嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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現在における「学校の先生になる」という人生の選択について

間が空いてしまってすみません。書評を始める!と言ってすぐのFC2ブログのアマゾンリンクサービスが終了になるという事態に、もともとないやる気がさらに萎えてしまっていました。書評だけブログを分けるか、リンクなど気にせずここで書いていくか、まだ悩んでいます。

先月、こちらがどんなに笛を吹けど勉強にしっかり取り組もうとせずにきた新高3の子が、「教師になりたい。だって教師ってかっこいいじゃないですか!」と言うので、いかにそれが大変な仕事か、さらには今のままの彼から学ぶものなど教わる生徒にとって一つもないこと、だからこそ彼から生徒が何かを学ぶことができるとしたら、よほどこの1年で必死に頑張らなければならないし、頑張ったとしてもそれは所詮付け焼き刃にすぎないので、大学に入ってからも必死に努力し続けねばならないこと、などを話しました。「教育をなめすぎじゃない?僕はこんな道を選んでしまって、毎日辞めたいとしか思わないけど。」とも。いつもならもうちょっとオブラートに包みながら話すのですが、現状の彼の情けなさとそれを変える気のなさから「それでも教師にならなれる!」というその発想に対してあまりにも耐え難く思ってしまい、きつい話をしてしまいました。案の定、彼は先月いっぱいで塾をやめました。

まあでも、後から冷静になって考えてみると、現在の子たちにとって「学校の先生」というのは、そういう存在なのだな、と気付きました。さして努力もしていない自分がちょっと頑張れば、手の届く存在、それでいて給料は安定していて、そこそこ社会的なステータスも高い、上司に怒られることも少ない、そういうイメージなのではないでしょうか。努力をしないで教師になろうとする彼を叱っている暇があれば、彼にそのように思わせてきた、学校の教師全てを叱らねばならないのでしょう。

実際にやる気のない学校の先生は非常に多いと塾で教えていても思います。学校の勉強が受験勉強に役に立たないのは、まあ当然のことなので仕方がないとしても、あまりその内容を教えることに信念を感じさせられることがありません。また、生徒に意味のない忠誠心を強要することがあまりにも多いと感じています。それが少しも勉強にならないような写経のような宿題を平気で課しては、生徒たちの時間を奪うことに無自覚であるのです。
(これは塾でもよくあるのですが、「宿題を出してください」と親御さんから頼まれることが多いです。宿題さえ出してもらえれば、とりあえずそれをやらなければならないと子供は感じるでしょうからそこで親御さんが安心したいために「宿題を出す」ことに無自覚な教師というのは多いのではないでしょうか。しかし、宿題を出すというのは当然メリットだけではなく、メリットとデメリットの双方があるものです。その子にとって学習効果の低い宿題を出せば、当然それは子供達に「勉強を頑張ってやったとしても、あまり意味がない」という間違ったメッセージを与えることになります。しかし、物理屋さんのようなスーパー家庭教師の先生ならともかく、一人一人のレベルに合わせて的確な宿題をだすことのできている学校の教師がどれほどいるといえるでしょうか。その意味で、「宿題をとりあえず増やしておけば親は文句を言わないだろう」とばかりに大量の宿題を出す教師、さらにはそのような教師ばかりで横の連携も取れておらずに膨大な宿題量になってしまっている学校というのは、基本的に学習効果について何も考えていないと思います。この当然の帰結として、子供達は勉強とは「膨大な量を課されるけれども、それをやっても何の力がつかないもの。」という刷り込みがなされます。子供たちの純真なやる気というリソースを奪っているのは、このような考えのない押し付けです。そして、このような失敗は特に私立の中堅以下の学校、あるいは都立の中高一貫校のように「進学実績に熱心な学校」で多いように感じています。)

