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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

普段温厚な人がキレると、なぜ私たちは怖く感じるのか。

素朴な疑問として、普段温厚な人がキレるとなぜ私たちは怖く感じるのかについて、考えてみたいと思います。

もちろん、まず最初に言えるのは「いつもと違う」ということがこれから起こる事態の予測可能性を大きく下げる、という事実に対して恐怖を感じるという理由です。人間は基本的に繰り返すこと、ルーティーン化することで自らの注意力を落としてでも目の前のことに対処できるようにすることで日常生活を送っています。だからこそ、その今までの習慣が通用しなくなる事態に関しては、根本的に恐怖を感じやすいからです。それは今までに習慣化してくる中で不要としてきた自身の注意力を再び喚起しようとする自己防衛本能のようなものであると思います。

ただ、これだけが理由ではないのかな、と僕は思っています。普段温厚な人がキレる時、私たちは「彼or彼女が怒っているのは、彼or彼女の側に怒る原因があるのではなく、私の側に怒らせる原因がある。」という事実に思い当たらされる、ということも大きいのではないかと思います。裏を返せばいつでもなんでも、細かいことにプリプリ怒っている人は、目の前の人に対して「怒るべき事実が今ここに存在している」ということを伝えることができません。普段怒らない人が怒るからこそ、それが怒っている主体の属人的な要素ではなく、怒るべき(あるいは怒られるべき)事実がここにある、という事実の提示に繋がるのであると思います。その「怒られるべき」事実の提示に対して自分から反省がなされれば健全ではあると思うのですが、反省をする、というのは大人になればなるほどできなくなるものですから、自分が反省すべきことはない、という前提に立った上で、目の前に提示された事実の解釈として「怖い」という反応が起きるように思います。

このことを教育に引きつけて話せば、普段から何もかもを厳しく取り締まる先生の言うことは生徒たちにとっては「何もかもをきちんとやらねばならないのだ!」という気づきには全く繋がるどころか、「あの人はそういうウルサイ人だね!まあ、気にしなくていいや。」という反応になります。逆に自分たちに自由を認めてくれたり何でも任せてくれる先生が「でも、これだけはきちんと守れ!」という時には、どのように幼いあるいはやんちゃな子供であっても「これは守らなければならないルールだ!」と必ず認識します。厳しい注意が注意する側の属人的な要素であるのか、それとも大切な事実の提示であるのかを彼らは賢くも判断している、ということになるわけです。だからこそ、親や教師にとっていちばん大切なことは、いかにガミガミ言わないか、言うとしてもその頻度をいかに落とすことができるか、であるのです。

このように教育的効果を考えれば、怒る、あるいは注意するというのは出来る限り頻度を落とした方がはるかに効果的である、という結論になります。「うちの子は何回言っても言うことを聞かない!」ではなく、「うちの子に何回も言えば言うことを聞くわけがない」のです。「何回も言う」ことが、そのことへの注意や関心を低下させ、それが重大な事実の提示ではなく、単にその人がうるさい人だから怒っているのだ、という結論につながってしまうのだと思います。大切な注意をより効果的にするためには、普段から注意する頻度を出来る限り少なくすること、子どもたちの自発性を出来る限り尊重した上で、それでもここは直さなければならない、というところに関しては決して譲らずに注意をしていく、ということが必要であるのです。

ここまではまあ当たり前の結論なのですが、さて、なぜ親や教師は何回もガミガミと怒ってしまうのでしょうか。もちろん、これには様々なくだらない理由もあります。算数の掛け算の順序の強制や、分数の線や筆算の線を引くのに定規を使わせる、などはその代表例でそれらは主にその指導の合理性を度外視して、子供たちに盲目的な従順さを学ばせるための指導になってしまっていると思います。
これらの論外な指導はひとまず脇において、その「ガミガミ」を起こしてしまう理由の中で一番問題であるのは、「完璧主義であること」です。そして、その完璧主義とは子供のためではなく、主に教える側のためであることがとても多いと感じています。子供達が何か「正しくない」ことをしていると、自分が気になって仕方がない。あるいはそれを今指摘しておけば教える側の自分の責任は果たしたと逃れることができる。だから、それを直させなければ気が済まない、というものです。このような矯正は主に「間違いは間違いなのだから、早く直した方が結局その間違いを続けなくて良い!」という考え方に基づいているという意味では基本的には子供たちへの愛情に基づいているとも言えます。

