
私達が抱える得体の知れない感情をなんらかの形へと言語化することで、私たちはそれに耐えられるようになります。それは「気づき」としても捉えられるもので、言語化できていないことによって自らを押しつぶすような感情を言語化することで、その正体や特性、由来に気づき、そして具体的な対処法を考えることができる、ということです。
しかし、一方でこのような言語化が上手に出来ればできるほどに、逆に苦しくなっていく部分も私達の中には確かにあります。それは「怒り」「悲しみ」「迷い」「恐れ」などといった名前には分類し難いものを、どこかに整理していくことによって、その正体をひどく小さなものへと押し込めてしまったり、そこで貼ったラベルに実態とのずれがあったとしても、それに関してはそれ以上考えないようにしてしまうがゆえに、その違和感が新たなラベルを貼ることへの恐れを生み出すことになります。
いや、それはまだマシな状態なのかもしれません。私たちは自分たちがつける名前と実態とのズレに気づいて名付けることに恐れを抱けるほどに自分の名付けに自覚的であることのほうが遥かに少なく、殆どの場合において自分が名付けた名前からフィードバックを受けて、あたかも自分がその感情を抱いているかのように生きてしまうことの方が多いのでしょう。「この感情を喜びという。」「この感情を悲しみという。」というように定義されたマナーとしての感情、他者に見せるためのものとしての感情を私たちは生きることになります。そして、それは名前を与えられているがゆえに、自分のものではなくなります。
たとえば、最初の段落で書いたような「分析」や「定義」は本来自分自身を把握するためのツールとして導入されたはずであるのにもかかわらず、そのような「分析」や「定義」はやがて自己を疎外して、自分の中の部分を他者にも理解できるような部分へと分解していきます。自分の中のある部分が他者へも理解できるように分解したときには、もはやそれはそもそも自分そのものではなくなるかもしれない、という恐れを一旦は無視して、です。それが「とりあえずはその差異は無視しましょう!」という態度のもとであればよいのですが、そのような定義は自分自身をも縛るものとなっていきます。
そのようにして私たちは自己疎外の状態(自分が自分ではなくなっていく状態)へと陥っていくと言えるでしょう。
しかし、かと言って私達の抱える感情を言語化せずに未分化なまま、放っておくこともまたむずかしいのです。それは、対処できるものまでも致命的なものへと放置してしまうでことにつながります。
人間は自らの感情に名前をつけながら感情を飼いならしていかなければならないと同時に、自らの名前をつけた感情が本当にその名前で合っているのか、全てを汲み尽くせているのかを絶えずチェックしていかねば自分で自分をコントロールしているつもりで自分ではないものへと自分を作り変えてしまっていることになってしまう。本当に難儀な生き物です。
だからこそ、未分化の感情を呼び覚ましてくれるものは、「自分を閉じ込めていた狭い檻はあくまで自分が作ったものにすぎないのだ!」という気づきを与えてくれるだけではなく、また新たに名前をつけよう!定義をしていこう!という勇気を与えてくれるものでもあります。それは自分のことをわかっていたつもりでわかっていなかったことに気付かされ、自分を再定義する力を与えてくれます。それは私達の理性によって私達が把握する自己が全てではない、ということを見せてくれることから、世界の可能性に対してもう一度考え直させてくれる、という力を持ちます。優れた学問、優れた芸術がこのような力を持つということに関しては勿論言うまでもないわけですが、そもそもこのような可能性というのは(当たり前ですが)優れた作品だけに宿るものではなく日々のやり取りの中でもそれを感じさせてくれる人、というのはいるわけです。
嚮心塾で行っていることに少しでも教育的意味があるのだとしたら、僕はこの名前をつけていく作業よりもむしろ、名前をつけ得ないものに寄り添う作業であると思っています。名前をつけて定義していく事自体はとても重要なことではあるのですが、それ自体はまあ多少言葉の力があればできることであるとも思っています。問題は他者の中の「名前をつけえないもの」に対してどう寄り添うのか、それこそが極めて難しい、ということです。それは自分、あるいは相手の未分化の感情に対してどれほどの敬虔さがあるのか、ということでもあります。
それはすなわち人間にとって、理解を伴わない共感とは存在しうるのか、というように言い換えてもよいと思います。相手の思いを理解して、共感をするということが第一のステップだとしたら、相手の思いを理解できないけれども共感をする、ということがどのように人間には可能であるのか、ということが問われているのだと思います。「いやいや、理解して共感するのに越したことはないだろ?」というのはもちろんです。ただ、相手の思いを理解して共感する際には相手の思いを自分の中で理解できているものへと矮小化するという行為がどうしてもつきまといます。そのように相手の全体を理解できるパーツへと細分化し、自分が理解可能な断片へと貶めた上で相手を理解しようとすること自体が、目の前の相手への暴力につながることもまた多いのだと思います。
教育には、相手の全体を受け止める決意が必要になります。もちろんそれはただ寄り添うだけではやはり無責任であり、部分部分をこちらから名付けたり、相手自身にそれを名付ける練習をしてもらったり、という作業の中で茫漠とした悩みに押しつぶされそうになる一人一人にそのような悩みと立ち向かう術(すべ)を身につけてもらうことがとても大切です。しかし、そのような切り取り作業自体が本質であると思えば、「教育術」になってしまい、あまり意味はないのだと思います。そのような切り取り作業はあくまで現実を生きるためのツール、あるいは自己に対するより精緻な全体像へと近づくための仮説の構築にすぎないということを決して忘れないようにする。それが人間に対してとことん向き合うときには必要になってくるのだと思います。
