
今年もどくんご東京公演を実現できました!たくさんのお客さんに見てもらえたこと、今年は自分自身の地元の小金井公園で開くことができたことなど嬉しいことがたくさんありましたが、さて、感想を書くとなると、すっかり手を付けられないでいました。毎年どくんごの感想を書こうと思うと、とても書きたいことだらけではあるのですが、一方で虚しさも感じてしまいます。どくんごの感想、というのは見た人には伝わる部分もあるとは思うのですが、見ていない人にはほぼ伝わらないものしか書けないわけで、果たしてそれに何の意味があるのか、と考えてしまいます。本来ならば、見たことがない人にどくんごの凄さを伝えられるような感想を書けなければ、僕自身の自己満足でしかないわけで…。という忸怩たる思いもあります。
しかし!独自に発達し、唯一無二の素晴らしい世界を作り出しているどくんごの芝居を、何とか言語化しようとしていくことはこの社会にとって間違いなく必要なことでもあると思います。それをモチベーションにして何とか書いていきたいと思います。
今年のどくんごは濃かった!濃密な場面の連続、とはいえ笑いもおかしみもたっぷりあるのですが、一度客席の心を捉えたら、最後まであっという間に終わってしまう。それほど濃密な時間を味わえました。
一つ一つの場面のテキストが鋭く、深く、おかしみも悲しみも喜びも兼ね備えており、どくんごの特徴である弛緩と緊張、無意味と意味がよりコントラストがくっきりとしていたように思います。無意味と意味への揺り戻しが振幅を広げながら意味の方へと大きくエスカレートしていくあの感覚は、ここ最近の中でも出色のすばらしさでした。後半のソロシーンの連続はまさに「スペクタクルタイム!」という感じでした。
「繋がりはないです!」「出し物です!」「筋なんてないですってば!」と言われながらも、各場面のセリフ同士、さらには昨年までの芝居との繋がりを感じさせ、想像を膨らませてくれるのがどくんごの芝居の特徴ですが、今年はその構造がさらにブラッシュアップされ、我々は見ても聞いてもいない物語を追体験しているような不思議な構成の中で、筋を追うこと・意味を追うことを諦める姿勢を序盤に身につけておきながら、後半になるにつれて、筋や意味があったかのような思い至りを随所に感じる、しかしそれもまた自身の想像や夢かもしれない、と考えるようになっていきます。「見えない部分」を受け手に想起させることで作品が受け手を巻き込み、作品の世界に引き込んで行くというのはそれこそテレビのサスペンスドラマから映画、舞台まで定番の手法であるわけですが、どくんごのそれは作品の世界にのめり込ませていくためではありません(だって、かちっとした作品世界があるわけではないですから)。しかし、その「見えない部分」を随所に想起させることによって、我々の想像力はinspireされ、考えるようになり、そしてそれが現実世界に向いてきます。
それはまさにどくんごのテントが「借景」として公演地の地形をうまく活かしているがゆえにどのような豪華な劇場よりも表情豊かであるのと呼応して、作品世界への想像力のinspireにとどまらない、この世界自体への想像力の扉を開いていく、とも言えるでしょう。だからこそ、「楽しかったね」「素晴らしかったね」でとどまらない何かを持ち帰り、ふとしたときに思い出して考え直し、そしてまた新たな気づきを得る、という経験がどくんごを見たあとに生まれます。
つまり、どくんごの芝居の素晴らしさは、「余白」です。
一人一人の必死のセリフ、意味は分からないが必死の訴えとそれを表現するためのセリフや身体の強さから我々は見るという行為を解釈の媒介とすることからとりあえずありのままに受け入れることへとシフトチェンジしていきます。しかし、ありのままに受け入れていけば行くほどに、先に書いたように各場面の「繋がり」、セリフの「響き合い」、動きの「共通点」などを自分から発見していくことになります。この受け手が「自分から発見していく」(もちろん、この「発見」が正しいかどうかはまた別として。それは妄想かも夢かもしれません。)という触媒としての働きにおいて、そしてそれが単なる芝居の作品世界にとどまらずに現実へと向けられていく補助線としての働きを生み出していくという点において、どくんごの芝居は他の芝居とは大きな違いがある、と思っています。
と言葉にしてみると、「なるほど。余白ね。思わせぶりなセリフをたくさん散りばめて全部は書かないようにすればいいだけでしょ。」と捉えられがちです。しかし、このどくんごの形式においてその「余白」をどのように作るのか、については本当に厳しい試行錯誤が重ねられていると思っています。ストーリーがあれば、ストーリーとして完結している、ということがいわば免罪符となることができます。もちろんその出来不出来があるとはいえ、不出来な舞台であっても「ストーリーとしてはちゃんとしている(破綻していない)」という逃げ道が許されるわけです(もちろんそのような芝居に何の意味があるのかはわかりませんが)。
