fc2ブログ

嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

2019受験を振り返って(その3)

M・Y(都立西高卒)   進学先:北海道大学医学部医学科


この塾に入塾する事を検討する際、まず多くの人が気になるのは、この塾の一番の特徴でもある、授業がないということだと思います。

僕は比較的、多くの予備校や塾に通ってきた方だと思うのですが、通う中で一番感じていた事は、授業を受ける忙しさ故に自分で考える事を放棄しがちになってしまう、ということでした。
勿論、授業を受けて自分なりに咀嚼し、それを活かす事が出来る人もいるとは思いますが、僕と同じような悩みを抱えながら予備校や塾に通っている人も少なくないのではないでしょうか。

そんな僕にとってこの嚮心塾はまさに最適な環境でありました。

授業がないこの塾では、何をすべきか、まずはそれを自分で考えて計画をたてる必要があります。さらに、大抵の場合その計画は自分のやりたい勉強ばかりに時間を割き、本当にやるべき事をないがしろにしていることが多いので(僕がそうでした)、指導経験豊富な塾長に修正してもらい、それを遂行する…。

最初の方は、今まで効率が悪いと思いこんでいた勉強を提示されたり、自分の考えの甘さを指摘されたりして、嫌々ながらやっていた僕でしたが、しっかりとこのプロセスを踏んで勉強することで着実に成績は伸びていきましたし、何より自分が今までかなり偏った考えで勉強をしていたという事実を認識できたのは、本当に貴重な経験でした。

最後になりましたが、塾長を始め、丁寧に質問対応に応じてくださった先生方、そして励ましあいながら一緒に勉強を頑張ってきた塾の友人達に心から感謝申しあげます。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため。

受験が終わってようやく一段落!のはずが新しく塾の体験に来てくれている子たちへの応接、さらには引っ越しの準備などでバタバタしていてなかなか時間がとれません。。何とか時間を作ってはやらなければならないことをしっかり進めていきたいと思います。イチロー選手の引退についても書きたいことが山ほどあるのですが、また次回に書きたいと思います。

「今いる場所から、最短距離で。」というのは嚮心塾のホームページを作るときに作ったキャッチコピーなのですが(考案時間30秒!)、なかなか気に入っています。しかし、「最短距離で」というのはどうも誤解を招いてしまうように思っています。それはなぜかと言えば、「最短距離で」と言ってしまうと、どうしても様々な無駄を省いていって、とにかく効率化をすることが嚮心塾の理想であるかのように聞こえてしまうからです。

もちろん、受験とは時間との闘いであるからこそ、無駄な勉強をしている暇はありません。今やっている勉強の中でうまくいっていないもの、力をつけることにつながっていないものはさっさとやめてしまって、自分がやるべき勉強に集中すべきです。その点では嚮心塾は「無駄を省く」ことをひたすらやっていく塾であるとは言えると思います。

しかし、このように自分の力になっているかどうかわからないものをさっさと排除し、確実に足りない部分を埋めるような勉強だけに専念して、無駄を排して、徹底的に勉強していった先に僕が受験生に何を要求するのかと言えば、「どれだけ無駄なことをやれるかが合否をわける!」ということを説いていくことになります。

ここはなかなか伝えにくいところです。自分の勉強がうまくいっていないとき、というのはたいていあれこれ「やりすぎ」です。だとすると、このようなときに必要なアプローチは無駄なものをとにかく排除して必要なものを最小限に絞り、それを定着するところまで徹底して繰り返していく、ということになります。
しかし、です。そのアプローチによってある程度力がついた後は、どうしたらよいかと言えば、そのように「無駄」として切り捨ててきたものの中に自分にとって今なら意味のあるものがないかを探しては埋めていく、という作業が必要になります。「東大にこんなのは出ないから。」「MARCHではこんなの出ないから。」と言って、様々なものを切り捨てていく子と、それもまた無駄にはならない、と思って丹念にそういったものを一つ一つ消化していく子とで更に合否が分かれていくことになります。無駄な勉強など、実は一つもないのです。