言葉にならなくて苦しむだけではなく、言葉にしてもまた、そのことゆえに苦しまざるをえなくなる。全く人間というのはしんどい生きものです。その形にすることの暴力性にも、形にしないことの暴力性にもしっかりと耳を澄まし、心を開いていきながら、何とかこのしんどい作業に耐え抜いていきたいと思っています。
しかし、一方でこのような言語化が上手に出来ればできるほどに、逆に苦しくなっていく部分も私達の中には確かにあります。それは「怒り」「悲しみ」「迷い」「恐れ」などといった名前には分類し難いものを、どこかに整理していくことによって、その正体をひどく小さなものへと押し込めてしまったり、そこで貼ったラベルに実態とのずれがあったとしても、それに関してはそれ以上考えないようにしてしまうがゆえに、その違和感が新たなラベルを貼ることへの恐れを生み出すことになります。
いや、それはまだマシな状態なのかもしれません。私たちは自分たちがつける名前と実態とのズレに気づいて名付けることに恐れを抱けるほどに自分の名付けに自覚的であることのほうが遥かに少なく、殆どの場合において自分が名付けた名前からフィードバックを受けて、あたかも自分がその感情を抱いているかのように生きてしまうことの方が多いのでしょう。「この感情を喜びという。」「この感情を悲しみという。」というように定義されたマナーとしての感情、他者に見せるためのものとしての感情を私たちは生きることになります。そして、それは名前を与えられているがゆえに、自分のものではなくなります。
たとえば、最初の段落で書いたような「分析」や「定義」は本来自分自身を把握するためのツールとして導入されたはずであるのにもかかわらず、そのような「分析」や「定義」はやがて自己を疎外して、自分の中の部分を他者にも理解できるような部分へと分解していきます。自分の中のある部分が他者へも理解できるように分解したときには、もはやそれはそもそも自分そのものではなくなるかもしれない、という恐れを一旦は無視して、です。それが「とりあえずはその差異は無視しましょう!」という態度のもとであればよいのですが、そのような定義は自分自身をも縛るものとなっていきます。
そのようにして私たちは自己疎外の状態(自分が自分ではなくなっていく状態)へと陥っていくと言えるでしょう。
しかし、かと言って私達の抱える感情を言語化せずに未分化なまま、放っておくこともまたむずかしいのです。それは、対処できるものまでも致命的なものへと放置してしまうでことにつながります。
人間は自らの感情に名前をつけながら感情を飼いならしていかなければならないと同時に、自らの名前をつけた感情が本当にその名前で合っているのか、全てを汲み尽くせているのかを絶えずチェックしていかねば自分で自分をコントロールしているつもりで自分ではないものへと自分を作り変えてしまっていることになってしまう。本当に難儀な生き物です。
だからこそ、未分化の感情を呼び覚ましてくれるものは、「自分を閉じ込めていた狭い檻はあくまで自分が作ったものにすぎないのだ!」という気づきを与えてくれるだけではなく、また新たに名前をつけよう!定義をしていこう!という勇気を与えてくれるものでもあります。それは自分のことをわかっていたつもりでわかっていなかったことに気付かされ、自分を再定義する力を与えてくれます。それは私達の理性によって私達が把握する自己が全てではない、ということを見せてくれることから、世界の可能性に対してもう一度考え直させてくれる、という力を持ちます。優れた学問、優れた芸術がこのような力を持つということに関しては勿論言うまでもないわけですが、そもそもこのような可能性というのは(当たり前ですが)優れた作品だけに宿るものではなく日々のやり取りの中でもそれを感じさせてくれる人、というのはいるわけです。
嚮心塾で行っていることに少しでも教育的意味があるのだとしたら、僕はこの名前をつけていく作業よりもむしろ、名前をつけ得ないものに寄り添う作業であると思っています。名前をつけて定義していく事自体はとても重要なことではあるのですが、それ自体はまあ多少言葉の力があればできることであるとも思っています。問題は他者の中の「名前をつけえないもの」に対してどう寄り添うのか、それこそが極めて難しい、ということです。それは自分、あるいは相手の未分化の感情に対してどれほどの敬虔さがあるのか、ということでもあります。
それはすなわち人間にとって、理解を伴わない共感とは存在しうるのか、というように言い換えてもよいと思います。相手の思いを理解して、共感をするということが第一のステップだとしたら、相手の思いを理解できないけれども共感をする、ということがどのように人間には可能であるのか、ということが問われているのだと思います。「いやいや、理解して共感するのに越したことはないだろ?」というのはもちろんです。ただ、相手の思いを理解して共感する際には相手の思いを自分の中で理解できているものへと矮小化するという行為がどうしてもつきまといます。そのように相手の全体を理解できるパーツへと細分化し、自分が理解可能な断片へと貶めた上で相手を理解しようとすること自体が、目の前の相手への暴力につながることもまた多いのだと思います。
教育には、相手の全体を受け止める決意が必要になります。もちろんそれはただ寄り添うだけではやはり無責任であり、部分部分をこちらから名付けたり、相手自身にそれを名付ける練習をしてもらったり、という作業の中で茫漠とした悩みに押しつぶされそうになる一人一人にそのような悩みと立ち向かう術(すべ)を身につけてもらうことがとても大切です。しかし、そのような切り取り作業自体が本質であると思えば、「教育術」になってしまい、あまり意味はないのだと思います。そのような切り取り作業はあくまで現実を生きるためのツール、あるいは自己に対するより精緻な全体像へと近づくための仮説の構築にすぎないということを決して忘れないようにする。それが人間に対してとことん向き合うときには必要になってくるのだと思います。
言葉にならなくて苦しむだけではなく、言葉にしてもまた、そのことゆえに苦しまざるをえなくなる。全く人間というのはしんどい生きものです。その形にすることの暴力性にも、形にしないことの暴力性にもしっかりと耳を澄まし、心を開いていきながら、何とかこのしんどい作業に耐え抜いていきたいと思っています。



