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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

愛は惜しみなく掘り崩す。

ブログを書くのが久しぶりになってしまいました。受験生の合格体験記を待つこの季節は、どうしても新年度のドタバタと相まって間隔が空きがちになってしまいます。これからは気をつけて、短いものでも定期的に書いていきたいと思います。

この仕事をしていて常々思うのは、「生徒に尊敬をされる教師は良い教師である。」というのは嘘であるということです。むしろ教師というのは反発を受け、時には憎まれるくらいでなければなりません。なぜなら子どもたちにとって必要なものを彼らが本当に欲している場合というのは極めてまれであるからです。彼らにとって(その狭い価値観から)自分が必要とは感じていないものを、しかしそれが必要だと口を酸っぱくして言い聞かせてはそれをどのように理解してもらえるかを手を変え品を変え、試行錯誤をしていくことが教師に求められる役割です。そのような取り組みに邁進する教師は、子どもたちにとっては、理解の出来ないものをおしつけてくる嫌な大人としてしか見えないでしょう。もちろん、そこで彼らが現在必要とは感じていないものがどうして必要であるのかを理解してもらうために最大限の努力を費やさないのは教師としてはダメなのですが、とはいえ様々なタイムリミットがある中で、理解のための努力だけを行い続けては結果として受験その他に間に合わなくなって改善できなくなってしまうこともやはり教育の失敗です。だからこそ、その理由を説明しきれずに取り組んでもらうようにせざるを得ないことも多々あります。

一方で、「生徒に憎まれている教師はすべて良い教師である」というわけではないこともまた当たり前のことです。そもそも生徒との間に信頼関係や尊敬がある程度なければ、そのような浅い関係性しか結んでいない大人の言うことを子どもたちが聞くわけがありません。そのような信頼関係を得ようとすることなく自分の主張だけを繰り返す教師や大人というのは、そもそも子どもたちにその内容をわかってもらおうと本気で目指しているのではなく、「自分は保護者・監督者として最低限の義務は果たしている。」という自己満足や責任回避のためという動機から、そのように行動していることが多いのではないでしょうか。そのような姿勢をとる教師から生徒が何かを学び取ることがないとは言いませんが、それはあくまでも生徒側の力量によるものであり、大半の生徒にとってはそのような教師から学ぶことは難しいのだと思います。

つまり、「ずっと生徒に尊敬されている教師」は生徒の歓心を得ながらも、それを何に用いるかを考えていないという点で怠惰であり、「ずっと生徒に憎まれている教師」はそもそも「自分は話すべきことを話している」という自己満足に陥ってはそれが相手に伝わっていない現実から目をそらしている点で怠惰であるということになります。だからこそ、理想の教師は「生徒との間に信頼関係を築きながらも、その信頼関係を築いたり尊敬を受けたりということを目的にはせずに、そこでできた信頼関係を資本として掘り崩しては(生徒のために必要だがしかし彼ら彼女らが受け入れたくないと思っている)彼らの改善点を指摘し、修正していく教師」ということになります。

これは嫌ですよね。日々そのように自分に肝に銘じてやっているつもりですが、このように書き起こすと改めてしんどくなります。端的に言えば、「嫌われるために、愛される」ことを目的としなければならないというのが何よりも辛いことです。人間はずっと愛されることが辛くないのはもちろんとして、ずっと嫌われていることも楽なのです。ある意味、そこに期待をしなくて済むからです。あるいは誰かにずっと嫌われている人も、また別の誰かからはずっと愛されていたりするわけで、そこで精神のバランスを保つことが出来るでしょう(先に挙げた自己満足のような言葉しか離さない教師も家庭に戻れば良きパパやママとして愛されているのでしょう)。しかし、「いずれ嫌われるために、愛される」という目的をもって一人一人の子どもたちと接するのは、例えて言うなら「失恋をするために恋をする」ようなものです(どんな人でも、失恋をした瞬間は「こんなしんどい思いをするなら、もう2度と恋なんてしない!」と思った経験があると思います。良い教師とは、それを意図的に一人一人に対してやっていかねばならない、ということであるのです)。

そんなにしんどい思いをしてまで、なぜそれをやっていかねばならないのか。それは教師から見える、生徒の認識の限界を押し広げていくことが結局その生徒にとって必要なことであるからです。その認識の狭さを肯定することからしか良好な関係は作れないでしょうし、むしろその認識の狭さを疑いたくないと思っている状態というのは、自己肯定感が極めて少ないからこそそのように「バリア」を張っては、これ以上自分のidentityを掘り崩したくないと心が傷ついている状態なのかもしれません。しかし、それを一時的に外側から肯定することと、いつまでもそれを肯定し続けることは意味が違います。そのような認識の限界が、彼や彼女自身の能力や世界の限界をいずれ作っては、その狭い世界の中で生きては浅はかに絶望したり希望を抱いたり、という悲劇をうむことに対して、教師はそれを永遠には肯定してはならないのです。

有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』を借りれば、「愛は惜しみなく掘り崩す。」とでも言えるのでしょうか。
「愛を」ではないところが、とても重要だと僕は思っていて、相手との愛を掘り崩す動機もまた相手への愛である以上、これ以上正確な「愛」の定義は僕には今のところ思いつけていないと思っています。

もちろん、僕は生徒を教える立場として生徒や卒業生に対してだけではなく、このような姿勢を子どもたちや奥さん、数少ない友人達に対しても、しんどいですが徹底していきたいと思っています。それが僕の、死ぬために生まれたことの意味であると思っているからです。今日も、受容され愛されていることを伝えるべき内容の伝達へと緩みなく資することができているかどうか、疎まれ憎まれていることが伝えるべき内容の伝達を阻害していないかどうかを、絶えず一人一人に対して考えぬいていきながら教えていきたいと思います。

