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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

しんどいことにこそ。

たとえばある学習塾が東大合格者数を増やしたければどうしたらよいか。
一番うまい作戦は入塾テストをして、有名高校の生徒限定で入塾許可を出し、そして
その有名高校の生徒を出来る限り集めるのが一番良いでしょう。もちろんそういった高校の生徒が集まってくるためには
様々な良い評判を流布しなければなりませんが、そんなのはいろいろな手立てがあります。
理系の院生を雇って大学の勉強の先取りができることをうたうのでも、大手の優秀で有名な先生を引き抜いて来るのでも、いくらでも手立てはあります。そのようにして初期投資さえかなりかければ、後は
優秀な生徒が集まり、そして「あの塾に行けば…」と勝手にみんなが信じてくれるようになるので、
商売としてはうまく行きます。

このように、教育産業において一番重要なのは母集団です。僕がどんなにノウハウを積み重ね、その辺の大学生講師では
できないような指導ができていたとしても母集団が違えば結果は大きく劣ることになります。
それこそ、その辺の東大生が教える有名高校の受験生の方が、どんな熟練の講師が教える普通の高校の受験生よりも
大学受験において結果を出す確率が高いのです。だからこそ、教育産業においては「カリスマ」になることが成功の秘訣で、そのカリスマが根拠や効果があろうとなかろうと、そのカリスマ性によって母集団の質さえ整えば、後は普通の道具立てさえ用意しておけば東大・医学部合格者などいくらでも稼げます。

しかし、です。そんな塾って経営者の私腹を肥やす以外に何か存在意義があるのか?ということを僕などは思ってしまいます。それこそ元々優秀な子達はその塾に行こうと、大手予備校に行こうと、何なら自学自習しようとそんなにひどい結果にはなりません。そのような母集団を集めておいて、「うちの塾に通えば大丈夫!」と言うことなど、この社会にとって何か意味があるようには僕には思えません。だからこそ、優秀な高校からしかとらない塾など、実はあまり存在意義がないと思っています(正味の仕事はゼロです!)。

翻って元々勉強が得意ではない子達を鍛えてその子達が勉強ができるようになれば、それは必ずその子達自身の人生が大きく変わるだけではなく、社会全体にとっても大きな意味があると思います。可能性を諦めずに努力をすることの価値が広く理解されるだけではなく、実際に社会階層の移動まで伴うのであれば、それは社会にとっても活力を生み出します。社会にとっての一番の敵は階層の固定化によって皆が自分の人生を諦め、活力を失っていくことであるからです。

さらに、そのように元々得意でない子を鍛えよう!という塾が非常に値段が高く、親の経済力がなければその塾に通えない
のであれば、それはまた優秀な高校の子しか入れない塾とは別の面でやはりあまり社会的に意味のないことをしているだけになります。つまりそれは親の経済格差がそのまま子供の教育格差になるだけであるからです。このような塾は一つ一つの場面では非常に意味のある教育ができているかもしれませんが、一方で社会に持つ意味としてはやはり階層の固定化にしかならないでしょう。

このように考えると、低廉な月謝で、元々勉強が苦手な子を徹底的に鍛える塾、という(まあ嚮心塾のような)塾がこの社会には必要となるわけですが、こんなの、誰もやりたくありませんよね。僕もやりたくありませんでした。今だって毎年毎年「何でこんなしんどいことを自分はしてるんだろう…。」と思う毎日です。しかし、これがこの社会に対して意味を持つための最適解なのだから、仕方がありません。

わかりやすい例として学習塾のことを書いてきましたが、一般に「しんどいこと」ほどに問題の根本にがっきと取っ組み合いになっていることが多いように思います。そして、そのような活動に身を粉にして取り組み続けている先達の方々には、本当に頭が下がります。結局一人一人が自らの生き方を、この社会から切り離さずに考えることができるかどうか、がこの社会の豊かさではないかと思っています。逆に言えば、自らの生き方、ありようをこの社会から切り離して考えた上での「成功」というのは極めて無意味なものでしかないように僕は思います。そこがどんどん掘り崩されていっている、というのが僕がここまで生きてきている中での実感なのですが、それでも僕よりももっともっとしんどいことに人生を懸けて取り組んできた先達の方々に、僕は本当に頭を垂れざるを得ませんし、自分自身ももっともっとそれができるように努力していかねばならないと思います。

