
間が空いてしまってすみません。書評を始める!と言ってすぐのFC2ブログのアマゾンリンクサービスが終了になるという事態に、もともとないやる気がさらに萎えてしまっていました。書評だけブログを分けるか、リンクなど気にせずここで書いていくか、まだ悩んでいます。
先月、こちらがどんなに笛を吹けど勉強にしっかり取り組もうとせずにきた新高3の子が、「教師になりたい。だって教師ってかっこいいじゃないですか!」と言うので、いかにそれが大変な仕事か、さらには今のままの彼から学ぶものなど教わる生徒にとって一つもないこと、だからこそ彼から生徒が何かを学ぶことができるとしたら、よほどこの1年で必死に頑張らなければならないし、頑張ったとしてもそれは所詮付け焼き刃にすぎないので、大学に入ってからも必死に努力し続けねばならないこと、などを話しました。「教育をなめすぎじゃない?僕はこんな道を選んでしまって、毎日辞めたいとしか思わないけど。」とも。いつもならもうちょっとオブラートに包みながら話すのですが、現状の彼の情けなさとそれを変える気のなさから「それでも教師にならなれる!」というその発想に対してあまりにも耐え難く思ってしまい、きつい話をしてしまいました。案の定、彼は先月いっぱいで塾をやめました。
まあでも、後から冷静になって考えてみると、現在の子たちにとって「学校の先生」というのは、そういう存在なのだな、と気付きました。さして努力もしていない自分がちょっと頑張れば、手の届く存在、それでいて給料は安定していて、そこそこ社会的なステータスも高い、上司に怒られることも少ない、そういうイメージなのではないでしょうか。努力をしないで教師になろうとする彼を叱っている暇があれば、彼にそのように思わせてきた、学校の教師全てを叱らねばならないのでしょう。
実際にやる気のない学校の先生は非常に多いと塾で教えていても思います。学校の勉強が受験勉強に役に立たないのは、まあ当然のことなので仕方がないとしても、あまりその内容を教えることに信念を感じさせられることがありません。また、生徒に意味のない忠誠心を強要することがあまりにも多いと感じています。それが少しも勉強にならないような写経のような宿題を平気で課しては、生徒たちの時間を奪うことに無自覚であるのです。
(これは塾でもよくあるのですが、「宿題を出してください」と親御さんから頼まれることが多いです。宿題さえ出してもらえれば、とりあえずそれをやらなければならないと子供は感じるでしょうからそこで親御さんが安心したいために「宿題を出す」ことに無自覚な教師というのは多いのではないでしょうか。しかし、宿題を出すというのは当然メリットだけではなく、メリットとデメリットの双方があるものです。その子にとって学習効果の低い宿題を出せば、当然それは子供達に「勉強を頑張ってやったとしても、あまり意味がない」という間違ったメッセージを与えることになります。しかし、物理屋さんのようなスーパー家庭教師の先生ならともかく、一人一人のレベルに合わせて的確な宿題をだすことのできている学校の教師がどれほどいるといえるでしょうか。その意味で、「宿題をとりあえず増やしておけば親は文句を言わないだろう」とばかりに大量の宿題を出す教師、さらにはそのような教師ばかりで横の連携も取れておらずに膨大な宿題量になってしまっている学校というのは、基本的に学習効果について何も考えていないと思います。この当然の帰結として、子供達は勉強とは「膨大な量を課されるけれども、それをやっても何の力がつかないもの。」という刷り込みがなされます。子供たちの純真なやる気というリソースを奪っているのは、このような考えのない押し付けです。そして、このような失敗は特に私立の中堅以下の学校、あるいは都立の中高一貫校のように「進学実績に熱心な学校」で多いように感じています。)
