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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

受験は、死に似ている。

この時期は受験生とのやり取りが濃密なので、実は一つ一つエピソードを書いていくとなると、一日10本くらいは書けてしまいます!(大河ドラマ化決定!?)なので、惜しいながらもさすがに全てをブログに書くわけに行かないのですが、昨日の話を。

しっかりと頑張っている受験生ほどに、自分がしっかりと頑張るために外部からの情報をシャットアウトしようとしたがりがちであることは前にも書きました。それがあるポイントをすぎると、今度は僕への質問が減ってきます。なぜなら、「自分の勉強で足りないところは自分で把握している。だからそれを埋めることが最優先で、そこで先生に聞くことなど一つもない!」というように考えるからでしょう。昨日もそのように頑張っているからこそ視野が狭くなってしまっている子から、勉強の進め方について質問が出るかな、出るかな、と思いつつ出ないままに塾を閉める時間になってしまい、その子が帰ろうとするので、「何か聞きたいことはないかい?」と聞いてみました。すると、「あるのですが、今日はもう遅いので明日にします。」といってサラリと帰ろうとしたので、むんずと引き止めて(比喩です)、「それがいけないのだ!」ということを叱りました。

そこから彼の具体的な勉強の進め方の悩みを聞き、それについてどうすべきかを指示したあとに、「正しい方向に勉強しなければ、結局努力が全て徒労に終わってしまう。特に直前期にはそれで貴重な時間がどんどん減ってしまう。また、ここまで一通り勉強してきて、できるようになっている部分も多いからこそ勉強する内容によっては勉強時間が徒労に終わる。直前期だからこそ勉強の方向性に対しては丁寧に聞いていかねばならない。」という話をしました。

そこからさらに、「そもそもそれは塾が終わる直前に気づいたことではなく、もっと早く相談したかったことなのでは?」というところから、「それを早いうちに腹を割って相談できないところに君のもつ個性の限界がある。人間には様々な個性があって、ある方向へと有用な個性も別の方向へは有害だったりする。だからこそ、自分がどのような努力を惜しまないのかだけではなく、どのような努力は出来る限り避けようとするのかについて考え、疑っていかねばならない。君が努力を惜しまないことについては君の個性は有用だけれども、一方でその努力を他者へは開こうとしないこと、その努力が方向性を違えていたとしても気にしようとしないことは、君の個性がその限界を露呈しているんだよ。そして、『100%合格する』ためには、自分ができる努力だけではなく、自分にとって苦手な努力をも避けずにやっていかねばならない!」という話をしました。大分スッキリとした顔でその受験生は帰れて良かったです。

塾に何年か、あるいは何ヶ月かでも通ってもらって僕との間に信頼関係を作っていくのはすべて、このような瞬間のためでしかありません。彼ら彼女らにとって見えにくい、手が届きにくいような、自身のpersonalityが阻害する類の努力を僕が提案して伝えられる瞬間のためにこそ、他の全ての地道な作業を一つ一つ紡いでいくことになります。逆に言えば、このような「無茶な」メッセージ(受験前で必死に努力している子に「君の努力は足りない!」と言っているわけですから。)が伝わる瞬間にこそ、僕は人間の可能性を強く感じるのです。

人間は(もちろん僕も含めて)どうしようもなく愚かであり、自分の見たい現実ばかりを見て、見たくない現実からは目をそらして生きています。他の人には見えないような世界を覗いているはずの「専門家」ですら、自分が一つの見えない世界を覗けていることにあぐらをかいて、自分が見たくない現実からは目を背けているかもしれないと疑えずに自分の判断能力を盲信しがちです。そのような中で、それでも受験という自分のこれまでのすべてが否定されるものの前では、人間は謙虚になることができる。そこにこそ、人間の可能性がある、と僕は思います。

「受験は死に似ている。」とかつて、塾生が言ってくれました。この言葉は僕自身も高校生のときに自身の受験で強く感じていて、僕の恩師が話してくれていたことだったからこそ、彼がそのように言ってくれることはとてもうれしいことでした。このことは別の卒業生・元講師も書いてくれていましたが、どうにもごまかしようのないものの前に、人間はごまかすことを諦め、謙虚にならざるをえないという点で、受験と死は似ている、と僕は今でも思います。

だからこそ、受験直前のこの時期の受験生とのコミュニケーションは、そのようなごまかしようのない終わり、虚飾を許さない終わりに対して自らの至らなさをどこまで乗り越えようとしていけるか、という緊張感をはらむものになります。それを少しもムダにしないように、彼ら彼女らの乗り越えるべき課題に切り入れるように、最後まで全力でもがいてぶつかっていきたいと思います。

