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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

東京公演のためのどくんご再紹介

いよいよ、2年ぶりのどくんご東京公演まで、残り2ヶ月を切りました!このブログでも何度かどくんご観劇の感想を書いてきました(2013年2014年2016年2017年)が、あまりに長い文章なので、改めてどくんごを見たことがない方のために、東京公演の前にどくんごの魅力を紹介し直したいと思います。


魅力その1 一人一人の役者さんの全力、全身、全霊の舞台。

劇団民藝の故大滝秀治さんが、先輩の故滝沢修さんに「君のは熱演と言えばよく聞こえるけど、過不足で言えば『過』だよ。」とダメ出しされた、という話をどこかで読みました。この話は「演じ手が一生懸命やっているのはアタリマエのことで、むしろその一生懸命さを観客に悟られているようでは伝えるべきものが伝えられない。」ということだと思いますし、それは一つの確かな思想であると思います。しかし、筋を伝えていくために役者の身体や存在が消されることを理想だとすれば、そもそもそれはストーリーを文字で追うのとどう違うのか、という難問も出てきてしまいます。

どくんごの舞台はその逆です。筋を味わうための役者ではなく、役者を味わうための舞台です。一人一人の役者さんがこれでもか、これでもか、と様々な形でそのエネルギーをぶつけられることになります。そこには笑いあり、哀しみあり、ユーモアあり、と様々な感情が湧き起こるわけですが、その一つ一つのシーンの意味、というよりは、ただ目の前の役者さんの全てを味わえばよい、というところが実は演劇ファンだけでなく、多くの人にとって間口が広い舞台であると思います。

その一人一人の役者さんの懸命な演技は、意味がわかるかといえば、わかりません。かといって、全くわからないかといえば、わかる気もします。そのような彼ら彼女らの演技に目を凝らし、耳を澄ませていけばいくほどに、徐々に自分の中に様々な感情が立ち上がってきます。意味を追い求めるのでなく、ただ目の前の人々の必死さに対して心を開くことにつながっていきます。


魅力その2 しかし、全く役者頼みではない構成と演出。

魅力その1だけを読めば、「なるほど。要は、ちょっと頑張ってる一人芝居のオムニバスっぽいやつなのね。そんなの、一本一本、独立して見れば良くない?」という意見も出てくるはずです。しかし、その一人一人の役者さんの奮闘が、繋がっていないようで繋がっているのが、どくんごのまたもう一つの凄みです。音楽も照明も(広義の)舞台も幕もテントも、その全てがひとつながりのものとして、機能しています。ここ5年は毎年見ている僕が、「あの場面が好き」「あの演技が好き」という以上に、毎年毎年「どくんご」として一続きの完成された舞台を見る感動を与えられるというのは、やはり改めてふりかえってみても、本当にすごいことであると思います。

言い換えれば、どくんごは、はじめから全体の絵を描いておいて、それを細分化して一つ一つのピースを作る、というジグソーパズル的な構成ではありません。「Aというピースをやりたい」という役者と「Bというピースをやりたい」という別の役者さんとの組み合わせをいくつもすりあわせていく、という途方もない作業を丹念にやり抜いていった、自然物の岩を活かした巨石積みの石垣を見るときのような感動があります。部分が全体のために作られているのではなく、各部分がそれ自体のために存在しながら、それらを補助線としての「全体」がなぜか浮き上がってきます。それはまた、お互いに違う他者同士が共に生きていくための共生の作法ではないか、と感じさせられる感動が生まれるのです。

それだけでなく、一人で演じるシーンが多いとはいえ、複数人で演じるシーンには複数人で演じることの必然性がしっかりとあります。「ここは一人ではないほうがいい」と考え抜かれて複数人で演じられる場面は、役者さん一人一人の夢想を、我々の目の前に顕現するために徹底的に考え抜かれた作りをしています。

さらに、です。「板の上」で人が演じるだけで様々な場面を伝えることができるのが演劇の醍醐味であるのなら、どくんごはその「板の上」から全てが生み出せるとしてもその「板の上」であることもまた一つの制約になっていないか、までとことん疑いぬいた舞台であると言えるでしょう。その点でも、役者さんの演技を楽しむだけではとどまらない、多くの魅力があります。

