嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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「掛け算の順序論争」に終止符を打てるか!

表題通りにかけ算の順序論争に終止符を打てるかどうかは別として、考えねばならないところまで議論を前進させられればと思います。

まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば

「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して

2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。

この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!

さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)

なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。

もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。

もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)

だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。

子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。

つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。

まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。

もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)

最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。

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愛とは何か。

この仕事をしていて、いつも痛切に感じられるのは親御さんが自分のお子さんのためにどれほど懸命に努力をされるか、ということです。自分の子供に対して本当に自分のことのように思い悩み、身を削ってなんとかしようとするその努力に対していつも心を打たれます。特に同じく2児の親でありながら、自分の子供を他人の子供よりもよけいに愛することの出来ない僕にとってはなおさら、ひとりひとりの親御さんの献身的・超人的な努力と愛が本当に眩しく見えます。

それとともにこの仕事をしていて痛切に思うのは、その愛情がいかにすれ違いしか引き起こさないか、という残酷な現実でもあります。どのように努力や思いを尽くそうとも、子供は親の思うとおりには育ちません。もちろん、方向性が親の望むそれでなかったとしても、その違う方向性へと向かう熱量が大きければそれはそれで子育ての「成功」であると僕は思いますが、それですらもなかなかに難しい、というのが現状であるのだと思います。その厳しい現実に傍目から傍観者として見るのではなく、そのすれ違う思いを何とか噛みあわせるためにこそ塾というのはあると思っていますし、その点で親御さんの協力者であるだけでも子どもたちの代弁者であるだけでもダメで、その両方をやりながら、何とかそのすれ違う思いを噛みあわせていきながら、子どもたちに自分たちの人生を自力で切り開く力をつけてもらいたいと思って日々やってはいるのですが、それがどのりょうに努力しようとも、本当に難しいことであると日々思い知らされています。こんなしんどい仕事だと最初からわかっていれば、絶対に選ばなかったのに!という思いで毎日全力でやっています(まあ、これは嘘ですね。初めから知っていて覚悟を決めて飛び込んだつもりでした。しかし、当初の僕の覚悟しかないのなら、とっくにやめているほどしんどいことだとは気づいていなかったというのが本当のところです)。

ただ、この仕事を続けていく中で、僕の中では「愛する」という言葉の定義がだんだんとわかってきているように思っています。自分が正しいと思うものを相手に伝えてそれを実行してもらおうとしても、相手がそれを正しいとは信じられない時にはそれは伝わり得ないわけです。それに対して「相手の考えがわけがわからない」とするのではなく、自分の中での「正しさ」の定義をそこでもう一度疑い直せるかどうかこそが、愛情の深さなのではないかな、と思うようになりました。その点でどのように懸命に相手を自分の理想とする「型」にはめようとしても、それが自分が相手にはめようとする「型」自体が本当に正しいのか、そのモデルが自分にはぴったりと合ったとして、違う人間である我が子にもピッタリ合うかどうかは実はわからない、という疑いをもてるかどうかこそがとても重要であるのだと思います。

もちろん、そもそも相手が何も頑張ろうとはしていない、あるいは頑張ろうとしていることのその密度が圧倒的に足りない、などということは批判をすべきでしょう。それをせずして「違う人間であるから何でも認める。」という姿勢をとるのは、単純に責任を放棄しているだけです。自分が必死に何らかの価値を追求し、そのために努力をしていることがそもそも必要です。しかし、それを必死に追求してきた自分の人生に一点の曇りがないとしてもなお、違う道へと同じかそれ以上の努力の密度で挑もうとする子どもたちを「選ぶルートが自分とは違うから」という理由で否定をしてはならないのだ、と思います。だからこそ、本当に子どもたちを愛する親や教師というのは、絶えず自分の価値観を疑うことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが親や教師として鍛えられる、ということとも同義であると思います。一つの真理や正義に安住するわけにいかない、という悩みこそが人間性を深めるものであると思うからです。