それに対して、どくんごの芝居は一つ一つの場面の芝居自体の説得力だけで勝負をします。ということは、書かれていない筋について観客が思いをはせることができない以上、何より芝居自体に説得力がなければ、それは余白を支え、考えたり妄想を膨らませたりすることの枠組みとはなりえないのではないかと思います。人は懸命に伝えようとされているものでなければ、意味を考えようとしないでしょう。しかし、一方でその一つ一つの場面の芝居の説得力だけでおわらぬように様々な構成を徹底的に考え抜き、ひっかかりや関連を作り出し、ときにはわざとひっかからないように突き放し、ということで観客を一つの方向に誘導するのではなく、かと言って考えるポイントが何もなくただ並べているのではなく、想像力を様々に触発していきます。この点でも芝居の持つ力を、私達の想像力があちこちへと逍遥するための励起エネルギーへと明確に使おうとしていると思います。(たとえば二人が面と向かって出て来るシーンでの発話が各々の独り言であるかと思えば会話かも、と思わされたり、会話かと思えば独り言かも、と思わされたり。そこでのコミュニケーションの成立と不成立の淡いでもがいたり、あるいは楽しそうに、諦めずに必死に発話していく登場人物たちのやりとりは、私たちにコミュニケーションとは何であるのかについて振り返らせていきます。これもまた、現実への想像力をinspireしてくれるところです)
体験としてはどくんごの観劇は「読書」に近いです(ずいぶんうるさい読書ですが!)。良い本は、それを読みながら精神があちこちへと逍遥し、そして本を離れて(本の内容であれ、他のことについてであれ)考える時間がどんどん生まれていきます。そして「本の内容を情報としてインプットする」ことではなく、精神がそのようにinspireされ、生き生きと働くようになってきます。どくんごも同じです。
だからこそ、どくんごを観たお客さんの感想は、どれもが本当に美しい、と思っています。「あれは何だったのだろうか。」と自らの揺れ動いた心を辿りながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出すとき、それらの言葉は皆美しく、詩が生まれています。詩は詩人のものではなく、誰もが借り物の言葉を脱ごうともがくときに生まれるものであると思うのですが、どくんごを観る、ということは私たちにその勇気と力を与えてくれます。僕も毎年どくんごの感想を書いているので、このブログでの感想文を褒めていただくことが多いのですが、「自分の書いたものこそどくんごの的確な感想文だ!」などとは本当にこれっぽっちも思っていません。それよりも、様々な人がどくんごについて既存のものに結びつけずに(即ち逃げずに)語るとき、その言葉は全て、この上なく美しい、と思っています。それらの言葉は必死に、まだ形にならないものに形を与えようともがいて出て来る言葉であるからです。そしてだからこそ、そのきっかけを作り出すどくんごの芝居、というのがどれほど我々にとって有り難いものであるのか、ということを痛感しています。どくんごの芝居を見たとき、私たちは「語りやすいから語りたい」「うまく語ることができるから語りたい」といういやらしい自分を脱ぎ捨て、「うまく語れないけれども何とか語りたい!」という自己に立ち戻れる気がします。それはまさに赤子が我々の言葉を真似して一生懸命に意味を伴わない、しかし懸命な声を発するときのあの真摯さを、私達の中に呼び起こし、初心を取り戻させてくれるものであると思っています。
伝えたいものを伝えられるものの中からだけ選ぶことによって「社会生活」を無難に営む我々(それは勤め人として、というだけではなく友人関係、家族関係といった親しい仲においてすら。あるいは自分がやりたいはずの表現活動においてすら。)に、そのような限られたものの中からだけではなく、本当に伝えたいものを伝えようとしていくことの大切さ、それが言葉にならなくてもどうにもうまく表現できなくても、でも伝えようとせずにはいられない!という思いをどくんごは引き出してくれます。そして、何よりどくんごの一人一人がそのようにもがき苦しみ続けていく中であのような表現方法になっていった、ということこそが、彼らもまた「伝えられるもののみを伝える」という既存のコミュニケーション(そして、これが言葉の本来の意味でコミュニケーションになっているかどうかは極めて怪しいのです。)と日々戦い抜いていることの証左です。