しかし、僕の実感としては、子供たちが間違いを犯している時、その間違いには必ず必然性があります。だからこそ、その間違いを形式的に矯正することは子供たちにとっては「理解できていないものを受け入れる」ことにつながってしまうのだと思います。ここでも大切なのは、間違いの指摘がそれを注意する側の属人的な判断だと思われないように、間違いを指摘することが「事実の提示」になるように気をつけていくことです。それが事実の提示になるためには、もちろん理解をしてもらえるように説明を尽くしていくことも大切であるのですが、そもそもそれでは通用しないという事実を子供たちが感じられるようになるまで、教える側がじっと待つことが必要となるのです。

このように書くと「もう十分待った!それなのに気づかないんだから教え込むしかないではないか!」という反論ばかりが起きるようにも思うのですが、教えていて反省させられことが多いのは、自分を含めた教える側がその「待つ」ということがいかにできていないか、いかに結論を急いでは子供たちに考えさせないことをしてしまっているか、ということの方です。「事実の提示」をしていくためには、事実をして子供たちに語らしめねばなりません。それはまた、子供たちの試行錯誤を徹底的に認めていく、ということでもあります。


温厚である人が怒りを表明するときには、我々はその人の怒りが属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推します。同じように、子供たちに私達が注意をすることが、決してその注意が属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推させられているのか。それを親としても教育者としても絶えず反省していかねばならないと思っていますし、そのような親子の行き違いから子供のことを良かれと思ってガミガミ言ってしまっては結局子供にとっても親にとっても不幸になってしまっているご家庭に対しても、しっかりとこのことが伝わるように仕事をしていきたいと思っています。

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嘘をつく、ということについて

最近の国会を見ていると、嘘を平気でつき通そうとし、それで世間の関心が過ぎ去ってくれればラッキー!というケースが非常に多いように思います。子どもたちを教えていても、嘘をつくことが常態化してしまっているお子さんというのは一定数います。人はなぜ嘘をつくのか、なぜ嘘を嘘と認められないのかについて考えてみました。

人はなぜ嘘をつくのか。そのきっかけは必ず「ある特定の人からの圧力」であると思います。嘘をつくことで現実の全てが変えられるわけがありません。それは当然嘘をつく側も最初はわかっているのです。しかし、ある特定の人からの追及あるいは要求が厳しく、それさえを凌ぐことができればいい、と感じる時、その特定の人に対して嘘をつくことが合理的な判断になります。なぜなら、その人の追及や要求さえ乗り越えることができれば、都合の悪い現実を変えようとすることよりも楽に結果を変えられるからです。あるいはそもそもそのように要求される現実が自分にとってまずい事態だと本人が感じていなければ、なおさら嘘をつく動機というのは強くなります。

これは具体的には「勉強しなさい!」と口うるさく厳しい親や教師に対して嘘をつく子供を考えてみればイメージがし易いと思います。子供にとっては勉強をしないでいることで自分が被る不利益や失敗、というのは全く具体的にイメージができていません。その状態で親や教師が口うるさく「勉強しなさい!」と言えば、当然勉強をしているフリ、あるいはしているという嘘をつくようになります。

このような事態を避けるためには、子どもたちになぜ勉強をした方がよいのか、そもそも勉強をしないとどのように困るのか、あるいは勉強をしたふりをしていたとしても、結局それでは通用しなくなる時期が(たとえば入試などのように)必ず訪れるはずであり、そのように嘘をついてはその場をやり過ごすことが結局問題の先送りになるだけであり、何も事態の解決になっていない、ということを理解してもらえるようにしっかりと説明していくことが必要となります。

裏を返せば、子どもたちがそのように嘘をつく時、その嘘をつかせているのは子どもたち自身にその意味を納得させることなく、努力を強要している親や教師である、という事実に親や教師は目を向けるべきであるということです。自分ではそれをやる意味を感じられないことを強要されてもそれを努力する、ということは子どもたちにとってもまた合理的な行動ではありません。