もちろん、学校の先生方の中でも極めて素晴らしい先生もいらっしゃいます。僕自身、小中高と通う中でそのような先生方に数少ないながら出会えたことは本当に人生の財産ですし、今もなおそのように必死に頑張っておられる先生方が数少ないながらいることは確かです。しかし、考えなければならないのは、真剣に努力を重ねるのを嫌がる子達にとって、「学校の先生くらいなれるんじゃない?」と思われてしまっているというこの事実について、学校の先生方は猛省をしなければならないのではないか、ということです。もちろん、これは学校の先生達だけではありません。予備校の講師であれ、あるいは僕のような個人塾の教師であれ、(もちろん「あんな風になりたくない」と思われているのは論外だとしても)「ちょっと頑張れば、あんなくらいの仕事はできるんじゃね?」と思われているようでは、やはりダメなのです。子供達がその教師から様々なことを学びながらも、しかし、「ちょっとこの仕事を選ぶのはしんどいな。」と思えるように頑張らねばならないのだと思います。

もちろん、このような考えに対して「頑張った人が報われないシステムをなんとかしないといけない!」という発想も大切です。個人のやる気の搾取をするのであれば、それは結局社会の改良にはつながりません。
たとえば、現在の保育士の給料の低さなど全く合理的なものではなく、今までの慣習と偏見に基づくものでしかないと僕は考えています。ただ、社会の全ての職業について、その待遇を改善することで優秀な人を集め、その仕事にモチベーションを高めてもらうことは不可能です。そして、その意味では(非常勤講師の方々は除いて)学校の先生は待遇という観点ではそんなにひどくないのではないでしょうか。

僕自身も、自分が教えるという道に入りたい、と思った時に一番のブレーキになったのはそのことでした。
僕にとっての人生の恩師と接していて、彼のとてつもない努力と天才性を見るに、僕程度の中途半端で実力もないものが、果たして同じ教育という道に進んで、一体何ができるのだろうか、という逡巡ゆえにとてもこの道に入るのにためらっていたところがあります。たとえ、そこでためらった末にこの道を選んでいなかったとしても、そのように高い「壁」と人生の早い時期に出会えた僕はやはり幸せであると思うのです。それだけ人生の選択を真剣に悩むことができたからです。そのような先生と出会わないままに大人になる、という不幸をどの子供にも味合わせたくない、と僕は考えています。

その意味でも、学校の先生方には是非、生半可な気持ちで「教師になりたい!」などと言えないように、努力をしていただきたいと思います。もちろん僕自身も、まだまだなのです。そのように塾生の誰にも言ってもらえるように、もっと必死に努力していきたいと思います。

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第3回 レヴィ・ストロース『悲しき南回帰線』(講談社学芸文庫)

待っていても、アマゾンのリンクが直らないようなので、たまりにたまった書評を書いていきたいと思います。

この本の存在はもちろん、それこそ中学生くらいから知っていたのですが(僕の中学、高校生時代は構造主義ブームでした。)、そのときに構造主義の解説本をあれこれ読んだせいで、なんとなくわかっている気になっていて、その後レヴィ・ストロースの著作を読むことはありませんでした。この歳になってようやく読んだわけですが、感想としては、この本をもっと早くに読んでいなかったことをとても後悔しました。(これもまたブログで記事にして書きますが、読書をするときの大切な心がけは「誰かの思想について書かれた本」を読むのではなく、その当の本人の書いた本を読む、ということです。たとえばカントについて何冊もの解説書を読む暇があったら、カントの本を一冊読むほうがよほど実りがあると思います。それをつい初学者は「難しいのでは」と避けてしまうわけですが、それらの歴史に残るテキストの方がはるかに内容が豊かであり、また(ここが重要なのですが)解説書にまとめきれないような様々な他の要素を含みます。解説書はその元のテキストを「こういうことを言おうとしているのだ!」と勝手に定義して切り取ってくるわけですが、その解釈は当然時代によって変わります。しかし、そのテキストがなぜ人間の歴史に残らざるを得なかったかは、実はそういう解釈の外にあることが多いと思います。たとえるなら、解説書を読んで元のテクストを読まない、というのは、ベストアルバムだけ聞いて、そのアーティストについて理解した気になるようなものだと思います。何が「ベスト」か、という話です。)

前半の各部族についての分析と考察はもちろん、それが貴重な資料的価値をもつ、という以上に彼の本質へと切り込んでいく考察力が感じられる、とても素晴らしいものです。彼らの習慣や風俗の細部に対して意味を見出し、考察していくそのアプローチは感動的ですらあります。