何かの理論やメソッドがあるわけではありません。ただ徹底的な試行錯誤と反省/考察の結果として観客の思考のきっかけをも支えうるような強靭な「余白」を作り出しています。それが彼らの過酷な旅から来るのか、徹底的に手作りのテントや幕から来るのか、強靭で繊細な芝居から来るのか、新しいツアーメンバーや幕間ゲスト、お客に徹底的に開かれた姿勢から来るのかはわかりません。おそらくはそれらすべてから来るのでしょう。一つの意味に寄りかからぬよう、一つの達成に寄りかからぬよう、一つのコミュニケーションの成立にとどまらぬよう絶えず厳しい探求を続ける彼らの姿勢こそが、余白がないかのようにふるまったりあたかも完成された人間であるかのようなそぶりをしたりすることのバカバカしさを私達に気づかせてくれます。その上で、私達が勝手に諦めていた報われないけれども大切な様々な取り組みへともう一度取り組む力をそっと与えてくれると思っています。
伝えやすいものだけが流通され、語りやすい言葉のみが語られ、叩きやすいもののみを叩き、取り組みやすい行為のみが奨励されることで、それ以外の行為がすべて根絶されつつある、しかもそのことを一人一人がなんの違和感も感じずに受け入れつつあるこの国の中で、あのちっぽけな犬小屋テントは飄々とあちこちに出没しては、そのような(考えなくさせる)流れの中に屹立してはがっきと受け止めては対峙し、そしてその流れに翻弄されることを言い訳にして身を委ねることを自分に許しかけている不誠実な私達に考えることを促す「余白」をこの社会の中に、文字通り命がけで作ってくれていると思っています。そのようなどくんごに感謝するとともに、だからこそ私たちはどのような絶望的な状況に陥ったとしても、諦めるわけにはいきません。今にも諦めたくなるような絶望と苦渋の日々だとしてもなお、私たちにはどくんごがいる。それは僕にとってもまた、死ぬ最後の瞬間まで諦めずに戦い抜こうと思える確かな理由になっています。
今年も本当に素晴らしい芝居をありがとうございました!どくんごの旅はまだまだ続きます。関東圏では今日明日の大宮公演、その後の前橋公演、飯能公演と続きます。どくんごの旅は11月下旬まで続きます。ご予約はこちらから!
来年のツアーはお休みです。というより、毎年毎年ここまでツアーができている事自体が本当に奇跡的です。こんな過酷な半年間のツアーをメンバーを集め、鹿児島から釧路まで行きまた鹿児島に戻るというとてつもない移動距離を事故もなく移動し、30回を超えるテントの建てとバラシを行いつつあのハードなステージを年間70〜80公演やりつつ無事に(といっても今年はメンバーの入院もありました)終える、というこの奇跡的な努力を今年見られるのもあと僅かです。だからこそ、ぜひお近くで、あるいは遠くまで足を運んででも見ていただきたいと思っています。
しかし!独自に発達し、唯一無二の素晴らしい世界を作り出しているどくんごの芝居を、何とか言語化しようとしていくことはこの社会にとって間違いなく必要なことでもあると思います。それをモチベーションにして何とか書いていきたいと思います。
今年のどくんごは濃かった!濃密な場面の連続、とはいえ笑いもおかしみもたっぷりあるのですが、一度客席の心を捉えたら、最後まであっという間に終わってしまう。それほど濃密な時間を味わえました。
一つ一つの場面のテキストが鋭く、深く、おかしみも悲しみも喜びも兼ね備えており、どくんごの特徴である弛緩と緊張、無意味と意味がよりコントラストがくっきりとしていたように思います。無意味と意味への揺り戻しが振幅を広げながら意味の方へと大きくエスカレートしていくあの感覚は、ここ最近の中でも出色のすばらしさでした。後半のソロシーンの連続はまさに「スペクタクルタイム!」という感じでした。
「繋がりはないです!」「出し物です!」「筋なんてないですってば!」と言われながらも、各場面のセリフ同士、さらには昨年までの芝居との繋がりを感じさせ、想像を膨らませてくれるのがどくんごの芝居の特徴ですが、今年はその構造がさらにブラッシュアップされ、我々は見ても聞いてもいない物語を追体験しているような不思議な構成の中で、筋を追うこと・意味を追うことを諦める姿勢を序盤に身につけておきながら、後半になるにつれて、筋や意味があったかのような思い至りを随所に感じる、しかしそれもまた自身の想像や夢かもしれない、と考えるようになっていきます。「見えない部分」を受け手に想起させることで作品が受け手を巻き込み、作品の世界に引き込んで行くというのはそれこそテレビのサスペンスドラマから映画、舞台まで定番の手法であるわけですが、どくんごのそれは作品の世界にのめり込ませていくためではありません(だって、かちっとした作品世界があるわけではないですから)。しかし、その「見えない部分」を随所に想起させることによって、我々の想像力はinspireされ、考えるようになり、そしてそれが現実世界に向いてきます。