「自分が必要性を感じないことであっても、ある特定の人達はそれについて努力するようにうるさく言ってくる。だからこそ、そういう人だけやり過ごすために嘘をつくのが一番合理的だ。」このように考えるからこそ、彼ら彼女らは嘘をついてサボるようになるのだと思います。

また、嘘を嘘と認められないのは、それを認めてしまえば最後、自分が嘘をついたという罪を認めるだけではなく、自分の現状認識、自分の世界認識の誤りをも認めざるをえないからです。嘘をついた相手に対しての罪の意識があるのはもちろんとして、そもそもそのような嘘が自分の現状認識や世界認識自体の誤りから来ることを認める、というのは自分自身のidentityを根底から覆される苦痛を伴います。だからこそ、一度嘘をついた人はそのような現状認識、世界認識を継続することの誘惑に屈し続けていくのです。

だからこそ、親や教師に求められるのは、子供が嘘をつくことをあげつらったり批判したりする態度ではなく、子どもたちの現状認識、世界認識に働きかけていかなければ結局根本的には改善しないといえるでしょう。それでも受験生は「受験」というごまかしの効かない壁とぶつかって不合格になります。その意味では自分の誤った現状認識に気づく機会を強制的に与えられているだけ、大人よりは自分の誤った認識に気づきやすいのかもしれません。


翻って国会の話に戻れば、なぜ官僚が嘘をつくのか、といえばそれは恐らく官邸からの指示があるのでしょうが、なぜそのような指示を官邸が出すのかと言えば、「うるさく言ってくる特定の人(この場合は野党や一部の国民)さえやりすごせば、今までの行いを変える必要がない。」と認識しているからです。つまりネポティズムも公文書改ざんも日報隠蔽もセクハラも本質的には改める必要のない問題だと認識をしており、ただそれが「うるさい人たちからは追求される材料である」ことだけは自覚をしているので、嘘をつく(官僚につかせる)、という構造になってしまっているように思います。このような嘘がつかれ続けている、という事実自体が嘘をつかせている側がどのような認識で政治を行っているのかを如実に語っていると思います。教育であれば、その本人の認識を変えるように親や教師は努力をしなければならないわけですが、政治においてここまでの経緯を見てくれば、そのような本人の現状認識を変えることは難しそうです。

だからこそ、個別の戦術として「嘘をつくこと」をあげつらうことは野党側にも必要なのかもしれませんが、より根本的な問題としては「なぜこのような嘘をつくのか」というそのattitudeの方を問題にしていくことが大切であると思います。嘘をつく、とは「嘘をついてうるさい人さえやりすごせば現状のままで問題がない」という認識の現れであり、それがネポティズムも公文書改ざんも日報隠蔽もセクハラもまるごと追認することになっている、という暗示を含んでいるからです。

嘘をつき続けているという事実こそが、圧力をかけてきている「特定の誰か」さえやり過ごせればよくて根本的には反省し改善をしていくつもりがない、ということを示しています。逆に言えば(追い込まれて渋々認めるのではなく)自発的に嘘をつくのを辞めたときこそが、今までの自分たちの現状認識を改めようと決意した瞬間になるのだと思います。現状の政治状況について言えば、残念ながらそうなっていないだけでなく、そうなる兆しも全く見えていないことについては、やはり我々一人一人が決してゆるがせにすべきではないと考えています。

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自称進学校に騙されるな!その2

前回の続きです。

前回はいわゆる自称進学校の特徴として、

①大量の宿題・小テスト・補講、その他を強制し、生徒の自由に自習できる時間を際限なく奪ってくる。受験生の時間を管理さえすれば受験がうまくいくと勘違いしている。
②自校の生徒のレベルに合った教材ではなく、一般に難関大学受験に必要とされる教材をひたすら繰り返しすことを要求する。それで力がつかなければ受験生本人の努力が足りないことにされる。
③理解よりも暗記を重視する。
④これらの指導に対して全く反省がないことの証左として、そもそもカリキュラムの見直しすらあまり行われていない。そのくせ、「うちの学校でしっかり勉強していれば塾や予備校は必要ない!」と豪語する。