しかし、今回初めて読んで、僕が圧倒されたのは、最後の何章かです。ここではまさに、優れた社会学や文化人類学のテクストという範疇を超えて、「なぜ社会学が必要であるのか」「なぜ文化人類学が必要であるのか」という社会学や文化人類学の存在意義についての彼なりの非常に説得力のある洞察がなされています。社会学や文化人類学というのは、しばしば非常に興味深すぎるがゆえに、興味本位からなされてしまう学問なのではないかと僕は思っています。しかし、レヴィ・ストロースはそれを、私たちが、そこに産み落とされてそれを当たり前だと感じているこの社会を相対化していくために必要であるのだ、という社会学や文化人類学の目的を示したのだと言えます。

その社会学や文化人類学の目的である「自分の社会の相対化」とは、もちろん自分の社会に当たり前に内在してしまっている暴力への批判のツールとともに、まさにルソーが『社会契約論』で描いていた、「人間が社会状態で生きざるを得ないとしたら、何が正当なものとして認められうるのか」という問いそのものです。そのような考察は今までの社会への批判のツールとして機能してきた、というだけではなく、これから未来永劫、人類が社会を形成していく中で必ず陥りがちな様々な暴力に対しての批判のツールとなりうる、ということでもあるのです。ルソーが理想的で正当な社会とは何かを考えることで、現存の社会の不当性に目を向けさせる努力をしたのと同じように、です。よくある誤解として、ここでの「ルソーの理想とする社会が成立したら全体主義的でおそろしい」とかがあるのですが(カール・ポパーもこのように誤解していました)、あれは永遠に完成しないものですし、そもそも正当な社会がどう成り立ちうるのかについてのルソーの考察が全て正しいわけではありません。部分的におかしいところはたくさんあるのだと思います。しかし、そのような「社会状態における理想」を考えることこそが、現存する社会の欠点を批判する運動の絶えざる源泉となりうる、ということが彼が『社会契約論』で描きたかったことだったのだと思います。まさにレヴィ・ストロースはそのメッセージを真正面から受け取り、ルソーの時代にはヨーロッパ人には到達することのできなかった地域に入り、ヨーロッパとは違う進歩の道筋を考察し、そして人間社会の普遍的条件とは何か、そこにどうしても含まれてしまう暴力とそれを克服するために何が必要であるのかについて、懸命に考察したと言えるでしょう。

個人的にはレヴィ・ストロースのルソーへの理解、『社会契約論』の必要性とそこに至るまでのルソーの思想の歩みが、僕がルソーを読んで考えたのと同じように記されていた、という感動もありました(僕は学部の頃、ルソー研究をしたかったのですが、ルソーの研究書を読み漁れば漁るほどに絶望していました。こんなに何も理解できていないものが「研究」として評価されるのなら、あまり研究者になっても仕方がないなあ、と。あの頃に、このレヴィ・ストロースのルソー理解について読んでいれば!全く勉強不足というのは恐ろしいものです。この本の中ではディドロとルソーの根本的な違いについても触れられていますが、これも本当にレヴィ・ストロースのいうとおりで、僕もゼミの先輩の院生に「ルソーを自分もやろうと思ったんだけど、ルソーは研究多いからディドロからルソーにつなげたいと思ってディドロをやっている。」と言われて、「ディドロとルソーなんて、似て非なるもので、思想として共有できるものなんか一つもないのに!」とその理解の浅さを耐え難く思ったという体験を思い出しました)。

また、他にも(といって挙げ出すとキリがないのですが)、レヴィ・ストロースが文字のない社会の酋長に文字を書いて見せたところ、その酋長だけは部族の他の構成員と違って、文字を使うということの「政治的意味」を察知し、もちろんフランス語なんかわからないのだけれども、同じ部族の仲間の前では(自身の権威を増進するために)フランス語の文字の意味を解し、それで彼ら文化人類学者とコミュニケーションがとれているかのように振る舞った、というエピソードも極めて示唆の多いものでした。

本当におすすめの本です。何より、「この本の概要は解説書とかで知ってるからいいや。」という大学生のときの僕のアホみたいな失敗を、若い皆さんには繰り返してほしくないと思います。

