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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

問題を解くな。

暗い内容のことだけ書いてしばらく書かなくなると、「あいつ、ヤバくね?」となってしまうので、今日は箸休めに受験勉強のことを書きます!(一応学習塾なので…。)

「non-nativeな我々が英語力を鍛えるためには英文法が重要だ!」という主張は塾で徹底しているだけでなく、繰り返しここでも書いていることなのですが、この意見に「そうだそうだ!」と賛同される方の中でも、「じゃあ英文法ってどうやって勉強する?」と聞くと、「やっぱりここは『Vintage』をやらせるべき!」「いや、『Nextage』がいい!」などと英文法の問題集の名前が出てきます。また、実際にほとんどの高校では「英文法の勉強をさせる」=「英文法の問題集を解かせる」であって、小テストをしたりしてひたすら解かせる、ということをさせているようです。

嚮心塾ではそのような指導を一切否定しています。具体的には英文法の問題集を解かずに、『Forest』とか『Evergreen』とか『Breakthrough』その他何でもよいのですが、概説書を繰り返し読んでもらうことをお勧めしています。もちろん、どれを使うかによってどこまで詳しく読むか、などのアレンジはしていきますが、大切なのは細かな表現を覚えることよりも理解をしっかりと積み重ねていくこと、それとともに「文法的な分類」のための道具立てを自分の頭のなかに作っていくことです。

などとアタリマエのことをわざわざ言挙げするのも恥ずかしいですね。。こんなのは、勉強を教えていれば、すぐに気づくような初歩的な指導法だとは思うのですが、いわゆる「自称進学校」が相も変わらず文法を理解していない高校生に「文法の問題集」を解かせることのみに汲々としている、という事態は塾を開いてからのこの15年ほど、何も変わっていません。それでは英語ができるようになるわけがないと思います(もっともこういう先生方は「問題集を解いて、わからないところは概説書で参照するのが当たり前で、そもそもそれは生徒の努力不足だ!」と主張するのでしょうが、何も理解できていない状態で問題だけを解かせて答えを覚えさせていくことの罪についても、もっと自覚的になってもらわなければ困ります)。実態を伴えていない現実から目を背けて、自分の理想を押し付けては結局生徒を鍛えられてはいない、というのは、やはり現実を直視する勇気のないままに「理想」に逃げることでしかないと思います。

逆に英文法の概説書を読んで理解するところからしっかりと積み上げていけば、英語が極端に苦手な子であっても、しっかりと力がついてきます。それこそ、英語だけできない浪人生が前年のセンター試験100/200から一年で180/200にジャンプアップした!などは塾ではよくある例です。受験勉強の指導において、受験生本人は努力しているのに英語の力を伸ばすことができない、というのはやり方がまちがっているしか理由がありません。「英語は暗記」という教え方は「数学は暗記」と同じくらい、非効率的な教え方であると思います。

ただ、この「とりあえず問題を解かせれば良い。」という指導者の誤謬は結構根深くて、恐らく教える側はその科目を得意だった人しかいない、ということと繋がっているのでは、と思っています。英語であれ、他の教科であれ、それを受け持つ先生は当然その教科について自分が自信を持てるだけの実力があるわけです(とは高校の先生も限らない、という現実はもちろん承知していますが、絶対評価においてその教科で「力不足」な先生方も、自分が勉強してきた教科の中では教えている教科は「できる」教科であったわけです。さすがに自分が指導する教科を自分がいちばん苦手な教科を教える、という先生はまずいないでしょう。)。だからこそ、そのように自分が得意だった教科に関して「問題を解く」ということは、大枠を理解をしていることは当然の前提として、細部のチェックとして問題を解いてきているわけです。あるいは解いてみた後にまた概説書に戻るとしても、ほとんどのところは理解できている中で、後は弱い部分だけを詰めていけばよい、というところにまでは来れたはずです。そのような場合、「問題を解く」というプロセスは先生方の受け持つ教科(つまり先生自身にとっての得意教科)の個人的な学習史の中では「非常に効果的」であった可能性が高くなります。

しかし、その科目を学ぶ生徒は多様です。英語の先生が教える生徒が英語が苦手だった場合、問題集を解いても一対一の雑多な知識の羅列をひたすら覚えることにしかならず、理解が何もできていない状態であるかもしれません。だからこそ、教える先生は自分の担当科目を苦手としている子にどう教えるか、ということに関しては自分自身の学習史の中で得意であった科目(たとえば英語)についての勉強方法ではなく、自分自身が苦手であった科目について自分なりの勉強方法で効果的であったものをアドバイスする方がよほど効果的かもしれない、ということです。