それはまさにどくんごのテントが「借景」として公演地の地形をうまく活かしているがゆえにどのような豪華な劇場よりも表情豊かであるのと呼応して、作品世界への想像力のinspireにとどまらない、この世界自体への想像力の扉を開いていく、とも言えるでしょう。だからこそ、「楽しかったね」「素晴らしかったね」でとどまらない何かを持ち帰り、ふとしたときに思い出して考え直し、そしてまた新たな気づきを得る、という経験がどくんごを見たあとに生まれます。
つまり、どくんごの芝居の素晴らしさは、「余白」です。
一人一人の必死のセリフ、意味は分からないが必死の訴えとそれを表現するためのセリフや身体の強さから我々は見るという行為を解釈の媒介とすることからとりあえずありのままに受け入れることへとシフトチェンジしていきます。しかし、ありのままに受け入れていけば行くほどに、先に書いたように各場面の「繋がり」、セリフの「響き合い」、動きの「共通点」などを自分から発見していくことになります。この受け手が「自分から発見していく」(もちろん、この「発見」が正しいかどうかはまた別として。それは妄想かも夢かもしれません。)という触媒としての働きにおいて、そしてそれが単なる芝居の作品世界にとどまらずに現実へと向けられていく補助線としての働きを生み出していくという点において、どくんごの芝居は他の芝居とは大きな違いがある、と思っています。
と言葉にしてみると、「なるほど。余白ね。思わせぶりなセリフをたくさん散りばめて全部は書かないようにすればいいだけでしょ。」と捉えられがちです。しかし、このどくんごの形式においてその「余白」をどのように作るのか、については本当に厳しい試行錯誤が重ねられていると思っています。ストーリーがあれば、ストーリーとして完結している、ということがいわば免罪符となることができます。もちろんその出来不出来があるとはいえ、不出来な舞台であっても「ストーリーとしてはちゃんとしている(破綻していない)」という逃げ道が許されるわけです(もちろんそのような芝居に何の意味があるのかはわかりませんが)。
それに対して、どくんごの芝居は一つ一つの場面の芝居自体の説得力だけで勝負をします。ということは、書かれていない筋について観客が思いをはせることができない以上、何より芝居自体に説得力がなければ、それは余白を支え、考えたり妄想を膨らませたりすることの枠組みとはなりえないのではないかと思います。人は懸命に伝えようとされているものでなければ、意味を考えようとしないでしょう。しかし、一方でその一つ一つの場面の芝居の説得力だけでおわらぬように様々な構成を徹底的に考え抜き、ひっかかりや関連を作り出し、ときにはわざとひっかからないように突き放し、ということで観客を一つの方向に誘導するのではなく、かと言って考えるポイントが何もなくただ並べているのではなく、想像力を様々に触発していきます。この点でも芝居の持つ力を、私達の想像力があちこちへと逍遥するための励起エネルギーへと明確に使おうとしていると思います。(たとえば二人が面と向かって出て来るシーンでの発話が各々の独り言であるかと思えば会話かも、と思わされたり、会話かと思えば独り言かも、と思わされたり。そこでのコミュニケーションの成立と不成立の淡いでもがいたり、あるいは楽しそうに、諦めずに必死に発話していく登場人物たちのやりとりは、私たちにコミュニケーションとは何であるのかについて振り返らせていきます。これもまた、現実への想像力をinspireしてくれるところです)
体験としてはどくんごの観劇は「読書」に近いです(ずいぶんうるさい読書ですが!)。良い本は、それを読みながら精神があちこちへと逍遥し、そして本を離れて(本の内容であれ、他のことについてであれ)考える時間がどんどん生まれていきます。そして「本の内容を情報としてインプットする」ことではなく、精神がそのようにinspireされ、生き生きと働くようになってきます。どくんごも同じです。