このように、一人一人の役者さんの演技を堪能するだけでなく、観れば観るほどその全体の構造が浮かび上がってくる、本当に奥の深い舞台であると思います。(なので、僕のように年に何回も観てしまうどくんごファンが出てきてしまいます。。去年は8回も観てしまいましたが、僕などまだまだ熱烈などくんごファンのほんのはしくれ、上には上がいます。)


魅力その3 見る場所によって全く別の面白さがある。

どくんごは野外にテントを張って公演をする劇団だからこそ、公演地ごとに様々に背景が変わります。市街地の雑踏の中で行われる公演が、私達一人一人の日常をこじあけてくれるなら、広い海を背景に行われる公演はどこまでも幻想的な世界になります。また、その公演地の背景の違いによって、同じ場面、同じセリフもまた、違う響きを持ってくるのが驚きです!これにハマると…様々な公演地に見に行ってしまいます!

「借景」という概念があります。庭園の内部だけでなく、庭園から見えるその外の他の景色がうまく映えるように庭園を作ることで、それもまた庭園の景色の一つにする、という造園法です。どくんごの世界はまさにその「借景」を使うからこそ、あの小さなテントを、どのような設備の揃った大劇場よりも豊かな舞台へと変えていきます。その妙といったら!

これも庭園の借景にも言えることなのですが、素晴らしい景色がそもそも最初から内部にあるのと、外から「借りて」くるときとで、その景色との出会い方が変わってくるのですね。内部に組み込まれているときとは違って、借景にはさっきまで見ていた遠景に新たな意味を与えられる、という再発見の感動があります。それを演劇で実現しているのは、とてつもないところです。

魅力その4 劇団がアツい。ファンが濃い。

どくんごは一年かけて、全国各地をツアーで周ります。鹿児島から車3台で出発して北海道の東端、釧路まで行き、そしてまた南下して鹿児島まで戻っていきます。これだけ聞いても、ちょっと何言ってるかわからないです。

さらに今年は実質7ヶ月で年間80ステージ(!)、公演地も33の場所で行います。単純計算で7ヶ月間、平均すると2.6日に1ステージ以上はやっている計算です(車なので移動に大きく時間がかかることをお忘れなく!)。それをただ演じるだけでなく6人のメンバーで、テント設営から証明設営、チケット販売から客入れ、そして終演後の打ち上げまでやっています。ますます、わけがわかりません。一体いつ寝ているんだ。

さらに、33の公演地では各地にいるどくんごファンが「ただどくんごを自分が見たい!」というだけの理由で、公演地の場所取りの交渉から宣伝、さらには当日のボランティアスタッフまでやっています。これも今年僕が受け入れをやってみて、一番驚かれたのは交渉口で公園の管理担当の方々に「で、あなたは劇団のメンバーではないんですね!」ということでした。数多くの劇団が公演するような公園でも、「ファンの方が場所取りに来る劇団、というのは聞いたことないですね。。」というお話でした。しかし、それを全国33箇所!しかも30年間続けてきているわけです。


まだまだ魅力が語り尽くせません。
とにかく、今この時代の日本に生きていて、どくんごを見たことがないなんて、本当にもったいない!僕なんか、一年間必死に教えてあれこれ手を尽くして第一志望に合格させた受験生に、「この塾に入って本当に良かったです!どくんごを観ることができたんで!」と言われたくらいです(これはちょっと悲しい。)。

今年の東京公演は、9月8,9、11,12日と葛西臨海公園で行います。詳しくは劇団ホームページで。
東京公演の予約は嚮心塾でも受け付けています。
是非、どくんごを見逃すな!