と、このように客観的に分析ができればまだよいのですが、たとえば英語の先生が英語の苦手な子から「英語が苦手な自分がどのように勉強したらよいか。」と問われて、そこで自分の専門である「英語の勉強法」を教えるのではなく、自分が苦手だった教科(たとえば数学)の勉強法から着想してアドバイスをする、ということをできるのか、という問題ですよね。何もわかっていなければ、問題を解く前にまず教科書で一から読めばいい、ということはどの教科でも言えるし、文字が読める子であれば、恐らくかなり有効であると思うのですが、それを「英語の勉強法」を聞かれた時に英語が「得意」なまま生きてきた英語の先生が引き出せるかどうかは…。なかなかできない先生が多いのでしょう。

と考えると、全ての教科を僕が教える、という嚮心塾のシステムは一見、怪しいように思われたりばかりなのですが(15年やってて、合格実績を出してきてもまだそういう反応が多いです…。)実は結構理にかなっているのでは!と思います。

さらに、このような「ひたすら問題集を解け!」的な的はずれな指導が未だに温存されてしまっている理由の中に実は、受験生の側の共犯関係もあります。

たくさん問題集を解く、鉛筆を動かす、できない問題にチェックを付けて、それをやり直す、理解していなくてもぐるぐる周回する、といったこれら一連の「努力」は、概説書を読んで「ふむふむ」と理解していくよりも、努力をした気になることができてしまいます。この「努力」が、自分のやり方が正しいかどうかをチェックする目を曇らせます。「努力をしているから、必ずこれで力がつくはずだ。」という自己陶酔から、結果としての不合格として出てくる前に気づいて抜け出すことのできる受験生というのは実は、ほぼいないと言えます。もちろん、このような誤ったやり方を平気で進めてくる教師の側にこそ第一義的な責任があるのは当たり前として、受験生本人もどこまで自分自身の「努力」が的はずれなものになっていないか、をどうしようもない不安の中で絶えず疑い続けていかねばなりません。

「たくさん問題を解く」ことが基本的なことを理解をできていない自分から目をそらすために使えてしまうように、私たちは現実と立ち向かうためのどのような方法をも、現実から目をそらすために使うことができてしまう弱い生き物であることへの自覚がとても大切であると思っています。その上で、少しでも見たくない現実へと切り入ってはその現実と悪戦苦闘できるように、生徒一人一人と取っ組み合い、叱咤激励をしていきたいと思います。

(しかし、高校の先生方には授業の時間を意味のあることに使って頂きたいです。問題集を解く段階に達していない子に問題集を解かせておいて、「今までにちゃんと概説書をやっていないやつが悪い!」と居直る(まあ、そもそも高1、高2の授業など講義などしないで、概説書を毎回一緒に輪読していくだけの授業でも今より遥かにマシな教育になると思います)のは、受験生の貴重な時間を奪う時間泥棒であり、虐待であると思います。もちろん、授業を一人一人のレベルに合わせて行うのは難しいとしても、「君は僕の授業聞いたり問題集解いたりしなくていいから、授業中この教科書を読んどくといいよ!」ぐらいはやれるとは思うのですが…。)

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太陽の孤独。

こちらが必死に悩み、取り組み、もがき、練った上で放たれた言葉が生徒たちの内面を少しもかすりもせずに、何もうまくいかない、ということが続いていて、だいぶ滅入っています。と書くと、心配をされてしまうかもしれないのですが、まあ平常運転ということです。

自身を鍛えていくためには、自身がなんとなく大切にしているものを疑わなければならない状況が必ず生まれます。もちろん、それには大きなエネルギーが必要であるので、なかなか一人ではそこに立ち向かいたくない、あるいは他の可能性を徹底的に潰してからそこに向き合いたい、と一人一人の受験生は「言い訳」をします。その「言い訳」をこちらが論破して承服させていくことは簡単ではあるのですが、それでは本人にとっては、僕にやらされているだけの勉強であり、あまり力になりません。ときにその過ちに付き合い、過ちに付き合うことを僕がその受験生自身に責められながらも、「やはりここを頑張ることを避けては通れないのだ。」という事実を理解してもらわなければなりません。事実をして語らしめる、というやつですね。しかし、そのような努力をこちらが徹底的にやろうとしても、自分の乗り越えなければならない壁を乗り越えたくない子どもたちにとっては、引き続き楽な方に逃げるために「塾を変える」という選択肢をとられることも多々あるわけです。

このようなときには、端的に言えば死にたくなります。「思いをやる」ことの不可能性、楽な方へと逃げる彼ら彼女らの愚かしさ、さらにはその愚かしさに少しでも理があるかのように思ってしまう親御さんのアホさに、そして何より、結局事実から目を背け、何も頑張らずに生きていく人生へと一人一人が陥ることを、どのような手管を尽くそうとも止めることができなかったという自分の無力さに、打ちのめされるからです。