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絶望をする前に。

入試において一番大切なことは、絶望をしないことです。
過去には(2日制の入試で)「もう今日の試験で失敗したので、明日は受けずに東京に帰ります。」という生徒を2年連続で電話で必死に説得して、次の日の入試を受けさせた経験もあります(しかも二人とも阪大医学部に受かりました!)。

このように明確に言葉に出してくれればまだこちらも対処のしようがあるのですが、ある教科の試験ができなくて、もう無理だと落ち込んでしまい、そして次の教科に対しては全く集中ができずにボロボロになってしまう、ということはどうしても毎年起きてしまいます。

それを防ぐためには、「最後まで諦めるな!」とか「受験は最後まで諦めない受験生が合格する!」と言い聞かせるだけでなく、まずは生徒たちに、より正しい現実を認識できるように鍛えていく必要があります。

即ち、自分がある教科をできなかったとしてその理由は
①その教科のテストが難しい。
②難しくはないが、自分が失敗してできなかった。
③難しくはないし、失敗をしてもいないが実力がなくてできなかった。
の3つの場合があります。

①の場合には、自分ができないことを全く気にする必要はなく、みんなもできていない以上、この次の科目で頑張れば
それで合格に近づくことになります。
②の場合には、そこで他の受験生と比べてビハインドはできてしまいましたが、しかし、それをクヨクヨしても失敗した教科の点数が上がるわけではないので、次の教科のテストの準備をしたほうがよいことになります。
③の場合には、そもそもどの教科も自分の実力が足りなくて受けている受験生は元からサボっている受験生ですから、何かしらできる教科があるはずです。先程できなかった教科が終わった状況で残っている教科は自分にとっては比較的得意な教科である可能性が高いのですから、次の教科のテストに集中すべきです。

このように、どの場合であったとしても、この状況でやるべきことは、「次の教科を頑張る」ことでしかありません。それが自分の中でどれほどあたり前のこととして定着しているかによって、このような状況での対応力が変わってきます。

とサラサラと書いてきたのですが、では嚮心塾ではそれをしっかりと説明しているから、そのような絶望は起こりにくいんですね!と言われると、自信のないところです。人生がかかる場面で失敗をしたときに、その延長線上で悲観に陥ることの方がはるかに楽なので、どうしてもそのように受験生はなりがちです。失敗をしたときこそ自分を俯瞰することが大切だとこちらが口を酸っぱくして何度も説こうとも、本人が絶望したければ絶望をしてしまいます。そこからどう抜け出してもらうか、そのための必死の説得を何年もやってきてはいるのですが、それでもなお、うまく伝わる場合と伝わらない場合とがあります。

ただ、うまく伝わる瞬間のためには、先に上げたような頭で理解できる説明の仕方だけではなく、こちらが本気でその子の人生に良かれと思ってそう言っているとが伝わることが最低限必要だとは思っています。つまり「絶望するな。」という言葉が、「絶望しないほうが合格する!」を越えて「(僕が諦めていないのに)君が勝手に絶望するな。」という意味になっているかどうかが勝負である、ということです。その理不尽な指摘が、理不尽ではないと思えるほどに教えている側と生徒が同じ目標を持てているかどうかが鍵であるように思っています。

魯迅の言うように絶望も希望と同じく、虚しいものであることはおそらく事実であるのでしょう。
でも、そんなことはみんななんとなくはわかっていて、それでも絶望をしたいのは、絶望をした自分でも共感されるかどうかを確かめたくなるからでしょう。だからこそ、「絶望をしない!」と決意することは自身が人生の受け取り手から、能動的に生きる主体になることであると思います。しかし、その最後のひと押しの、全面的に自分の人生を引き受ける瞬間には教育という行為の働く余地があるのでは、と思ってこの仕事を続けているわけですが、まだまだそう簡単にはできず、なかなかうまくいかないことばかりです。ただ、最後まで諦めないように取り組んでいきたいと思います。

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練習は試合のように、試合は練習のように。

高校生の時に部活の顧問の先生から読め、と言われた本にビル・チルデンの『ベターテニス』という本(今は絶版のようです)がありました。この本の内容は何一つ覚えていないのですが、唯一覚えているフレーズとしては、「練習は試合のように、試合は練習のように。」というフレーズでした。これは受験指導には大変重宝させてもらって今でもよく使わせてもらっています。

「練習は試合のように」というのは、練習のときこそ試合のように必死にやってこそ初めて実力がつく、ということです。「どうせ練習だし、少しミスがあってもまあいいか。」と思っていては、力などつきません。そうではなく、練習の時の一つ一つのミスをどこまで突き詰められるか、そのミスを減らしていくためにはどのようにすればよいのかを絶えず考え続けることでテニスが上達する、ということです。これはテニスに限らず、受験勉強でも何でも同じだと思います。

