
今年も劇団どくんごの東京公演を見てきました!2年ぶりのどくんごの舞台は懐かしく、切なく、本当に素晴らしかったです!今年はあれほど作りこまれた舞台を1回だけ見に行って感想を書くのも申し訳ないと毎年思っているので、越谷公演と、東京公演を三回の計四回見てきて、またそのうち一回は塾生を連れて大勢で見に行きました。各回、本当に素晴らしかったです!
どくんごの劇の素晴らしさは「意味がある」と思えば意味がなく、「意味が無い」と思えば意味があり、観客にとって全く「気が抜けない」劇であるということだと思います。ナンセンスな笑いを笑っていたはずなのに、あれ?ここはさっきのこれとつながっているのか?という疑問が自分の中に見ながらどんどん出てきます。また最初の文脈で意味を成し得なかった言葉が次の文脈で繰り返されるときには、意味を持ってきます。そのように「意味が無い」と聞き流すこともできなければ、「すべて意味がある」と
傾聴することもできない、その観客側の態度を決められなさが、逆に心地よくなってきます。意味を考える事の喜びを私たちはうんざりするかのような意味の押し付けの前には自己防衛のためにどうしても拒絶をしなければならなくなりますが、このように意味があるかないかもわからないものをこちらに押し付けないようにそっと、しかし彼ら彼女らの懸命さは伝わる形で置かれていくたびに、私たちはその意味を食い入るように見つめ、考えたくなってきます。そのような、(おそらく私達が言葉を獲得していく際に持ち続けていた)意味をわかろうとする喜びを私達の中に回復していくのがどくんごであると思います。
このように書くと、言葉だけが魅力的である劇であるかのように聞こえてしまいますが、どくんごの劇において言葉は主要な要素ではありません。むしろその鍛えぬかれた演技、音楽、装置、そして何よりもその考えぬかれた演出にこそ、どくんごの魅力があります。それらに我々が心をひらいていく中で、言葉が突き刺してくるわけです。そもそも人間のコミュニケーションはおそらく言語以外の部分に大きく依存をしていると思います。それはたとえば同じ内容を喋っているとしても声のトーンや速さ、さらには話し手のたたずまいや表情などによってその説得力が大きく違ってくるわけです。そんな小難しいことを言わなくても、「なんとなくこのおっさんの言うことは信頼できるな。」とか「なんとなくこのおっさんの言うことは怪しいな。。」などと、判断していることは日常の中でかなり多いのではないでしょうか。その意味で、どくんごの劇は言葉を回復していく過程を私たちに味あわせてくれます。言葉によらないコミュニケーションに基礎をおいていた私達が、しかし言葉ですべてを表現することを求められるようになったのが人類の発展の歴史であると言えるでしょう。それは、文化だけでなく、政治においても学問においてもそうであるのです(たとえば議会制民主主義というのは言葉で闘うことを前提としている以上、どれだけよどみなくしゃべることができるかがその国会議員の質とされてしまいます)。しかし、それだけ言葉が達者な人間たちが幅を利かせることが人類の歴史の一つの行きつく先であるとしても、それ以外の部分が本当に人間にとって必要ではないのか、端的に言えば「偉そうな言葉が話せれば偉いのか。」といえば、そうではないこともまた、我々は直観的に感じ取っているのではないでしょうか。どの国会議員を連れて来ても表面上立派でよく考えていそうな言葉は喋れるとして、さてそれで「このおっさんは信頼できるな。」と思えるのかどうか、ですよね。その意味で現代は言葉が支配している社会であるからこそ、その言葉の意味を額面通りに受け取ることができなくなっている社会である、といえるのではないでしょうか。(こう言うとジョージ・オーウェルの『1984年』に描かれるようなdouble speak(二重言語)を懸念するのかもしれませんが、double speakとは実は言葉が世界を支配した後に、言葉の意味を受け取れなくなった人間達に言葉の機能主義的(あるいは構造主義的)側面だけがうけとられるようになった世界に成立するものであると思います。その意味で、そのような「言葉の支配」による「意味の死」には、実は独裁的な権力はあまり必要ではないと僕は思います。)
