない人のなけなしの努力、かけがえのない努力を自分の力量が足りないがゆえに見殺しにしなければなりませんでした。僕自身は自分や自分の家族の人生を生きるくらいなら十分に余力があるとしても、その外の人を支え、力になっていくためにはこの上なく無力で愚かであり、
偉そうな自己満足のような「努力」をいくら言い訳のように積み重ねたとしても、その自身の無力さや愚かさは決して拭えはしないという事実に気付かされました。
もちろんこれを自分の失敗ととらえないことはできます。恐らく多くの人は
それを自分の失敗とはとらえないことで、何とか傷つかないように生きているのかもしれません。しかし、
たった一度の自分の人生において、これはやはり僕の失敗ではないのか。これを僕の失敗ではないと切り離して
生きるとして、それで僕に親しい友人や家族は皆幸せそうに暮らすことができたとして、果たしてそのような人生に
何の意味があるのか。
そこからの僕は、様々な紆余曲折があろうとも、結局は「自分にもっと力がなければ、目の前の人たちを救えない。」という動機に衝き動かされてここまで生き永らえてきた、と言えます。そうは言っても「だからもう今の僕は力がついたので、誰でも救えます!」となっていればよいのですが、23年前のあの頃の自分と比べて、
できるようになったことはとてつもなく増えてはいます(増えたのは体重だけではありません!)し、
力になれる子の幅もはるかに広がっているとは思うのですが、できるようになればなるほどに、
それでもまだまだ無力感を感じることばかりです。
しかし、その失敗を相手のせいにするのではなく、あくまでも自分の失敗としてとらえ、どう乗り越えようとしていくか、
という課題については恐らく死ぬまでずっと取り組み続けることになると思っています。
ということを書こうと思ったのは、あの23年前の再受験生のお子さんが今年嚮心塾に入塾してくれたからでした。
久しぶりの再会に照れくさそうに「娘が先生のところの塾を気に入ってさ。」と話す彼に、
僕はいつもの軽口を出すこともできずに、深く頭を下げることしかできませんでした。
あれからも僕はたくさんの失敗をしてきました。そのたびに打ちひしがれ、必死に反省し、何とかできることを増やそうとしてきました。それらの試行錯誤を彼のお子さんの力にも変えていけるように、必死に教えていきたいと思います。



