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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

予期せぬことに備えるために。

いよいよ明日から国公立大学入試が始まります。一人一人に出来る限りの準備をしてきました。
しかし、それでも予期せぬことが起こるのが入試です。

こちらが徹底的に様々な準備を尽くしていくのは、入試本番で予期せぬ事態に彼ら彼女らがぶつかったときに、
自信をもってその恐ろしい現実の裂け目を勇気を持って跳躍できるように、です。

入試の中で起きる全てを準備し尽くすことは神でもない限りできません。
しかし、徹底的に準備をし尽くそうと受験生本人とともに心から全力で取り組み続けてきたここまでの
塾での日々が、彼ら彼女らに予期せぬ事態に対して怯まずに立ち向かう理由になれはしないか。
そのように思っています。

もちろん、そこで実際に力を発揮するのは受験生本人です。
しかし、そのように受験生本人が本当にしんどい中で歯を食いしばって少しでも答案を書き進めることに、
ここまでの様々な準備が後押しができるのではないか、と思っています。

『カラマーゾフの兄弟』の最後にアリョーシャが「人生は長く、辛い。だからこそ、幼年時代の楽しい思い出は、その辛い人生を生き抜くために必要なのだ。」というセリフを言っています。
受験もまた、一年間の勉強だけが辛いのではなく、受けている最中こそが本当に精神的にしんどいことの連続です。だからこそ、その瞬間を一人一人が生き抜くことができる力に僕が彼ら彼女らにかけた時間や思いが少しでもなれていれば、と思っています。

あとは信じて見守りたいと思います。(と言いながら、毎年25,26,27日とバタバタと受験生からの電話やメールで忙しいのですが!納得のいく受験ができるよう、最後まで付き添い続けたいと思っています。)

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安心をするための装置。

テレビ番組で「テレビは安心するための装置。だから不都合な真実には決して触れないようにする。」という批判がオンエアされ、それに対して賛否両論だということですが、そんなのは、どんなに国会で一人一人の人生に関わる重要な論戦が行われていようとも、テレビはそんなものには目もくれずに、やれミミズクだの
、やれ舌がんだの、とどうでもいいことをずっとやっているわけですから、まあ当たり前な話です。テレビは人々が考えないための装置として現代では機能しています。

そして、これは別にテレビに限った話ではなく、ネットであれ、youtubeであれ、アプリであれ、何であれ、考えるべきことを見逃さないためには自分が必死に探さなければならず、考える材料を自然に与えてくれる装置などまるでありません。私たちは情報がこれだけ多くなった世の中であるからこそ、自分が真剣に悩むべき問題からは離れられる情報だけを得ることで、四六時中自分の人生から逃げることができてしまいます。その結果として後悔したときにはあとのまつりになるような政治的、経済的、その他様々な改悪についても気づかないフリをすることができてしまいます。

何かについて語る、ということは別の何かについては語らない、ということでもあるからこそ、有限の時間の中で我々は何について語るべきであるのかを取捨選択していかねばなりません。だからこそ、「嘘は吐いていない」としても、語るべき対象をうまく選んで自分が語ると面倒になるところについて本音を語らないように話題を選ぶことで会話を終えてしまえば、それは結局はぐらかしたり、ごまかしたりができてしまうことになります。

そして、これはテレビ番組の作り手のせいだけではありません。私達自身の「面倒なことは考えたくない」「都合の悪いことは考えたくない」というある意味自然な欲求の投影として、テレビはミミズクのことばかり映すようになってしまっているわけです。このようにして、様々な制度の根幹が掘り崩され、そして大きな悲劇へとつながる、という時代に私たちは今生きているのでしょう。

話をそれほど大きくしないでも、たとえば間近に迫った受験に関してもまた、安心をするための装置として勉強が働くことが多々あります。勉強をすることで勉強はサボることができます。即ち、自分の優位性を確認できるような勉強に時間を割くことで、自分ができていないところを勉強することからは目を背けることができてしまいます。このような勉強をしているときは、安心をするための装置として自らの勉強を使っているだけで、結局必要な勉強をしていないからこそ、入試で落ちることにつながります。人間はそれぐらいに見たくないものを見たくないものです。そして、見たくないものを見ないで済むためには、どのような努力でもするものです。そのような人間の心の弱さを受験生を教える教師は熟知した上で、彼や彼女の「勉強」が不都合な現実から目をそらすための手段になっていないか、それがやるべき勉強を避けるための勉強になっていないかどうかを絶えずチェックしていかねばなりません。

結局そのように自分に不都合な現実を直視することこそが、自らの成長のために、あるいは統計の数字をごまかさずに本当に結果を出すためには必要なのだ!と気づけるかどうかが、ミミズクや舌がんばかりのワイドショーをおかしいと思えるかどうかの分かれ目であるのだと思います。受験生一人一人がそのように不都合な真実に目を向けて努力が最後までできるように、しやすい努力を必要な努力をしないための隠れ蓑へと使わないように、最後まで徹底的に批判し、鍛えていきたいと思います。

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血塗られた技術。

国公立受験も間近ですが、先日塾のチューターをしてくれている大学生の子に受験生への様々な注意について、どういうことを気をつけるべきかを僕が詳しく説明していたところ、彼が「先生はご自分は一回しか受験していないのに、何でそんなに受験生が試験中にやるべきことに精通しているんですか。」と驚きをもって聞かれました。

そこで僕自身その問いに対する正確な答が出てこなかったので、こうしてブログに書いているわけですが、
恐らく僕がこれらの試験中の解き方についていくらでも語れるのは、毎年毎年落としてはいけない受験生を落としてしまい、それを防ぐためにどんなことができたのか、どんな注意ができたのか、こちらにできることはないか、仮にあるとしてそれをどう伝えるべきか、といったことを必死に分析しているうちにノウハウとして積み上がったものであるのだ、と気づきました。
いわば、血塗られた技術、先人の失敗を何とか次の子たちには味あわせたくない、と悩み、考え抜いた結果蓄積されたノウハウであるのだと思います。

もちろん、そんなやり方を積み上げていき、目の前の受験生に、より的確で精密な指導ができようと、僕の力が足りずに志望校に落ちてしまった受験生たちに罪滅ぼしができるわけではありません。その罪は一生背負い続けるしかないことです。
しかし、その上で目の前の受験生にできることを探していくしかありません。

そのような「血塗られた」ノウハウで、残りわずかとなった国公立受験生との時間を、少しでも彼ら彼女らの合格へと近づけられるように、全力を尽くしていきたいと思います。

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内申点制度という暴力。

明日は都立高入試です。都立高校受験の内申制度ほど理不尽な制度はないと思うのですが、それに対してはあまり疑問を感じていない学校の教師や高校の教師が多く、その問題意識のなさにもびっくりします。結局中学校生活の内申で子どもたちの高校受験の選択肢を狭めさせることで何が可能になっているかといえば、それを材料として中学生をコントロールしたい、という中学校の教師の勝手な言い分を満たすことでしかありません。このせいで、たとえば優秀な生徒が集まる私立中から高校受験をしたいと思っても、内申点の必要な都立高は受けられない、ということになってしまい、そこで苦しんでいる子たちが毎年どれくらいいるのかを考えれば、暗澹たる気持ちになります。

「内申点は普段努力しているかの証!」と思われるのであれば、率直に言って甘いです。学校の先生が自分の感情を抜きにして客観的に生徒一人一人のパフォーマンスを評価できていると思いますか?「中にはそういうひどい先生もいる。」くらいならまだ良いのですが、かなりの確率で何かしら個人的な恨みでもなければこのテストの点数でこの内申はないだろう、というケースと遭遇します。中学校の先生たちは自分の授業を聞かない生徒がテストではしっかりできたとしても「授業態度が悪い」ということを理由に内申点を下げることができてしまいます。しかし、授業内容がわかっている子に授業の内容を聞くよう強制することは暴力でしかありません。そのような内申点による脅迫は生徒の奴隷根性を培う、という点では良いのかもしれませんが、人間を育てる教育ではありません。

このような問題点は自明であるのに、どの都立高校でも内申点を必ず選抜に利用しているというのが本当に飼い犬根性だなあと僕などは思ってしまいます。入試改革をうたって優秀な生徒を集めたいのであれば、まず内申点を入試の評価から外すことが一番効果的です。そのような内申点に苦しんでいる優秀な子は必ず一定層いるからです。その抜本的な努力もせずに、都立トップ校でもグループ作成校の問題を点数の取りにくい自校作成問題に戻しておいて「これで優秀な子が来る!」と喜んでいる校長とかは、知的な能力もちょっと疑わざるを得ません。7(入試問題):3(内申)の割合を変えずに、入試問題を点数を取りにくい難易度の高い問題にすれば、当然内申で勝負が決まってしまうわけですから(もちろん、内申点の点数割合を限りなくゼロに近づけた上で難易度の高い問題を出題するのはまだ理にかなっています。)。

自分たちが本来何と闘って何を変えるべきかを考えることなく、動かしやすいものだけ動かすことを「改革」と呼んで褒めそやしては、結局もっとひどい状態へと堕していってしまう、という日本社会がこの20年ほど陥っている失敗を教育においてもまた同じように繰り返してしまっていると思います。

だからこそ、こんな奴隷制度のような内申点制度に苦しんでいる全ての中3生に言いたいのは、「大学受験はこんな中学の先生の顔色を伺うようなくだらない入試ではなく、君が自分で努力したものがまだ問われる競争だ!」ということです。
もちろん、大学入試もまた推薦入試、AO入試、英語四技能民間試験の利用、とどんどんきな臭くなっていっています。
ここもまた、いずれ教師に従順な生徒しか合格しないような悲惨な制度へ移行していくこともまた目に見えています。
(現に文科省から大学の方にはそのような通達が出てきているそうです。。)
しかし、まだ大学入試は高校入試に比べればフェアな競争と、教師の顔色を伺うこと無く、自分の努力だけで
勝負できる部分が残されています。明日の都立高入試に複雑な思いで臨む子たちもまた、こんなくだらないシステムのせいで、君の将来を諦めてほしくない。そのように願っています。

その上で人間が実力だけで評価される社会を作れるように社会設計を我々大人が頑張らなければ、結局社会全体が
若い人々がやる気を失って海外に流出するだけではないかと思います。今まさにどんどん日本社会の地盤を掘り崩しているのは、教育に話を限れば、たとえばこのような内申点制度という暴力に疑いを持てていない教師や親、塾の教師の責任でもあります。様々な分野でこのように「自由よりは管理を」というシフトが起きていて、そのために努力が報われない社会になっていることが日本社会の活力を失わせていき、今やいつ滅びるかわからないけどプライドだけは高い、というどうしようもない「自称先進国」になってしまっているのだと思います。

このような理不尽な制度に負けずに頑張ろうとする中高生を、心から応援し、徹底的に鍛えていきたいと思っています。

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シーシュポスの岩のように。

私立入試も一段落しつつあり、いよいよ都立高入試、そして国公立前期試験が近づいてきました。
その最後の追い込みに受験生が来ている中、思いがけない見落としがないかどうか、こちらでもチェックしきれていないところはないかを絶えず考えては、受験生に鍛え残している盲点がないかを探す毎日です。

このようにどこまでも疑っていく作業、というのを共にやれるところまで、この一年をかけて信頼関係を築いてきました。
僕の提起する懸念が、単なる思いつきではなく、ここまでに一人一人の受験生を見てきて、その一人一人をよく知っているからこそ提起する懸念である、という信頼をしてもらえるからこそ、聞いてもらうことができます。その点では、このような幸せな関係、一人一人の合格にとって必要なことを僕が虚心坦懐に言っていると信じてもらえる関係、というのは今の受験生とはあと少しで終わり、また新たな受験生とそのような信頼関係を一歩一歩築いていかねばならなくなります。賽の河原で石を積み上げては…とかシーシュポスの岩のように…とは言いませんが、深い信頼関係に入っていった受験生とお別れし、また新たに一人一人と信頼関係を作っていく、というこの繰り返しは際限がなく、毎年毎年とても辛くなることもあります。

しかし、今までに構築できた信頼関係を受験生本人が合格できるためにどこまで費やすことができるのか、が塾の正念場です。残り僅かな日を、決して悔いが残らないようにしっかりと一人一人の盲点へと切り入り、徹底的に準備をしていきたいと思います。彼ら彼女らの考える「最適」が現実からずれないように、徹底的にあらゆるものを疑っては教えていきたいと思います。

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