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「教育」が虐待に変わるとき。

児童虐待のニュースは跡を絶ちません。そのたびに心を痛める人も多いこと、なんとかしたいと思い、手の足りていない児童相談所の拡充を少しでも目指すべきだ!と主張することはもちろん抗うべくもなく、正しいと思います。しかし、そのようなあくまでも外からの取り組みを進めるだけでなく、「虐待」がなぜ起こるのか、について虐待する親を「人でなし!」などと批判する前に、彼ら彼女らの気持ちを理解していくことがとても大切であると考えています。

これに関して、糸口となるのはこのような事件が発覚するたびに、虐待をしていた親から「教育だと思っていた。」「しつけだと思っていた。」というコメントが繰り返されることだと考えています。つまり、彼らは(当たり前ですが)虐待をしようと思って虐待をしていたわけではなく、子供に「教育的指導」「しつけ」をしているつもりであるのに、それが結果として子供を死に至らしめてしまった、ということになります。だからこそ、彼らの考える「教育」や「しつけ」がどこから虐待へと転じてしまっているのかを考えることは、彼らと何ら変わることのない私達自身にとっても、大切なことであるのです。

では、教育と虐待の境目とはどこにあるのでしょうか。もちろん、暴力を振るう、とか食事を抜いたり減らしたりするといった具体的な行為については、明確に虐待であるといえるでしょう。しかし、そのように一般的に「虐待」として共通理解が得られやすい行為を列挙していく方向でなく、もっと抽象化して定義するとすればそれは、「現に効果が上がっていない教育をずっと続けること。」と定義できるように思っています。すなわち、現に効果が上がっていない教育方法を続けることは、虐待である、という認識をもつことが大切であると思います。

教育やしつけという目的を持ち、それを通じて我が子の「問題点」を直そうとするのであれば、仮に暴力をふるったり、食事を抜いたり、という方策が自分の子供にとってその当初の親が問題視した行動を減らす方向へと機能しているかどうかを絶えずチェックするはずです。そしてそれによってその子の行動が改善していればよいですし、そうでなければまた別の手段を考えていく、ということが教育やしつけであると思います。(もちろん、これには「効果的な体罰ならそれを容認するのか」という問題があります。これに関して難しいのはたとえば暴力や食事を抜くなどの虐待行為によって外見上はそのような子供の「問題」行動が収まる、という短期的成果を得てしまうこともある、ということです。僕自身はそれがあくまでも外見上の成果でしかない、という点でこれを否定しますが、長くなるのでそれはまた別の機会に書きたいと思います。)

しかし、実際にはそのようなチェックはほとんど為されていないのが現状であると思います。そのような自分がそれしか知らないような教育方法・しつけ方法で子供の行動が改善するはずであると思いこんでいる親からすれば、うまく改善されない、という事実に対して「自分の教育方法と努力は正しい。それによって改善しない子供が悪い。」という気持ちになっていきます。このような気持ちになれば、当然「だからこそ、自分が子供に暴力をふるったり食事を抜いたりすることは、そのように自分の言いつけをちゃんと聞かない子供にとっての罰であり、正当である。」という自己正当化のサイクルが生まれてきます。

すなわち、自分の「しつけ」や「教育」に効果がないことを自分の方法に問題があるかどうか、他の方法を試してみるべきか、という可能性には考え至らずに、「自分の方法は正しい(だって、これしか私は知らないのだから。)。だとすれば、それで改善しないのはこの子が悪い。」という思考プロセスを経て、「だから「問題」行動を改善しようとしないこの子にとって、自分の行う「しつけ」が多少苦しみや痛みを伴うものであったとしても、それはこの子が悪いのだから、仕方がない。」と変質していきます。そして、さらには自身がそのような「正当な暴力」を振るうことのできる立場にいることに、喜びさえ覚えるようになります。

私たちの人生は、苦しい。苦しみながら虐げられ、様々なことを我慢して生きているわけです。その中で「正当な暴力」を振るえる立場を(仮にそれが自らの思い込みに過ぎないとは言え)得てしまえば、それを止めるだけの自制心などないことは、たとえば昨日オウムの受刑者7人の死刑が執行されたときに、松本麗華さんに浴びせられた言葉の暴力を見ればよくわかるでしょう。そのようにして、人は暴力が「正当」であれば、それに手を染めたがってしまいます。

