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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

教育経済学のすきま

しばらく書いていなかったのですが、嚮心塾にはホームページもなくてこのブログしかない上に、そもそもそのブログもたまにしか更新されないは、書いてあることも塾の様子とか受験のこととかではないわけで(何しろ、最新のエントリがどくんごの東京公演の感想ですからね!そもそもどくんごって何だよ!というのが一般的な反応ですよね。。)、全くこのような塾を探してご連絡をいただけるお父様、お母様方の努力には本当に頭が下がる思いです。ということで今回は少し反省して、久しぶりに教育について書いてみたいと思います。

教育経済学が中室牧子先生のおかげで少しずつ日の目があたってきていることは僕は素晴らしいことだと思いますし、成果のはっきりしない思い込みに基づく指導法をevidence -basedにしていく事自体はとても大切なことです。しかし、それがもっと普及すべきであることには諸手を挙げて賛成できるとしても、その先にまた別の難しい問題が残るのが「教育」という取り組みの難しさであると僕は思います。

塾生の勉強への姿勢や質が変わってきているのに、通塾を打ち切られることというのが非常に多いのでついついこちらとしては嘆きがちなのですが、教育においてはどうしても結果は最後まで出てこないものです。たとえば、塾生の変化の仕方を見てもまずは勉強への意識が高くなり、次に勉強時間を増やすようになり、次に勉強の質を高めることになっていき、最後に結果が出る、ということになります。この①勉強に対する意識の変化→②自発的な勉強時間の増大→③勉強の質の向上→④(成績向上などの)結果が出る、というプロセスには、現在勉強に苦しんでいる子たちはほぼ共通するプロセスであるというだけでなく、この一つ一つのプロセスのどれもが決して省略できないものでもあります。たとえば、よく親御さんに塾の役割として求められるのは③の「勉強の質の向上」であるのですが、これは端的に言えば①→②のプロセスを本人が踏んでいなければ、こちらがいくら様々な方法論を伝えようとも決してうまくいかないものであることをほとんどの親御さんは誤解していると言えるでしょう。(「いや!うちの子は勉強時間はこれ以上とれないくらいとっている!ただ効率が恐ろしく悪いのだ!」という反論をよくされるのですが、まず勉強時間を無理に睡眠を削らない範囲で可能なだけとっている小中高生自体がほぼいませんし、仮に勉強時間を物理的にそれだけとっているとしても、それらが自発的なものではなく強制させられている以上、子供というのは机に向かって鉛筆を動かしていても、いくらでもサボれるものであるのです。)

なので、まずは①の勉強に対する意識の変化が重要です。勉強というのは学校の教師や親、さらには塾や予備校の講師に無理強いさせられるものではなく、そもそも自分の将来に向けて自分にとって必要であること、またそれを嫌だと感じているのはむしろ勉強がデキる子であっても同じであり、ただ嫌でも必要なものとして諦めて努力する姿勢を身に着けている子とそうでない子との差がついているにすぎないこと、さらにはそのように若いうちに自分が嫌でも必要だと感じることに努力を惜しまず取り組んでは結果を出していくことが自分にとって、現在のような「学校歴社会」がなくなったとしてもとても意味の有ることであること(教育経済学の中室牧子先生もここについては強く主張されていますよね!)、さらにはそもそも日本において学校歴社会がなくなる気配はまだまだ当分ないであろうこと(それはマイナビやリクナビが支配したあとの就職活動においてはなおさら「学校歴による足切り」が厳しくなっており、学校歴は十分条件ではないにせよ、必要条件としてはむしろ以前より厳しく求められるということ)を子どもたち一人一人が理解することが大切です。ここに関してそもそも①に関して勉強の意味を大人たちは子どもたちに理解させるのが面倒くさい、というよりも自分たちも言葉で説明できるくらい理解できていない事が多いのではないでしょうか。子供に勉強をさせたいのなら、まずは大人たちが自分たちが勉強をしてきて(あるいはしてこなくて)うまく行った、あるいはうまく行かなかったということの功罪をしっかりと総括して子供達に自分の言葉で伝えていくことが大切です。それが成功談であれ、失敗談であれ、そのような言葉は子どもたちに強く響きます。特に失敗談の方が強く心に響くと言えるでしょう(マンガ『暗殺教室』でも殺せんせーが「教師とは自分の成功を子供達に伝えたいか、自分の失敗を子供達に伝えたいかのどちらかだ」と言っていましたよね!特に「失敗」の方が子供達の心には必ず強く響くと思います。人は成功を誇るときは傲慢であるとしても、失敗を悔いるときは人間性の最も崇高なものがそこに現れるからです。そのような「大人が自分の失敗を本気で悔いて子供に伝えること」以上の教育を僕は知りません。)。そのことを親や教師があまりにもやらないままに「勉強をしろ!」と言っているのが日本の教育の現状であると僕は思っています。