よくある「ペンの力を信じよう。」「言葉の力を信じよう。」という言葉は、この言葉の持つ権力的側面に対して無自覚であるという意味で、僕は闘うべき問題を間違っているのだと思います。そもそも、言葉の力という意味でたかがマスコミが、法令の解釈に血道を上げては横車を通そうとする国家官僚に(能力の点でも努力の点でも)勝てるわけがないではありませんか。言葉が権力として、そしていずれは権威として機能してしまうのは、言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくからです。そして、なぜ言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくのかといえば、それは権力を追認させようとする横車に限らず、言葉の意味を取るというコミュニケーションに対して我々が疲れきっているからであるのです。言葉の意味を取るにはあまりにも我々は自己中心的にすぎる。意味を取ろうとしても、辛いだけだ。そのような失敗の積み重ねの中で、意味を取ろうとし続けることに対して、私たちは倦み疲れ、そして諦めていきます。国会での議論においてその場しのぎの答弁が多くなるのも、言葉が死んでいるからではなく、言葉しかそこにないからだと僕は思います。言葉が媒介するはずであった意味を汲み取ろうとする心の余裕が我々の中になくなればなくなるほど、言葉による議論は意味を伝え合うものではなく、結論が決まったあとに、儀礼として交わされるだけのceremonyになってしまいます。国会の空転を嘆く前に、そのように結論を全面的に見直す気持ちのない言葉のやり取りの中でどのような私達も生きているというこの現実をこそ何とかしていかなければ、国会の空転など変わるわけがないと言えるでしょう。言葉が死んでいるのではなく、言葉しか残っていないのです。そこに意味を伝え合おう、分かり合おうという姿勢がなくなっていくことが、社会が社会である必要をなくすものであると言えるでしょう。
(長くなりましたが)そして、どくんごの劇はそのように「意味を伝えよう」とか「意味をわかろう」とすることに疲れきっている私達だからこそ、心の芯にまで響いてきます。様々な点で、社会からずれた登場人物たちの、滑稽でも真剣で、だからこそ物悲しい一つ一つのモノローグは、最初は笑って見ているだけなのに、段々と、「あれ?私って、こんな風にしゃべってたかな。。」「いつからこんな風にしゃべれなくなったんだろう。。」「いや、この人達がどんなに笑われてもおかしいと思われても真剣に語るのに、私はもっとつまらないことも伝わらないと思って我慢してるのでは。。」と、どんどん自分が意味を伝えることに臆病になっていることに気付かされていきます。
あるいは、赤ん坊の「だあだあ」と一生懸命話しかけてくれることを思い出してみるのもよいかもしれません。彼ら彼女らの伝えたい内容はこちらに全く分からないにせよ、赤ん坊の言葉の拙さなど全くにすることのない健気な語りかけは、我々の心を打ちます。そして、その意味内容など全く分からないにせよ、それを「分かりたい!」と思って一生懸命に聞くようになります。そこで私達が赤ん坊に語りかけてそれに対して赤ん坊の声がまた返って来て、というそのやりとりは共感の回路を形成し、意味を伝え合いたい、と思うようになっていきます(伝わらないとしても、です)。
だからこそ、どくんごの劇を見続けていくと、「もっとその一人一人の役者さんのモノローグを聞きたい、意味をわかりたい!」とのめり込んで聞いていくようになります。もちろん、だからといって一生懸命聞いても、その場面場面のセリフの意味はわからないのですが、その中で、また彼らの意味のないと思っていた言葉の中にまた意味や符牒、脈絡が見事なまでに遠い場面をまたいで散りばめてあるので(今回の劇で言えば僕が気づいた中だけでも「蝶」「バス停」「宇宙だって…」などなどたくさんあります)、そこで再び意味を考えようという気持ちがさらに掻き立てられます。そのようにして、私たちは意味を考える勇気を、そこから進んで意味を伝えようとする勇気をどくんごの劇からinspireされるのだと思います。