このように彼らの心理をたどれば、彼らと僕らの心理はひとつづきです。我が子の子育ての中で、ここに書いたようないらだちを感じずに育ててきました!というのは僕は偽善者でもない限り言えないのではないか、と自分自身の子育てを振り返っても思います。子供は大人の言うことなど聞きません。そもそも大人が何を「問題」と見ているかもよくわかりません。それを理解してもらうための手段を尽くすことなく、自分の既存の手段で伝えようとしては全く伝わらずにイライラする。そこから虐待まではほんのすこしの道のりです。だからこそ、ひどい虐待が明るみになっていたときに、そのような虐待をしてしまった親を「非人間」扱いすることこそが、僕は間違いであると思います。

あるいは、です。たとえば多くの「進学校」で出されている宿題の中には、「教育」とはいえず「虐待」としかいいようのないもの、この宿題をやることで生徒にどのようなプラスの効果があるのかわからないような「写経」のような宿題がたくさんあります(「問題集の膨大な数の問題をすべて解いて、わからなかったら解答を写しなさい。」という類の宿題です。こんな雑駁な分量だけ多いやり方によって、生徒に力がつくわけがありません。)。そして、それをやってくることをむりやり生徒に強いる先生方も残念ながら、多いのです。これらもまた、自分の教育方法が本当に効果的かどうか、目の前の生徒に合っているかどうかを吟味しないまま、「この方法しかない!」と信じ込んではそれを無理矢理子供たちに強制している、という意味では、虐待であると言えるでしょう(さすがにそれを「努力しない子達が悪いのだから正当な暴力だ!」と教師が認識している、とまでは思いたくありませんが。。でも残念ながらそのようになってしまっているケースもあると思います。)。子供たちの時間を、彼ら彼女らにとって無意味な作業で奪ってしまう、ということがどれだけ大きな罪であるのか、だからこそ教育に携わる人間は、親であれ教師であれ、自分のやり方が目の前の子供達にとって効果を上げられているのかどうかを、まず自分自身が誰よりも厳しくチェックし続けていかねばなりません。

教育は、このように容易に虐待へとなりえます。だからこそ、今自分がしていることが、本当に目の前の子供達のためになっているのかを、絶えず疑い続ける姿勢が親にも教師にも重要であるわけです。

この仕事をしていると、いかに親や教師の独りよがりの熱意や愛情が、子供たちにとって単なる虐待にしかなっていないかを思い知らされます。その中で肉体的な死に至るものは少ないのですが、子供たちの心や将来、その他様々なものをその「虐待」によって殺してしまっている、というケースがとても多いと思っています。言い換えれば、ほとんどの学校や家庭において、広義の「虐待」は起きています。

もちろん、僕自身もまた、その失敗から逃れられるわけではありません。これだけ教育のことばかり考えてきてそれに取り組み続けてきてもなお、「今の叱り方は単なる虐待でしかなかった。失敗した。。」と思う判断ミスも多くあります。だからこそ教育というのは本当に難しいことであるという認識をみんなで共有した上で、伝えたいことが子供たちにどう伝わっているのか、逆にどう伝わっていないのかを懸命に目を凝らして見続け、伝わらないときにはその伝え方の手法を考えたり他の人から学んでいくことが大切であると考えています。

人間は基本的に、自分の見たいものしか見ない生き物です。自分が懸命に努力して、それでも伝えるべきものが伝わらないとすれば、それを相手の努力が足りない所為にしたくなります。しかし、それこそが教育を虐待へとおとしめる入り口であるのだと思います。そこで自分自身の手法に問題があり、他の話し方、他の実践の仕方から何とか伝えるべきものを伝えられないか、鍛えるべきものを鍛えられないかを絶えず反省し、徹底的に探し続けることでしか、自分が愛しているはずの我が子や教え子を自分の手や言葉でただ苦しめるだけになる、という悲劇を避けることはできません。

僕自身も少しでも自分の行う指導が虐待に陥らないようその精度を少しでも高めていくとともに、このことを何とか伝えていけるように、必死に各ご家庭や学校の先生にも向き合い、子供たちを守っていければと思っています。

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