だからこそ、自分が何かの方向へと懸命に自分の人生を懸けて努力をすることは、その方向を疑うためでなければあまり意味がないのだと思います。方法的懐疑が目的へと堕した瞬間に懐疑は自己目的化してしまい、検証を伴わない懐疑がすべての努力の足を引っ張るだけという情けない事態になってしまいます。しかし、人間というのはどうしても心の弱いものであるので、自分が懸命にそれこそ人生をかけてやってきたことについては、そこに価値があると信じたくなるものですし、逆に何かを頑張りたくない人間にとってはその自分が頑張りたくないと思うものに価値が無いと信じたくなるものです。しかし恐らく現実は、どのような学問もどのような技術もどのような社会貢献も、私達が人生をかけてそこに投資をするほどには価値の無いもの(必ずその限界を伴うもの)でありながら、しかし、私達がそれを全くしないよりは価値が有るものであるのだと思います。その残酷な現実を少しでも検証していくために、私たちは私達の信じるものがそれほど信じるに値しないことを知るためにこそ、必死に努力をしていかねばならないのだと思っています。それこそが、一つの中心へと「帰依」や「信仰」のように収斂していくものではない、本当の愛情なのではないかと思います。その意味で愛は拡散的であるがゆえに、打ち捨てられゆくものであると言えるのではないでしょうか。広がり、打ち捨てられ、踏みにじられることを恐れずに、様々な作業仮説を疑うための努力を今日もしていこうと思っています。

もちろん、このように偉そうに言う僕が生徒たちの思いを踏みにじっていないのかと言えば、失敗ばかりであるのでしょう。僕は生徒達に話を聞いてもらうために叱る、あるいは怒るという手段をほぼ使いませんが(よく怒る教師は自らその武器を奪うことになります。オオカミ少年になってしまいますよね)、それでも「ここでこそ怒らなければならない!」とかなり精密に計算をして叱ったつもりが、その真意が全く伝わらずにただ相手の感情を踏みにじるだけになってしまう、という失敗だってよくあることです(まあ他の先生方と比べれば少ないのかもしれませんが)。しかし、叱ること、叱らないこと、あるいは相手を型にはめようとすること、あるいは型にはめようとしないこと、そのすべてが相手に対しての暴力になっていないかどうかについては、絶えず自覚的にチェックしていかねばならないと思っています。何が暴力で何が愛情であるのかは時と状況と相手によってすべて変わっていきます。だからこそ、「これが愛情だ!」「これが暴力だ!」などという安直な決め付けを自分に許さずに、絶えず考えぬいて行きたいと思います。

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映画『この世界の片隅に』の感想を書きました。

『この世界の片隅に』がとてつもなく素晴らしい映画であることなどは、もう僕のような映画オンチが語らなくても、国内のありとあらゆるクリエーターから映画評論家の方までありとあらゆる「うるさ方」が皆が激賞していることからもその凄さがわかるわけで、興行収入もだんだん「事件」と言えるくらいの伸びを見せていますし、改めてその紹介記事なんかこの受験も間近の忙しい時期に書くこともないかな、と思っていたのですが、そうは言っても塾の子や卒塾生に言葉の限りおすすめをしたところ、中には「そんなに言うほどいい映画?」という反応もあったため、「教え子の不明を鍛えるのが教師の役割!」「弟子の不始末は師匠の不始末!」とばかりに燃えてきてしまいました。なので、このとてつもなく忙しい時期に(本当にこんな記事を書いている場合ではないのですが)それでもその素晴らしさを紹介したいと思います。