しかし、このように自分が自分の存在意義を疑わざるをえないほどに、全力を懸けては裏切られ、打ちのめされているときにこそ、「死にたい。」「どうしようもなくなってしまった。」などという相談が来ることが多いのも面白いものです。そのようなとき、こちらもそんな余裕はないのですが、それでも自分に鞭を打って何とか応えようとしても、実際に相談してくる人の力になれているかどうかはあやしいのですが、それでも何とか歯を食いしばっては必死に目の前の相談に応えようとする、という繰り返しです。

卒塾生から、恐れ多くも僕自身のことを「太陽のような存在」と言われたことがあります。それをとりあえず鵜呑みにして心を奮い立たせられるほどには僕は人間のコミュニケーションというものを信頼できてはいないのですが、それでも太陽の孤独については思いを馳せてきたところがあるので、その表現には感心させられました。それはまた、僕自身が理想としてもってきた像であるからです。

人間の「温かい」「冷たい」の感覚は自分よりも温度が高いものと接しているときにはそれを温かく感じ、自分よりも温度が低いものと接しているときにはそれを冷たく感じるということに気づいたとき、僕は何よりもまず、太陽の感じる孤独を想像し、打ちのめされました。この太陽系を温め続けている太陽は、他を温めても温めても、誰よりも「寒さ」を感じ続けるしかないのだと。(まあ今冷静に突っ込むと伝導と放射は違うのでしょうが。)人が他の人に思いをやり、何かを与えよう、伝えよう、わかってほしい、と思うとき気持ちの「温度差」が必ずあるわけですが、誰に対しても思いやりをもとうとし、誰に対してもその人のために伝えようとし続ける人は、誰よりも「寒い」思いを感じ続けざるを得ない人であるのだ、とも。自分にとってその現実は、決して直視したくない、しかし目をそらすこともできない残酷なものでした。

その残酷な現実から逃げて生きる道を諦めて、少なくとも僕からは決して見限りはしないことを決め、この仕事を始めたわけですが、しかしそれでもうまくいかないことだらけ、本当に情けない限りです。

ただ、それでも言えるのは、人との関係において必死に思いやっては裏切られたり理解されなかったりで、しんどい、辛いと追い詰められて「もうこんな人生やっていられない!」と思っているときには、誰かを温め得ているのかもしれない、ということです。もちろん、それはそれだけで「生きよう!」と思える動機になるほど、人間は強くはありません。けれども、それもまた事実である、ということには目を向けておかねばならないと思っています。それはまた、僕が生徒たちによく言っている「生きることがしんどくなってからが、君の人生の始まりなんだよ。」という言葉の意味でもあります。

もちろん、他者を自己が存在し続けるための理由にするのであれば、それは単なるエゴイズムでしかないでしょう。
しかし、自分のしんどさが自分だけのものであり、自分が消えればなくなる単なる無駄なものであるのか、それとも他を温めようとしてはエネルギーを吸い取られてしんどくなっているのかは、ぜんぜん違うことであると思います。
しんどいときにこそ、私達は「太陽の孤独」に目を向けては、それが本当に意味のないことであるのかどうかを見つめ直すことが大切だと思います。

僕も、どんなに理解をしてもらえずに打ち捨てられ続けようとも、生徒たちが自身を鍛えられる人生のために、何とかもう少しだけこちらから語りかけ続けていきたいと思います。

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第一志望に不合格のときにこそ。

気がつけば、5月も10日が過ぎているというこの恐ろしさですね。。忙しい毎日の中で何とか必死にあれこれやりくりしているうちに、ブログの方も放置してしまっていました。毎日は難しいとしても、また定期的に書いていきたいと思います。

話題としては少し古いのかもしれませんが、武田塾という参考書を使って勉強方法を教えるという塾(なんか似たようなシステムでやっている小さな塾がどこかにあった気もしますが。。ちなみに、うちの方が2005年5月開業なので、開業はこちらの方が早いです!)がとても繁盛していて全国展開をしているのですが、そこに所属する職員がyoutubeで法政大学の入学式で「法政大学が第一志望だった人は0人説」という失礼極まりないインタビューをしては動画を挙げ、炎上していたようでした。それを真摯に糾弾されている中野先生のブログもあります。

僕も中野先生と同じ思いです。その大学が第一志望であろうとなかろうと、様々な思いを抱えた上で前向きにその大学の入学式に臨もうとする新入生に、そのようなひどい質問を投げかけてはネタにする、という行為自体が本当に教育に携わる機関として言語道断です。仮に受験に少しでも関わった経験があるのであれば、「第一志望に合格する」ということがどれほど難しいか、ということに直面せざるを得ません。自身の受験で余裕を持って第一志望に合格できた教師であろうと、「教え子すべてが第一志望に合格できる」ことなど不可能です。間違いなく日本一、いや恐らく世界一の先生である物理屋さんですら、教え子の第一志望合格率は100%ではないわけですから。