「試合は練習のように」というのは、試合の時は「試合だから頑張る!」ではなく、普段の練習と同じだと思ってリラックスすると力を出しやすい、という話です。これもまさに受験にもあてはまります。試験会場で何とか頑張って良い結果を得ようと思えば当然うまくいきません。そうではなく、普段の練習と同じだと思って「いつもできていることをここでやるだけだ。」と思えば、力を出しやすくなります。
25年以上前に読んだワンフレーズしか覚えていない本の、そのワンフレーズを毎年繰り返して言っているというのも本当に面白いものです。

まあ、なぜこの話を書いているのかというと、朝弱い受験生が勉強できるように、毎朝早くから塾を開けているのですが、
それはさんざん寝坊されすっぽかされるのに、そのような受験生も受験当日は絶対に寝坊しないことからも、結局言葉で言うのは簡単だとしても、この意識の徹底が難しいのだな、と改めて思わされているからです。

結局「日常生活はありふれていて注意や緊張など必要のないものでできている」というように仮定しなければ人間の精神がもたない、ということがフェイルセーフのように先に存在しているのです。それ以上は自己を変えられないか、そこまで変えようとし、コントロールできるようになるかで、その子が将来一流になれるかどうかが変わってくるのでしょう。一日一日を注意や緊張を込めて生きるのでなければ、それは自分の人生を(ベルグソンの言うように)質から量へと貶めているのだ、と生徒たちに伝えるために、最後までもがき苦しみたいと思っています。

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私愛について。

今年(2019年)のセンター試験の漢文で杜甫にまつわる文章が出てきて、その文章の受験生への解説の中でどうしても「私愛」という言葉の意味がわからない、という話になりました。

杜甫が病弱なのは家の中で住む部屋の運気が悪い、ということで叔母の子と場所を交換してもらった結果として、杜甫は生き残り叔母の子は死んだ、というその話は、果たして叔母の愛情が深いといえるのか。むしろ、我が子に対する酷薄さではないのか。具体的には引き合いに出された魯の義姑の行いですが、自分の子の命よりも兄の子の命を大切にすることがなぜ「私愛を割(た)つ」こととして賞賛されるのか、ということがなかなか受験生には理解しにくいようでした。

僕は次のように説明しました。

「愛情は常に偏る。自分の近しい人は猫っ可愛がりをしていても、遠くの人間が苦しんでいたり、死んでしまおうとも自分の家族、親しい人さえ幸せであればそれでいい、というように人間はどうしても考えてしまう。だからこそ、そのように人間の愛情というものは近視眼的に近くの人間しか愛せなくなるようなエラーを常に引き起こすものとしてそのような偏りを恐れる、という思想が人間の歴史にはずっとあった。それがこの文中で言う『私愛を割つ』だし、キリスト教で言う『隣人愛』などもそうだ。キリスト教もマタイの福音書とかを読めばわかるように、いかに「家族への愛」というものと戦おうとしたかという思想だ。それほどに人間は家族への愛情(「私愛」)の前に屈服する歴史をずっと繰り返してきた。しかし、今やキリスト教さえも、『親と子の間に剣を投げ入れる』本来の意図はすべて消毒されて、家族で仲良く日曜日に礼拝に行くことによって無毒化されているんだよ。」と。

もちろん、我が子を犠牲にすることがより崇高な愛であるわけではありません。どちらも大切であるのです。しかし、我が子と兄の子、あるいは我が子と他人の子の危機を目の前にして、当然我が子を助けるのではやはり、人間として疑いがなさすぎる、と僕は思います。私達が我が子を愛するこの思いも、種の保存のためにプログラムされた一つの恣意的なシステムにすぎないのかもしれません。危機的状況を目の前にして我が子と他人の子とどちらの命を助けるかをまず僕自身が迷い続ける人間であり続けたいし、塾の子たちにもそこで迷える人間になって欲しい、と思っています。(以前もこのようなものを書きました。)

もちろん「私愛を割つ」ことが家族愛より至上の道徳であるかのような価値観を流布すれば、それもまた可能にはなります。しかし、それは単なる支配的価値観の上書きでしかない以上、それに基づいてなされる全ての行いもあまり価値のないものです。「私愛」とは「偏りのある愛」だそうです。自らの愛が偏っていないかどうかを常に疑い続けるのでなければ、愛は容易に硬直化した道徳へと置き換わり、そしてその道徳はまさに愛を殺すためのツールになります。硬直化した道徳を乗り越えるとき、生物種の維持のために必要な社会形成の潤滑油としての道徳を乗り越えるときにこそ、人間の愛情にはその存在意義があるからです。そのようなことが少しでも生徒たちに伝わればよいな、と思います。