とはいえ、「徹底した時代考証ゆえに、リアルさをつきつけられて実感してしまう!まるでタイムマシンみたいだ!」とか、「戦時下の普通の人の暮らしを丹念に描くことでかえって戦争の恐ろしさを実感させてくれる!」とか、「主演ののんちゃんの声と演技力が素晴らしい!」とか、巷で言われていることは言いません。もちろんそれらすべてに首を激しく振って同意したいところなのですが、そんなことはいろいろとネット上にある記事あるいはパンフレットやユリイカを読めばわかるでしょう。またクラウドファンディング云々、この素晴らしい映画を完成させるのに片淵監督を始めとして製作者の方々がどれほど「良い作品をこの世に出したい!」という思いでやってきたか、それが絶望的な状況からどのように奇跡を起こし続け、現在の大ヒットにまでつながったのか、あるいは主演ののん(能年玲奈)さんがテレビでの告知が事実上できない状態でそれでも彼女を主演に選んだということもまあ、いろいろ取材記事があるでしょう。それらも本当に激しく同意し、また心より感嘆と賞賛の声を上げたいのですが、それもここでは省きます。ここでは、そうした『この世界の片隅に』に対して起きる様々な賞賛以外の、僕の生徒たちに見てほしいと思う点のみに絞って書いていきたいと思います(なにせ、受験間近で時間がないですから!多少ネタバレもあります。ご容赦を。)。


僕が一番伝えたいことのいとぐちとして、容易に「感動した!」も「面白い!」も「泣ける!」も言えずに(事実として滂沱の涙を流しているお客さんはいるものの)皆、上映が終わったら無言で出て行く、というこの映画の凄さがあると思っています。アニメ映画というよりは、一人の人のドキュメンタリーを見せられたような、あるいは一人の人の半生をずっと聞かされたかのような重みをもって誰しもが映画館をあとにすることになります。そこでの捉え方はもちろんお客さん一人一人で違うのでしょう。しかし、その重みを抱えて、軽々しく「評価」をできない、という気持ちは恐らく見た人は誰でも抱えてしまうのではないでしょうか。


もちろん、映画は人の人生を描くものです。それは同じような時代を描いたアニメの『風立ちぬ』もそうでしたし、そもそもほとんどの映画は(英雄的であれ、喜劇的であれ、悲劇的であれ)一人の人の人生を描いた映画というものが圧倒的に多いでしょう。しかし、この映画ほどにその主人公の人生を感じさせられる映画というのは非常に少ないのだと思います。それが非実在の主人公であることを忘れて、私たちは自分の母親や祖母であるかのように主人公の人生を重く受け止めざるを得ません。それがアニメーションの技法によるのか、細かい日常の生活を描いていることによるのか、主義や主張ではない部分を描く時間が多いからなのか、何よりもそれらすべてを裏付ける徹底的な時代考証によるものなのか、そのどれもが原因であるのかはわかりません。しかし、主人公の人生を突き放して見ることのできないという印象を強く与えられることは間違いがありません。


世界は絶望に満ちているとしてもなお、絶望を希望とみなすことはできる。それをニーチェがキリスト教を揶揄したように「奴隷の道徳」とけなすことは簡単でしょう。服従が前提となる中での努力は抵抗への可能性を放棄しているがゆえの超人的な努力であればこそ、それは肯定されるべきものではなくむしろ否定されるべきである、というのもまた一つの聞くべき主張であると思います。しかし、この映画はその上でその批判に簡単には負けない強さがあります。戦争や革命など大きな歴史上の何かによっては決して変え得ない人間一人ひとりの中の何かを信じる強い気持ちが現れた生活が描かれています。だからこそ、そのようにすべてが茶番だと知りながら戦争に協力することも、そのために苦しい生活を強いられることも、すべて耐え抜けるのです。戦艦大和もまた茶番です。すべてが茶番だと知りながら、しかしその茶番の根底にはもっと深い何か、もっと譲れない何かがあることを信じていたわけです。しかし、それは生活者の茶番とは違い、国家の茶番の中には何もなかったと感じ、それに対して憤るあのシーンは、まさに一人の人間とそれが貢献すべきより大きな目的との齟齬を前にして、我々が常にぶつかる根本的な問題であると思います。一人の人間のために世界があるわけではない、ということの例証として導入されるあらゆる主義主張ですら(それは社会契約説のようにこの社会の成り立ちを正当性の観点から問いなおすことを始まりとして、民主主義や人権のような我々が最終的な答えとして今のところ受け入れているものですら)、一人の人間の懸命な生活と実感を超えるものではない、というこの知的生命体としての人間に課せられた矛盾。自身の存在を超える何かに恋い焦がれ、身悶えし、自分をも他人をもすべてを犠牲にして、それに対してこの身を捧げながらもまた、しかし、そこでどのように洗練された主義主張ですら一人の人間の懸命に生きる生活実感とくらべてどちらが重いのかが、実はかなり怪しいというこの「正義」を求めざるを得ない人間の原理的な限界と悲しさというものを、生活に心血を注ぎ、生活によってこの上のない破壊をも乗り越えようとしていく市井の人の姿としての主人公の人生は見せてくれます。その意味で、この映画は「地に足をつけさせてくれる」映画であると言えるのです。頭でっかちに「何が正しい」「何が間違っている」「何が良い」「何が悪い」というすべての議論を肉体としての一人の人間、生活者としての一人の人間へと引き戻す(恐ろしいほどの)力を持った映画であると言えるでしょう。その意味で、あらゆる批評を拒絶する力を持っていて、だからこそ皆「素晴らしい」しか言えなくなるのだと思います。


