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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

社会人とは。

ホームページを作っていると、書きたいことを削って削って短くする作業なので、「ここをもっと正確に言いたい!」「この議論にはこういう側面もあるから触れておきたい!」とひたすら長文を書きたい欲が高まってしまいます(あのホームページ、あれでも大量に文字を減らしたのです。。それでも長い!と叱られてばかりですが。)。

ということで、ブログの執筆意欲がめっちゃ湧いてきました!皆さんにはご迷惑かもしれませんが、長い文章、書くぞー!

さて、塾の卒業生もだいぶ社会人が増えてきて、彼らの話を聞いたり相談に乗ったり、という機会も増えてきました。みんな各々頑張っていますし、それこそ就活もしなかった社会不適合者の僕から見たら、しんどい中でみんな本当に頑張っているなあと、頭が下がる思いです。

しかし、そもそも「社会人」とは何でしょうか。仕事をしてお金をもらうことが「社会人」なら、そんなに簡単に社会人になれてよいものなのでしょうか。

人間が生きていくためには、社会から与えられる役割を担う必要があります。それだけではなく、社会から与えられる役割を担うこと自体が、一人一人の人間にとっての生きがいにもなります。この社会においては、その「社会の中で役割を担う」ということが多かれ少なかれ金銭という報酬が発生するからこそ、自分がこの社会に役立っているかどうかは金銭という報酬からも逆算ができるようにもなります。

しかし、これはこれで大きな問題をはらんでいます。

まずは高い報酬が得られる人が社会にとって不可欠な仕事であり、低い報酬しか得られない人が社会にとって必要性の低い仕事しかしていない、という誤った推論がなされがちであるということです。
たとえば高収入の職種と保育士のように社会に必ず必要なのに低収入な職種を比べれば、この推論には根拠が無いことがよくわかります。報酬が高い仕事はそこにお金が集まる仕組みがすでに今までの歴史の中で確立している、というだけであり、それは社会の中で必要性が高いのではなく、簡単に言えば「そこにお金を集める仕組みは整備しやすかった!」というだけのことです。「この社会では、社会におけるすべてのニーズを正確に評価し、値付けがなされている。だからこそ、高収入の仕事はそれだけの社会的価値があり、低収入の仕事はそうではない。」という主張は、この社会の制度設計の緻密さをあまりにも過大評価した立場であると思います。

今儲かっている分野には偶然が作用しています。「いやいや、自分は工夫して成功して努力してきた!」と成功者は語るでしょう。しかし、そのような努力、工夫をすべての「失敗者」がしていないといえるでしょうか。そのような工夫、努力が時宜を得て成功をしたのは、あくまで偶然によるものです。どのような分野でもどのようなタイミングでも成功ができる人間などは実はあまり存在しません。

しかし、です。高収入の人が「高収入を得ている自分がしていることは社会にとって意味がある。」と思うincentive以上に、低収入しか得ていない人が「低収入しか得ていない自分は社会にとって何の意味もない」と思わせられるincentiveは強いように思います。これは、金銭が自分に対する社会的価値評価を具体物化したもの、という通念、ひいては市場経済はかなり精密に機能している、という信仰があるからであるように思います。(もちろん、最低限の生活をするための費用は誰にとってもゼロにはならない、という生活費の下方硬直性もその原因の一つではあると思いますが。)

生活保護受給者に対する視線が冷たく、行政の水際作戦(窓口で生活保護申請に来た人を理由をつけて断り、生活保護受給者を少しでも減らそうとすること)に対する批判が、いまいち広がりにくいのも、もちろん「自分たちは必死に安月給で頑張っている!」というやっかみもあるのでしょうが、それ以上に「自分たちは頑張っているから何とか生活できている。(つまり、あいつらは頑張っていないから生活ができない)」という思い込みがあるのだと思います。もちろん、そこでの一人一人の努力は間違いなくあるのでしょう。しかし、その努力の方向性や分野の選び方によっては、我々は家族が生きていくだけの報酬さえ得られなくなります。それを決定しているのは自分の努力だけではなく、様々な偶然的な要素でもあること、つまり、生活保護を受給しているのは「努力をしない彼ら」ではなく、「努力をしても選んだ分野や方向性故にうまくいかない、もしかして自分であったかもしれない彼ら」であることについての理解があまりにも足りていないように思います。