しんどいことにこそ、意味がある。しんどいことをうまく切り取って避けた後の「成功」など僕には意味がありません。ただ、しんどいことにもっと深く取り組み、少しでも改善し続けられるように、努力していきたいと思います。

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冷笑主義について。

冷笑主義というのは、自分が既にわかっていることを誰かが言ったとき、それを鼻で笑う態度のことです。「そんな初歩的なことを今更言ってるの?」「そんなことみんなわかった上で議論してるんだよ。」などと笑っておけば、自分が相手に対して優位に立つことができます。

しかし、限られたメンバーの中でそれをするのならともかく(それをすればメンバー内で確実に嫌われるだけなので、冷笑主義の話者に何のメリットもありませんが)、大勢の中で話しているはずのネットではなぜか「どちらがより相手の言うことを冷笑できるか」「どちらが相手の言うことを一顧だにしないか。」勝負!というところがあるようです。ここでも理性的な態度としては、そのように冷笑しては「けっ。素人め!」とやるのではなく、そういった参加者を排除しないようにしていくほうが議論としては盛り上がり、部外者の理解も深まると思うのですが、「自分のほうがより知的であること」を演出するためには、相手の主張がいかに的はずれであるのかを鼻で笑うほうが、そのような的外れな主張に対して真剣に説明して包摂していこうとするよりも、有効であるという判断からなのか、専門家が門外漢をはねつけることがとても多いように思います。

このようにして集合知を実現するはずだったインターネットが、実は各専門知を持つ専門家が非専門者に対してマウントをとるための道具にしかなりえていない、というディストピアが現代であるのでしょう。そこでは素朴な疑問を発することすら許されなくなっていきます。そのようにして、言葉を狩り、素人の疑問を封殺することで、結局は専門家が覇権を握ることになります。(もちろん、ある分野で正しいことを発信している専門家が別の分野ではトンチンカンなことを言っているのがダダ漏れなのもインターネットの特徴ではあるので、それを笑うだけのリテラシーがある人々にとっては集合知に近づいていると言えるのかもしれません。)

私たちは、ある分野の専門家が別の分野にまで正しい判断ができているかどうかは極めて怪しいことを我々が肝に銘じること、だからこそ誰か、とても賢い人の言っていることを真似さえすれば自分が間違えないはずだ!と手を抜かないことが大切であると思います。

それとともに、冷笑することで非専門家の意見を退けようとする人間は、仮にその分野において専門家であったとしても、
あまり信用をしないほうがいいことも確かです。真理の探求とは極めて難しいものであることに畏れのない人間は、
容易に様々なことにおいて事実の重みを見くびっては誤った判断を下します。彼や彼女の専門においてすら、です。

冷笑主義は自分を賢く見せる極めて有効なツールでありながら、それを使うことで自分がこれ以上は一ミリも賢くならなってしまう禁断のツールでもあります。そこに手を染めている人間が果たして本当のことに対して虚心坦懐に探そうとし続けられるのか、と言えばそうではないでしょう。

これはまた属人的に言えることでもありません。途中まではそうではなかった人も、どこかでこの冷笑主義に魂を売り、
それ以上考えようとしなくなってしまうことも多々あります(逆はなかなか起きえません。)。そして、そのように彼または彼女が自身の知っていることの限界を疑うのを止めたとき、そのような主体は、仮に世界中の様々な学問やその他のものに通暁するとてつもない知性をもっていようとも、あくまで人類にとっては有害な存在になってしまうのだと思います。