もちろん、「未開の奥地」も物理的にはなくなりつつある現代において、私たちが自分たちの置かれた社会の必然性と偶然性、その社会の伴う、なくすことのできる暴力となくすのが難しい暴力への考察はレヴィ・ストロースのようにはもうできないのかもしれません。ある意味で、文化人類学とはショック療法のようなもので、皆が自分たちとはまるで違うかのように見える「未開の奥地」という社会を初めて知り、それについて学ぶ中で見える共通点と相違点から自らの社会について考える、というのはエキゾチズム、あるいはサイードの言葉を借りれば、オリエンタリズムがあるからこそできる手法であると言えるでしょう。「こんな遠くの、一見全く違う発達をしてきた人々の社会との共通性が!」という感動はその「遠さ」を実感できる時と、あまりその遠さを実感できなくなってからとでは説得力が変わってくるものです。すなわち、相互の「違い」を感じることができるからこそ、共通部分についての感動が深くなります。その意味では、「300万年に実は火星に移住していた人類と同じ起源をもつ生物の社会もまた地球上の人類社会とこのような共通点が!」みたいなことがなければ、このようなアプローチは難しいかのように一見思えるかもしれません。

しかし、ヨーロッパ人が反省するのに、南米の奥地までいかねばならないことについて、レヴィ・ストロースもまた批判的であるように、地球人が自分たちの批判をするのに火星まで行くことが必要であるのなら、それは絶望でしかないでしょう。反省や考察に必要なのは、そのような自分たちの社会にとっての絶えざる外部を求め続けるエキゾチズムではなく、自身の所属する社会の様々な前提について、徹底的に疑っては考察していく力なのではないでしょうか。そのこともまた、このレヴィ・ストロースの本は感じさせてくれる(彼自身もそのような「外のものをもってくることで初めて相対化できる」という安直な考え方には批判的であったと思います)、という意味では文化人類学の始まりでありながら、しかし文化人類学にとどまらない可能性を示してくれるのではないでしょうか。

翻って、日本では、ですね。自らの足りないところに気づくために「アメリカでは」「ヨーロッパでは」を繰り返してしまいがちなところは、明治期以降のもはや習慣なのでしょうが、それをやっている以上はいずれ行き詰まります。むしろ、日本が直面している課題には様々な「課題先進国」ともいえる課題・難題がたくさんあるのですから、それに真正面から取り組むことを(広く外部に学ぶことは排除しないまでも)自らの頭で疑い、考えていくことこそが大切であると思います。将棋の羽生名人のように、「難解を楽しむ」(by豊島将之七段)ですね!

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広島東洋カープのような塾を目指します。

嚮心塾とはどのような塾ですか、と問われれば「広島東洋カープのような塾です。」とこれからは
答えようかと考えています。そのこころは、「選手(生徒)をしっかりと育てて一流にし、そしてその選手を巨人やメジャー(大手予備校)に取られます。」というものです。去年も大切に鍛えてきた塾生が浪人に当たって塾を離れることがあり、非常に落ち込んだのですが、今年に至っては、本当に高校生になってからゼロから(be動詞と一般同士の違いから!)鍛えてきた子が結局残念ながら浪人するにあたって他の予備校へと行くということになりました。その子はその予備校の最初のテストで英語は一位、世界史も早稲田の問題で9割くらいとれて、予備校の先生から、「なんで君は浪人したの?」と言われたそうですが、それでもその子が今年受かれば予備校の合格実績になるわけです。まったく、カープを愛する広島市民のみなさん、本当に辛いものですね。

このようになりがちなのは、もちろん、現役生のときに結果を出せなかったということが一番大きな理由であり、それはまさに嚮心塾のせいであるのですが、それ以外にも大きな要素があります。それは、「やっぱり(大手)予備校の方が安心よね。」という親御さんのご意見です。予備校の実態を知って一体何が安心できるのか、ちょっと僕にはわからないですし、そもそも予備校の教育システムをどこまでご存知なのかよくわからないのですが、しかし、嚮心塾で浪人生活を送ろうという受験生は必ずこのような周囲からの抵抗を受けると思います。同級生からも「そんな小さなところじゃなくて、大手に行きなよ!」と言われるでしょうし、お母さん同士で話していてもそのようにまず間違いなく言われてしまうでしょう。「寄らば大樹の陰」という発想自体はまだまだ根強いものである以上、その「大樹」の実質を吟味することができないと、どうしてもそのようになってしまうと思います。逆に言えば、嚮心塾のようなただ結果を出す以外に大手の予備校と悩んでもらえるはずのない塾が、ここまで潰れずに来ていること自体が奇跡であると思います(もちろん、いつまでもつかはわかりません)。

