
どくんごにハマってしまった結果として、東京受け入れのメンバーの一人となりました!
そして、関わりが深くなればなるほど、どくんごの感想が書きにくくなります。それは、何も「身内だから欠点に言及しにくい」という理由ではなく、どくんごを構成しているのは舞台の上だけではないことがあまりにもよくわかってきてしまうからです。場所取り、宣伝、旅の道中、テントの立て、公演、打ち上げ、そしてバラシと、その全てがどくんごの重要な要素である以上、舞台についてだけを書けば、どうしても「片手落ちどころではない!何も書けていない!」という気持ちになってしまいます。
だがしかし!深く知れば知るほど舞台の上だけで終わらないどくんごが、最も大切にしている舞台について感想を書かない、というのではやはり駄目だと思うので、今年も頑張って書きたいと思います。
今年のどくんごは、序盤の繰り返しがとにかくエグかったです!「どくんごとはこういうもの」という意識があるからこそ集中して聞いていこう、となるわけですが、初見の方とかはあそこでうんざりしてしまう方もいるのでは、と見ていてちょっとハラハラしました。
しかし、その「繰り返し」もよく聞いていくと完全な繰り返しではなく、微妙に内容が違っていたり、さらには発話者が変わったり、一人から全体へと共有されていったり、とそこで様々なバリエーションが生まれています。それを見ている我々は、段々とその繰り返しの差異に気づけるように、集中して聞いていくことになっていきます。
それは他のシーンでの一つの擬態語・擬声語が様々な意味で使われていること、あるいは複数のシーンで同じ名称が様々なものを表す(あるいは、それが同一の人物?だとしたら…という妄想を開いていく)ことに使われていることなどからも、そのように考えさせるきっかけを散りばめていきます。
「一つ一つのシーンに意味などありません!いやいや、意味などありませんってば!」と劇団に断言されながらも、そのような差異に、あるいは同一性に気付かされる私たちは、自然にそれらに意味を見出したり、立ち止まって考えたりという引っかかりをたくさん浴びることになります。それはやがて、私達の中に話を聞く姿勢、吟味していく姿勢を準備していくことになります。それはまるで長く一緒に暮らしてきた動物たちの鳴き声に我々が「感情」を見出すように、あるいは赤子の意味不明の声に、我々が感情やメッセージを見出すように。
言語の論理構造だけから意味が生まれるのではなく、そこに込められる思い、声、身振り、表情、その他のものから私たちは意味を汲み取るように、私達の感覚はどくんごを観ている間に解放されていきます。そして、意味などわからなくてもなんとなく心にひっかかるものが確かに役者さんの熱量で私達の目の前に現れたとき、日常生活の中で意味を追うことに倦み疲れた私たちはまた、意味を考える意欲を回復させられます。
殆どの大人たちは「世界が不思議に満ちている」という感覚(センス・オブ・ワンダー)を押し殺して生きているものです。というよりは、「世界が不思議に満ちている。」という感覚にどれだけ背を向けられるかが、「大人」の定義とでも言えるでしょう。「理解可能なものからしかこの世界が成り立ち得ない」という立場を大人たちが固めていくのは、怖いからでしょう。自分にはわからないものが確かに存在していて、そこには素晴らしい価値があるかもしれない、と思うほどに、有限な自分の人生においてはその素晴らしい価値を気づかずに死んでいくのは怖くてたまりません。だからこそ、大人たちは「自分にわからないものには少なくとも価値はない!」という立場を取っていくことになります。そして「自分に理解できないものの意味を考える」ということを止め、「自分に理解できるものだけが意味がある(つまりは考えないように生きる)」という繰り返しで、生涯を終えることになります(研究者や芸術家は違う、と言えたら良いのですが、研究者も芸術家も自分が思考を停止しない分野を狭く区切った上でそこに関してだけはそうしているだけなので、基本的には同じだと思います)。
一方で、子どもたちにとっては最初、この世界には「理解できないもの」しかありません。だからこそ、子どもたちは「理解できないけれども、でも相手が真剣に発話したり提示しているもの」を、懸命に反復しては理解しようという試みを、決して怖がりません。理解できないものだからこそ、その意味を考える。もちろん、考えてもわからないことも多いでしょうが、それでも意味を考えることを無駄だとは思わないものです。そのような子どもたちを、大人がどれだけダメにしてしまっているか…について語ると教育論になってしまうので、ここでは書きませんが、だからこそどくんごは子どもたちにとってはその「世界は不思議に満ちている」という感覚からすれば、ぴったりとハマるものであるのです。