(さらに言えば、この「意味を聞く態勢が徐々に観客の中にできていく」中でなお、意味をストレートに伝えようとしない終盤の構成、というのが本当に考えぬかれた演出であると僕は思います。お客さんの心を開いておいて伝えたい内容をぶっこんでくるのではなく、心を開きながらもなおもそっと寄り添うというのでしょうか。一昨年や一昨々年に見た時はもうちょっとこの終盤がストレートだった気がして、それはそれで本当に素晴らしかったのですが、今回はより強い覚悟を決めて寄り添う(すなわちお客さんに委ねる)ことに決めた感じがして、よりどくんごらしいのでは、と勝手ながら感じました。そのおかげで劇を見たあとの余韻がより複雑なもの、しかし、後を引くものになっていると思います。)
もちろん、各モノローグやメインでやっている役者さん以外の様々な演出も何回もどくんごを見ていく中で何回でも楽しめるポイントです。演技なのか、演技でないのか、舞台設定も自分たちで全てやらねばならないことも演技の中に組み込み、どこからが演技でどこからが演技でないのかがわからなくなってきます。またお盆として舞台で使っていたものを月に使ったりと現実と空想との境目もわからなくなってきます。もちろんテントの中だけでなく、その外も大胆に使うということもふくめ、そのすべてが、境目をなくしては未分化の状態へと私達を投げ込み、それ故に劇場を出れば終わる「感動」ではない余韻が我々の日常生活の中にどんどん浸潤していくように思います。さらには、テントを組むことでそこで暮らす日常がどくんごのある風景になり、またテントをバラして移動すれば、そこにはどくんごがもういない、ということもまたこのような異世界感を作っている重要な要素であると思います。今回は東京の井の頭公演以外にも、待ちきれず往路の越谷公演も見ましたが、北越谷駅前の広場で開かれるどくんごは、「駅」という日常にどくんごのテントとさらには駅前にまで繰り広げられる様々な劇が本当に日常の景色を一変させてしまう、素晴らしい公演でした。それは役割を細分化され、それぞれの役割を果たすことに閉じ込められていった現代の我々、さらにはその象徴の最たるものとしての「駅」を、あざ笑うかのような、非日常の現出!という印象を受けました(まあ、そんな難しい言葉で言わなくても、駅前であのどくんごの公演(想像以上にすごい光景です!)ができるなら、もっと私たちは道端で何やってもいいんじゃない?と自由になれると思います)。
と、ここまで長々と書いてきましたが、もちろん、どくんごの劇は言葉にしきれません。(今回どくんごの皆さんとお会いして、以前の僕の感想文を過分にもほめていただけて本当にうれしかったのですが)このような本当に素晴らしいものを言葉にしようと思うたびに、自分の言葉の拙さに打ちのめされます。しかし、だからこそ、どくんごの劇を言葉で表現しようともしていかないといけないと僕は思っています。この言葉が支配する世界の中では、言葉にはならないけれども大切なものを言葉にもおとしこんでは評価していかねばならないと思うからです。それはたとえば、とても人間的に素晴らしい子たちに学歴をつけていくのと同じです。人を自分の目や頭でではなく、学歴を通じてしか評価できない人と同じように、言葉を通じてしか判断ができない人を僕は「バカ」と呼ぶわけですが、そんな人たちにもどくんごを知る入り口を作ってあげたいですよね(というと、反感を買ってしまって入り口になれない気がしますが)。ぜひここからの残りの公演にもお近くの方もそうでない方も、足を運んで実際に見ていただけたら本当に嬉しいです!来年もまた塾生を連れて、(ご迷惑でしょうが)大挙して見に行きたいと思っています。
それとともに、どくんごの劇を見て、意味を伝え合わない人間関係だけが人間関係であると思い込んでは諦めているすべての人々に、できることを徹底的にやっていくような塾であり続けたいと改めて思いを強くしました。意味を伝え合わないような関係性は、人間関係ではありません。「伝えようとして伝わらなくても、そのことがどのような齟齬や軋轢を生もうとも、それでも伝えたいと思うのは、分かり合いたいからだ!」と(どくんご風に)諦めずに取り組み続けることこそが、実は政治であれ学問であれ、あるいは他のすべてのことであれ今、必要なことなのではないか、と思っています。