という特徴を挙げました。自分の通っている高校が、このような特徴をもっていると感じる高校生は間違いなく今すぐ逃げた方が良い、またそのときにどのように自己防衛をしていくか、ということも書きました。

今回は、では「自称」ではない進学校、誰もが知っている有名進学校はそのあたりのことをちゃんとクリアしているのでしょうか。(もちろん僕自身の通った経験だけでなく、教える中で見聞きする「有名進学校」の進め方を踏まえてのものですが、個人的な観測の範囲での考察に過ぎない点はご容赦いただけたら。)

これも結論から言うと、あまり良い指導をしているとはいえません。
上の①から④の問題点のうち、有名進学校でその問題点を免れているのは①と、かろうじて③です。①に関しては、高校生の自由になる時間が自称進学校よりはだいぶ多いと思っています。また、③に関しては意識的ではないにせよ、
そもそも授業を行う能力の高い先生が多いことから自然とそうなっているかもしれない、という弱い傾向はあるように思います。

一方で②の教材選びやカリキュラムづくりの雑さ、④の「学校の授業をきちんと聞いていれば…」という根拠のよくわからない自信に関しては、いわゆる有名進学校でも同じです。結局①の受験生に自由に自習する時間を多くすることと、母集団のレベルの高さで進学実績に差がついている程度で、実は有名進学校であってもカリキュラムに関してはかなり雑であり、あまり教師の力量や計画設定とその学校の進学実績とは関係がないと思っています。

そもそもこれらの有名進学校では塾や予備校に通っていない子の方がはるかに少ないわけで、(僕の通っていた学校でも塾や予備校に行かないで受験をする子、ましてやそれで合格する子というのは恐らく学年の1%いるかいいないかであったと思います。)自称進学校の先生たちが真似をするのであれば、有名進学校の先生の真似をしてもあまり意味がないわけです。そこをわからずに教材だけを真似して、この中でいちばん重要な要素である①を削ってそれを叩き込めば有名進学校にも負けない合格実績が出る!と思ってしまっていることが自称進学校の失敗であると思っています。真似をするべき対象が違うだけでなく、有名進学校で唯一その学校が受験生の勉強に役に立っている「自由時間」を削ってしまっているわけですから。

また教材選びの失敗、というのも極めて根の深い問題です。どのような教材もどのレベルの受験生にとっても「この一冊さえ完璧にすれば!」というものはありません。言い換えれば受験生のレベルに応じてその教材が最適であるかは変わってきます。自分のレベルにあっているのであれば、先に上げた青チャートやNEXTAGEもまた、素晴らしい教材になります。逆に合っていなければ、どのように素晴らしい教材も受験生にとっては時間の空費になってしまうことになります。教師にとって必要なのは、一様な教材を全ての生徒に同じように押し付けることではなく、一人一人の生徒の現況を精密に把握し、その上でその子にとって必要な教材を紹介してはそれを進めていくように促していくことであると思います。

小テストや宿題それ自体が悪いわけではなく、そのようにその子の実力に合った教材を進めていく上でのペースメーカーや
強制力になるのであれば、それはまた有効なツールでもあります。問題は、一人一人のレベルを把握し、その一人一人に合ったレベルの教材を選べていない状態で行われる全ての宿題や小テストは、受験生の時間の空費にしかつながらない、ということであるのです。

つまり、この自称進学校の失敗、というのは実は自称進学校に限らない根の深い問題を提示してくれていると思っています。自称進学校であれば、有名進学校であれ、あるいは有名予備校であれ、このように今自分が鍛えていくべきレベルから外れたものをやらせる時間、というのは基本的には全て無駄になる以上、教師にとって必要なのは教える力以上に、その子にとって何が必要であるのかを分析し、見抜いていく力であるということです。