そして、次に②の自発的な勉強時間の増大です。これが「自発的」でなければ意味がないことは最初に少し述べました。強制的に勉強時間を増やしても、結局机に向かってサボる時間が増えるだけになってしまいます。ここでは「質より量」ではなく、まず「量」が優先します(もちろんベルクソンの言うように、「『量』とは注意力を失って注意されなくなった『質』のことである。」という主張を僕はこの上なく正しいと思っています。この言葉はそれこそスターリンの「100人の死は悲劇だが、100万人の死は数字である。」という冷徹な言葉という傍証を引くまでもなく、人間の認識の仕方を見事なまでに的確に描写していると思います)。勉強において、「量」を先に徹底して増やすことが重要であるのはどのような受験生も毎日15時間はなかなか勉強できない、あるいはそれができたとしても毎日18時間や20時間となるとできないわけで、量を増やして間に合わせようとすることには限界があると思い知るためです。これには、勉強をしていない子特有の「自分は努力をしていないだけで、努力すればできるんだ!」という根拠の無い甘えを早々と捨て去ってもらうためという目的もあります。勉強時間を増やさなければならないけれども、それを増やすだけでは決して間に合わないことを自覚して初めて、③の質をどのように上げていかねばならないか、ということに思い至ることができるようになります(もちろん、これはそもそも残り時間が少ないと痛切に感じては必死に勉強している受験生であれば、この②のプロセスを短期間で通過できるケースもあります。ただ、そのような受験生の場合、自然に③のプロセスへと移行していることが多いので、むしろ②のプロセスで止まる受験生というのは極めて少ないように感じています。)。人間というものは、自分が一生懸命に取り組んでいるものがうまくいかない時に初めて真剣に悩み、その打開策を考えようとします。一方で自分が一生懸命に取り組んでいないもので成果が出ない場合には周りのせいにしたり、あるいは自分が一生懸命やればうまくいく、と自己弁護をするものです。そして、学校の勉強、さらには受験勉強というのはほとんどの受験生が自発的に取り組むものではなく受動的に否応なしに取り組まされるものである以上、そのように受動的に始まったものを能動的に捉え直さなければ、決してその質を向上させようとは思わないのです。それは人生と同じで、受動的に始まるものであるのです。吉野弘の『I was born』という詩に見られるように、一人一人は生まれようと思って生まれたわけではないのにもかかわらず、生きようと能動的に決意しなければならないわけです。それは実は学校制度に担保される勉強も全く同じであると僕は思います。

そしてようやく③の勉強時間の質の向上へと繋がります。このプロセスでは自分の勉強の仕方のすべてを疑える子が強くなります。すなわち「自分が今まで「勉強」として定義していたものの再定義」を隅々まで図っていけるかどうか、ということですね。もちろん、受験生の勉強の仕方に対してこちらで疑問を投げかけることでそのような自分が「勉強」だと思い込んでいたものの再チェックをこちらからも促していきます。しかし、そうはいっても、すべての受験生のすべての認識を一人の教師がすべて把握することはおそらくできません。だからこそ、教師のやるべき仕事はそのように「自分のやり方を疑う」ことを教えていくことであるのです。それが本当に効果が高いかそれとも効果が上がっていないかどうかを絶えず自分でチェックするように習慣づけをしていくことが大切です。もちろん、この「自分の勉強の仕方を疑う」というのも程度の問題で、あまりすべてを疑いすぎてしまうのはそれこそ自己免疫疾患のように、自分自身まで攻撃してはかえって逆効果になってしまうのですが、そのあたりのバランスの取り方についても、教師の腕に委ねられていると言えるでしょう。