どくんごの劇の素晴らしさは「意味がある」と思えば意味がなく、「意味が無い」と思えば意味があり、観客にとって全く「気が抜けない」劇であるということだと思います。ナンセンスな笑いを笑っていたはずなのに、あれ?ここはさっきのこれとつながっているのか?という疑問が自分の中に見ながらどんどん出てきます。また最初の文脈で意味を成し得なかった言葉が次の文脈で繰り返されるときには、意味を持ってきます。そのように「意味が無い」と聞き流すこともできなければ、「すべて意味がある」と
傾聴することもできない、その観客側の態度を決められなさが、逆に心地よくなってきます。意味を考える事の喜びを私たちはうんざりするかのような意味の押し付けの前には自己防衛のためにどうしても拒絶をしなければならなくなりますが、このように意味があるかないかもわからないものをこちらに押し付けないようにそっと、しかし彼ら彼女らの懸命さは伝わる形で置かれていくたびに、私たちはその意味を食い入るように見つめ、考えたくなってきます。そのような、(おそらく私達が言葉を獲得していく際に持ち続けていた)意味をわかろうとする喜びを私達の中に回復していくのがどくんごであると思います。
このように書くと、言葉だけが魅力的である劇であるかのように聞こえてしまいますが、どくんごの劇において言葉は主要な要素ではありません。むしろその鍛えぬかれた演技、音楽、装置、そして何よりもその考えぬかれた演出にこそ、どくんごの魅力があります。それらに我々が心をひらいていく中で、言葉が突き刺してくるわけです。そもそも人間のコミュニケーションはおそらく言語以外の部分に大きく依存をしていると思います。それはたとえば同じ内容を喋っているとしても声のトーンや速さ、さらには話し手のたたずまいや表情などによってその説得力が大きく違ってくるわけです。そんな小難しいことを言わなくても、「なんとなくこのおっさんの言うことは信頼できるな。」とか「なんとなくこのおっさんの言うことは怪しいな。。」などと、判断していることは日常の中でかなり多いのではないでしょうか。その意味で、どくんごの劇は言葉を回復していく過程を私たちに味あわせてくれます。言葉によらないコミュニケーションに基礎をおいていた私達が、しかし言葉ですべてを表現することを求められるようになったのが人類の発展の歴史であると言えるでしょう。それは、文化だけでなく、政治においても学問においてもそうであるのです(たとえば議会制民主主義というのは言葉で闘うことを前提としている以上、どれだけよどみなくしゃべることができるかがその国会議員の質とされてしまいます)。しかし、それだけ言葉が達者な人間たちが幅を利かせることが人類の歴史の一つの行きつく先であるとしても、それ以外の部分が本当に人間にとって必要ではないのか、端的に言えば「偉そうな言葉が話せれば偉いのか。」といえば、そうではないこともまた、我々は直観的に感じ取っているのではないでしょうか。どの国会議員を連れて来ても表面上立派でよく考えていそうな言葉は喋れるとして、さてそれで「このおっさんは信頼できるな。」と思えるのかどうか、ですよね。その意味で現代は言葉が支配している社会であるからこそ、その言葉の意味を額面通りに受け取ることができなくなっている社会である、といえるのではないでしょうか。(こう言うとジョージ・オーウェルの『1984年』に描かれるようなdouble speak(二重言語)を懸念するのかもしれませんが、double speakとは実は言葉が世界を支配した後に、言葉の意味を受け取れなくなった人間達に言葉の機能主義的(あるいは構造主義的)側面だけがうけとられるようになった世界に成立するものであると思います。その意味で、そのような「言葉の支配」による「意味の死」には、実は独裁的な権力はあまり必要ではないと僕は思います。)