だからこそ、教える側としてはある段階までは無駄を徹底的に切り捨てて身につけるべきものを繰り返し咀嚼できる環境を受験生に整えてあげながら、しかし、段々と最初はまさにその受験生に「こんなの無駄だから、やらなくていいよ!」と言っていたものを後から「これもやった方がよいにきまってるじゃん!」と手のひら返しをしていかねばなりません。もちろん、「この手のひら返し」がその場の思いつきや気分でなされるのであれば、全く信頼をえられないわけですが、受験生の発達段階を見ながら、必要な時期にそのように彼らの評価基準を押し広げることができていければ、それはより強固な力となっていくわけです。

というのは受験指導の話ですが、「無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため」というのは教育に関わらず、どの分野でも言えることであるのだと思います。たとえば演劇などの表現においても徹底的に「無駄」を排した演出でありながら、しかし一見「無駄」に見えるものが入ってきたとたんに我々はその「無駄」の意味を考えるようになります。そしてそのとき、「無駄」は決して無駄なものではなくなってきます。それはまた、最初からゴテゴテと無駄があるときには愛せなかった無駄を愛せるようになっている、ということでもあります。(この極致が僕にとってはどくんごの芝居です!)

つまりこれは「外」の世界と出会い、それを受け止めるためには、内部を突き詰めることが必要となる、ということであるのでしょう。その突き詰めがないままに「外」を取り入れようとするのは、外が外のままでおわってしまい、(取り入れてもその「無駄」の意味がわからないという点で)「無駄」が無駄のままで終わってしまいますし、その突き詰めを徹底した後に「外」を取り入れようとしないのもまた、(その「無駄」の意味がわかるようになっているのにそれと向き合おうとしないという点で)やはり「無駄」が無駄のままで終わってしまいます。

だからこそ、徹底的に無駄を省くのは、無駄を愛し、その無駄の意味がわかるためでもあるのです。受験勉強の内部で無駄な受験勉強を省く必要があるだけでなく、受験勉強ということ自体が生活や人生の他の部分を排除しては特権的な受験勉強、というもののために他のすべてを「無駄」と定義する営みでもあります。それはまた、暴力的であるとさえ、言えるでしょう。しかし、そのように無駄を省くことが、自身を磨き、その一旦は「無駄」と定義した外界を愛し、意味を受け取るために用いることができるのなら。。
そのような願いを込めて、日々しっかりと生徒たちに向き合い、このような姿勢を伝えていければ、と思っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

「個別指導」の定義について。

「個別指導」という看板を出している塾は山ほどあって、嚮心塾ももちろん「個別指導」をうたっているわけですが、「生徒一人に先生一人」あるいは「生徒2〜3人に先生一人」というのが個別指導であるのだとすると、嚮心塾は「生徒30人〜40人に先生一人」なわけで、こんなの詐欺だ!となってしまいます。

ですが、こちらでは個別指導の定義をそのように考えていません。むしろ、真の個別指導とは、「勉強とは何かについて、生徒一人一人の認識の枠組みを変えることができる指導」であると考えています。これはすなわち、勉強とは何か、それはどこまで徹底することが効率が良いのか、逆にどこでサボることは効率が悪いのか、そういったすべてを一つ一つ手取り足取り改善していく、という意味では嚮心塾ほどに「個別指導」をしている塾はそんなにないと思います。人数だけ一対一でも教師が知っている知識を垂れ流し、それを生徒が吸収するための姿勢ややり方を持っていれば身につくし、もっていなければ何も身につかない、ということではやはり「個別」に「指導」できているとは言えないと僕は思います。

「学習について生徒一人一人の認識の枠組みを変える」というのはすなわち、どのようにすれば勉強ができるようになるか、どうして自分は勉強ができていないのかに気づかせていく、ということです。勉強をしない子は、実はそんなにいません。子供というのは様々な空気を読んでついつい勉強してしまうものです。しかし、その際に、どういうところはサボってはならないか、逆にどういうところはサボっても大丈夫かといったところをわからないままに自己流でやれば、結局勉強はしていたとしても何も力がつかないことになってしまいます。