だからこそ、教師がしなければならない仕事は、もちろん「第一志望に合格させるためにできることを徹底的にやる」のは当たり前の当たり前の当たり前として、仮にそれが実現できなかった時その現実に打ちのめされる生徒に対して、それでも何を語らなければならないのか、を準備していくということでもあります。人生は思い通りにならず、思いやりや努力が報われるわけでもない。(さぼっていて結果が出なかったのならともかく)必死に頑張ってもそのような現実に打ちのめされる教え子たちに、どのような言葉をかけるかこそが重要であるわけです。

それを受け入れる余裕のない教え子たちにどのように偽善者と思われようとも、彼ら彼女らが必死にもがいた努力の中で成し遂げ得なかったものだけに目を向けては成し遂げ得たものをすべて放擲することのないように。あるいは、この悔しさを糧にして、より長い視野で自分の人生を捉え直すことができるように。このように色々と身悶えしながら考えては、なけなしの言葉をかけるとき、僕は自分自身の偽善者ぶりを強く感じながらも、でもその偽善者としての役割を果たさなければならないと強く感じます。大切なのは、受験生が自分では自分の努力を全否定したくなるようなそのときにたってなお、その子のためにその努力を肯定できるかどうか、であると思うからです。その「肯定」が嘘くさく思われようと、バカにされようと、本人に怒りと軽蔑をもってあしらわれようと、受験生が自分自身ですら自分を否定せざるをえないその瞬間に、その受験生本人の肯定をしないのであれば、教師など存在する意味はないどころか、存在していてはならないでしょう。

そして、そのように嘘くさく見え、拒絶されることを覚悟しては、それでも自己が全否定されたと感じてしまっている受験生を何とか自分だけでも肯定しようという「絶望的な偽善」を引き受けたことのある人間であるのなら、そのような自己の全否定から何とか再び本人が歩き始めようとしている入学式において、「企画」としてこのようなことは絶対にできません。それが全てです。炎上かどうか、世間をお騒がせしているかどうか、法政大学とその学生に失礼かどうか、という論点は些末なものであり、それらをどのように言い繕って謝罪をしようと、受験生の絶望的な自己の全否定を何とか少しでも一緒に引き受けようともがいた経験のない人間が教務にいる塾が武田塾である、ということは事実でしかありません。(もちろん、これはほとんどの予備校や塾にもあてはまるとは思いますが。。)

もちろん、第一志望に合格すれば、その後の人生においても絶望から逃れられる、ということではありません。
東大や京大に合格した凡百の東大生・京大生が感じるのは、自分がいくら努力をしたとしてもどうにも追いつきようのない人間たちが目の前にいる、という事実です。あるいはその中で優越感をもっていた少数の子たちも、より視野を広げれば、現実から目を逸らさない限り、必ず絶望につきあたります。

だからこそ、そのような、最後の砦である自分ですら自分を全否定せざるをえないかのように思ってしまうときにどう寄り添うか、は人を教える仕事に携わる人間にとっては必ず考えなければならないことであると思っています。もちろん、そんなとてつもなく難しい役割は、どのような天才であろうと、どのような聖人であろうと、決してろくに役に立てないような難しいものです。でも、あるいは、だからこそ、その役割を誰かが果たそうとしていかねばならないし、そこでの自分の無力さ・嘘くささを踏まえてなお、苦しんでいる本人の存在を引き受けていかねばならないと思います。

嚮心塾も「華々しい合格実績」的な情報も出していかないと生徒が集まらないのがこの業界の苦しいところではありますが、一方で大切にしていることがあります。それは、第一志望に合格した卒塾生しか卒塾後に塾に遊びにこれないような学習塾であってはならない、ということです。第一志望に合格した受験生は自らの「成功」体験と塾がリンクしているわけですから、それはこの場をかけがえのないものと思いがちです(もちろんそれは錯覚であることも多々あるとは思いますが)。そうでなかったとしても、それでも「あのおっさんに今の話を話してみようかな。。」と思ってもらえる塾でないのであれば、存在意義などないと考えています。

一人一人に第一志望に合格してもらう、というのは誤解を恐れずに言えば、目的ではなく、手段です。
生徒一人一人が今後の人生をよりよく生きるためのあくまで一つの手段でしかありません。
そのことをしっかりと伝えられるように教えることを肝に銘じて、しっかりと鍛えていきたいと思います。

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