嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

宿題を全部やってちゃ、だめだ。

中学や高校でよくある間違った教育方法として、課題の分量をとにかく多くする、というものがあります。嚮心塾では学校の勉強がうまくいっていない子に対して、指導することも多いのですが、そのときに真っ先にやることは勉強する教材を増やすことではなく、減らすことや、同じ教材を使うとしても、解くべき問題の範囲を絞ることをしています。その理由はあまりにも多くの問題を解けば、当然それらを3周、4周するだけの時間的余裕はなくなり、とりあえず1周、頑張る子でも2周くらいしかできなくなるからです。しかし、新しく学ぶ単元の問題集を1周か2周でできるようになる子、というのは教えていてもそう多くはありません。言葉を換えれば、それは1周で勉強内容が定着してしまう「天才」のみに許される勉強方法です。なので、そのようにやろうとしては失敗している子に対しては、「1周あるいはせいぜい2周でといたすべての問題が身につくなんて、もしかして君は天才かい?」と冗談交じりの意地悪い質問をしては、「天才でないのなら、解く問題の数をできる限り、しかも基本的なレベルのものに絞って、それを繰り返して穴がないところまで徹底しよう!」という指導をしています。

人間の記憶力に限界がある以上、このような(「選択と集中」という方針の)勉強方法がおそらく勉強に困っている全ての子にとって必要だと僕は考えていますし、勉強が得意な子であっても苦手な分野についてはこのような取り組みが必要です。しかし、このような勉強法を妨げているのは、「学校の宿題となっている問題集の範囲はすべてやるべきものである。」とか「ワークブックはすべてやるべきものである。」という一見正しそうな倫理観です。このような倫理観を学校の先生やときには親御さんがもっているがゆえに、そして子供達はその倫理観にしたがってまじめにやりさえすれば勉強ができるようになると思い込んでいるがゆえに、かえって課題はまじめにやっているものの、学習内容が身につかないという矛盾が生じることになります。しかし、これは少し落ち着いて考えれば当たり前のことで、膨大な試験範囲や課題をまじめにやっているからこそ、それらをすべて完璧にできるわけもなく、テストで点数がとれないということになってしまっているわけです。

さらに事態を複雑にしているのは、いわゆる「面倒見が良い先生」というのは一般的に 、課題の量を厳選して絞っては繰り返しやらせることにはまったく興味がなく、課題の量をとにかく増やせば良く、その膨大な課題をやっているかどうかさえチェックしていればよい、と思っているという事実です。実際に課題をちゃんとやったかどうかのチェックはするものの、その課題をやることで一人一人に力が付いているのかどうかのチェックというのに、学校の先生方はあまり興味がありません。下手すると、成績が悪かったら「課題が足りない!」とばかりにもっと課題を増やすという先生方も多いです。しかし、一般的な量の課題すら消化しきれていない子に、さらに課題を増やすのは愚策を通り越していじめでしかないと僕は考えています。

もちろん、これに関しては学校の先生だけを責めるわけにはいきません。このようなずさんな学校教育を助長しているのは、実は親御さんの側の責任でもあると僕は考えています。なぜなら、親御さんは自分の子供に大量の宿題が出ることで安心するものであるからです。宿題を出さない教師というのはそれだけで「サボっている」かのような印象をもたれがちです。しかし、大量の課題は(大量の処方薬と同じように)メリットだけではなく、デメリットも多いものです。生物学での刺激に関するウェーバーの法則のように、咀嚼できないほど大量の課題を出されれば、当然子供達はそれを適当にやります。「適当に」というのは、つまり頭で考えずにマルのついたものは自分がわかっているものと見なすことです。分量が多ければ、そのように処理することを覚えざるをえないでしょう。しかし、そこでたまたまマルがついたものについての理解が浅ければ、そのような積み重ねでどんどん勉強がわからなくなってくる、というわけです。

「宿題はすべて完璧にやるべきだ!」という倫理観を子供に対して振りかざすのなら、それをやってさえいれば本当に力が付いていくかどうか、そもそも初学者が自分の立てたプログラムで本当に力がつくのかをしっかりと考えぬいたり実験を重ねた上でそのような主張をすべきです。こちらから見れば、とりあえず分量さえこなせばよい!としか考えていないような、つまり何も根拠のない分量の課題を子供に押し付け、真面目にやっても何周も繰り返すことができるわけもなく定着しようがないようにやらせておきながら、「努力が足りない」と平気で言う教師を信用してはならないと思います。そして、そのような教師をのさばらせるのは、宿題を大量に出してもらって安心している親御さん自身であることも反省すべきであると思います。