もちろん、学校の先生方の中でも極めて素晴らしい先生もいらっしゃいます。僕自身、小中高と通う中でそのような先生方に数少ないながら出会えたことは本当に人生の財産ですし、今もなおそのように必死に頑張っておられる先生方が数少ないながらいることは確かです。しかし、考えなければならないのは、真剣に努力を重ねるのを嫌がる子達にとって、「学校の先生くらいなれるんじゃない?」と思われてしまっているというこの事実について、学校の先生方は猛省をしなければならないのではないか、ということです。もちろん、これは学校の先生達だけではありません。予備校の講師であれ、あるいは僕のような個人塾の教師であれ、(もちろん「あんな風になりたくない」と思われているのは論外だとしても)「ちょっと頑張れば、あんなくらいの仕事はできるんじゃね?」と思われているようでは、やはりダメなのです。子供達がその教師から様々なことを学びながらも、しかし、「ちょっとこの仕事を選ぶのはしんどいな。」と思えるように頑張らねばならないのだと思います。
もちろん、このような考えに対して「頑張った人が報われないシステムをなんとかしないといけない!」という発想も大切です。個人のやる気の搾取をするのであれば、それは結局社会の改良にはつながりません。
たとえば、現在の保育士の給料の低さなど全く合理的なものではなく、今までの慣習と偏見に基づくものでしかないと僕は考えています。ただ、社会の全ての職業について、その待遇を改善することで優秀な人を集め、その仕事にモチベーションを高めてもらうことは不可能です。そして、その意味では(非常勤講師の方々は除いて)学校の先生は待遇という観点ではそんなにひどくないのではないでしょうか。
僕自身も、自分が教えるという道に入りたい、と思った時に一番のブレーキになったのはそのことでした。
僕にとっての人生の恩師と接していて、彼のとてつもない努力と天才性を見るに、僕程度の中途半端で実力もないものが、果たして同じ教育という道に進んで、一体何ができるのだろうか、という逡巡ゆえにとてもこの道に入るのにためらっていたところがあります。たとえ、そこでためらった末にこの道を選んでいなかったとしても、そのように高い「壁」と人生の早い時期に出会えた僕はやはり幸せであると思うのです。それだけ人生の選択を真剣に悩むことができたからです。そのような先生と出会わないままに大人になる、という不幸をどの子供にも味合わせたくない、と僕は考えています。
その意味でも、学校の先生方には是非、生半可な気持ちで「教師になりたい!」などと言えないように、努力をしていただきたいと思います。もちろん僕自身も、まだまだなのです。そのように塾生の誰にも言ってもらえるように、もっと必死に努力していきたいと思います。
先月、こちらがどんなに笛を吹けど勉強にしっかり取り組もうとせずにきた新高3の子が、「教師になりたい。だって教師ってかっこいいじゃないですか!」と言うので、いかにそれが大変な仕事か、さらには今のままの彼から学ぶものなど教わる生徒にとって一つもないこと、だからこそ彼から生徒が何かを学ぶことができるとしたら、よほどこの1年で必死に頑張らなければならないし、頑張ったとしてもそれは所詮付け焼き刃にすぎないので、大学に入ってからも必死に努力し続けねばならないこと、などを話しました。「教育をなめすぎじゃない?僕はこんな道を選んでしまって、毎日辞めたいとしか思わないけど。」とも。いつもならもうちょっとオブラートに包みながら話すのですが、現状の彼の情けなさとそれを変える気のなさから「それでも教師にならなれる!」というその発想に対してあまりにも耐え難く思ってしまい、きつい話をしてしまいました。案の定、彼は先月いっぱいで塾をやめました。
まあでも、後から冷静になって考えてみると、現在の子たちにとって「学校の先生」というのは、そういう存在なのだな、と気付きました。さして努力もしていない自分がちょっと頑張れば、手の届く存在、それでいて給料は安定していて、そこそこ社会的なステータスも高い、上司に怒られることも少ない、そういうイメージなのではないでしょうか。努力をしないで教師になろうとする彼を叱っている暇があれば、彼にそのように思わせてきた、学校の教師全てを叱らねばならないのでしょう。
実際にやる気のない学校の先生は非常に多いと塾で教えていても思います。学校の勉強が受験勉強に役に立たないのは、まあ当然のことなので仕方がないとしても、あまりその内容を教えることに信念を感じさせられることがありません。また、生徒に意味のない忠誠心を強要することがあまりにも多いと感じています。それが少しも勉強にならないような写経のような宿題を平気で課しては、生徒たちの時間を奪うことに無自覚であるのです。
