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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

受験の最中に。

ご無沙汰をしております。塾では中学入試を終え、今日から私立高校入試が始まります。また、大学入試は私大入試がもう半ばを過ぎており、ここから私大の本番そして国公立大と、まさに正念場を迎えているところです。

今年は僕の娘も小6で中学入試をしました。結果はすべて不合格で残念な結果に終わったのですが、短期間での成長ぶり、さらには勉強を必死にやることが将来自分が何をやっていきたいかへの一つのヒントになったようで、改めて中学受験は子供の成長の大切な契機になるな、と実感した次第です。勉強に終わりはありません。その意味では、今回の努力とその失敗を糧に、また引き続き努力していってほしい、と思っています。

その娘の第一志望の入試の前日に塾で教えていたときに、根本的な問題に直面するような経験がありました。それは、娘の勉強であと「こことここは復習しておきたい。」というところが何個かあって塾の営業時間を過ぎても残って教えていて、そうは言っても入試前日なのであまり遅くまではできない中でそれでも「残り時間でなんとかここまでは復習できるな。そこまでやっておけば、とりあえず後悔はないぐらい仕上げられるか。」と思っている時でした。そこで他に残っていた塾生の質問を新たに受け、それがかなり手間のかかるものだったので、それに答えていると娘の勉強の復習がもう間に合わなくなる、とわかりました。とはいえ、その質問をしてきた子も次の日に入試を控えており、娘と同じ「受験日前日の受験生」です。その際に、自分の娘の勉強を優先するのか、それとも塾生の勉強を優先するのか、そこで結局僕の生き方が問われてしまうな、と判断した時に僕は自分の娘の最後に復習したかったところを諦めて家に返し、その受験生の質問に答えようとしました。

ここまでなら美談っぽい話になるのですが、そのように判断した自分に感情がついていかず、普段なら面倒な質問と言ってもしっかり考えれば答えが出せるものも、襲ってくるあまりの悲しみに頭が30分ほど全く働かずに、結局その質問にもしっかりと答えられることなく、その塾生の子にも悪いことをしてしまいました。結局娘は初日の第一志望の学校で、その苦手な分野が出てそこがまるまる出来ずに(もちろんそれだけのせいではないにせよ)落ちました。

ビジネスライクに考えれば、営業時間をとうに過ぎている時間帯であったのですから、その質問を断ってでも娘の勉強を仕上げればよかったのでしょう。しかし、僕にとっては同じ受験日前日の受験生を目の前にしてそれをすることは、塾の理念を否定することであるため、できませんでした。しかし一方で今まで家庭を顧みずに塾のことばかりをやってきて、それこそ家族からは「他人の子供ばかり一生懸命思いやって!」「自分の子供に何一つしてないじゃない!」と非難され続ける毎日の中で、僕が自分の子供に対してできる最も大きな貢献は(こんな営業形態では、お金もほとんど残すことは出来ないでしょうから)唯一教育であるのだと思ってきました。この10年間、家庭のことは顧みずに塾をやってきて(この2月は週1日の休みすら、毎週潰して毎日朝から晩まで受験生を教えています。)ようやく子どもたちがnurseryからeducationを必要とする時期になり、ようやく力になれるときが来ました。そして中学受験はその極めて大切な機会です。その唯一残してやれる教育の機会すら、このように目の前の生徒との天秤にかけられて、どちらかを選ばねばならなくなるとは、という悲しみが僕を襲ってきたのでした。教育というものに自分の人生をかけようと選んだ時から、いずれこうなることはわかっていましたが、しかし唯一自分が与えられるものすら僕は自分の娘に残すこともできないのか、と打ちひしがれました。

