嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「勉強をやり直すのにもやっぱりお金が必要なのか」と諦めている若い世代に。

少し前に不登校の子の教育支援NPOの特集記事が朝日新聞に載っていました。そのNPOについては、設立当初から僕も注目していましたし、取り組み自体は本当に素晴らしいと思うのですが、その最初の記事で「週一回の1科目90分授業が月に4回で24000円」とか、「母子家庭のこの子は計4科目で月に96000円」を自分では払えず祖父の支援で支払って通っていた。という記事の内容を見て、うーん、と考え込んでしまいました。これを「素晴らしい取り組み」と言って、手放しで賞賛するわけにはいかないと思うからです。

母子家庭の平均所得は国民生活調査の結果で年間243.4万円です(平成25年度)。月にして20万円。家賃や光熱費、最低限の食費を引いたら、「塾代に月10万円」というのはかなり厳しい状況なのではないでしょうか。もちろん経営を安定させなければ継続的に支援できなくなってしまうため、ある程度の金額をもらわなければならないことは同じように学習塾を経営している僕にとってもよくわかる話です。しかし、少なくとも、教育支援をうたっていて、このような大きな負担をご家庭に強いていることに対して内部で疑問が生じない、というのは問題なのではないかと思います。そもそも、そこで働く人々は母子家庭の平均所得を把握しているのでしょうか。母子家庭に月10万円の負担を強いている、という事実に悩まないのだとしたら、その志についても疑問に思わざるを得ません。

さらに、ここの個別指導では必ず一コマで一教科と決まっているらしく、一コマの中で複数教科の指導は禁止されているそうです。だから、たとえば週に一コマだけをとり、そこで複数教科について相談やアドバイスを受ける、ということもできないそうです。一科目で受けられる大学受験などほぼない以上、最低でも月5〜7万はかかる、ということですね。
講師代にお金をかけているならそれでもまだわかるのですが、「ドロップアウトしてしまった子たちを助ける!」という美しい名目で有名大学に通う大学生の講師を集め、最低賃金すれすれぐらいの講師代で「やりがい搾取」をしてしまっていることも問題であると思います。

「お金がない家庭の不登校生は救えないけれども、お金がある家庭の不登校生は救えるのだからいいじゃないか!」というのはもちろんなのですが、問題はその不登校の要因が本人由来だけでなく、家庭の経済状況由来(家計を支えるためにバイトをたくさん入れてしまい、学校に追いつけなくなって結局辞めてしまうというケースです)の不登校生の割合がかなり多い、ということにあるのです。つまり「経済的に困窮していない家庭の不登校生のケア」というのは「不登校生のケア」に対して、どれほど本質的な取り組みになっているのか、ということが問題であると思っています。そして、「やり直し」をその組織の目標として掲げる教育支援のNPOであればできればその問題にも取り組んでもらいたいし、それが不可能かといえば、嚮心塾などは月々2、3万くらい(もちろん、この金額ですらご負担を強いていることを申し訳なく思いますが)で全教科を見ているわけで、それで一ヶ月通い放題ですし、各教科の指導も(もちろんそれぞれの教科のトッププロの先生方にはおそらくはるかに及ばないとしても)おそらく件のNPO の学生講師よりはどの教科もクオリティは高いと思っています。つまり、やろうと思えば、そういう環境は作れるわけです。(実際に嚮心塾では自分でアルバイトをしてお金を貯めてからそのバイト代で通う、という高卒認定試験受験生や大学受験生が一定数います。そのようなことは、おそらくあのNPOの金額設定ではできないと思うのです。)

うーん。宣伝めいてしまいましたね。ただ、僕は塾を始めて以来10年間、どこかの塾をライバルだと思ったことはありません。これは不遜な物言いですが、事実だから仕方がありません。この社会にとって決定的に足りないピースを埋めるために、学習塾をしていますし、このエントリも競合相手をくさすつもりはありません。違うジャンルのものであると思っています。

ただ、このような新聞記事のせいで、勉強のやり直しと再出発をしようとしても「そうか、やっぱり月に10万は払えないと勉強もやり直せないんだな。」と思ってしまう若い子達が傷ついては諦めることをなんとか防ぎたいと思います。そのことに対してあまりにも無自覚に「美談」あるいは「意義ある取り組み」として紹介されるのには、率直に言って我慢がなりません。仮に志をもって事業を始めたのなら、自分たちの現在のビジネスモデルが何を食い物にし、何を掘り崩そうとしているのかについて猛省をしていただきたい、と思っています。

