嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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良い教師の条件。

ご無沙汰をしています。あれこれと忙しく過ごしている間に、前回の記事から一ヶ月ぐらい経ってしまいました。
日々、心を消耗させられることばかりなのですが、「ブログ読んでますよ!」という声をいただいたりで少し元気が出てきました!また、ちょこちょこ書いていきたいと思います。

さて、今回は良い教師の条件について書きたいと思います。塾を開いてから10年、家庭教師その他他の塾で教えているところから数えれば20年は教えてきたわけで、その中でできあがってきた良い教師の僕なりの理想像をこの機会にまとめてみたいと思います。もちろん、僕がこの「理想の教師」である!などと主張したいわけではありません。それに近づこうと努力していきたい、というだけです。

①親の言いなりにならない。

塾や家庭教師、もちろん学校の先生方も含め、親御さんとの距離には苦労することが多いと思います。もちろん普段間近でみている親御さんからの情報は極めて大切です。そこには子供達に対してどのような指導が有効かのヒントがたくさん眠っていると言えるでしょう。ただ、親御さんのお子さんに対する評価をそのまま鵜呑みにしてはいけない、ということがとても大切であると思います。「この子はこういうふうにダメなんです!」という言葉をそのまま鵜呑みにしてしまって、それをなんとか改善していこうとするのであれば、子供にとっては新たな迫害者がまた一人生まれるだけです(一般に親御さんはお子さんに対して接する時間が長いからこそ、厳しい目で見がちです。それもたとえば成人である自分の24時間に誰か別の観察者がついて、「ここはスマホゲームとかで時間をムダにしなくてすんだ!」と突っ込まれる鬱陶しさを考えれば、子供達の気持ちがわかるのではないでしょうか)。端的に言えば、その子の欠点はその子の個性と根深く結びついています。つまり、視点を変えればその子の良さにもつながるところです。それを完璧を目指して「欠点を直せ!」というプレッシャーによって変えようとしていくということは、暴力にしかならず、また結局子供達もその欠点に向き合ったり乗り越えようとしたり、ということにつながりにくいと思います。その子の欠点はその子の個性と根深くつながっているところを意識した上で、そういう自分にとって苦手な部分も必要に応じて鍛えていかなければならないことを、本人に理解していってもらうことがとても大切であると僕は考えています。また、そのためには「その欠点をいますぐ直せ!」と外から言うことは実は逆効果でしかないことも多々あります(大人だって自分でもわかっている欠点を他人から指摘されたら不快なものですよね!意地を張って直したくない、と思ってしまうのではないでしょうか。それは特に感受性の強い若い時にはそうであると僕は思っています)。もちろん、その欠点の克服には「受験」や「就職」などの外部からのタイムリミットがあるわけで、そこにどう間に合わせていくかを睨んでいかねばならないわけですが、それを焦るあまりに外部からのプレッシャーを与えれば与えるほどに、子供達は体裁だけを取り繕い、外見上は頑張っているかのように見せかけるようになります。これがいわゆる「勉強しているふり」をする段階です。「ノートに5回書いた」とか「問題集の解答を写した」ということをする子は、その行為をとがめても仕方がありません。そのような無益なことが無益だとわからなくなるのは、外部からのプレッシャーがきつすぎるあまり、自己防衛のためにそのような策を覚えていくだけであるからです。つまり、それは教育の失敗の原因ではなく、結果であると言えるでしょう。そのような暴力に、教師は手を貸してはなりません。

②子供のいいなりにならない。

では、子供の言うことをなんでも聞けば良いのでしょうか。それは違います。なぜなら、人間は努力を強いられなければ、楽な方に流れる生き物であるからです。だからこそ、①に挙げたような外部からのプレッシャーを弱めただけでは、子供達は単純にさぼるようになるでしょう。しかし、その結果として彼らが直面するのは、後からどんなに頑張ろうとも取り返しのつかないという厳しい社会の現実です。たとえば受験勉強がこの不確かな時代においてもなお、そこそこの有効性を信頼され、就活でもそれが活きてくるというこの社会において、いやそもそも「○◯大学卒」が新聞であれ、本であれ、ウェブであれ、人物を紹介するときに必ず付いて回るという現実を目にすれば、受験勉強は極めて報われやすい努力であると思います。おそらく、野球やサッカーのようなスポーツや囲碁や将棋のようなマインドスポーツ、さらにはその他のあらゆる分野と比べて、極めて報われやすい努力です。その極めて報われやすい努力ですら、目の前の楽しいことにかまけてできない
子達が多いのではないでしょうか。人間は弱いものです。目の前のことにかまけて、将来のことを考えて努力する習慣をつけていくのには、やはり意識的な努力が必要となります。そして、それは誰のためでもなく、自分のために必要なことです。そのことを子供達に理解してもらい、頭では理解していたとしてもそれを行動にはうつしにくいところをなんとか鍛えていけるのが、良い教師です。それは、外からの動機ではなく、自分の動機で行動する人間に鍛えていく、ということでもあります。その意味でも教師は子供のいいなりになってはいけません。