教育に携わる、というのは日々各ご家庭の私愛と向き合う、ということでもあります。入試前日の、受験生の人生の掛かった勉強よりも、大して緊急ではない自分の子供の勉強を優先して見てほしい、という私愛に絶えずさらされ、そのリクエストを満たさなければさっさと見捨てられることも多いです(嚮心塾では体験入塾期間だけいい顔をして「入試直前でも入試関係ない子をじっくりとつききっきりで教えるよ!」という指導は致しません。それは詐欺にあたると思うからです。日常の塾では受験間近には当然受験生を優先しますし、それに納得して入っていただきたいと思っています。)。自分の子の受験には大騒ぎをするのに、そのように今しんどい中でもがき苦しんでいる「他の子の受験」については想像力を働かせないご家庭が多い中で育った子どもたちは、やはり「私愛を割つ」必要性というのは理解しにくいのでしょう。だからこそ、少しでも僕自身の取り組み方からそれが伝わるように、必死に努力を続けていきたいと思います。

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「合格しよう!」と思うな。タスクフォーカスの大切さについて。

昨日でセンター試験が終わりました。結果が良かった受験生も悪かった受験生もいますが、いずれにせよそのことを引きずっていても意味がありません。まだできること、次にできることに集中していくことが大切だと思います。

前号くらいの『ハイキュー』(大人気のバレーボール漫画です!)にタスクフォーカスの話が出ていました。これは「自分にコントロールできないことまで含めて良い結果を出そう!」と考えれば、当然迷いや悩みが増えることでパフォーマンスが低下して、結局結果も出せなくなる、という状況を避けるために、自分がコントロールできることに集中する、という意味の言葉です。(古くはイチローさんがよくこのような内容を話していました。「首位打者をとれるかどうかは自分にはコントロールできないことなので、自分が今打てなかった球をどのように打つかだけに集中している。」という一見そっけなく聞こえるあのコメントが、タスクフォーカスの好例でしょう。)

そしてスポーツと同じく受験においてもこのタスクフォーカスが重要です。「合格しよう!」というよくある意気込みは、受験における合格が他の受験生との相対評価であることを考えれば、自分にはコントロールできない状況までを目標に含めている、という点でタスクフォーカスができていないわけです。そのように目標設定をすれば、当然当初の目論見からのズレに対して精神的に修正が効かなくなってきてしまいます。

では、「自分は良い点をとろう!」はタスクフォーカスできているのでしょうか。それも違います。受験は相対評価であり、自分が良い点をとれなかろうと、他の受験生と比べてそこそこであれば合格できます。
そして、大学受験においては問題の難易度を大学の先生が「間違える」ことは多々あるので、
自分が全然できていなかったとしても、他の受験生ができていなければ合格します。
それなのに「良い点をとろう!」という目標をもってしまっていると、現実の試験でそれが実現できなそうになったとたんに諦める気持ちが生まれてきます。その諦めの気持ちがあるせいで、その後頑張ればうかっていたとしても、
結局粘れず落ちてしまうことになります。

だからこそ、受験においてのタスクフォーカスした目標設定とは「自分にできる問題は見逃さないようにしよう!」ということです。実力があれば、それができれば受かります。それができてもなお、不合格になるとすればそれは自分の実力が足りないからであり、自業自得です。自分の実力以上に出して合格しようと思うことがすべての間違いであるのです。

と、口で言うのは簡単です。それを自分の人生がかかった大勝負のときに、それができるようにするためには「自分にできる問題は見逃さないようにしよう。それがしっかりできて落ちたなら落ちてもしょうがない。」と受験生本人が心底思える状態にならねばなりません。そのときに一番障害となるのが「何とかして受かってほしい」という周囲の期待と「受かって早く受験を終わらせたい」という受験生本人の願望です。もちろん受験生本人はそのような願望と常に戦わざるを得ません。だからこそ、周囲の期待を受験生本人に伝える(言葉で言わなくても、お守りを渡す、とか無言のプレッシャーはありますよね。。)のは愚策中の愚策であるのです。

「合格するための一番の近道は、合格しようと思わないこと。」などとまとめると禅問答っぽいのですが、これはタスクフォーカスという観点から見ても正しいといえるでしょう。

さて。終わったセンター試験の点数は良かろうと悪かろうと、今さら変えることはできません。
それについて悩んだり、もっと取れていればと悔やんだり、あるいは良い点数で喜んだり、というその全てが
自分がこれ以上コントロールできないことに思考の対象を向けている時点で、やるべきことをやれていない、
タスクフォーカスができていない状況だとも言えるでしょう。だからこそ、これからできることに目を向けて
そこに時間を必死に費やしていくことが大切です。

どのような絶望にも、最終的な絶望などはありません。絶望のその先にこそ、可能性がある。
それを見逃さないように、前を向くことが大切です。一人一人の受験生がそのように思えるように、
こちらも全力を尽くしていきたいと思います。

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