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2016年度合格体験記(その3)

東京医科大学医学部医学科合格(進学先)O・S君(海城高3)
日本大学医学部医学科合格

この塾には高一の冬に入った。高三になり他の受験生とも話したり、先生と話す機会が多くなった。「家が貧しいため、バイトで塾代を稼いで塾に来る」浪人生や現役生の話を聞いたとき、衝撃的だった。自分や学校の友人は「勉強の妨げになるからバイトはしない」、塾の友人は「塾に通うためにバイトする」。それまで、勉強できる自分の環境を恵まれているとは思っていなかった。小学生の頃から塾に通っていて、中高でも塾に通いたいと言えば通うことができた。その環境が自分には当たり前だった。テレビや新聞で「勉強できるのは幸せ」と聞いたことはある。しかし、中高の周りの環境ではそういう考えを持った人はいなかったので、本当に実感してはいなかった。この塾で「勉強したくても出来ない」友人と席を並べることで、自分がどれだけ恵まれているのかを実感することが出来た。
 この塾には様々な人がいる。進学校に通い大学受験をする人や、塾に通うためのバイトをしながらの人もいれば、浪人生なのに遊び呆け勉強をしない人もいる。また中学受験をする小学生もいるし、学校の勉強に付いていくために塾に来ている人もいる。そういう人達と同じ場所で席を並べ勉強することで、自分は、自分の環境が恵まれていることや、大手予備校に通っていたら知り合えなかった人の環境を身にしみて感じることができた。自分とは全く違う生活を送ってきた友人達と大学受験を目標に勉強できた事は本当に良かった。
 最後に、根気良く教えてくれたチューターの方々・勉強はもちろん他の様々な事を教えてくれ、体験記を辛抱強く待ってくれた柳原先生・塾を見つけてくれた父・受験生時代に献身的なサポートをしてくれた母、ありがとうございました。合格できたのはみなさんのお陰です。大学では、高校時代のような怠惰な生活を送るのではなく、勉学に励んでいきます。

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見えないものを、見よう。

 教育というのは成果が極めて見えにくいからこそ、そのプロセスや成果の「見える」化をしていきたいという誘惑に駆られるものです。特に子供の教育に身銭を切っておられる保護者の方々はそのように思うのも当然です。しかし、「「見える」化をしたい」という思いが強いゆえに、見える部分さえしっかりしていればそれで納得をしてしまうという失敗にも陥りがちです。それがよくある個別指導塾のように授業時間の中で家庭への指導報告書の作成に血道を上げては、目の前の生徒を放っておく、という悲惨な事態につながっているのだと思います。詳細な指導報告書を求めれば求めるほどに、その分指導については手抜きをするしかありません。個別指導塾で我が子への指導を手抜きにしてしまっているのは、実は詳細な指導報告書で安心をしたいという親御さんの願望であるのでしょう。

 一方で受験生本人にとっても、勉強の成果というのは見えにくいものです。勉強というのはまずモチベーションが変わり、次に取り組む時間の長さが変わり、そして取り組む時間の質が変わり、最後に勉強の成果が成績となって出てくるものです。しかし、勉強に今まで真剣に取り組むことをしていなかった子ほどに、2段階目の時間を増やしたくらいでそれでも成果が出ないことを「こんなにやっているのに、成績が上がらない」と不満を訴えては「塾が悪い」「教師が悪い」と他に責任転嫁をするか、あるいはそもそも勉強へと長い時間を費やすことを放棄してしまいがちです。しかし、長い時間をやっては成果が出ないのならば、自分の勉強の仕方がまずいのです。書き写すだけの手の運動やふむふむと読んで理解している気になっているだけの「作業」を「勉強」と自分勝手に定義していないかどうか、という検証が隅々にまで必要になっていきます。「量」をこなしてみなければ自分の勉強の「質」が低いことに気づくことができない以上(なぜなら勉強の質はあくまで勉強量に対して測られるるものであるからです)、「最初に勉強のやり方を教えてほしい!そうしたら質が担保されたら、あとは量は頑張るから!」というよくなされる功利主義的なリクエストは、実はあまり効果が低いのです。「こんなに勉強しているのに、力がつかない!」という悩みをまずは本人が抱えていなければ、どのような優秀な勉強方法もその有り難みが本人にはわからないからです。

 だからこそ、受験生本人にとって必要なのは、目に見えやすい「勉強時間」や「模試の成績」だけで満足したり悲観したりするのではなく自分の勉強を判断するだけではなく、自分が勉強に取り組む時間の中でどこをどう改善していくべきかを目を皿のようにして探す、「見えないものを見ようとする」力であると言えるでしょう。もちろん、それがどうしても自分では見えにくいところまでは人事を尽くした、あるいは2つの矛盾するが共に必要な改善法に対して今の時期はどちらを優先して取り組むべきかわからない、ということに対して受験の全体像を知る教師が的確なアドバイスをしていくことが大切です。しかし、教師にとって何よりも大切なのは、そのように見えないものを見ようとしては自分の改善点を探していく姿勢を、生徒達に伝えていくこと、すなわち生徒一人一人が誰よりも自分の勉強を厳しくチェックする主体であるような姿勢を伝えていくことであると考えております。

 そのような自己研鑚の場としての嚮心塾に是非参加していただけたら嬉しいと考えております。見学や体験入塾は随時受け付けております。まずはこの塾の空気だけでも、味わいに来ていただけたらとても嬉しいです。

                   2016年3月15日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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