ここまでをまとめれば、良い教師というのは親からも子供からも疎まれる存在でなければならない、と言えるでしょう。
もちろん、教師の動機としては子供達のため、ひいては親御さんのために全力を尽くすのですが、しかし、その一つ一つの努力は親御さんからは「子供を甘やかしている。」と見られ、子供からは「口うるさい。正論でせめてくるからうざい。」と見られるわけです。だからこそ、僕は「親御さんに評判がいい」教師も「子供に評判がいい」教師も、あまり信用していません(もちろん、これは、「親と子のどちらからも評判が悪い教師は必ず良い教師である」という意味でもありません。)「連帯を求めて、孤立を恐れず。」ですね。

③自分の家族のいいなりにはならない。

このようにどちらからも疎まれながらも、しかし、自分の家族よりも教え子を優先しなければならないのが良い教師です。
これは「自分の子の入学式と教え子の入学式、どちらを優先すべきか?」ということが以前問題にもなりましたが、そのようなことで心底葛藤するようでは、教師としては二流でしょう(もちろん、親が子に与えるべき愛着を自分が教師であるがゆえに与えきれていないという問題についてはまた考えなければなりません。)
なぜか。それは、子供達は教師の自分の子供への姿勢を見て、自身が家庭で甘やかされることに多寡をくくっているからです。「この先生だって、どうせ教え子より自分の子供が可愛いんでしょ。」という教師への見透かしは、同時に「自分がどんなにダメなことをしても、親は許してくれる!」という甘えへとつながってしまいます(この点を子供達はとても鋭く見ていると僕は日々感じています)。もちろん、そのような愛着は時と場合によっては逆に必要なこともありますが、「どうせ親からは愛される」という多寡をくくった甘えの姿勢は、子供達の成長にとって基本的に有害です。それは努力や成果によって評価されざるを得ない実社会の厳しさに対して、準備をする気を無くさせてしまうと思います。だからこそ、自分の子供を教え子よりも愛する教師は、やはり教え子達に誤ったメッセージを与えてしまうのです。

④自分の願望のいいなりにはならない(速やかに忘れ去られねばならない)。

このような報われない職業である教師にとって唯一の希望は、教え子にとって「人生の恩師」となることでしょう。卒業後もそのように慕われることこそが唯一心の支えとなっている、頑張っておられる先生方も多いのではないでしょうか。もちろん、僕にもそれこそ一生かけても越えられないような人生の恩師がいます。しかし、本当に良い教師とは、その存在を教え子に忘れられなければなりません。すなわち「先生のおかげで(受験・その他の難局を)乗り越えられました!先生がいなければ、どうなっていたかわかりません!」と教え子に言われるよりは、「自分の力で乗り越えてきた!」と教え子に思ってもらえる方が、より良い教師であるということです。なぜならそのように自分の力で乗り越えてきた、という自信こそが、必ずその子達の力としてさらに困難な事態についても歯を食いしばって頑張る原動力になり得るからです。教師は子供達に一生そばにいてあげることができません。大体の場合は、教え子より先に死ぬでしょう。そのあとも教え子達が一人で生き抜いていく力をつけていくことこそが、良い教師にとっての目標でなければなりません。逆に「あの先生のおかげで…」といつまでも思われているうちは、その子に対する教師にとっての教育は不完全であるのです。二宮尊徳も「最も良い仕法家とは、人々が困難を自分の力で乗り越えられた、と感じさせることのできる仕法家である。」と言っていたらしいのですが、まさにそれこそが理想の教育者であると思います。あるいは途上国支援もそうですね。自分たちの力で生き抜けるように支援しなければ、結局無意味な支援になってしまいます。

と書いてみると、改めて、しんどくなりますね。まあ、選んでしまった以上はその理想に少しでも近づいていけるように、全力を尽くしていきたいと思います。それとともに、教えていく中で教師にとって一番のハードルは実は④なのかな、と思ってきています。忘れ去られていくことが理想と思いつつも、卒塾生が塾を訪問してくれればやはり嬉しくはなります。いや、正確には忘れ去られて打ち捨てられてもいい、という思いでやっていることを、忘れないでいようとしてくれることに感動を覚える、というのでしょうか。これにはもちろん、④のような思いを僕が徹底できていないがために、まだまだ教師として力が足りなく、卒塾生が訪れてしまっているのかもしれない、という可能性ももちろんあります。
どちらの可能性も考えながらも、もっと理想に近づけるように努力をしていきたいと思います。

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