さらに、ですね。嚮心塾では受験をにらんで、まったく勉強をしていない状態から勉強を始めていくときには、できる限り科目をしぼって、始めていきます。私大文系なら英語だけ、理系なら数学と英語だけ、中学入試なら国算だけ、というところから始めていきます。これは勉強のし始め、というのは(いままでやっていなかった勉強を急に始めたからこそ)すぐに成果がでないと勉強へのモチベーションが上がりにくい、という受験生側のモチベーションを保つ手段であるとともに、そもそも「わかる」とか「徹底する」ということがどこまでしっかりやらなければならないのかを一教科について把握できれば、それを他の教科に応用することは比較的簡単であるのに対し、各科目を満遍なく勉強していればその満遍なく勉強していて忙しいという事実に満足してしまい、どこまで勉強を徹底しなければならないのかについては受験生本人が鈍くなりがちである、ということからこのように受験勉強の手順を踏んでいくことが一番効果的であると感じているからです。

このように、「選択と集中」という戦略がたとえば勉強の力をつける、というだけのことにおいても、とても大切であると考えています。うーん。ここに書いたことをご家庭で実践するだけでも、ほとんどの個別指導型の学習塾など、この社会に必要なくなってしまうかもしれませんね。

本当にそれで個別指導型の塾が必要なくなるのであれば、社会が少しは改善されると思いますし、それで嚮心塾が潰れるのなら、それはそれで本望なのです。しかし、なかなかそううまくはいきません。それぐらいに、学校の先生の権威は強く、みながそれを信じているせいで、賢い子が「こんなの全部やったって覚えられないから、絞って典型的な問題だけやっていい?」と聞くのに対して、先生も、それを信じる親御さんも、「何言ってる!宿題は全部やるものだろう!」と叱り飛ばしては結局身につかない苦行としての(写経のような)勉強を強いられては、勉強を嫌いになってしまっていると思います。

中高生のお子さんが、そのような愁訴をしてきたときに、少しはこの記事の内容を思い出してもらえたら幸いです。
嚮心塾も学校の教師からも親御さんからも白い眼で見られながらも、これからも「宿題は全部やらないほうがいい!」という主張を続けていきたいと思います。

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お久しぶりです。

書きたい長い文章を書こうとすれば、時間が足りなくて書けないということが続いている間に、気がついたら受験も間近に迫ってきました。ここからは1日1日がさらに忙しくなっていくわけですが、それを理由に書かないことを続けてしまうと、この先書けなくなってしまうので、復活の狼煙として短い文章をあげたいと思います。

言葉というものは、他者に向かって発せられる以上、衒(てら)いにしかなりえないものです。
だからこそ、我々の魂を震わせる言葉というのは、結局そのように自意識という不純な物から生まれたはずの言葉であるはずなのに、何らかの真理をついているものであるのでしょう。なぜなら、真理とはたいていの人にとっては衒いの対象にはなりえないどころか、できれば語りたくないものであるからです。

しかし、ここから先が難しいですよね。「誰もが語りたくない真理について、私は敢えて語っている!」という自らが正義を体現するかのような瞬間の高揚感もまた、次の衒いのための動機となってしまいます。あらゆる告発、内実の暴露、「王様は裸だ!」という叫びは、叫んだ瞬間の正しさを2回目以降に繰り返されていくときには失っていきます。言葉はどのような自己犠牲の精神をも、自己の衒いへと引き戻してしまう、その恐ろしさを常にもっていると言えるでしょう。ベルクソンの言う「言葉は運動を捉えるのにふさわしくない」とはまさにその通りであるのですが、我々が言葉によってコミュニケーションをとるというだけでなく、言葉を武器として、何らかの価値観を覆そうとせざるをえない以上、このような固着はずっと続かざるをえません。マルクスが「私はマルクス主義者ではない。」と言ったように、固着をふせごうとすれば逆説を繰り返し、自身が何らかの言葉に絡め取られるのを防ぐように言葉を発し続けていかなければならなくなります。

僕の卒業した高校の校是は「ペンは剣よりも強し」でしたが、たしかにペンは長い目で見れば剣よりも強いことが多いと思います。しかし、ペンが剣よりも強くなるためには、「ペンが剣になる」ことが必要となってしまいます。そのとき、ペンはペンのままでいられているのでしょうか。ペンが剣に勝つことを、私達は肯定さえしていればいいのでしょうか。硬直的なスローガン、敵か味方に二分する言説、何が正しい立場かを一方的に決めつける言説、プロパガンダと化していく表現など、言葉は(それこそ司馬遷の頃から)どのような兵器よりも恐ろしい武器になるわけで、私たちは言葉の力を信じるのと同じぐらい、言葉の恐ろしさを恐れなければなりません。

暴力に対し、非暴力的手段で立ち向かうことは、手段であって目的ではありませんし、とりわけ、すべての手段を正当化するほどの目的にはなりえないものです。その厳しい事実を踏まえながら、言葉にできること、言葉にさせてはいけないことの両方を考えていくことが大切なのではないでしょうか。

塾のブログも言葉を自分の衒いのためや武器として使うのではなく、少しでもだれかのために発するべき言葉を紡いで行けるように、頑張って書いていきたいと思います。

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