翻って、自身が経験や知識を得ることが、僕自身が真理に漸近することの妨げになっていないか、わかったような態度をとっては根底から考えるべきことを既に結論が出たものとして冷笑していないかどうか、絶えず疑って行かねばならないと思っています。塾生たちに、そのような賢しげな冷笑主義を決して身につけないでもらうための、一つのもがき苦しみ続ける人間のテストケースとして、あらねばならないと僕は思っていますし、それができなくなるのであれば、それこそ塾などさっさと辞めなければ有害でしかないとも思っています。

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もう、がっかりしない。

トップスイマー中のトップスイマーである競泳の池江璃花子さんの白血病の告白、それに対しての桜田五輪相の「がっかり」発言は大きな話題となりました。ただ僕はこれに関してはあまり桜田五輪相を責めるのはどうかと思っています。たとえばテニスファンは錦織選手が四大大会とかであっさり負ければ「がっかり」するでしょうし、野球ファンは大谷選手が怪我をすれば「がっかり」するでしょう。もちろん、この「がっかり」という言葉は白血病という命にかかわる病気とこれから闘おうという一人の若い人に対して使ってはならない言葉だとは思いますが、桜田五輪相がポロッとこぼしたその「がっかり」は、スポーツ選手やスターなど他人の頑張りに自分の憂さ晴らしを託しては、日々つまらない現実には真剣に取り組み、何とかしようとはしていない我々の愚かさの現れでもあると思っています。あの「がっかり」という言葉を、自分に疚しいところがなく心から批判できる人間が、果たしてこの社会にどれほどいるのでしょうか。もし、それが一定数いるのであれば、こんなにスポーツニュースや芸能ニュースばかりのテレビ番組構成にはならないのでは、とも思います。

さて、自分自身の愚かさについても話さなければなりません。
僕が大学生のときに初めて付き合った彼女が、「南米に一人で1ヶ月短期留学に行きたい!」と言ったとき、僕は「これは別れることになるなあ。」と直観的にわかったのですが、まあでも行きたいのなら仕方がない、ということで、その準備を手伝いました。一番の難関は彼女のご両親が短期留学に南米に行くことを女の子一人で行くには危険だから、ということで猛反対をされていたことで、話が立ち消えになりそうになっていたので、僕は彼女の自宅まで行ってご両親と2時間話し合い、説得しました。「若い人が危険を冒してやりたい!ということを止めるべきではない。親子は日本と南米に離れていても、親子だが、彼氏など向こうでかっこいい男を見つければ、途端に彼氏ではなくなる。それでも僕は彼女のチャレンジを応援したい。お父さん、お母さんも許してあげてもらえないでしょうか。」と丁寧に説得したかいもあり、最終的には「柳原さんがそこまでおっしゃるなら…(今考えると僕の立ち位置がかなりおかしい感じですが!)」と海外留学を許可してもらいました!

そして、彼女は1ヶ月南米に短期留学して予想通り向こうで好きな男ができ、見事に僕はフラれるわけです。このような経緯もあって、僕は相当がっかりしました。その言葉を明示的に彼女に言ったかどうかは覚えていないのですが、その雰囲気は伝わっていたと思います。

その後、2年ほど僕も人生に迷い(これは失恋が原因ではないのですが)、再び教育という道に自分の人生を費やしていこう!と決意を固めたときに、真っ先に思いついたのが、元彼女と連絡をとろう、ということでした(これはヨリを戻そうとか、とはちょっと違っていて、あの時諦めてしまったコミュニケーションの先が今はできるかなと思ったからです)。電話で話してみて、もはや通じ合える部分がほとんどないことがよくわかるような会話しかできなかった後に、最後に一度会って話し合えないか、という話をしたところ、元彼女に「またがっかりさせちゃうから…。」と言われました。そのときに、僕は自分でも驚くくらいの勢いで「僕はもうがっかりしない。それは君に対してだけでなく、誰に対しても、だ。」と瞬間的に断言したことを覚えています。もちろん、その言葉は虚しくしか響かず、その後は何と言って電話を切ったのかすら覚えていませんし、二度と連絡も取りませんでした。