しかし、このようなケースで子どもたちを責めることは一番してはならないことです。子どもたちは彼らの考える「最善」を尽くしていることが多いからです。ただ、彼ら彼女らの考える「最善」が現実からはずれていて、やるべき勉強を後回しにしてはやらなくてもいい勉強ばかりをしているからこそ、「勉強しているのに力がつかない!」という状態になってしまっています。そこを解きほぐし、どのようなことをやるべきかに気づかせていくのが指導者の力量であり、「(真の)個別指導」にしかできないことであると思います。

特に一般に子どもたちは考えなく手を動かすことを「勉強」と定義してしまうことが多いです。彼らの言う「勉強」は漢字の練習であれ、英単語の綴りの練習であれ、自分がその漢字や英単語を覚えているか、とは関係なくただノートが埋まっていくことに快感を覚えます。
また理解できているかどうかには興味がなく、「何となくこんな感じだった。」と解けた問題については一顧だにしません。その上で、間違った問題について真剣に考えるかと言えばそうではなく、間違ったものは何でも「ケアレスミス」というように分類して、次は自分ができる気でいます。その中で本当に「ケアレスミス」であるものはほとんどありません。
(もちろん、これらの特徴について、「子どもたち」は生まれつきそういうものだ、とは僕は思っていません。どこかで何らかの誤った教育によってそのようになってしまっているだけだとは思います。)

このような誤った学習習慣を粘り強く変えていくこと、さらにはそのように変えたほうが結局彼ら彼女らにとっても勉強の力はつくし、結局理解してしまえばテストの点も良くなってお母さんに怒られないし、その上受験にも役立つ!というようにほんのちょっと、努力の方向性を変えることで彼らの努力が「勉強しているフリ」から、「実際に彼ら自身の人生を支える力」になっていくという事実を伝え、説得していかねばなりません。

そこまでしてこそ初めて「個別指導」であると僕は考えています。だからこそ、僕はほとんどの個別指導の塾というのが
「先生対生徒の人数比」という建前を隠れ蓑にして、結局そのような生徒の改善すべき内面や思考には入って行けていないと思っています。もちろん、そこまでの力量、あるいはやる気のある先生が安い時給で集められるわけがないので、そこは仕方がないわけですが、しかし、「個別指導」というやり方にはもっと可能性があるはずなのに、あまりにもつまらない個別指導しかないこの状況は本当に残念です。嚮心塾だけはそのような本当の個別指導をより磨き抜いていけるように、必死にやっていきたいと思っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

名前を学ぼう。

以前に書いた、「文法至上主義」とは何か、ということは簡単に言えば付いている名前(文法用語)を覚えてそれで分類をできるようにしよう!ということでした。人間というのは名前がついていないもの同士を区別することがとても苦手です。たとえば形容詞にも限定用法と叙述用法がありますが、それを同じ「形容詞」という名前で両者を見たときには、その使われ方の違いがよくわからなくなります(そこを区別しないと限定用法の「形容詞+名詞」という語順と叙述用法のSVOCのときの「名詞+形容詞」といった語順とでどのようなときにどんなルールで並び順が逆転しているのかがわからなくなります。)。さらにはasleepのように叙述用法では使えるけれども、限定用法では使えないような形容詞に関しては、この2つの用法の名前を覚えることで、知識の整理ができるようになります。

こうしたすべてを「単純な英語をややこしく学ばせるもの!」として批判し、敵として見なす立場の先生も(もしかして)いるのかもしれません。ただ、外国語学習というのは我々が用例をすべて押さえることはできないからこそ、このような分析的な見方や整理をしていく方が身につきやすいというのは、僕自身の経験からも今までの指導経験からは思います。