と偉そうに書く僕もまた、たまたま東京に住んでいて、たまたま中学受験をして私立中高に通わせる資力が親にあり、たまたま大学進学の費用を気にしないだけの家庭に生まれている、という偶然の産物であるわけです。もちろん、そのときどきで自分から努力をしてきました。しかし、このような恵まれた環境でなかったとしても結果は変わらない、といえるだけの努力には程遠いです(この事実には中学生くらいから気づいていたのにも関わらず、です)。その点で僕が学歴から何らかのアドバンテージを得られているとすれば(他の東大卒業生に比べれば僕はそれを就職面ではなから捨てていますが、しかしそれでもアドバンテージが存在していることは事実です。)、それは決して僕の努力の成果ではなく、偶然の産物であり、たまたま僕はラッキーであっただけです。同じかそれ以上の努力をしても、うまくいかない高校生はおそらくいっぱい居ます。今僕が塾をやって、それなりに何とか暮らしていけるのも、決して僕の努力によるものだけではなく、たまたまラッキーであったことに依るものです。(アメリカでもAfrican-american に対するaffimative actionに対して一番厳しい意見をもつのは、self-madeなAfrican-americanである、ということを聞きます。既にself-madeな彼らは現に自分たちが努力してその差別の壁を乗り越えてきたからこそ、affimative actionに対して「努力が足りない!」と思いがちなのでしょう。しかし、彼らがself-madeになれたこともまた、様々な壁を乗り越えてきたとは言え、ラッキーだった、というところがあるのです。大切なのは、自分の努力できる環境がラッキーによるものかもしれない、と疑い続けることであると思います。)


話を戻せば、市場経済がある程度以上の信頼を得ているこの社会においては、社会の中で働いて報酬を得られないことは単に生活に困るというだけでなく、自分の存在意義自体が掘り崩されるような疎外感を感じざるをえなくなります。しかし、これは、誤りであるのです。この社会に必要なことには必ず報酬が伴っているか、それもその必要度に応じて報酬が高くなるように厳密な評価ができるような高度な設計がなされた社会には、私達は住んでいません。まずはこの事実を再確認することです。仮にそれを否定しなければ、自分のラッキーさを認めたくない人々が大多数だとしても、その彼らの価値基準を内面化しないことが大切です。

その上で、社会人とは、を再定義するとすれば、「社会に必要とされる存在」という定義は残すとしても、その「社会」を既存の社会と限定しないことが大切であるようにも思います。「このように誠実に頑張る人間を評価せず疎外し、追いやるのだとすれば、そのような既存の社会はその存立の正当性が疑われる」と思えるとき、そのような人の存在は、既存の社会の限界を知らしめてくれる、という意味ではむしろ誰よりも「社会人」と言えるのではないか、と考えています。

そのような「社会人」として、芸術家・知識人などがその具体例としては一般に想像しやすいのですが、実際には職業としての芸術家や知識人は既存の社会の不完全さへの疑いを示すよりはむしろ、既存の社会を肯定する方向でしか収入が得られないものです。私達の社会では、そのような人はむしろ「狂人」扱いをされてしまうことが多いと思います。クロポトキンがドストエフスキーの作品群を「何であんな狂人ばかり描くのかわからない。」と言ったのは、そして、それにもかかわらずドストエフスキーの描く「狂人」達が私たちに人間性とは何かを思い起こさせてくれるのは、このようなことであったのではないか、と思っています。(中井久夫さんも『分裂病と人類』で「健常者」と分裂病患者との連続性、むしろ分裂病患者の方にこそ正しさがあるのではないか、と書いてくれています。また、自閉症では東北大の大隅典子先生もまた「自閉症」と「健常者」の連続性を主張されています。切り分けて、隔離したり排除したりするのではなく、むしろ私達に足りないものがあることを学ぶ姿勢が大切であると思います。)

もちろん、「みんなで狂人になろう!」とか「この評価経済はは間違っているのだから、みんなで無収入になろう!」と言いたいわけではありません。ただ、社会から疎外されている人たちに対して、「あれは社会人ではない!社会人としての責任を放棄している!」と思う前に、彼らを社会人にしていないのは、彼らなのか、それとも私達自身であるのかを問い直すべきである、ということです。その疑いのない「社会的包摂」は全て、(彼らの私達に対する、ではなく私達の彼らに対する)一方的搾取でしかないと考えています。

その上で、僕自身もまた既存の社会を押し付けるだけで済ませようとしない社会人として、何とか責任を果たしていきたいと思っています。

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塾のホームページを作りました!

大変遅ればせながら(まあ、何年遅れてるんだ、という話ですが…)、塾のホームページをざっと作りました!

こちらです。https://www.kyoushinjuku.com/

このブログもちょこちょことはいえ、書き溜めてきたので、塾についての情報が見えにくくなってきてしまっていること、
また何よりも、この塾をご友人に紹介していただいているご父母の皆様に嚮心塾を紹介しようとすれば、このブログを読ませることになり、そして「わけがわからない!」と言われてしまうのは(僕が言われるならまだしも)大変申し訳ないと思い、反省して(今さらながら)作りました!

教育について書きたいことを色々と書いていこうとしたら、せっかく見やすいホームページにするはずだったのに、やはり字ばっかりになってしまいました。。(これでもかなり削ったんです。。)

説明が必要なことを、(長かろうと)きちんと説明する。そして、それをしっかりと読む受け手によって、商品として広く受け入れられる。そのような社会になってもらいたいし、していきたいと思っているのですが、なかなか難しいようです。

まだ完成していないのですが、よかったら是非目を通していただけたら嬉しいです!

