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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

幸せな人生とは。

ご無沙汰をしております。毎日忙しく、教えています。

先日、塾の生徒と進路相談をしていて気付かされたのですが、僕は今の自分をだいぶ幸せだと感じているのだなあと思いました。その理由はただ一点、「自分の力の足りなさ」を日々実感させられる、という点においてだと思います。
もちろん、ある人の人生が幸福であることを測る為の尺度は、お金や名声、愛、その他様々なものがあるのでしょう。しかし、それらのものというのはもちろん最低限必要なものではあるとしても、人生のすべてをかけていつまでも追い求められるものではありません。「足るを知る」ことで、折り合いをつけていくものでしかないといえるでしょう。

しかし、「自分ができていないことをできるようにしていく」ということに関しては、それこそ死ぬまで終わりがありません。彫刻家のジャコメッティが「あと1000年生きたい。あと1000年生きられれば、私の彫刻も少しはマシになるのに。」と言ったそうですが、その気持ちを最近は特に痛切に感じるようになってきました。それとともに、そのように日々自分の足りないところを感じ、それを埋めていく、あるいは乗り越えていくための人生を選べている僕は、たとえこの先路頭に迷い、どこかでのたれ死にするとしてもなお、幸福であるとも思います。

イチローがメジャーに行った理由というのも、「日本のプロ野球界では自分の理想のプレーに届かなくても結果が出てしまう。」ということだったそうですが、それは決して驕りなどではないわけです。「自分としてはもっと良い仕事ができたはずなのに、それが周りから見れば(他者との比較という観点だけから)高く評価されてしまう」という環境こそが、何よりも自分の成長を阻害するものであるのですから、そのような環境で結果を出し続けることは、決定的に不幸であると言えるでしょう。

僕自身、小学校から高校生までの学生時代はそのように不幸であったと思っています。他者との比較で見ればさほど努力せずに結果が出てしまい、それで褒められることを心の支えにして、結局ちっぽけな自分がいかに努力を重ねてもこの世界の問題など何一つ解決できるわけがないという事実からは目を背けて、さぼっていたところがありました。さらにずるいのは、僕自身、その身の回りでの評価は大したことではないとよくわかっていたということです。もっと自分を必死に鍛えたとしても、自分の才能の限界を思い知らされるまでに徹底的に努力を重ねたとしても、それでもなお、世界の抱える難題を僕程度の力では何一つ解決できるわけがない、という事実に一方では気づいていながらも、「それに目を背けて自分の人生を送りたいなあ。」という卑怯な毎日を暮らしていました。

あれから20年以上がたち、今の僕はおそらく高校生の時の僕よりもはるかに何でもできるようになっているからこそなお、自分の能力の限界を日々思い知らされています。あのときよりもはるかに努力を強いられる日々です。もはや好きで読んでいた本ですら、趣味や興味ではなく単純に義務感から読まざるを得ないようになっています(僕はいわゆる「教養は大切だ!」という教養主義をあまり評価していません。教養は大切なものではなく、義務です。価値のあるものではなく、知らなければならないものです。それを一人一人が知らないがゆえに、同じような過ちを何回もアホみたいに繰り返しているのが人類の歴史であるわけですから)。しかし、それでもなお、そのように自分の至らなさ、実力のなさ、努力の足りなさを思い知らされては必死に努力しなければならないこの日々は、僕にとっては「幸せな人生」です。

もちろん、生徒たち一人一人にそのような人生を生きて欲しい、とまでは願っていません。
ただ、自分がスムーズにこなせることをしてそれなりに評価を受ける、ということに満足する日々の中で
「そういえばあのおっさんがそんなこと言っていたな。」ぐらいには思い出してもらえたら、と思っています。
それは自分にできるところだけに取り組んでいるにすぎないのかもしれないのだ、ということを。
そして自分にできるところだけに取り組み続ける人生というのは、実はあまり幸せな人生ではない、ということも。

もちろん、何もできるところがないのなら、まずは何かをできるようにしていかねばなりません。
しかし、それができるようになったとしても、それはスタートであってゴールではありません。
そのことをしっかりと伝え続けていきたいと思います。

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