だからこそ、高校での進路指導の先生、あるいは予備校でのチューターという制度の軽視が僕は問題であると思っています。一人一人の生徒の各科目の(あるいは科目ごとに一人でも構いませんが)力を把握するだけの力量のある教師が各学年に一人、つけられれば、そしてその子にとって今必要なトレーニングが何であるかを的確に答えられ、指導できるのであれば、それこそ進学実績は驚くほど上がるはずです。ケンブリッジ大やオックスフォード大でもsupervisor(tutor)とlecturerとを両方用意していて、tutorも非常に重視されているらしいですよ!(これは以前に書きました。こちらを参照していただけたら!
日本ではlectureが全てで、lecturerだけが偉い!と勘違いしている分だけ、supervisor(tutor)としての役割というのがあまり鍛え上げて来られることなかったため、教育システム全体が上意下達のいびつになってしまっていると思います。そこはケンブリッジやオックスフォード、あるいは嚮心塾(!)に学んでも良いのではないでしょうか。

そしてこのことは実は受験生の自由時間のこととも関連しています。教師がそのように一人一人の生徒に今彼ら彼女らがやるべきことを的確に提示できるのであれば、自由時間が多くても、受験生は自分から努力するものです(嚮心塾を見学に来る親御さんは皆、塾での受験生たちの真剣に勉強している様子に驚きますが、これは僕がはっぱを掛けているからではなく、彼ら彼女らにとって「今やるべきもの」を提示していくことによるものだと思っています。)。「受験生が努力をしていない!よし!小テストだ!補講だ!宿題だ!」と近視眼的な解決を目指すのではなく、受験生が努力をしていない理由は自分たちのカリキュラムがその子にとって合っていないのではないかと悩み、一人一人に対してより的確なカリキュラムを練り直していく謙虚さのある教師こそが必要とされているのだと思います。逆に言えば、大人は勉強をしたいと思う高校生の邪魔をしないことが大切であるのです。

話が長くなりました。自分にとって何が足りないかを分析しては、それを埋めるための努力をしていく、という
こと自体は実は受験勉強に限らず一生必要なことです。大学受験はそのような姿勢と方法を学ぶとてもよい契機であるからこそ、高校生の皆さんには、自称進学校であれ、有名進学校であれ、どのような高校に通おうとも学校側の押し付けをまるごと信用せずに、一つ一つ吟味し、自分に足りないものを分析した上で、しっかりと自分自身を鍛えてほしいものだと思っています。

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自称進学校に騙されるな!その1

twitter でも書いたのですが、より精密に書こうと思ってブログに書きます!
https://twitter.com/kejekichi/status/984952914308460545
こういうのって当たり前すぎて、つい繰り返し言いたくなくなるのが僕の悪い癖なのですが、しかし繰り返し言っていかないと犠牲者が増えていってしまいます。僕の敬愛するサンボマスターの山口隆さんは「愛!」「平和!」「死ぬな!」とバカみたいな熱量でバカみたいに繰り返してばかりなのですが、その「大切なことは何度でも繰り返して主張する」という「バカさ」がこの社会には大切であり、必要であるのだと思っています。特に勉強の仕方に悩む高校生に読んでもらえたら嬉しいです!

発端はtwitterで高校生が自分の学校で「勉強部」(という名目の生徒に全生徒に強制的に勉強をやらせるしくみ)が発足したことを受けて、これが「決定的な自称進学校の証」!として見せていたのに暗澹たる気分になったことでした。これに関してはわかりきっていることとは言え、現役の高校生たちは何を信じていいのかわからないだろうから、しっかり書き残しておきたいと思います。

自称進学校の特徴として、

①生徒の自由な時間をとにかく奪う。小テスト、強制的な「自習」時間、長い授業、宿題などなど。大学受験生にとって一番必要なのは自分で勉強をする時間です。その受験生の弱点は受験生本人が一番良くわかっているからです。その時間を奪うことで合格率が上がると考えている高校はまず怪しいと思ってください(これは予備校にも言えることです。講義をひたすらとることを推奨する予備校も同じです。自分で勉強する時間を十分に作ることが受かるためには必ず必要です)。