そして、どくんごの凄さは、そのセンス・オブ・ワンダーを大人の中にも回復していくことです。いやいや、観たって意味なんてわからないんです。初めて観たとき僕も後付けで初めて観たときから偉そうに感想を書きましたが、しかし、意味なんてまあわかりません。けれど、強く心に残るものがある。それもひねくれ者の、大人の権化であるような僕ですらです。すると、「これは何だ…?」とまるで赤子のように、センス・オブ・ワンダーが回復されていきます。相変わらず意味はわからない。しかし、「意味がわからないから」という大人じみた卑怯な理由で切り捨てるわけにはいかない何かがある。
その体験が、「理解できない」ということを恥じたり恐れたりしては、それをないものとしていた自分の殻から出ていく勇気を、大人にも引き出してくれます。そして、「わからないなりに感じ取ろう、受け止めよう!」という子供の頃から忘れていた姿勢を私達の中に準備していきます。
そして、そのように準備ができた中で紡がれていく後半のシーンの数々といったら!いやいや、相変わらず意味はわからないのです。わからないのですがしかし登場人物一人一人の懸命な訴え、取り組み、告白、それらすべての必然性を、観ている私達が共有する状態になっていきます。
これはまた、「気持ちが理解できる」「共感できる」というのとは全く違います。たとえば、同じ場面を観てもそれを観て泣いているお客さんもいれば、笑っているお客さんもいることからもそれはわかります。相手に「共感する」というのは(芝居に限らず)「理解できるものを理解する」のと同じように、極めて一方的で暴力的な行為であるとさえ言えるでしょう。しかし、相手と同じ気持ちを味わうことが原理的に不可能であるとしてもなお、その切実さを受け取ることはできる。そのようなむき出しのコミュニケーション、私達がどこかで通ってきたはずの原初のコミュニケーションが存在するのだという事実を私たちに喚び起こしてくれます。(これをたとえるなら、能面が、場面に応じて笑っているようにも怒っているようにも泣いているようにも見えるように(なので能面を「感情を表さない」ことの比喩で使うのは、間違いです!)、むしろ意味がわからないからこそ、そのシーンを単一の意味や記号に落とし込んでわかったふりをすることができずに、そのまま受け止めざるを得ない、ということなのだと思います。そしてそのシーンをそのまま受け止めたときに私達の中に沸き起こる感情は、演者が伝えようとしているものでも、私達が勝手に抱いているものでもなく、演者と私達との間に何かしらの交流が成立しているからこそ立ち上がる「その場にしかない何か」になっていきます。)
と言葉にしてみると、「なるほど意味がわからないシーンを作ればそうなるのね!」という残念な理解になってしまいがちなのですが、このような交流の場としての舞台を作るためにどくんごがやっているのはひたすらな作り込みと常軌を逸する努力、であるのです。どのようなシーンを演じたいか、それをどのように構成していくか、意味がわかりすぎず、わからなさすぎず、つながっているようでつながらず、つながっていないようでつながっていて、どこを舞台とすべきか、どこを舞台とすべきでないか、そして一見意味の分からないシーンにリアリティを出していくためのテキストへのこだわりと演技の徹底的な練習、さらには一つの舞台を年間80ステージも同じメンバーで演じ込んでいく徹底的な探究、楽器・ダンス・歌の徹底的な練習、それらのすべてが私達に目の前のわけの分からない舞台を観させ、聞かせます。
そのクオリティから、これをやる彼ら劇団の必然性を感じ、そこから各シーンでの登場人物の必然性へと引き込まれ、そして…と最初の話に戻るわけです。赤子の「だあだあ」と一生懸命話す「言葉」を「(我々の狭い定義での)意味をなしていないから」、というようには無視できなく、傾聴せざるをえなくなるように。
そして、どくんごの舞台はこの「傾聴する」「受け止める」という姿勢を私達の中に作り出していくために、さらなる仕掛けも作っています。メインの登場人物が演じている間に、他の登場人物がそれを楽しみながら傾聴する姿勢に私達が影響されていくところもあるからです。背景幕の転換から何からすべてを他の登場人物が行うこの忙しい芝居の最中なのに、メインが演じている際にも、他の登場人物は舞台袖でしっかりと聞いています。それは「聞いている姿勢を演じている」部分、それから「本当に素に戻って聞いている」部分と両方あるとしても、その姿勢が私たちに「意味がないから聞かないでいいや!」という多寡のくくり方を思い止める補助線として機能していきます。