もちろん、僕は家族への愛とはそもそも「愛」という言葉で語ることが不適切なくらい、本能的であり、あまり崇高なものではないと思っています。
家族への愛とは、何が優性の形質かがわからない我々個体が、自らが優性の形質であることをプレイヤーとしては信じて個体を残そうとせざるを得ない、という生物学的な本能でしかないと思います。その意味で人間が感じる「愛」という感情もまた、特に家族愛や異性愛については僕はあとづけの発明品でしかないと僕は考えています。だからこそ、自分の家族を他人よりも無条件に愛する、という姿勢はそのようなしくまれたプログラムに対する疑いのなさであり、結局は愛そのものの価値を損なう姿勢であると僕は思っています。自分の遺伝子を残すために、赤ん坊から今まで長い時間接してきたものをしか愛せないのだとしたら、それは人間にとっては絶望です。すべての戦争はそのように肉親への無条件の愛から生まれるとさえ、思っています。

一方で、誰からも愛されないという経験は、その子供に人を愛することをできなくさせるものです。もちろん、これは「片親の子は駄目だ!」とか「孤児は駄目だ!」などとレッテルを貼っているのでは全くなく、どんなに両親にさんざん愛されていてもその愛を感じようとする謙虚さをもたないがゆえに人を愛することの出来ない子供もいれば、かすかな、虐げられていく運命の中で本当にかすかにしかない運命への抵抗としての愛を、一生大切に抱えて人を愛そうと決意する人もいます。人にとって、「愛された!」という喜びこそが自分も人を愛そうと決意する大切な動機になるのだと思います。

僕にとって嚮心塾とは、そのように人を愛する場です。この世界の中で、生存のために「家族」という枠の外には決して出ようとしない愛情というものを生徒たちに注ぐことで、巷に溢れている「愛」とは別の形が少なくとも存在しうるのだ、ということを伝えるための場であると言ってもよいでしょう。ナショナリズムは家父長的国家観などを引き合いに出すまでもなく、家族への愛の疑いのなさから生まれるものです(その意味では、60年代、70年代の政治運動が挫折したあとの日本において政治的議論がなくなり、マイホーム主義へと回帰したことの帰結が、現在のようなナショナリズムの高まりに結びついている、とも言えるでしょう。私たちはどのような活動をしようと、広義の政治から逃げることは出来ません。)。愛を家族にも宗教にも国家にも利益にも利用されないために、それ以外の愛や思いやりの形が存在することが大切であるのだと思います。

もちろん、そのような取り組みを自分たちのエゴイズムのために利用しようとする人もいるでしょう。というより、そればかりです。役に立っても立たなくても、用済みとして簡単に切り捨てられるのが学習塾や予備校の運命でしょう。「単に安いから」というだけでなく、「勉強の相談するだけなら無料で便利だから」ということで塾をやめたあとも平気で繰り返し相談に来させる親もいます。それも含めて、僕は一つ一つが大切な場であると思っています。「君の利益になると思うのなら、ぜひこの塾に関わってほしい。さて、それ(コストパフォーマンス)だけが、君の求めるものなのかい?そのような人生の先に、何があると思っているのかい?」という問いかけになると思っているからです。

改めて今回のことを鑑みるに、自分の家庭と塾生とのどちらも優先しないという強い覚悟をもつべきであることと、そのための力をもっと鍛えていくべきであることを痛感させられました。これも最近、塾生と話していてよく誤解されていることだと思ったのですが、いつでも何かしらを勉強している僕を見ると塾の子たちは、僕が勉強が好きだと思っているようでした。しかし、僕は勉強が好きなわけではありません。むしろ、勉強など嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。だからこそ、最小限の努力で結果を出せるようにと小中高と工夫をしてきただけです。しかし、このようなしんどい目標を掲げて塾をやれば、どんなに勉強をしてもそれで足りることなどありませんから、仕方なく毎日必死に勉強をしている次第です。

こんな話を娘にしたわけではありませんが、受験勉強をやっていく中で、娘が自ら「パパ、私は将来、人に思いを伝える仕事をしたい!」という話をしてくれました。何らかのものを彼女もこの経験から学び取ってくれていれば、と願っています。

その上で、残り僅かの今年の受験を一人一人誰に対してもやり残したことのないように、最後まで必死にもがいていきたいと思います。

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