しかし、一方でこの映画は生活の中にこそ、また希望があることも最後に見せてくれます。失ったものがあるからこそ、得られる関係性もあるのだということにもまた。率直に言って僕は希望を持たせる映画というのは嫌いでした。以前に『風立ちぬ』をデイビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』と比べて書いた時にも、『ドクトル・ジバゴ』くらいの絶望の中に最後わずか光る希望、あのバラライカ(これは是非『ドクトル・ジバゴ』の映画を見てください!)くらいが僕にとっては人生の定義として精密であるように思いました。どんなに必死に生きてもどんなに努力しても、報われずに死んでいく中で、しかし、それが無駄死に、犬死にでも少しは伝わるものがあると信じることはできるのではないか、それがここまで40年生きてきた中での僕の実感にも近いところであると思っています。ただ、その違いは大した違いではありません。この『この世界の片隅に』という映画は生き続けることがどれだけ残酷であるとしても、生活とは生きるための手段ではなく、生きることそのものであるのだ、ということを私たちに見せてくれます。(「登場人物の死」を用いて「人生」を描くのか、「登場人物の生」を用いて「人生」を描くのか、という違いでしかないように思います。)


その意味で、『この世界の片隅に』は先に書いたようにあらゆる批評を拒絶します。どのようなこの映画の解釈もまた、一つの解釈であるとともに一つの解釈にすぎず、だからこそその文脈で語れば批判や不満を語ることができるものの、それではこの映画を語りきれないことになります。それはまるで多様な側面を持ち様々な功罪を持つ一人の人の人生を、ある側面から批判するかのような物足りなさを私たちに残します。先に挙げた卒業生の反応もまた、そのような一つの文脈から見て「このような映画あるよね〜」というものに過ぎません。それは部分的には正しいのですが、それだけにとどまらずにもっと様々な側面とそれを私たちに問いかける切実さを持つがゆえに、そのように一つの感想、一つの批評で片付けることのできない余韻を私達の中に残すのであると思います。


もちろん、どのような作品も完全ではありません。原作からの改変についての批判はまた別として、最も有効である批判としてはそもそも「一次資料に基づいた徹底的な時代考証によってリアルさを追求した」『この世界の片隅に』はあの時代の「正史(正しい歴史として認定されるもの)」になりえてしまうという恐ろしさがある、ということです。どのような切り口も、どのような徹底的な調査も、それによって描けていない部分、埋もれている事実に対して免れ得るものではありません。もちろんそれを作り手の方々はよく自覚して作られていると思います。ただし、あれだけのインパクトをもった名作になってしまうとどうしてもそれが「正史」になってしまい、それ以外の事実に関しては見落としてよいものだと肯定されてしまうところがあるかもしれません。それはこの作品が本当に素晴らしい作品であるからこそ、引き起こしてしまう問題です。


