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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

お久しぶりです。

お久しぶりです。忙しいから書かない、というよりは書きたいことがあまりにも溜まりに溜まってしまい、結局それらをまとめて書くには時間がかかりすぎる、というところから書かなくなる、ということになってしまっていました。そうこうしているうちに年末に。本当に毎年毎年、早いものです。つもった塵をはらうように、小文でも書きます。

ソクラテスが「私にとってダイモンの声は常に肯定ではなく、否定の声として聞こえた。」ということを言っていた(とプラトンが書いていた)り、ニーチェが「もしあなたの主張を変えなければ命を奪う、と脅されたのならば、さっさと主張を変えれば良い。その主張はあなたの命には値いしない。しかし、もしあなたが自分の主張を変えたいと思ったとき、それを変えたら命を奪う、と脅かされたなら、それは変えねばならない。それはあなたの命に値いする。」などと書いているのはつまり、人間にとって何が正しいかというのはよくわからないし、そもそも「正しい!」と思っているものもだいたいは錯覚だったり思い込みだったりするのですが、「これは間違っている!」という意見というのはだいたい本当に間違っている、ということを言いたいがための言葉であると思っています。

そこまでは自分でも若い頃からわかっていたつもりだったのですが、ただ、「常に否定の声しか聞こえない」という事実のしんどさにはこの年令になってようやく気付かされた、というところがあります。つまりそれは正しい答を一生得られない、ということです。たとえば彫刻家が一生を通じて必死に作り続けていったとしても、何が創作の秘訣であるかはわからずに、どのようにしてしまえば自分の創作がダメになるかしかわからない、ということです。それはジャコメッティじゃなくても「1000年生きたい。1000年生きれば、私の彫刻も多少はマシになるのに。」と言いたくなる、というものでしょう。

かといって、「これが創作の秘訣だ!」と抱え込んでしまえば、それはそれで有効期限が切れ、形骸化した「秘訣」を後生大事に抱えて生きるという過ちを犯し続けることになります。

これは芸術家だけの問題ではありません。職人や料理人、その他の道を極めようとするあらゆる人々にとって、ある意味絶望です。一生明確な答は得られないままに、しかし、自己の「失敗」のみを死ぬまで認識し続けていかなければならない、ということであるからです。これはしんどい。しかし、かといって自分の営みの「成功」の側面に目を向け続けていれば、とたんに自分の営みの失敗を知らせる「声」は聞こえなくなっていきます。

大切なのは、自分の営みや作品がいかに不完全で失敗だらけであるかについて、どこまでも耐え抜いていきながら、少しでもまともなものにしようと努力し続けることです。それが唯一の「声」を聞き続ける道であるように思います。

僕自身、そのように自らの努力が不完全で失敗だらけであることを絶えず思い知らされる毎日はいいかげんウンザリしているわけですが、しかし自分ができている面に目を向けてそれが見えなくなるよりは、それが見えてはどのようによりよくしていくかを必死に悩む毎日であることを諦めないように、日々頑張っていきたいと思います。

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