そして、このようなケースこそがいわゆる「合格実績」というものが無意味であることをよく示しているのではないでしょうか。もちろん、嚮心塾でも一つの目安としてそれを毎年出しています。しかし、あの「合格実績」というのはめちゃくちゃ優秀な子の、最後のひとかけらを埋める作業の結果としての東大や医学部合格もあれば、まったく勉強していない状態から徹底的に鍛えていっての私大合格もあるわけです。あるいは上の例に挙げたように、「合格前の最後の一年そこに在籍した」ことが合格の決め手となっているのかどうかは実はわかりません。もっと大きな飛躍が過去にあり、それこそが合格の決め手であったとしても、それらを評価しにくいのです。(もちろん、嚮心塾で東大や京大、医学部に合格した子たちも「すべてこの塾で鍛えた!」といえる子は少ないです。それらの元から優秀な子たちに僕ができたことといえば、70%合格できる子を85%あるいは90%まで引き上げたくらいの仕事でしょう。それでもそれが「実績」になってしまいます。)

まあしかし、ものは考えようです。逆に言えば、そこまで鍛えた子は放っておいても合格します。どの(ダメな)予備校に通っても、自学自習の大切さ、どこまで勉強を徹底しなければいけないかの度合い、さらにはそこまで鍛えたとしても本番で失敗すれば実力があっても落ちるのだという入試の怖さをよくわかっているその子は、必ず今年は合格できるでしょう。それよりはまだそのように鍛えきれていない子たちを鍛えることに僕が力を注ぐことができる方が、はるかに社会全体にとっては有益であるのです。まったく勉強していない子たちをそのようなところまで持っていくことこそが、極めて難しく、またそれゆえに意義のあることなわけですから。そこに傾注しては、また毎年悔しい思いをしていこうと思いますし、そもそも浪人する前に現役で合格できるようにさらに鍛えていくための工夫をしていきたいと思います。

今調べてみたら広島カープはこの24年間くらいセ・リーグで優勝していないらしいのですが、カープがあれほど育成システムをしっかり作り上げて、お金をかけて即戦力を取れなくても丹念に鍛えて行っては一流選手を生み出してこなければ、それをお金で買うジャイアンツもこれほどは優勝できなかったかもしれません。その意味で、ジャイアンツの優勝はカープの育成システムのおかげである部分も大きいでしょう。

嚮心塾も、カープのようにずっと努力が報われずに表舞台に出なくても(これはいいすぎですね。その中でもカープは頑張っています)、地道に一人一人を鍛え続けていきたいと思います。それがどの予備校の手柄になろうとも、そのように努力をする姿勢、努力の仕方を備えた若い世代が一人でも多く増えることは、この社会にとって有益であることに間違いはないと思います。その結果として、派手な合格実績が出せなくなっては嚮心塾が潰れていくとしたら、それはそれでまた「この社会は広島カープを評価できない社会である」という仮説の一つの証左となるでしょう。だからこそ、僕が悩むべきは、「鍛えた生徒が奪われたり移ったりで塾からいなくなる」ことではなく、「もっと鍛えられる可能性がないか。できることを見落としては力を伸ばしきれていないことはないか」ということだけであると考えています(もちろん、メジャー行ったけどカープ戻ろっかな、という黒田選手みたいなことも大歓迎ですよ!すみません。このオチが言いたかったというのが、まだ未練がましいところですね。精進します。)。

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にんじんの食べさせ方。

読み終えてたまっている本の書評を書きたいのですが、このFC2ブログでのアマゾンリンクがまだ復旧していないので、仕方なく教育のことについてまた書こうと思います(しつこいようですが、実は学習塾なのです!)。