②しかし、そこでやらせている教材が極めて的外れである。出口から逆算して「これができれば東大にも受かる!」(目の前の生徒たちにとって今それが必要かどうかは考えていない)という主張を繰り返し、レベルにあっていなくても繰り返せばそのうちできる!と話し合う余地がない。もしそれをやっても力がつかなければ「それはお前の努力が足りなかったからだ!できる子はできるようになっている!」と生徒のせいにする。「数学なら青チャートをやれば大丈夫!」「英語ならNEXTAGE(vintageでも可)をやれば大丈夫!」と言っている指導は、ほぼ的外れです。嚮心塾ではこれを「青チャート信仰」「NEXTAGE信仰」と呼んでいます。

③とにかく理解よりも暗記を強いてくる。二言目には「覚えろ!」と言う。これも青チャート信仰やNEXTAGE信仰と通底するものです。これは、暗記はすぐに抜けるが理解はなかなか抜けない、という勉強のセオリーを無視したやり方です。

④そして、これらは彼ら自称進学校が「塾や予備校の要らないサービス」として提供しているつもりであるので、
むしろそれによって進学実績がでていることを盲信する。自分たちのカリキュラムの不備についての反省を少しもしない。

というのが主なものでしょうか。このような特徴に当てはまる高校に通っている高校生の皆さんは、今すぐ逃げたほうがよいです。「逃げる」というのは、(もちろん高校をやめられればよいですが)現実的には難しいと思うので、学校の先生の言うことを聞かずに自分で自分の勉強に何が足りないかを考え、それを補えるような勉強をしていく、ということです。その際に重要なのは

①勉強に王道はないことを肝に銘じることです。基礎ができていない子がいきなり東大レベルだの発展レベルだのを繰り返してもできるようにはなりません。だからこそ、どのレベルからやるかを迷うのであれば、必ず基礎レベルから固めたほうが良いと思います。(これもごくたまにとても優秀な子は難しいものを繰り返すだけでできるようになります。しかし、それは僕の指導経験からいってもきわめて稀なケースです。かつ、(結局難しい教材をじっくり読み込んだり調べたりしていかなければならなく、かつ繰り返しを必要とするので)そもそもそれがあまり時間短縮になっていないケースが多いです。難しい教材から始めることは、実力がつく可能性が低く、かつ可能なときにもそんなに効率的ではありません。)

②学校は卒業できる程度に成績さえとっておけばよい、と割り切ることです。推薦入試とかを狙うのでない限り、学校の成績で受験の合否に影響はありません。あなたが既に学校の成績が優秀であるなら学校の勉強で基礎を作っておいて、そこから受験勉強をしていく、という道もありますが、一旦学校の勉強についていくのが精一杯、となるとむしろ学校の勉強は落第をしないぐらいにとどめておいて、①に書いたように自分の弱点を基礎から積み上げていくことのほうが受験にとってははるかに有益です。また、それがしっかり積み上がっていけば、学校の試験も何もせずに成績も上がっていきます。

③暗記よりもとにかく理解を優先していくこと。もちろん基本的な公式や定理は覚えなければなりませんが、それ以外の覚えるべきものは直前でも間に合います。逆に理解をしていなければ、いくら覚えても覚えたものはすぐに抜けていきますし、穴の空いた水槽に水を注ぎ込むように、努力が実力に結びつかないまま時間を空費することになります。

④この①②③をご両親に理解してもらうことです。基本的に親御さんは学校の成績を気にします。学校の成績が良くても大学受験には通用しないとしても、です。だからこそ、これに関しては自分の計画や今やっていることを説明して理解してもらわないと、「自称進学校」の(間違った)「熱血指導」に対して、親御さんも敵にまわしてしまうことになってしまいます。親御さんに理解してもらい、味方になってもらうことが大切です。

以上のことに気をつけて、自分の将来をしっかりと自衛していくことが大切です。
「俺の言うとおりに勉強すれば受かる!」とあなたに青チャートやNEXTAGEを強制する学校の先生たちもそれを忠実に守るあなたが受験に失敗したとしても、何のお詫びも言ってくれません。何か補償をしてくれることもありません。むしろ「方法は正しかった。お前の努力が足りなかった!」と言わんばかりです。そしてそれは当たり前であるのです。彼ら彼女らに、受験に合格するための方法などわからないからです。だからこそ、自分の将来は自分で自衛することが大切です。