(これは塾でもよくあるのですが、「宿題を出してください」と親御さんから頼まれることが多いです。宿題さえ出してもらえれば、とりあえずそれをやらなければならないと子供は感じるでしょうからそこで親御さんが安心したいために「宿題を出す」ことに無自覚な教師というのは多いのではないでしょうか。しかし、宿題を出すというのは当然メリットだけではなく、メリットとデメリットの双方があるものです。その子にとって学習効果の低い宿題を出せば、当然それは子供達に「勉強を頑張ってやったとしても、あまり意味がない」という間違ったメッセージを与えることになります。しかし、物理屋さんのようなスーパー家庭教師の先生ならともかく、一人一人のレベルに合わせて的確な宿題をだすことのできている学校の教師がどれほどいるといえるでしょうか。その意味で、「宿題をとりあえず増やしておけば親は文句を言わないだろう」とばかりに大量の宿題を出す教師、さらにはそのような教師ばかりで横の連携も取れておらずに膨大な宿題量になってしまっている学校というのは、基本的に学習効果について何も考えていないと思います。この当然の帰結として、子供達は勉強とは「膨大な量を課されるけれども、それをやっても何の力がつかないもの。」という刷り込みがなされます。子供たちの純真なやる気というリソースを奪っているのは、このような考えのない押し付けです。そして、このような失敗は特に私立の中堅以下の学校、あるいは都立の中高一貫校のように「進学実績に熱心な学校」で多いように感じています。)
もちろん、学校の先生方の中でも極めて素晴らしい先生もいらっしゃいます。僕自身、小中高と通う中でそのような先生方に数少ないながら出会えたことは本当に人生の財産ですし、今もなおそのように必死に頑張っておられる先生方が数少ないながらいることは確かです。しかし、考えなければならないのは、真剣に努力を重ねるのを嫌がる子達にとって、「学校の先生くらいなれるんじゃない?」と思われてしまっているというこの事実について、学校の先生方は猛省をしなければならないのではないか、ということです。もちろん、これは学校の先生達だけではありません。予備校の講師であれ、あるいは僕のような個人塾の教師であれ、(もちろん「あんな風になりたくない」と思われているのは論外だとしても)「ちょっと頑張れば、あんなくらいの仕事はできるんじゃね?」と思われているようでは、やはりダメなのです。子供達がその教師から様々なことを学びながらも、しかし、「ちょっとこの仕事を選ぶのはしんどいな。」と思えるように頑張らねばならないのだと思います。
もちろん、このような考えに対して「頑張った人が報われないシステムをなんとかしないといけない!」という発想も大切です。個人のやる気の搾取をするのであれば、それは結局社会の改良にはつながりません。
たとえば、現在の保育士の給料の低さなど全く合理的なものではなく、今までの慣習と偏見に基づくものでしかないと僕は考えています。ただ、社会の全ての職業について、その待遇を改善することで優秀な人を集め、その仕事にモチベーションを高めてもらうことは不可能です。そして、その意味では(非常勤講師の方々は除いて)学校の先生は待遇という観点ではそんなにひどくないのではないでしょうか。
僕自身も、自分が教えるという道に入りたい、と思った時に一番のブレーキになったのはそのことでした。
僕にとっての人生の恩師と接していて、彼のとてつもない努力と天才性を見るに、僕程度の中途半端で実力もないものが、果たして同じ教育という道に進んで、一体何ができるのだろうか、という逡巡ゆえにとてもこの道に入るのにためらっていたところがあります。たとえ、そこでためらった末にこの道を選んでいなかったとしても、そのように高い「壁」と人生の早い時期に出会えた僕はやはり幸せであると思うのです。それだけ人生の選択を真剣に悩むことができたからです。そのような先生と出会わないままに大人になる、という不幸をどの子供にも味合わせたくない、と僕は考えています。
その意味でも、学校の先生方には是非、生半可な気持ちで「教師になりたい!」などと言えないように、努力をしていただきたいと思います。もちろん僕自身も、まだまだなのです。そのように塾生の誰にも言ってもらえるように、もっと必死に努力していきたいと思います。