さらには、即興パートのシーンではまさに演者同士が言葉を受取り、次のパートを紡ぐ、ということをやっていかねばならないため、彼ら彼女らにとっても他の演者の言葉を聞かざるをえない場面が必ずあるわけです。つまり、そのことによって「演者の間でコミュニケーションがなされているように観客に見えれば良い」というすべての芝居における構造上の必要性だけではなく、「実際に演者間のコミュニケーションが為されている部分」と「作り込まれたそうでない部分」とが混在する一連の舞台になります。自分が舞台上でアウトプットだけをすれば良いのではない、という緊張感を演者に常に与えます。そのことが作り込まれた場面にも迫真さを生み出していきます。
そしてそれはさらに、その演者間の傾聴の姿勢から、作り込まれた各場面が演者の中で消化されていくことで、即興の場面の中にも「構造」が立ち上がることに繋がっていきます。必死に反応しては演じる演者達の即興が、彼ら一人一人の歴史から生み出されるものであるというだけでなく、それまでの他の様々な場面とも響き合ってきます。その立ち上がる「構造」の可能性に、私たちは深く心打たれるのです。
世界を自ら狭くしては受け取るものを限定して生きることで、何とか自分の人生に意味を与えようとする自分の健気ではあるが虚しい取り組みの、その外にある可能性に。「意味の分からない」ものに目を見開き、耳を澄ませ、心を開くことの、あまりにも豊かな可能性に。そのように秩序を求めて無秩序を恐れず、意味を求めて無意味を恐れず、「連帯を求めて孤立を恐れず」と徹底的に開いていった末にまだ残る、共に生きることの可能性に。
今年も本当に素晴らしかったです!本当に有難うございました!
僕は今年はあと2回くらいしか見ることができませんが、最後までツアーを応援したいと思います。関東ではもう終わってしまいましたが、これから中部、四国、近畿、そして九州と周っていきます。お近くの方は是非見て頂けたら嬉しいです!
そして、関わりが深くなればなるほど、どくんごの感想が書きにくくなります。それは、何も「身内だから欠点に言及しにくい」という理由ではなく、どくんごを構成しているのは舞台の上だけではないことがあまりにもよくわかってきてしまうからです。場所取り、宣伝、旅の道中、テントの立て、公演、打ち上げ、そしてバラシと、その全てがどくんごの重要な要素である以上、舞台についてだけを書けば、どうしても「片手落ちどころではない!何も書けていない!」という気持ちになってしまいます。
だがしかし!深く知れば知るほど舞台の上だけで終わらないどくんごが、最も大切にしている舞台について感想を書かない、というのではやはり駄目だと思うので、今年も頑張って書きたいと思います。
今年のどくんごは、序盤の繰り返しがとにかくエグかったです!「どくんごとはこういうもの」という意識があるからこそ集中して聞いていこう、となるわけですが、初見の方とかはあそこでうんざりしてしまう方もいるのでは、と見ていてちょっとハラハラしました。
しかし、その「繰り返し」もよく聞いていくと完全な繰り返しではなく、微妙に内容が違っていたり、さらには発話者が変わったり、一人から全体へと共有されていったり、とそこで様々なバリエーションが生まれています。それを見ている我々は、段々とその繰り返しの差異に気づけるように、集中して聞いていくことになっていきます。
それは他のシーンでの一つの擬態語・擬声語が様々な意味で使われていること、あるいは複数のシーンで同じ名称が様々なものを表す(あるいは、それが同一の人物?だとしたら…という妄想を開いていく)ことに使われていることなどからも、そのように考えさせるきっかけを散りばめていきます。
「一つ一つのシーンに意味などありません!いやいや、意味などありませんってば!」と劇団に断言されながらも、そのような差異に、あるいは同一性に気付かされる私たちは、自然にそれらに意味を見出したり、立ち止まって考えたりという引っかかりをたくさん浴びることになります。それはやがて、私達の中に話を聞く姿勢、吟味していく姿勢を準備していくことになります。それはまるで長く一緒に暮らしてきた動物たちの鳴き声に我々が「感情」を見出すように、あるいは赤子の意味不明の声に、我々が感情やメッセージを見出すように。