よくある「ペンの力を信じよう。」「言葉の力を信じよう。」という言葉は、この言葉の持つ権力的側面に対して無自覚であるという意味で、僕は闘うべき問題を間違っているのだと思います。そもそも、言葉の力という意味でたかがマスコミが、法令の解釈に血道を上げては横車を通そうとする国家官僚に(能力の点でも努力の点でも)勝てるわけがないではありませんか。言葉が権力として、そしていずれは権威として機能してしまうのは、言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくからです。そして、なぜ言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくのかといえば、それは権力を追認させようとする横車に限らず、言葉の意味を取るというコミュニケーションに対して我々が疲れきっているからであるのです。言葉の意味を取るにはあまりにも我々は自己中心的にすぎる。意味を取ろうとしても、辛いだけだ。そのような失敗の積み重ねの中で、意味を取ろうとし続けることに対して、私たちは倦み疲れ、そして諦めていきます。国会での議論においてその場しのぎの答弁が多くなるのも、言葉が死んでいるからではなく、言葉しかそこにないからだと僕は思います。言葉が媒介するはずであった意味を汲み取ろうとする心の余裕が我々の中になくなればなくなるほど、言葉による議論は意味を伝え合うものではなく、結論が決まったあとに、儀礼として交わされるだけのceremonyになってしまいます。国会の空転を嘆く前に、そのように結論を全面的に見直す気持ちのない言葉のやり取りの中でどのような私達も生きているというこの現実をこそ何とかしていかなければ、国会の空転など変わるわけがないと言えるでしょう。言葉が死んでいるのではなく、言葉しか残っていないのです。そこに意味を伝え合おう、分かり合おうという姿勢がなくなっていくことが、社会が社会である必要をなくすものであると言えるでしょう。
(長くなりましたが)そして、どくんごの劇はそのように「意味を伝えよう」とか「意味をわかろう」とすることに疲れきっている私達だからこそ、心の芯にまで響いてきます。様々な点で、社会からずれた登場人物たちの、滑稽でも真剣で、だからこそ物悲しい一つ一つのモノローグは、最初は笑って見ているだけなのに、段々と、「あれ?私って、こんな風にしゃべってたかな。。」「いつからこんな風にしゃべれなくなったんだろう。。」「いや、この人達がどんなに笑われてもおかしいと思われても真剣に語るのに、私はもっとつまらないことも伝わらないと思って我慢してるのでは。。」と、どんどん自分が意味を伝えることに臆病になっていることに気付かされていきます。
あるいは、赤ん坊の「だあだあ」と一生懸命話しかけてくれることを思い出してみるのもよいかもしれません。彼ら彼女らの伝えたい内容はこちらに全く分からないにせよ、赤ん坊の言葉の拙さなど全くにすることのない健気な語りかけは、我々の心を打ちます。そして、その意味内容など全く分からないにせよ、それを「分かりたい!」と思って一生懸命に聞くようになります。そこで私達が赤ん坊に語りかけてそれに対して赤ん坊の声がまた返って来て、というそのやりとりは共感の回路を形成し、意味を伝え合いたい、と思うようになっていきます(伝わらないとしても、です)。
だからこそ、どくんごの劇を見続けていくと、「もっとその一人一人の役者さんのモノローグを聞きたい、意味をわかりたい!」とのめり込んで聞いていくようになります。もちろん、だからといって一生懸命聞いても、その場面場面のセリフの意味はわからないのですが、その中で、また彼らの意味のないと思っていた言葉の中にまた意味や符牒、脈絡が見事なまでに遠い場面をまたいで散りばめてあるので(今回の劇で言えば僕が気づいた中だけでも「蝶」「バス停」「宇宙だって…」などなどたくさんあります)、そこで再び意味を考えようという気持ちがさらに掻き立てられます。そのようにして、私たちは意味を考える勇気を、そこから進んで意味を伝えようとする勇気をどくんごの劇からinspireされるのだと思います。(さらに言えば、この「意味を聞く態勢が徐々に観客の中にできていく」中でなお、意味をストレートに伝えようとしない終盤の構成、というのが本当に考えぬかれた演出であると僕は思います。お客さんの心を開いておいて伝えたい内容をぶっこんでくるのではなく、心を開きながらもなおもそっと寄り添うというのでしょうか。一昨年や一昨々年に見た時はもうちょっとこの終盤がストレートだった気がして、それはそれで本当に素晴らしかったのですが、今回はより強い覚悟を決めて寄り添う(すなわちお客さんに委ねる)ことに決めた感じがして、よりどくんごらしいのでは、と勝手ながら感じました。そのおかげで劇を見たあとの余韻がより複雑なもの、しかし、後を引くものになっていると思います。)