さて、にんじんの嫌いな子供に栄養面からにんじんを食べさせたい!と思う時、次のうち、どのようなアプローチがベストでしょうか。

①子供の好きなメニューににんじんを細かく刻んで少量だけ入れて、気づかないように食べさせる。後からにんじんが入っていたことを伝え、「にんじんって結構美味しいでしょ!」と伝える。
②こどもが嫌いなにんじんの調理法を避け、にんじんの美味しさが一番引き立つ調理法を考え、にんじんはこういう風に美味しいんだよ!と伝える。
③にんじんのもつ栄養素をとることの大切さ、さらにそれをただ味や風味が気にくわないだけで食べないことのもつデメリットを伝え、「だからにんじんを食べよう!」と言って放置する。

こんな読みやすさもへったくれもない長文ブログですから、シンキングタイム(このthinking は動名詞ですね!これは生徒への説明に使いやすそうです。)なんてとらずに書いていこうと思います。
一般に上手く行きやすいのは①から③の順に上手く行きやすいでしょう。こどもの思い込みとは非常に強いものです。たとえば③のようなアプローチでこどもを説得できると思っているのは(特に男親はついこのような失敗をしがちですが)大きな勘違いで、そもそもこどもにとっての嫌いな「にんじん」、というのはもはや記号化された象徴としてのにんじんであるため、にんじんの味が美味しいかどうか、ましてやそれに栄養があるかどうかなんてこどもにとってはどうでもよいわけです。「にんじんという(自分が嫌いな)ものを食べさせられる」という状況自体が子供達にとっては嫌なことであるわけですから、気づかないように食べさせては、その心理的ハードルを下げていく、ということが一番良いということになります。

しかし、これで全てが解決するほど単純ではないのが、人を育てる、ということの難しさです。子供達は成長していかなければなりません。そして、成長をする過程で自分が嫌いだけれども必要なものを、気づかれないように自然に摂取させてくれるようなお母さんのような存在を教師や会社の上司に求め続けていく、というのは極めて難しいでしょう。というか、ほぼ無理なことです。あるいは運良くそのような人々に恵まれて行ったとして、果たしてそのように育てられた人間は、そもそも「力のある人間」であるのか、という問題が残ります。幼児ににんじんを食べさせるためには先の①、②、③の順に成功する確率が高かったわけですが、それをいつまでも続けていけば、その幼児は自分から苦手なものへは取り組むことのできない、極めて脆弱な人間にならざるを得ません。

だからこそ、教育においてはこの順番はまるっきり、逆になります。たとえば③で成功するのなら、それが一番教育としてはその子を鍛える手段になっていると思います(「にんじん」を「数学」に置き換えて考えてみてください)。それから、②、①となるに従って、その科目の内容は身につくものの、そもそもそのように丁寧に解きほぐして教えてくれる人がいなければ勉強もできないような人間になってしまう、というわけです。しかし、先に考えたにんじんを食べさせる時のように、①、あるいは②ができる先生を親御さんたちは「良い先生」と評価します。(たとえば予備校の先生の講義としては、①、あるいは②が良い授業と評価されるでしょう。)③を行う先生はどちらかといえば「無能な先生」「ただ、理想が空回っている先生」として非常に評価が低いのが現実ではないでしょうか。それは子供達の短期的な学力の向上を考えれば、確かに正しい評価であるのです。
しかし、長い人生の中で、そのようにハンバーグににんじんを気づかないように入れてくれる、あるいは思いもよらない美味しいにんじんの調理法を見せてくれる先生ばかりがいる時期は極めて短いものです。その意味では、教育の目標とは、自分で学ぶ力をつけること、③のように拙い説得に対しても、それに共感する部分を生徒の中に育て、そしてその調理法を生徒自身が自分で見つけていけることをサポートできることではないでしょうか。もちろん、そうは言ってもまるっきりにんじんを拒絶する相手に、③のアプローチだけをとることは、たとえ相手が大人であったとしてもまずうまくいくことはないでしょう。

これらを踏まえて「良い教師」を再定義するのなら、先の①から③を、③が理想だとしてもその子に受容可能な段階はどれであるかを的確に見抜き、そして少しずつそのハードルを上げていく(さらには①から③のアプローチをミックスさせながら、その配合を少しずつ変えていく)、ということで彼ら彼女らの、必要な問題に自分から取り組む姿勢を鍛えていくことのできる教師であると思います。その意味では①から③の全てができた上で、かつどれが今のその子に必要であるかを見抜く力が大切です。