言語の論理構造だけから意味が生まれるのではなく、そこに込められる思い、声、身振り、表情、その他のものから私たちは意味を汲み取るように、私達の感覚はどくんごを観ている間に解放されていきます。そして、意味などわからなくてもなんとなく心にひっかかるものが確かに役者さんの熱量で私達の目の前に現れたとき、日常生活の中で意味を追うことに倦み疲れた私たちはまた、意味を考える意欲を回復させられます。
殆どの大人たちは「世界が不思議に満ちている」という感覚(センス・オブ・ワンダー)を押し殺して生きているものです。というよりは、「世界が不思議に満ちている。」という感覚にどれだけ背を向けられるかが、「大人」の定義とでも言えるでしょう。「理解可能なものからしかこの世界が成り立ち得ない」という立場を大人たちが固めていくのは、怖いからでしょう。自分にはわからないものが確かに存在していて、そこには素晴らしい価値があるかもしれない、と思うほどに、有限な自分の人生においてはその素晴らしい価値を気づかずに死んでいくのは怖くてたまりません。だからこそ、大人たちは「自分にわからないものには少なくとも価値はない!」という立場を取っていくことになります。そして「自分に理解できないものの意味を考える」ということを止め、「自分に理解できるものだけが意味がある(つまりは考えないように生きる)」という繰り返しで、生涯を終えることになります(研究者や芸術家は違う、と言えたら良いのですが、研究者も芸術家も自分が思考を停止しない分野を狭く区切った上でそこに関してだけはそうしているだけなので、基本的には同じだと思います)。
一方で、子どもたちにとっては最初、この世界には「理解できないもの」しかありません。だからこそ、子どもたちは「理解できないけれども、でも相手が真剣に発話したり提示しているもの」を、懸命に反復しては理解しようという試みを、決して怖がりません。理解できないものだからこそ、その意味を考える。もちろん、考えてもわからないことも多いでしょうが、それでも意味を考えることを無駄だとは思わないものです。そのような子どもたちを、大人がどれだけダメにしてしまっているか…について語ると教育論になってしまうので、ここでは書きませんが、だからこそどくんごは子どもたちにとってはその「世界は不思議に満ちている」という感覚からすれば、ぴったりとハマるものであるのです。
そして、どくんごの凄さは、そのセンス・オブ・ワンダーを大人の中にも回復していくことです。いやいや、観たって意味なんてわからないんです。初めて観たとき僕も後付けで初めて観たときから偉そうに感想を書きましたが、しかし、意味なんてまあわかりません。けれど、強く心に残るものがある。それもひねくれ者の、大人の権化であるような僕ですらです。すると、「これは何だ…?」とまるで赤子のように、センス・オブ・ワンダーが回復されていきます。相変わらず意味はわからない。しかし、「意味がわからないから」という大人じみた卑怯な理由で切り捨てるわけにはいかない何かがある。
その体験が、「理解できない」ということを恥じたり恐れたりしては、それをないものとしていた自分の殻から出ていく勇気を、大人にも引き出してくれます。そして、「わからないなりに感じ取ろう、受け止めよう!」という子供の頃から忘れていた姿勢を私達の中に準備していきます。
そして、そのように準備ができた中で紡がれていく後半のシーンの数々といったら!いやいや、相変わらず意味はわからないのです。わからないのですがしかし登場人物一人一人の懸命な訴え、取り組み、告白、それらすべての必然性を、観ている私達が共有する状態になっていきます。
これはまた、「気持ちが理解できる」「共感できる」というのとは全く違います。たとえば、同じ場面を観てもそれを観て泣いているお客さんもいれば、笑っているお客さんもいることからもそれはわかります。相手に「共感する」というのは(芝居に限らず)「理解できるものを理解する」のと同じように、極めて一方的で暴力的な行為であるとさえ言えるでしょう。しかし、相手と同じ気持ちを味わうことが原理的に不可能であるとしてもなお、その切実さを受け取ることはできる。そのようなむき出しのコミュニケーション、私達がどこかで通ってきたはずの原初のコミュニケーションが存在するのだという事実を私たちに喚び起こしてくれます。(これをたとえるなら、能面が、場面に応じて笑っているようにも怒っているようにも泣いているようにも見えるように(なので能面を「感情を表さない」ことの比喩で使うのは、間違いです!)、むしろ意味がわからないからこそ、そのシーンを単一の意味や記号に落とし込んでわかったふりをすることができずに、そのまま受け止めざるを得ない、ということなのだと思います。そしてそのシーンをそのまま受け止めたときに私達の中に沸き起こる感情は、演者が伝えようとしているものでも、私達が勝手に抱いているものでもなく、演者と私達との間に何かしらの交流が成立しているからこそ立ち上がる「その場にしかない何か」になっていきます。)