もちろん、各モノローグやメインでやっている役者さん以外の様々な演出も何回もどくんごを見ていく中で何回でも楽しめるポイントです。演技なのか、演技でないのか、舞台設定も自分たちで全てやらねばならないことも演技の中に組み込み、どこからが演技でどこからが演技でないのかがわからなくなってきます。またお盆として舞台で使っていたものを月に使ったりと現実と空想との境目もわからなくなってきます。もちろんテントの中だけでなく、その外も大胆に使うということもふくめ、そのすべてが、境目をなくしては未分化の状態へと私達を投げ込み、それ故に劇場を出れば終わる「感動」ではない余韻が我々の日常生活の中にどんどん浸潤していくように思います。さらには、テントを組むことでそこで暮らす日常がどくんごのある風景になり、またテントをバラして移動すれば、そこにはどくんごがもういない、ということもまたこのような異世界感を作っている重要な要素であると思います。今回は東京の井の頭公演以外にも、待ちきれず往路の越谷公演も見ましたが、北越谷駅前の広場で開かれるどくんごは、「駅」という日常にどくんごのテントとさらには駅前にまで繰り広げられる様々な劇が本当に日常の景色を一変させてしまう、素晴らしい公演でした。それは役割を細分化され、それぞれの役割を果たすことに閉じ込められていった現代の我々、さらにはその象徴の最たるものとしての「駅」を、あざ笑うかのような、非日常の現出!という印象を受けました(まあ、そんな難しい言葉で言わなくても、駅前であのどくんごの公演(想像以上にすごい光景です!)ができるなら、もっと私たちは道端で何やってもいいんじゃない?と自由になれると思います)。
と、ここまで長々と書いてきましたが、もちろん、どくんごの劇は言葉にしきれません。(今回どくんごの皆さんとお会いして、以前の僕の感想文を過分にもほめていただけて本当にうれしかったのですが)このような本当に素晴らしいものを言葉にしようと思うたびに、自分の言葉の拙さに打ちのめされます。しかし、だからこそ、どくんごの劇を言葉で表現しようともしていかないといけないと僕は思っています。この言葉が支配する世界の中では、言葉にはならないけれども大切なものを言葉にもおとしこんでは評価していかねばならないと思うからです。それはたとえば、とても人間的に素晴らしい子たちに学歴をつけていくのと同じです。人を自分の目や頭でではなく、学歴を通じてしか評価できない人と同じように、言葉を通じてしか判断ができない人を僕は「バカ」と呼ぶわけですが、そんな人たちにもどくんごを知る入り口を作ってあげたいですよね(というと、反感を買ってしまって入り口になれない気がしますが)。ぜひここからの残りの公演にもお近くの方もそうでない方も、足を運んで実際に見ていただけたら本当に嬉しいです!来年もまた塾生を連れて、(ご迷惑でしょうが)大挙して見に行きたいと思っています。
それとともに、どくんごの劇を見て、意味を伝え合わない人間関係だけが人間関係であると思い込んでは諦めているすべての人々に、できることを徹底的にやっていくような塾であり続けたいと改めて思いを強くしました。意味を伝え合わないような関係性は、人間関係ではありません。「伝えようとして伝わらなくても、そのことがどのような齟齬や軋轢を生もうとも、それでも伝えたいと思うのは、分かり合いたいからだ!」と(どくんご風に)諦めずに取り組み続けることこそが、実は政治であれ学問であれ、あるいは他のすべてのことであれ今、必要なことなのではないか、と思っています。