それとともに、もう一つ問題であるのは生活は人間の手段ではなく目的である、という主張と実践がどのように説得力を持とうとも、思想を持たざるをえない存在としての人間に対しての答えにはなり得ない、ということです。思えばディビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』は思想と生活との分裂(をラーラの元カレと今カレ(ジバゴ)の二人の登場人物を通じて対比させる)という悲劇を描いた作品でもありました。『この世界の片隅に』は原作のもつ思想性を削ってしまっている部分が、見方を変えれば「生活からの反撃」としてとても強力な作品になってしまったとも言えるでしょう。空疎な理想や言葉によって多くの人が犠牲になるということのバカバカしさを描けたとしてもなお、そのような失敗を踏まえてもなお、理想や言葉を持つことで人類史が進んできたこと、その中で我々は多少なりとも自由になってきたことは否定できません。あまりにも呆気ない敗戦を目の前にして、「そんなことのために戦ってきたわけではない」のが全く正しいとしても、「では何のために戦うべきなのか」という問いを放棄して「何のためにも戦わない」ことが正解になるわけではありません。それこそがアーレントの言うような「労働する動物の勝利」になってしまうでしょう。人間は知性を持て余し、その知性によって様々な暴力を生み出してはもっと大切なもの(生活、ひいては命)を踏みにじることは愚かしいことだし、許されることではない。しかし、だからといって考えないこと、正しいものとは何かを求めないことは人間にはできません。そのような「蓋(ふた)」の仕方からは、必ずいびつな形での表出を求める運動が始まってしまうでしょう。『この世界の片隅に』は地に足のついていないすべての言葉を破壊するという意味で、本当に素晴らしい映画です。しかし、そこから私たちはそれでもなお、どのような言葉を語りうるのかを模索していかなければならないし、その「それでも語りうる言葉」があの映画がもつ生活と人生の重みへと拮抗しうるものへまで鍛えていかねばならないと思います。戦後70年の日本の歩みというものは「生活」の再建のためにすべての正しいものを求める気持ちを捨ててきた歴史であると僕は捉えていますが、「生活できることが幸せ」という思考停止が暴力に加担しないわけではないこともまた、この70年の歴史の歩みからもまた明白なのではないでしょうか。その反動として日本会議、右翼、あるいは左翼などの浅薄な「正義」がその歪みや限界を認識される前に「そもそも正義を追求している!」というだけで一定の支持を得るというおかしな状況になってしまっているようにも思います。『この世界の片隅に』が描いた「ささやかな一人のささやかな生活を蹂躙することを正当化できるほどの正義などない。」という事実は、一方で「だから生活することだけが大切なのだ。」という主張にはなりません。知性の発祥(「発症」と最初誤変換で出ましたがそれも正しいかもしれません)から、人類史の終焉まで、私たちは曲りなりとも少しは賢くなって滅びていかねばなりません。なぜなら、その賢くなることだけが、「こんなもののために戦っていたわけではない」という悲劇を避けるための唯一の方法であるからです。その中で私たちは、どのように正義がその母体としての一人一人の人間を蹂躙してきた歴史に恐れおののこうとも、この正義ではないとしたらどの正義が正しいのかについて少しでも賢くなっていかねばならないのだと思います。生活を蹂躙する正義はもちろんのこと、生活から切り離された正義もまた無意味であることは確かであるとしてもなお、それは正義の探求、真理の探求をしなくて良いことにはなりません。その探求は知性を持つ人間にとってはかなり根源的な欲求である以上、そこでの考えの足りなさが粗悪な代替品の採用へとつながってしまうからです。そのような取り組みを怠れば、また「こんなもののために戦ってたわけではない」という悲劇が忘れられた頃に繰り返されてしまうことになります。それを防ぐためにも、この素晴らしい作品は「究極的な議論の終わり」ではなく、「議論の始まり」にしていかなければならないと思います。


ともあれ、まだ見てない人は絶対に見るべきです!僕も(既に4回見ましたが)またあと何回か見に行きたいと思います。

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