そして、それを一人でやっていくことに自信がなければ、是非嚮心塾に!というのは宣伝なのですが、
僕としてはそのような自称進学校が少しでも減っていってくれることを切に願っています。
若い世代の貴重な時間をあまりにも無駄なことに空費しすぎている。。そのことで彼ら彼女らがどれほど
可能性のある将来を諦めざるをえなくなっているのか。このことに関してはこういった指導に疑問を抱かない
高校の先生の行いを僕は犯罪的である、とすら思っています。

ではいわゆる有名進学校で行われる指導は正しいのか?についてはまた続編を書きます!

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2018年度講師紹介

今年度は3人の卒塾生の先生に塾で質問に答えていただきます。その先生方をご紹介します。

K・K先生(東京農工大学農学部3年生)   水曜担当 (指導科目:英・数・生・化) 
(自己紹介)
東京農工大学農学部応用生物科学科3年生です。大根踊りはしません。生物と化学が比較的得意です。英語は頑張って勉強します。無害な見た目なので気軽に話しかけてください。また、応援が必要な時は呼んでください。元気になるまで励まします。本当に無力な私ですが、少しでも力になれれば嬉しいです!よろしくお願いします。
(塾長からの紹介)
K・K先生は高校生の頃から元々とても優秀だったとは思うのですが、それを持て余しては努力の方向性を見失っている印象を初めは受けました。しかし、塾で一年間学ぶ中で、極めて謙虚に自らの足りないところを埋め続けていきました。その謙虚に努力をする姿勢が結実して、センター試験では塾の11年の(実力のある受験生の多い)歴史の中でも、歴代で最高点近くをとるほどに、力をつけました!その謙虚に努力を続ける姿勢で、皆さんの悩みや疑問に対しても真摯に取り組んでくれると思います。

O・S先生(東京医科大学医学部医学科3年生)   (指導科目:英・数・物・化)  
(自己紹介)
私立医学部専願だったので、文系科目は全くできません。高3の夏休みを数学に使い、冬休みから無機化学や熱力学に手を出すというなかなかな破綻ぶりの受験だったので、勉強や受験に対する上手いアドバイスが出来るとは限りませんが、相談や質問には一生懸命答えます。気軽に質問しに来てください。よろしくお願いします。
(塾長からの紹介)
O先生は高1の終わりに入塾してくれましたが、入塾当初は緩みに緩みきっていて、Battlefieldというゲームの世界から現実というフィールドに彼を復帰させるのにとても苦労しました!しかし、そんな彼もだんだんと(まずは好きな科目から)受験勉強に真摯に取り組むようになり、医学部現役合格を無事に果たすという離れ業を見せてくれました。他者の痛みや悲しみも自分の痛みや悲しみとして感じることの出来る(外見のチャラさからは想像の付かない)素晴らしい人格があったからこそ、目の前の受験にも彼は真摯に取り組めたのだと思っています。その姿勢で皆さんにも接してもらえたら嬉しいと思っています。

I・M先生(東京大学教養学部理科1類1年生)   (指導科目:英・数・物・地)
(自己紹介)
物理と地学が好きです。化学は勉強中です。質問に対して完璧な答えをすぐに出すことができるかどうかはわかりませんが、みなさんが納得できるまで一緒に考えたいと思いますのでよろしくお願いします。私にできることなら何でも役に立ちたいので、いつでも相談、質問してください。
(塾長からの紹介)
I先生は好奇心旺盛で向学心が強い反面、自分が興味を持ちづらいことに対しては自分を鍛えたがらないという傾向が当初はありました。それを浪人生活を通じて克服しようと懸命に努力を重ね、それが学力にも結びつき、余裕を持って合格できるだけの力がつきました。勉強だけでなく、他人の痛みや苦しみがとてもよくわかる理解能力の高い先生であると思います。是非何でも相談してもらえたら嬉しいです。

以上の3名の先生方です。いずれもただ優秀なだけではなく、人の心の痛みがよくわかる先生方だと思いますので、是非質問したり相談してみてください!
                  2018年3月14日  嚮心塾塾長 柳原浩紀

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