そこから20年近くが経った今も、僕が人生を通じて何をしたいのかと言えば、あのとき言った「僕はもうがっかりしない!」をどこまで他者に対してできるのか、ということです。あのときよりも比べ物にならないくらいはるかに努力し、自分を律し、長い時間を費やし、それを全て受験生に注ぎ込んでも尚、うまくいかないときはうまくいきません。その結果に受験生本人も親御さんも「がっかり」するでしょう。しかし、僕は決してがっかりしません。がっかりする暇があれば、次に彼ら彼女らに対してできることを手を打ちたいし、そのために自分に足りていない努力を少しでもやっていきたいと思っています。

がっかりができるのは、その人の結果に対して自分が何もするつもりのないのに、その結果の恩恵だけは何とか得られないかと期待している人間だけです。そのような無責任な態度を僕はどこまでも自分には許したくないし、どこまで徹底的に相手のためにやってもなお、がっかりしないでいられるか、にこそ僕のつまらない人生の価値がかかっていると思っています。これから先、受験生のどのような結果が出ようとも、決して僕はがっかりしません。そこにほとんどすべての私生活を犠牲にして朝から晩まで時間と努力と労力を注ぎ込んでいるわけですが。そのように彼ら彼女らが結果を出そうと必死に努力したことは、とてつもなく価値のあるものであることに間違いないからです。だからこそ、受験生本人だけは結果にがっかりしないで、胸を張ってほしいと思います。そして、そのことこそが、塾を通して僕が塾生に伝えたいことでもあります。

桜田五輪相の「がっかり」を彼だけを批判するのではなく、オリンピックそのものに寄せる期待やスポーツイベント、芸能イベント、それら全てに寄せる期待を持ち続けている大衆としての我々、もはやそのために自分が何も努力をしていないのにその恩恵にだけは預かり、喜ぶことで、日々の現実を乗り切ろうとする我々のその卑怯さへの批判として受け止められるような社会へと少しでも近づけると良いな、と思っています。そして他者の結果に対して「がっかり」することがどれだけ相手の気持ちを深く傷つけるのかに対しても、もっと敏感にならなければならないと思います。その上で、諦めずに少しでも良い結果を残せるように、国公立の追い込みの最後まで、徹底的にあがき続けたいと思います。

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「結果」とは。

この仕事というのは、どのように努力をしようとも、結果を出さなければクソミソに言われるものです。
そんなことはわかった上でやっているわけですが、その「結果」の定義があまりにも狭く、多くの場合ですれ違うことに
はとても辛い思いを毎年感じています。

もちろん塾としても「合格実績」という形で一般にわかりやすい「結果」も見せているわけですが、そのようにわかりやすい結果の一つ一つが尊いだけではなく、そのような一般的に評価がわかりやすい「形」にならなかったものまで含めて、とてつもない努力の結果到達できたものもまた「結果」であると受験生たちには思えるように、最後まで必死にやってほしい、と願っています。

それとともに、終わりがあることがこの時期には見えてきます。その「終わり」を少しでも後悔を少なくして迎えられるように、最後まで必死にやっていきたいと思います。

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今日はヤバイです!

塾で受験生を教えるだけでなく、受験生からの相談、質問メールに答えていたらこんな時間に!毎日ブログ書く計画が頓挫しそうです!毎日書くのが目標と言いながら、内容がスカスカになっても申し訳ないのでここまで頑張って書いていたのですが、それも今日は忙しすぎて難しいかもしれません。。

思い込みがいかに人間から客観的に判断する能力を奪うかについては、様々な人が様々な書き方で書いていることですが、
そうは言っても自分がそのような何らかの思い込みにハマっていない、とついつい誰もが思いがちです。
そのような思い込みからどのように脱することができるのか、についてはもがき苦しみ、絶えず疑い続けることが大切だと思います。そのような思い込みを受験生一人一人から剥がす作業を地道にやっていきたいと思います。

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