だからこそ、どくんごを観たお客さんの感想は、どれもが本当に美しい、と思っています。「あれは何だったのだろうか。」と自らの揺れ動いた心を辿りながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出すとき、それらの言葉は皆美しく、詩が生まれています。詩は詩人のものではなく、誰もが借り物の言葉を脱ごうともがくときに生まれるものであると思うのですが、どくんごを観る、ということは私たちにその勇気と力を与えてくれます。僕も毎年どくんごの感想を書いているので、このブログでの感想文を褒めていただくことが多いのですが、「自分の書いたものこそどくんごの的確な感想文だ!」などとは本当にこれっぽっちも思っていません。それよりも、様々な人がどくんごについて既存のものに結びつけずに(即ち逃げずに)語るとき、その言葉は全て、この上なく美しい、と思っています。それらの言葉は必死に、まだ形にならないものに形を与えようともがいて出て来る言葉であるからです。そしてだからこそ、そのきっかけを作り出すどくんごの芝居、というのがどれほど我々にとって有り難いものであるのか、ということを痛感しています。どくんごの芝居を見たとき、私たちは「語りやすいから語りたい」「うまく語ることができるから語りたい」といういやらしい自分を脱ぎ捨て、「うまく語れないけれども何とか語りたい!」という自己に立ち戻れる気がします。それはまさに赤子が我々の言葉を真似して一生懸命に意味を伴わない、しかし懸命な声を発するときのあの真摯さを、私達の中に呼び起こし、初心を取り戻させてくれるものであると思っています。
伝えたいものを伝えられるものの中からだけ選ぶことによって「社会生活」を無難に営む我々(それは勤め人として、というだけではなく友人関係、家族関係といった親しい仲においてすら。あるいは自分がやりたいはずの表現活動においてすら。)に、そのような限られたものの中からだけではなく、本当に伝えたいものを伝えようとしていくことの大切さ、それが言葉にならなくてもどうにもうまく表現できなくても、でも伝えようとせずにはいられない!という思いをどくんごは引き出してくれます。そして、何よりどくんごの一人一人がそのようにもがき苦しみ続けていく中であのような表現方法になっていった、ということこそが、彼らもまた「伝えられるもののみを伝える」という既存のコミュニケーション(そして、これが言葉の本来の意味でコミュニケーションになっているかどうかは極めて怪しいのです。)と日々戦い抜いていることの証左です。
何かの理論やメソッドがあるわけではありません。ただ徹底的な試行錯誤と反省/考察の結果として観客の思考のきっかけをも支えうるような強靭な「余白」を作り出しています。それが彼らの過酷な旅から来るのか、徹底的に手作りのテントや幕から来るのか、強靭で繊細な芝居から来るのか、新しいツアーメンバーや幕間ゲスト、お客に徹底的に開かれた姿勢から来るのかはわかりません。おそらくはそれらすべてから来るのでしょう。一つの意味に寄りかからぬよう、一つの達成に寄りかからぬよう、一つのコミュニケーションの成立にとどまらぬよう絶えず厳しい探求を続ける彼らの姿勢こそが、余白がないかのようにふるまったりあたかも完成された人間であるかのようなそぶりをしたりすることのバカバカしさを私達に気づかせてくれます。その上で、私達が勝手に諦めていた報われないけれども大切な様々な取り組みへともう一度取り組む力をそっと与えてくれると思っています。
伝えやすいものだけが流通され、語りやすい言葉のみが語られ、叩きやすいもののみを叩き、取り組みやすい行為のみが奨励されることで、それ以外の行為がすべて根絶されつつある、しかもそのことを一人一人がなんの違和感も感じずに受け入れつつあるこの国の中で、あのちっぽけな犬小屋テントは飄々とあちこちに出没しては、そのような(考えなくさせる)流れの中に屹立してはがっきと受け止めては対峙し、そしてその流れに翻弄されることを言い訳にして身を委ねることを自分に許しかけている不誠実な私達に考えることを促す「余白」をこの社会の中に、文字通り命がけで作ってくれていると思っています。そのようなどくんごに感謝するとともに、だからこそ私たちはどのような絶望的な状況に陥ったとしても、諦めるわけにはいきません。今にも諦めたくなるような絶望と苦渋の日々だとしてもなお、私たちにはどくんごがいる。それは僕にとってもまた、死ぬ最後の瞬間まで諦めずに戦い抜こうと思える確かな理由になっています。
今年も本当に素晴らしい芝居をありがとうございました!どくんごの旅はまだまだ続きます。関東圏では今日明日の大宮公演、その後の前橋公演、飯能公演と続きます。どくんごの旅は11月下旬まで続きます。ご予約はこちらから!
来年のツアーはお休みです。というより、毎年毎年ここまでツアーができている事自体が本当に奇跡的です。こんな過酷な半年間のツアーをメンバーを集め、鹿児島から釧路まで行きまた鹿児島に戻るというとてつもない移動距離を事故もなく移動し、30回を超えるテントの建てとバラシを行いつつあのハードなステージを年間70〜80公演やりつつ無事に(といっても今年はメンバーの入院もありました)終える、というこの奇跡的な努力を今年見られるのもあと僅かです。だからこそ、ぜひお近くで、あるいは遠くまで足を運んででも見ていただきたいと思っています。