このようにしてようやく、④の結果が出てきます。もちろん、実際にはここで単純化したように①→②→③というプロセスがくっきりとわかれているわけではありません。実際には残り時間というタイムリミットを見ながら、①のプロセスと②のプロセスを何とか並行できるように苦慮したりしています。また、②と③のプロセスについてはほぼすべての受験生が②を終えてから③に移行できるわけではないので、同時並行になることが多いと言えるでしょう。さらには一つ一つの教科について、この①の段階、②の段階、③の段階がすべて入り混じります。たとえば数学については③まで来ている子も化学については①の時点で挫折していたり、その逆があったりと大変ですし、一つの教科についての気づきやbreakthroughを他の教科にも応用できる子、というのが実はかなり限られるのでその辺りもそれぞれの気付きやbreakthroughが本人の中でつながっていくように、という指導もこちらでしなければなりません。

という諸々があって、ようやく結果が出てきます。本当に大変な道のりですし、そのような諸々をクリアして毎年受験生が難しい大学に合格していくのも本当にすごいことだと思います(誰もほめてくれないので、自分でほめました!自給自足!)。ただ、このエントリの目的は「だから、みなさん、嚮心塾で成績という結果が出てなくても許してね☆」ということではありません。こういったことも含め、塾にすべての責任があるというつもりでこちらは教えています。しかし、このようなプロセスをよほどの天才でない限りいくら迂遠であっても辿らざるを得ないという「不都合な事実」を認めたうえで、どの段階に自分の子供がいるかを親も教師も絶えずしっかり考えていくことが長期的に見た子どもたちの成長にとってはとても重要であるということです(松井秀喜選手がヤンキースに入団した時、名将ジョー・トーリは当初は全く打てていない松井について聞かれ、「そのうち打つよ。彼はボールがよく見えていて、三振の仕方がいい。」と言ったそうです。その後の結果はご承知の通り、トーリの予言通りになったのですが、三振という結果だけではなく、三振の仕方を見ることが「人を育てる」ということであると思います)。それをせずに「結果が出ないから」と改善しつつある取り組みを切るのでは、「無駄」に見える基礎研究を守っていくことの大切さを主張する大隅良典先生に対して、「競争的資金を拡充しますよ!(結果出したらお金あげるよ!)」と的はずれな言葉で応えるとんちんかんな文部科学大臣と、知的レベルにおいて何ら変わらないことになってしまいます。どちらのアホさにおいても、その短絡的な判断の犠牲になるのは、若い人たちであるのではないでしょうか。(もちろん改善が見られないのにそこに予算をかけるべきであるのか、という問題は国の科学予算であれ、卑近な塾や予備校代であれ、また考えなければならないもう一つの大切な問題です。しかし、そこで大切なのは「改善」を見ようとしているかどうか、であるのだと思います。「役に立つ」あるいは「成績が上がる」のは、あくまで最終段階でしかない以上、それ以外の「改善」を見ようとする目が(ジョー・トーリのように)なければ、やはりそれはせっかく育ちつつある芽を潰すことになってしまうのだと思います。)話を戻せば、evidence-basedにしにくいものについては、やはりそれに携わるものの見る目を鍛えるしかない、というところが教育の難しさ、教育経済学のすきまとして絶えず残りうるところなのではないかと思っています。

また、だからこそ僕は嚮心塾に通ってうまくいかなかった生徒たちも嚮心塾をなかったことにはできないと思っています。退塾するにせよ、そのような改善のプロセス自体が少なくとも存在することを知っているのは、その後の人生で真摯に取り組むにせよ、あるいは投げ出して中途半端に生きるにせよ、決して無視の出来ないものとなるはずです。自分の意識を改革できずに努力を積み重ねられなかった子も、努力をしなかった自分というものを決して自己正当化することはできずに残りの人生を生きざるをえないのではないでしょうか。それがいつか、彼ら彼女らの生きる力となれるように、今日も生徒たちにどんなに嫌われようとも、自己正当化のためだけの努力をしっかりと論破していっては、自分を鍛えるための意識と方法とを塾生の中に育てていきたいと思っています。

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