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フィレンツェ。

先日、テレビで『マツコの知らない世界』を見ていたら、「青春食堂」と銘打った高校生の思い出のお店、という特集で、僕も高校生のときにあるいは卒業後に何度か行った西日暮里のフィレンツェというお店が出ていました。馴染み深いお店であり、卒業してからも卒業生の集まりなどでは必ず行くお店であるので、懐かしさと、幾分かの誇らしさをもって番組を見ていました。

このお店は食事ができる、というだけでなくゲームも置いてあり、それこそ開成生が何時間でも話したり、やりたくもないゲームをしたり、たまり場として青春時代を過ごしたお店です。行き場のない、やるせない気持ちを持つ高校生たちがたむろする姿は、今も変わらず、という様子でした。

番組を見ているうちに、「なるほど。始めたときは気づかなかったけれども、僕は自分の塾をこのフィレンツェのような場所にしたいと思ってやっているのだな。」ということがよくわかってきました。やり場のない思い、どうにもわりきれない気持ち、誰にも話せないしんどさを抱えて、しかもそれを合理的に解決するだけではなく(塾なので、多少はそれをやらねば潰れますが)、寄り添い、放置し、そして彼ら彼女らが回復するための避難所となる。それをしたかったのだ、ということに改めて気付かされました。

もちろん、これは容易な道ではありません。フィレンツェは、コーヒー一杯で高校生を何時間でもいさせてくれるお店でした。そのような営業で大きく儲かるわけがありません。(卒業生が集まるときに利用する、というリターンはあるのかもしれませんが、その際の値段設定を聞いても、ちょっと儲かるような値段設定にしてもらえた覚えがありません。。)経営コンサルタントが相談に入れば真っ先に「とにかく回転率を上げろ!」と怒られるような営業方法であると思います。さらに言えば儲からないだけでなく、「勉強しなさい!」というプレッシャーに追い込まれている高校生を長々と滞在させる、ということは店にとって下手すれば学校や親からは(「おたくのお店に長々といるせいでうちの子が勉強しない!」という)クレームが来る可能性だってあったわけです。今から考えれば、こんなことを店主さんに許してもらえていた、ということがあまりにも有り難い、奇跡的なことでした。

しかし、お金のない高校生にとって、家と学校以外にそのような行き場があり、そこで長い時間を過ごせた、ということは本当にかけがえのない社会的包摂を得られていた、ということであるのだと思います。そして、それは経営や利益という観点では必ず見落とされがちである、目の前の中高生に対面したときの店主さんの人間としての優しさ、温かさ故に我々はそのような貴重な時間をあの場所で過ごせた、という奇跡に、本当に感謝するばかりです。

高校生の時から20年以上立って、実際に自分がそのような社会的包摂の場所を作ろうともがき苦しんできて改めて感じるのは、そのような取り組みを維持することがどれほど自分自身の人生を経済的に困窮させるのか、そのような取り組みがいかに社会からは評価されずに捨て置かれているのか(むしろ「合理的な経営ではない」という理由で駆逐されつつあります)、そしてそれらにも関わらず、そのような取り組みがいかにこの社会にとって必要であるのか、です。そして、世の中には無数の『フィレンツェ』が存在することもまた。

それは何も場所を作る、ということだけが正解なわけではありません。場所とはつまり、人のことであるからです。たとえばフィレンツェが店主さんのお人柄によってあの場が形成されているのと同じように、既存の組織、仮にそれがどのように大きな組織であったとしても、その中で自分自身が他者にたいしてそのような「場」となることはできるはずです。

時代はめぐります。「局所的な最適解のために、外部不経済を積極的に是認する」というこの趨勢が、その「内部」をどこまでも狭めていっては外部を拡大していくことで、どうにも立ち行かなくなりつつある古いモデルを何とか延命を図ろうとする、という我々の時代において、「コーヒー一杯で粘る、家に帰りたくない高校生」を「外部」と見なさずに受け入れてくれた、というそのフィレンツェの取り組みは、実は新しい公共のヒントになるのかもしれません。

嚮心塾も13年続けているので、卒塾生、あるいはその友人、友人の友人までが様々な報告や何らかの忸怩たる思いを抱え、話しに来てくれる場になりつつあります。「こんなこと、誰に相談したらいいんだろう。。」という若い世代の思いを(僕がそれに的確な答を出せるかどうかは別として)何とか必死に受け止め、少しでも寄り添っていきたいと思っています。(ヒポクラテスの’Cure sometimes, treat often, comfort always.’というやつですね。)

僕達はそのように既に愛され、庇護されてきました。商売の枠組みを超えた、あのように誰からも理解されにくいが、しかしとても必要な取り組みの恩恵を既に受けて、その愛情に守られて、何とか大人になれたのだと思います。それをどのように次の世代にまたバトンを渡していくのかは、そのように守られてきた僕達自身の責任でもあると思っています。

僕自身も相変わらず、儲かるわけのない塾をやっているわけですが、誰かを、あるいは何かを「外部」として切り捨てることのないように、必死に頑張って行こうと思っています。

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