もちろん、「名前をつける」という行為は良くも悪くも影響力が強いため、同一のものに違う名前をつけてしまったりすると要らぬ煩雑なプロセスを導入した割に、結局理解は何も進まずに混乱をしてしまいます。その点では「名前が細分化されていればされているほどよい!」というものでもなく、不要な分類は極力避けるべきです。だからこそ、英語を学ぶときに英文法が有効なツールであることを認めるとしてもどこまで文法用語を覚えるか、というのには工夫の余地がありますし、また生徒一人ひとりでカスタマイズしていくべきところであるとは思います。とはいえ、このような「文法用語を用いて説明できるように!」というリクエスト自体は英語の力を鍛えていくときにまず第一歩として非常に有効であると考えています。

塾で教えていていつも感じるのは、この簡単な手ほどきを全国の中学校でしてもらうだけでも、英語でつまずく子というのは劇的に減るのに、という悔しい思いです。現に中高6年間英語は何もわからず放置していた子たちでも、このようなステップをしっかりと踏んでいけば必ずできるようになります。単なる教科書の英文暗記や和訳を覚えさせるようなテストをしておいて生徒たちの時間を無駄に浪費する暇があるのなら、まず英文法から学ぶべきですし、結局ここでも(英文法用語の分類という)「日本語能力」を鍛えることが実は英語の力にもつながってくることにも繋がります。
(文法書などで)名前がついているものを無視しておいて、そのままの英文に出来る限り触れよう!、という教育方針自体は僕はあまりにも不用意であり、その犠牲者が一杯いるのではないか、と思っています。

だからこそ、名前を学ぼう!ということを嚮心塾では中学生でも高校生でも英語の勉強の最初から徹底していきたいと思っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

大人扱いの失敗。

今日は予想通りに行かないことの連続で、その後始末に時間がかかり、ようやくこの時間になってブログを書けています。
うまく差配をしているつもりでも、人間の感情や臆見というのは予想外の頑迷さを示すことが多々あります。それについてだいぶ想定ができるようになってきた、とは思っていたのですが、それでもやはり僕の想像もよらないところで、思わぬ障壁というものがあるようです。

このように、他の人の感情や思考を完璧には追い切ることはできません。本当に、「何故そのようなことを気にしているの?」という些細なことが自分の人生のすべてであるかのように感じて生きている人、というのはたくさんいるわけで、と言うと偉そうですが、僕自身もまた他の人から見ればそのように小さなことにとらわれては大きなことを見殺しにしてしまっているのかもしれません。

一方で、その小さなことにとらわれているがゆえに大局観を相手が失っている、と気づいたとしてもその内容をどのように伝えるか、というのは極めて難しいことです。その小さなことがその人にとっては何よりも重要であると思えてしまっているときには、「それは小さなことなんだ。」という説得の仕方はあまり効果的ではないからです。

小さなことにこだわるときには、その全体から見れば「小さなこと」が本人から見ればとても大きなことであることに、どこまで共感できるか、がまず勝負であるのだと思います。そのことへの共感があって初めてそこにとらわれている人たちは聞く耳を回復します。その上で、「それは実は小さなことかもしれないよ。」ということを徐々にわかってもらおうとしていくしかありません。

と、方法論としてはわかっていてもなお、僕自身このようなアプローチに失敗することも多々あります。
それは塾生に対してももちろんなのですが、大人相手だと特に失敗しがちです。「まあ、これぐらいはわかっているとは思うけど…」の前提が大人に対してはどうしても厳しくなりがちなのですね。。これは本当にいけない自分の癖であり、相手が大人であってもそのような判断能力はそんなにない、ということを僕は自らの結婚生活から(!)学んできたつもりでは
いたのですが…。まだまだで、大きな失敗をしてしまいました。

不遜に聞こえるかもしれませんが、大人を大人だと思わないことが大切なのでしょう。何十年生き永らえようとも、自分の殻の中に閉じこもって生きる大人は、幼稚です。そしてそれはまた僕自身がそれをするのであれば、僕自身にもあてはまります。自分の殻に閉じこもらない、というのはすなわち何が大切ではないかを絶えず吟味し続ける、ということです。そこに関して決して妥協をせずに、やるべきことをやっていきたいと思います。

それと共に、生徒一人一人に対して、そのような「大局的には小さいことでもその本人にとって大きいこと」への共感のチャンネルをしっかりと作っていきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop