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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

オッカムの剃刀。

昨日はセンター試験前日でさすがに戦場のように忙しく、ブログが書けませんでした。
出来る限りの準備はしたので、あとは今日明日と受験生たちが頑張ってくるのを信じて待つのみです。

教えるということは常にこちらの無力さを思い知らされる行為です。勉強の内容を正確に理解してもらうことももちろん大変ですが、それ以上に、一人一人が試験でうまくいかないことには、今までにその子が身につけてきた慣習の中に様々な要因が隠れています。その一つ一つを洗い出し、徹底的に疑い、その上で何がよりよいあり方であるかを考えていく、というのは本当に途方もない作業です。

全てを疑い、うまくいかないのはこれが原因ではないか、と特定することもまた極めて難しいのですが(それこそ眼鏡の度から、解くときの姿勢、鉛筆の持ちかた、視線の動かし方、手の動かし方、試験中に粘るか飛ばすかの様々な判断基準など多岐にわたります。)、より難しいのはそれに対する解決策の方です。

仮に「これがうまくいかない原因ではないか」と特定できたとしてそこで提案できる解決策は、その子にとって定着可能な解決策でなければなりません。たとえば二人の受験生が同じ理由で試験でのパフォーマンスが悪かったとしても、それに対する解決策は当然変わってきます。その子の解き方、考え方の傾向にとってその最善の解決策を「移植」することが定着しにくいと考えるときには次善の解決策、さらにそれでも難しい場合にはその次の解決策、というようになるからです。その子の根本的な傾向を出来る限り大きくは変えないで済むような解決策でなければ、それを導入しようとしても、結局定着せずに終わります。

その子がうまくいっていない原因はたいていその子の根本的な傾向から生ずる盲点に由来する以上、その子の様々な振る舞いの中で改善すべきところ、というのはたいていその子にとっては受け入れがたいところです。単純化して言えば、真面目な子にはいい加減さを、いい加減な子には真面目さを、要求するようなものです。

しかし、それを定着させていくためにはそのように本質的な傾向からは真逆だけれども、しかし必要なことがどのような形であればその子の中に定着しうるのかを探りながら教える側が考えていくことになります。これは別に受験直前の受験生の側に「受かるとしても苦手なことはやりたくない!」というわがままがあるというわけではありません(もちろん、そういう受験生も大学受験生ですら多々いることは事実なのですが…。)。仮に本人が合格するためにはそのような努力を全面的に受け入れる覚悟が(僕との信頼関係の中で)できていたとしてもなお、それを移植することが彼/彼女にとって根本となる原理を増やすことになってしまえば、返って失敗を招く可能性を増やしてしまうこともある、ということです。だからこそ、そのような一人一人の思考回路の中でうまく活きる形にカスタマイズして彼/彼女に足りないものをインストールできるかどうか、彼らの根本的な原理とできるだけ矛盾しないでかつできるだけ少ない原理を導入することで何とか結果を出せないかというところに教育者の腕の見せ所があると思っています(これが教育とは「オッカムの剃刀」的だなあと僕が感じるところです)。シンプルな原理原則に従う受験生の方が、必ず入試という極限状況においては力強いからです。そして、これが本当に難しい。毎年毎年、一人一人に対して本当に頭を悩ませながら教えています。

だいぶ教育論としてはマニアックな話になりました。今年のセンター試験もそのように苦心して教えてきたことを
少しでも受験生たちが活かせることを願っています。

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浪人制度を守ろう!

もはやテレビタレント化した東進ハイスクールの林修先生ですが、そうは言ってもコメントの一つ一つはそこそこクレバーさを失ってなくてかえって信頼を高めているからこそ、テレビ界でも、もちろん本業の方でも長続きしているのでしょう。林修先生は確かに的を外していないコメントが多いと僕も思いますし、その実力で稀有な立ち位置を維持されているのだと思います。ただ、そんな彼のコメントの中で、珍しく僕が全面的に違和感を感じるのは、「大学受験で浪人制度を禁止しよう!」という提言です。これに関しては僕は真っ向から反対です。

「高校の勉強なのだから高校3年間勉強すれば良い。浪人生はズルい!」という彼の主張は、それを阻害する様々な要因が高校生の外部にも現実にはあることを無視しています。たとえば高校生が部活を自発的にやっているかといえば、たいていの場合、「入ったはよいものの、あまりに練習が忙しく勉強もできずに、さらにはそこからやめようとしようものなら顧問に激詰めされる」というブラック部活が多いです。そのような部活に入ったら最後、高3の引退までは部活で忙しく定期試験勉強もおろそかなままに受験生になることになってしまいます。そのような受験生が「入れる大学に入れば良い」というのはあまりにも無責任な話です。(これは運動部だけでなく、吹奏楽部や合唱部などの文化系の部活でも強豪校は本当にひどいです。まるで生徒の将来に大学受験など一ミリも関係ないかのような部活三昧で高校生活を潰し、そしてその結果何も勉強ができていないことには責任はとらないわけですから)。

また、高校に通う間はバイトで家庭の生計を支えながら勉強するしかなく、浪人してから本格的に勉強して学費の安い国公立大に行きたい!という子もいます(塾でもそのような子を何人も見ています)。一人一人が高校3年間の中で十分な受験準備ができるかどうかにはこのように本人の努力以外の要素も必ず入ってくるのにも関わらず、高校3年間の努力だけで大学入学を決めてしまえば、それはやはり受験勉強だけに専念でき、さらには予備校や塾などに通い放題の裕福な層がその後の人生でもアドバンテージを維持できることになるでしょう。それを是としてよいのでしょうか。この問題に関しては、浪人制度を廃止するのは明らかに格差の再生産に繋がってしまうと思います。

このようにやむを得ない事情で高校生活の中で勉強ができない場合だけでなく、高校生が高校生活を自分の判断で勉強以外に費やしたとしても、それでもやはり僕は浪人制度の廃止には反対です。高校生活をどのように過ごしたとしても、一人一人にやり直しの機会があることが大切だと考えています。そのやり直しの機会を奪えばどうなるかと言えば、結局社会の中でいわゆる「高学歴」になる層がどんどん集団として多様性を失っていくことになります。それは結果として社会全体にとっても不利益でしかないでしょう。

たとえば現役で難しい大学に合格した人たちは浪人した人たちのことを「サボっていたんだから自業自得だ。」と今でも見なしがちです。今でもこのような偏見が強いのに、実際に浪人制度の廃止がなされればさらに、行く大学までが高校3年間の努力だけで決まってしまうことになり、当然上位の大学に入った学生たちが下位の大学に入った学生たちを見下すことにさらに拍車がかかることになるでしょう。そのようにして社会的分断は完成してしまうのではないか、と思います。

minorityに対するaffirmative action(少数派優遇措置)に対して一番批判的であるのは、self-madeな(優遇措置なんかなくても社会的に成功した)minorityである、という話は有名ですが、人間は自らの想像力の欠如から、自分の努力によって獲得したと信じているものに対しては横暴であり、他の人がそれを得ていないということはそもそも努力が足りなかったのだ、と類推しがちです(たとえば首都圏から東大に入るよりも地方からmarchに入る方が難しいと思えるくらい、勉強のための環境が日本国内でも格差があると思うのですが、そのように自己の努力の成果を客観視できる東大生は稀です。)。浪人制度の廃止によって高校3年間の努力だけで大学が決まることになれば、脇目も振らずに受験勉強だけをしてきた視野の狭い人間だけがその後のキャリアにおいても優遇を受ける、ということになってしまいます(もちろん今でもその傾向は強いわけですが一層助長することになります)。このような社会は決して望ましいものではないと思います。

自身の視野の狭さに気づき、凝り固まった自己の価値観を打ち捨てて一からやり直したいと思える瞬間こそが、人間の一番美しい姿であると僕は思います。迷いなく選ばれた「正解」になど、何の意味があるのか。だからこそ、そのようなやり直しの機会を多くの若い人たちから奪う浪人制度の廃止には、僕は絶対に反対です。

とはいえ、世の中の風潮は確実にそちらへと動いていっています。英語の外部入試導入もその一つです。また医学部入試不正でも明らかになったように高校の時の成績を入試に入れる、大学入試における高校の調査書重視を進めようとする文科省通達など、やり直しのきかない社会にしていこうという動きは最近どんどん強くなっています。だからこそ、やり直しのきかない社会へと変わっていこうというこの動きに、一つ一つ我々が異を唱えていくことが大切であると思っています。心から自らの愚かさを反省し、やり直そうと思う人々の意欲を削ぐような社会であってはならない。切にそう思っていますし、そのように頑張ろうとする子たちの拠点になれるように、嚮心塾ももっと努力を続けたいと思っています。

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人間は、直前まで伸びる!

今日はさすがに忙しく、「この期間毎日ブログを書くぞ!」という誓いがもう既にピンチを迎えているので、さらっと書ける教育のことでも書こうと思います。

勉強が間に合わずに苦しんでいる高校3年生に、学校の先生方が「現役生は最後まで伸びるぞ!頑張れ!」と励ますことが多いのでしょう。この言葉はよく使われます。この励ましの動機自体はもちろん素晴らしいものなのですが、この言葉が呪いのように浪人生を縛り、「浪人したってこれ以上伸びないかも…」「一通り勉強してきてしまったからもうあとは実力をキープするだけかも…」ということを言ってしまう受験生は多く、そのたびに僕は「そんなことない!」と言葉を尽くして説明をしなければならなくなります。

僕も長いこと受験に携わっていますが、もうこれ以上何を勉強しても点数が上がらない、という受験生には一人も出会ったことがありません。どのように優秀な受験生にも、必ず鍛えるべき弱いところがたくさんあり、それを鍛えよう、それが終わったらこっちも鍛えよう、とやっているだけでもあっという間に受験までの時間が過ぎていきます。だからこそ、「現役生は直前まで伸びる」のは正しいとしても、「浪人生も直前まで伸びる」も正しく、何なら「人間全て死ぬ直前まで伸びる!」がほぼ正解なのではないか、と思います。まずはこのことを強く訴えたいです。「これ以上勉強しても伸びない」というときは必ず、「全てやり尽くした」の「全て」を自分に都合よく解釈しているだけ、あるいは自分の弱いところは見たくないのでそもそも視野に入れないようにしておいて、それ以外の部分を「全て」と言っているだけだと思います。

もちろん、それを自分の力で見つけていくのは難しいとしても、見るべき人が見れば必ず弱点があるのだと思います。

裏を返せば、教師がやるべき仕事とは、そのような見落としがないかどうかを、どのようにできる受験生に対しても
最後の一瞬まで徹底的に疑い抜き、調べ尽くしていくことです。それはその生徒がどのような絶望的な状況においても諦めないのとともに、その生徒がどんなに模試やその他の材料が彼の成功を約束しているかのように見えているとしても、必死に疑いぬく姿勢を保たなければなりません。このような姿勢はときに、受験生本人からも嫌がられることもあるでしょう。人間は見たいものを見ようとするものです。自分が諦めたいときに、自分以上に自分のことを諦めない教師はうっとうしいものです。あるいは、自分が不安な気持ちを何とかゴマかして本番の入試をやり過ごしたいときに、徹底的にもっと鍛えなければならないポイントを探そうとし続ける教師もまた、うっとうしくてたまらないと思います。

しかし、です。入試には、あるいは現実には、と言い換えてもいいですが、決してごまかしがききません。自分の脳内で「こうあってほしい」と思うように現実が進むことのほうがありえないことです。だからこそ、そのどちらの態度をもとりながら、ときに受験生本人に嫌われながらでも、僕は最後まで何とか合格可能性を探るとともに、その合格可能性を徹底的に疑っていきたいと思っています。

人間は、直前まで伸びるのです。もちろん、それを誰に対しても全て実現できるほど僕には能力はありません。
しかし、それを最後まで決して諦めずにやるべきことを徹底的に尽くしていきたいと思います。
(ナメック星の長老のように、簡単にできたらよいのですが、実際には徹底的な試行錯誤とすべてを疑うことからしかそれはできませんので、恐ろしく地道な作業です(もっともその後修行して悟飯やクリリンももっと強くなったわけですから、ナメック星の長老も僕と五十歩百歩かもしれません。体型は間違いなく五十歩百歩です!)。そういえば、過去にはメガネの度が合っていないことを見抜くことでセンター試験直前に点数が上がった受験生もいました!)。

ここからはセンター試験、高校推薦入試、私大入試、中学入試、私立高校入試、都立高校入試、そして国公立大学入試と息をつく暇もないのですが、最後まで「人間は、(死ぬ)直前まで伸びる!」と言い続けて努力していきたいと思います。

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マタヒバチ『ホワイトゴーブラックバババーン』の感想

今更ながらの感想なのですが、昨年10月に井の頭公園で劇団マタヒバチの『ホワイトゴーブラック ババババーン』というテント芝居を見てきました!
マタヒバチ自体は過去のどくんごツアー参加者の役者さん達が所属しておられるということで、存在はずっと知っていたのですが今年初めて見させていただきました。

本当に楽しく、またすごく作り込まれていて本当に素晴らしいお芝居でした。とにかくセリフがとてつもなく多い!それなのに頭で考えるというよりはしっかりと目の前の芝居を見させてもらえるような身体がしっかりしていて、それに感心させられました。また、一つ一つの場面を楽しめるように、ということだけでなく、縦糸としてのストーリーがあり、そのことから生まれる緊張感や風刺というものも感じさせてくれる芝居でした。

僕はどくんごばかり見ているので、いわゆる「ストーリーを追っていく芝居」というのにはあまり興味がなく、まあそれを見るなら本を読めばいいや、となってしまうので、マタヒバチも見る前は楽しめるかどうか心配だったのですが、一つ一つの場面がしっかりと工夫が凝らされていて。それら一つ一つの場面が、ストーリーや設定を忘れさせるほどのインパクトがあったと思います。その点ではどくんご好きの方は必ず楽しめると思います。

一方で、かろうじてつながっていく縦糸としてのストーリーや設定が批評性をもっているところもまたよいと思いました。説教くさくなく、しかし、しっかりと毒がある。見ていて楽しいだけでなく、何か後にひっかかりを残すような芝居になっている。それは縦糸があるからこその仕掛けであり、そのような独自性を追求するチャレンジングな取り組みに勇気を持って踏み込んでいて、それもまた本当に素晴らしいとも思いました。

マタヒバチの芝居を見て考えさせられたのは、物語やセリフが批評性をもつとき、観客から見て役者と自分との同一視がどこまでできるかどうかが、その批評の刃が自分に向くかどうかを大きく分けるということについてです。もちろん、ここでいう「同一視」とは完全に一体とみなすことではなく、同一の部分を見つける、ということです。共感する、と言い換えてもいいかもしれません。演者のセリフの中に、観客が自分自身を見いだせなければ、そのセリフの批評性は結局閉じた批評であり、観客自身を刺すものにはなりません。一方で役者に自己と同一の部分を見つけるためには、役者に感情移入しなければなりません。

だからこそ、批評性を持つ、考えさせる芝居が正しく機能するためには、実は共感を生むための(広い意味での)装置がなければならないと思います。マタヒバチの一つ一つの場面は本当に面白かったのですが、いくつかの場面では「面白い!」が共感へとは繋がっていきにくい気がしました。それ故に虚構の中に自分たちが身につまされる共感できる部分を見つけ、そしてそれがさらに批評をより痛切なものにする、というその一連のダイナミズムが少し弱いかな、と思ったところもあります。もちろん、これはとてつもなく難しいことです。どくんごはまさにそのような共感を誘発する装置としてとてつもない域にあると思いますが、それでも批評性をあの中にテキストとして入れようとすると、とたんに難しくなってしまうようにも思います。

登場人物に観客が共感できるか、ということを言い換えれば、登場人物の感じている必然性が観客に伝わるのか、ということでもあると思います。今年のどくんごで例を出せば、「行かなければ!」という言葉の必然性が最初は滑稽に聞こえながらもだんだんと哀しみと共感を喚び起こしていくように、です。文脈がないからこそ共感ができる場面はどくんごの真骨頂ですが、文脈を作ることで全体的な批評性が強くなったとしても共感は遠のきがちである(それもマタヒバチのあの熱量と密度をもってしても、です。本当に一人一人の役者さんの熱量も力量も半端なかったです)、というのは本当に難しいところだな、と強く感じさせられました。

ごく個人的な意見を言えば、僕は批評性をテクストやストーリーそのものに求めなくても良いのかな、と思っています。いやもちろん、批評性があることそのものは極めて大切です。政治運動や社会運動から切り離された芸術がもはや抜け殻としてコンテンツとして消費されるしかないのと同様に、批評性をもたない演劇、というのはもはや何の意味もないわけです(それさえあればよい、というわけではもちろんないです)。これはまた「全ての良い音楽は(社会に虐げられる側の苦しみを歌った)ブルースでなければならない」(by忌野清志郎)とか「全ての文学は虐げられる側の苦しみを描いている文学でなければならない」(by 太宰治)とかと同じことです。

一方で共感がただの共感で終わらずになぜか批評性を帯びていく、という瞬間は確かにあるわけで、それは決してテキストやストーリーを突出させない創作においてもまた可能であるのでは、と思っています。もちろんそれはとてつもなく難しいことであるとは思うのですが。(これは芝居に限らず人と人が接するときは常に難しいですよね。。伝えたいことを受け取ってもらうためには共感可能になってもらわなければならない。一方でそのような状態というのは批評に開かれる関係性にはならずに、むしろ批評を排除する関係性になりがちです。「言葉が必要ない関係性になるのは、言葉を伝えるためだ!」と思って僕も毎日もがいているのですが、長い時間生徒たちと接していてもなかなかに難しいです。それを一つの舞台の中で「できるかも!」という瞬間が作れているだけでもどくんごやマタヒバチの芝居の凄さがよくわかります。)

ともあれ、とてつもない量の試行錯誤の末に練り上げられていることのよくわかる、本当に素晴らしい舞台でした!もっと何回も見たかった!何より、本当に難しいことに必死に取り組んでいこうとしているという点で、ずっと応援し続けたい劇団だと思いました。また来年も是非見に行きたいと思います!

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裏切られ続けるために。

教育にとっていちばん大切なのは、教える側が裏切られ続けることだ、と思っています。裏切られる、とはつまり子どもたちのためにどこまでも徹底的に準備や努力を尽くし、思いを尽くし、そのうえでそれを彼ら彼女らの弱さ故に踏みにじらせていく、ということです。

もちろんその中には故意に踏みにじるという、養子が受け入れてくれた養父母に対する示すような愛情確認行為もあるかもしれません。しかし、殆どの場合、故意に踏みにじろうとするまでもなく、教わる側は教える側の思いを自らの弱さ、情けなさ故に踏みにじってしまうものです。僕自身もそのような苦い経験が過去にあります。そして「そのように必死に用意してくれたものを自分は踏みにじってしまった」という苦い思い以上に、その後の自己を鍛えてくれるものはありません。

だからこそ教師は目の前の生徒たちが自分の努力を軽い気持ちで踏みにじる、まさにそのときのために全てを徹底的に準備していくのです。そのように踏みにじることが自分の弱さ、愚かさ、準備や覚悟の足りなさゆえであることを彼ら彼女らが真に学ぶその日のために。これはまた本来親も同じでしょう。踏みにじられるために、思いやれるかどうか。踏みにじられ続けることに倦まずに、思いやり続けられるかどうか。そこに教育への覚悟が問われ続ける、と言ってもよいでしょう。

それは即ち、「罪」の概念を神や社会規範から切り離す、という営みでもあります。「人間に原罪がある」などという突飛な前提を外部の権威を導入してとりいれることもなく、あるいは社会を維持するためにという社会の成立を前提とすることで人間を社会に従属させるのでもなく、しかし「罪」は、人と人との関係性を通じて個人が人間性を形成する一つの契機になります。自分が他の人の思いやりを自分の弱さ故に踏みにじってしまった、という思いほどに反省する機会はなかなかないからです。親子では距離が近すぎてなかなかにそのようなきっかけを作ることが難しいからこそ、教育にはその可能性があります。だからこそ、教える側に立つ我々はどのように裏切られようとも、こちらから見放すわけにはいかないのです。(この辺りはドストエフスキーの『罪と罰』は確かにわかりやすい作品だと思います。ドストエフスキーは彼の作品群を通してキリスト教精神を小説にしようとしたのではなく、人間性にまつわる最も深い部分をキリスト教から取り戻し、それ以外の言葉を探ろうとしたのだ、と僕は解釈しています。)

まあ何が言いたいかというと、朝が苦手なセンター試験直前の大学受験生が朝から勉強できるようにするために正月明けから毎朝8時に塾に来ているわけですが、何回も寝坊され、今日もまた2時間も遅刻された、というお話でした。それでもまた明日、僕は朝8時に塾にいようと思います。

根本敬さんの紹介してくれた、「でもやるんだよっ!」の精神ですね!頑張ります。

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