と言葉にしてみると、「なるほど意味がわからないシーンを作ればそうなるのね!」という残念な理解になってしまいがちなのですが、このような交流の場としての舞台を作るためにどくんごがやっているのはひたすらな作り込みと常軌を逸する努力、であるのです。どのようなシーンを演じたいか、それをどのように構成していくか、意味がわかりすぎず、わからなさすぎず、つながっているようでつながらず、つながっていないようでつながっていて、どこを舞台とすべきか、どこを舞台とすべきでないか、そして一見意味の分からないシーンにリアリティを出していくためのテキストへのこだわりと演技の徹底的な練習、さらには一つの舞台を年間80ステージも同じメンバーで演じ込んでいく徹底的な探究、楽器・ダンス・歌の徹底的な練習、それらのすべてが私達に目の前のわけの分からない舞台を観させ、聞かせます。
そのクオリティから、これをやる彼ら劇団の必然性を感じ、そこから各シーンでの登場人物の必然性へと引き込まれ、そして…と最初の話に戻るわけです。赤子の「だあだあ」と一生懸命話す「言葉」を「(我々の狭い定義での)意味をなしていないから」、というようには無視できなく、傾聴せざるをえなくなるように。
そして、どくんごの舞台はこの「傾聴する」「受け止める」という姿勢を私達の中に作り出していくために、さらなる仕掛けも作っています。メインの登場人物が演じている間に、他の登場人物がそれを楽しみながら傾聴する姿勢に私達が影響されていくところもあるからです。背景幕の転換から何からすべてを他の登場人物が行うこの忙しい芝居の最中なのに、メインが演じている際にも、他の登場人物は舞台袖でしっかりと聞いています。それは「聞いている姿勢を演じている」部分、それから「本当に素に戻って聞いている」部分と両方あるとしても、その姿勢が私たちに「意味がないから聞かないでいいや!」という多寡のくくり方を思い止める補助線として機能していきます。
さらには、即興パートのシーンではまさに演者同士が言葉を受取り、次のパートを紡ぐ、ということをやっていかねばならないため、彼ら彼女らにとっても他の演者の言葉を聞かざるをえない場面が必ずあるわけです。つまり、そのことによって「演者の間でコミュニケーションがなされているように観客に見えれば良い」というすべての芝居における構造上の必要性だけではなく、「実際に演者間のコミュニケーションが為されている部分」と「作り込まれたそうでない部分」とが混在する一連の舞台になります。自分が舞台上でアウトプットだけをすれば良いのではない、という緊張感を演者に常に与えます。そのことが作り込まれた場面にも迫真さを生み出していきます。
そしてそれはさらに、その演者間の傾聴の姿勢から、作り込まれた各場面が演者の中で消化されていくことで、即興の場面の中にも「構造」が立ち上がることに繋がっていきます。必死に反応しては演じる演者達の即興が、彼ら一人一人の歴史から生み出されるものであるというだけでなく、それまでの他の様々な場面とも響き合ってきます。その立ち上がる「構造」の可能性に、私たちは深く心打たれるのです。
世界を自ら狭くしては受け取るものを限定して生きることで、何とか自分の人生に意味を与えようとする自分の健気ではあるが虚しい取り組みの、その外にある可能性に。「意味の分からない」ものに目を見開き、耳を澄ませ、心を開くことの、あまりにも豊かな可能性に。そのように秩序を求めて無秩序を恐れず、意味を求めて無意味を恐れず、「連帯を求めて孤立を恐れず」と徹底的に開いていった末にまだ残る、共に生きることの可能性に。
今年も本当に素晴らしかったです!本当に有難うございました!
僕は今年はあと2回くらいしか見ることができませんが、最後までツアーを応援したいと思います。関東ではもう終わってしまいましたが、これから中部、四国、近畿、そして九州と周っていきます。お近くの方は是非見て頂けたら嬉しいです!