勉強をやり直すのに、お金はまずはそんなに必要ありません。高卒認定試験の問題など、教科書の文章さえ読めれば、あとは独学でどうにでもなります。はっきり言って僕はこのNPOに限らず高卒認定試験のために高い月謝をとる教育産業というのは、ドロップアウトした子供達やその親の不安につけこんだビジネスにすぎないと思っています。

しかし、それらに食い物にされる子があまりにも多いのは、やり直しをしようとする子達の努力しようとする姿勢が足りないからです。そのような不安を抱えてそういう塾や予備校に通う前に、まずは一教科でも教科書を全部読みましたか?読んだ教科書の科目について高卒認定試験の問題を解いてみましたか?高卒認定試験の合格ライン(あの簡単なテストを半分とれれば合格です!)を知っていますか?自分の人生のやり直しを決意しているはずなのに、その自分の人生のやり直しを決意したそばから何も自分で努力をせずに「伴走者」を探そうとするその心の弱さをこそ、大人たちにつけ込まれているのです。高卒認定試験の合格くらいなら、教科書と市販の薄い問題集で事足ります。だからこそ、お金がないから、という理由でそれを諦めないでもらいたいと思います(そして、そんな相談ならいつでも無料で乗ります。気軽にメールしてきてください!)。

その上で大学受験に関して言えば、(高卒認定試験とはあまりにもレベルがかけ離れているため)やはり独学では限度があります。そのために良心的な価格の塾、それも教えてもらう教科の枠を超えて、自分の受験勉強全体について相談できる信頼のおける先生のいる塾を探す(嚮心塾のようにシステムとしてそのようなものを備えている塾は少ないかもしれませんが、個人的にそのように対応してくれる良心的な学校の先生や塾の先生は数少ないながら、必ずいると思います。)、というのが良いのではないでしょうか。ただ、ここでも言えることは大学受験もまた、どこの塾に通ったかではなく、自分がどれだけ一生懸命勉強したかによって決まる、ということです。

今までの自分を反省し、それをやり直そうと思う気持ちは、人間にとって一番尊い感情であると僕は思っています。だからこそ、そのような気持ちをまずは徹底的に自身で突き詰め、努力することです。その中で、どうしても自分だけでは乗り越えられない壁があるものについてのみ、それを他の人や学習塾などの力を借りて、乗り越えていくことが大切です。自分が目の前の試練を誰かに依存して乗り切ろうとすればするほどに、そのような甘えた態度を利用しようとする相手が出てくるからこそ、それに騙されてはなりません。まずは、自分でしっかり頑張っていきましょう!そのように頑張ろうとするすべての受験生に、少しでも力になり続けていきたいと思っています。

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鴨居玲展@東京ステーションギャラリーの感想

帰宅途中の車中の中吊り広告で、なんと鴨居玲(かもい・れい)の絵が5月末から東京で見れる!ということを知り、東京駅の東京ステーションギャラリーに早速行ってきました!そもそも鴨居玲の絵を見るためだけに家族旅行を金沢にしようとして、子供たちの猛反対(子供向けではないですよね)にあってやめたこともあるくらいなので、東京で見れるなんて望外の喜びでした。

何枚かの有名な絵以外は初めて見るものが多かったのですが、本当に素晴らしかったです!鴨居玲の絵は、初期のデ・キリコ風のものやゴヤ風のものももちろん素晴らしいのですが、最晩年の自画像シリーズが本当に素晴らしいのです!いや、「素晴らしい」という言葉でごまかしてはなりません。その最晩年の自画像シリーズは本当に、この上もなく悲痛なものです。パリやスペインで老婆や廃兵の絵を描く中で、人間から虚飾を剥ぎ取った本質を描くことに目覚めた鴨居が、日本に帰ってきてからの(社会的成功と裏腹の)芸術的不遇の末に、自分をモデルに描き始めたということの意味を痛切に考えさせられました。ロダンが『麗しきオーミエール』で老いさらばえた老婆の彫像を作り、「これこそが美だ!」と宣言したのだとしたら、鴨居玲はさらに老婆や廃兵をデフォルメしていきます。我々が人間の特徴としてぱっと飛びつきがちなものが何も残っていない彼ら、彼女らの中にこそしかし、何よりも気高く残っている人間性を鴨居玲の絵は捉えていると思います。
その鴨居玲の絵は、「人間はどこまで人間であるのか」ではなく「人間はどこからが人間であるのか」、という問いへの一つの答え方ではないかと思います。私たちが人間の生活というときにまっさきに思い浮かべるような、知性、恋愛、美しさ、社会的成功、出産、子育て、家族、その他もろもろが全て終わった後の、あるいはそれらを全て奪われた後の廃兵や老婆を鴨居が描いたときの強烈なまでの存在感は、かえって世間から疎外され、もはや必要のない人間としてただ存在しているかのような彼ら、彼女らこそが逆に人間の本質ではないのか、という動揺を僕たちの中に引き起こしてくれます。人間としての生活の社会的奴隷として忙しく立ち働く我々が、そのような全てから疎外された人々の表情に強く感銘を受けるわけで、それは何かや誰かのために彼や彼女が存在しているのではなく、ただそのものとして人間もまた存在しうるのだという驚きと感動、そして反省を与えてくれるからであると思います。鴨居玲は風景画を描かなかったことでも有名です(彼は「私が興味があったのはただ人間だけだ」と言っていたそうです)が、彼は人間を「風景」として描いたのだと思います。私たちが風景画に感銘を受けるのは、その風景が私たちの見ている普段の景色を超えて「自己の認識する世界の外に存在しうるもの」としての可能性(まあ、つまり自己のvirtual realityではないrealityが存在する可能性ですね)を感じさせてくれるからであると僕は考えているのですが、鴨居玲の描く人間はそのように私たちの認識する人間への自己のvirtual realityの外のrealityを感じさせてくれる、という意味で人間を「風景」のように描いているのだと思います。

このような絶頂期を迎えた後、帰国してからの鴨居玲の絵は、一転して苦しい。描けども描けども、そのようにヨーロッパで出会った人間の本質をとらえるような絵がまるで描けないことに苦しみ続けているのです。今回の展覧会のストーリー付けもそのように企図されていますが、それは強引な解釈ではなく、この時期の鴨居の絵を見れば明らかであると思います。
何を描いても、人間の存在そのものに迫るような人物画が描けない。あのヨーロッパで描けていた人物を描いた「風景画」が描けない。その苦悩の末に、自画像へと行き着く鴨居の歩みは、「このように『人間の存在そのものに迫るような絵が描けない』と苦しみぬいている私を描くこともまた、人間の存在そのものに迫るような絵につながるのではないか。」という彼の最後の、悲痛な取り組みへとつながっていきます。そこから彼は、とりつかれたかのように自画像を描きまくります。食料のなくなった動物が自らの手足を食べるかのように。ときにはそのような自らの取り組み自体にシニカルになったり、疑心暗鬼になりながら。そして、その末に自死を選びます。

鴨居玲が「人物画」を描けなかった70年代、80年代の日本は僕自身も子供として過ごしてきた時代です。彼にそのような人間存在の本質に迫るような絵を描かせなかったものが何であるのかを僕たちは考えなければならないと思います。そして、それにもかかわらずそのような本質的な絵を描くことを諦めずに自画像を描き続けたという鴨居玲の超人的な努力にも、思いを馳せなければなりません。彼は最後まで、人間存在の本質を描くことを諦めようとはしなかった。そのために狂気の自分をすら、目をそらすことなく描き続けました。彼の最晩年の『勲章』という絵には、ビールの王冠が勲章のように胸に付けられた彼の自画像が描かれていますが、それは何も(説明文に書かれているような)権力的なものへの批判とかではなく、そのようにうらぶれ落ちぶれ、追い詰められた人生の中でそれでも描きたいと思える絵を描こうと最後までもがき苦しんだ彼自身に、彼が与えた「勲章」であるのだと思います。それを世間の人がどう評価するのであれ、あるいはそれを私的にお祝いするほどの金銭的な余裕はないとしてもなお、私は私に勲章を与えるのだ、と。

僕も、人生の最後にそのように自分で自分に勲章を与えられるように、鴨居に恥ずかしくない生き方をしなければならないと改めて思わされました。芸術鑑賞とは美しいものを楽しむことではなく、自分自身の小さな世界を破壊してくれるものだと信じたい人にとって、本当にオススメだと思います。
東京ステーションギャラリーのサイトです。)

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