まあ、言うのは簡単なのですが、これが難しいのです。これはたとえば数学(という一つの科目)の中でも、また分野によって変わってきますし、さらには一つの分野においてもまた、その子にとって受け入れやすい努力と受け入れにくい努力とがあります。サボり方、というのは様々です。たとえばずうっと机に向かって、ずうっとペンを動かしていても(そしてそれが落書きではなく勉強の内容についてであっても)、勉強をサボることは可能です。自分にとって受け入れやすい努力だけを重ねることで、自分にとって受け入れにくい努力をサボっていれば、結局生きていくための力はつきません。しかし、このような「サボり方」は極めて見抜きにくいがために、「うちの子は勉強しているのに、なぜ?」という悩みが生じるわけです。

そのような外面的には見抜きにくいサボり方を見抜いては注意する能力ももちろん教師には必要な力です。しかし、それ以上に教師に求められるのは、そのようなサボり方に自分がなっていないかどうかを生徒本人にチェックする必要を感じてもらうことです。どの生徒をも、24時間365日は見れないからこそ、自分でそのようなサボり方をチェックできる生徒を育てることこそが、教育の真の目的であるといえるでしょう。それこそがにんじんの食べさせ方では最悪である③の重要性であるのだと思います。

もちろん、そのように自分自身を自らの意志でチェックする意志と能力を備えた生徒に対して、教師ができることがないかといえば、それでもまだたくさんあります。そもそも上に上げたような「努力をすることでサボる」というのは本人にとっては自覚のないことであり、そのような世界の認識の仕方の癖を作ってしまっていることが多いからこそ、そこを他者が指摘しては直していく必要があります。
このような意識の「穴」を見つけていくことが、教師にとっての腕の見せ所ではあるのですが、実際にはこのレベルまでいくまでのモチベーションを少しでも上げてもらうための様々な工夫の方が圧倒的に時間と労力がかかるというのが、現状であるようです。

たまには、塾の宣伝もしましょうか。
嚮心塾では、積極的に自分から質問をしにくい子にはこちらから声をかける頻度が高い、というように一人一人に声のかけ方が違うというだけではなく、その子の場への慣れ方、勉強への取り組み方に応じて自分から質問をしにくい子に対していつまでもこちらから声をかける、ということもしません。それは、その子をダメにしてしまうからです。もちろん、最初は自分から質問ができないのは当たり前ですが、場にも僕にも慣れてきてもなお、「先生から声をかけてもらった時に質問をすればよいや」というのは単なる甘えでしかありません。それでは塾という場ではよくても他の場では全く質問ができないままの人間に終わるでしょう。教育産業全体が「サービス」の向上によって、子供たちをspoilする方向へと傾いている中、嚮心塾もその片棒を担ぐのであるのなら、そもそもこんな塾は存在する価値などないでしょう。自分で質問のできる子、自分で勉強の力を向上させようと取り組める子になっていけるように、こちらの知恵と知識と工夫とを徹底的に鍛え抜いて、「常に「不親切な」(すなわち通う子たちにとって常になんらかのハードルを提供し続ける)」塾であり続けたいと思っております。(しまった!宣伝どころか逆効果である気がします。。)

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結婚式が苦手な僕ですが、素晴らしい結婚式に行ってきました!

先日、結婚式に行ってきました。
僕自身、結婚式に出席するのは妹の結婚式以来2回目で、ちょうど10年ぶりでした。自分自身も結婚式をしていない上に、そのような儀式的なものが僕は苦手なので、高校時代の大切な友人の結婚式にも出席をお断りしたほどです。しかし今回の結婚式は、参加して本当に素晴らしい結婚式だったと思いました!

もちろん、そういう儀礼を「自分が苦手」なだけなら相手のためにも我慢して出ろ、という話です。僕がそのような有難いお誘いを数少ない友人からいただいていたのにこれまで断っていたのは、やはりその儀式というものに対する疑いと警戒心があったからだと思います。いわく、「結婚式を祝うというのは、株式会社の上場詐欺のようなものであり、上場する瞬間に最高の株価をつけてはあとは下がる一方であるかのように、結婚式に二人の関係性のピークをもっていくのは、欺瞞でしかない。」とか、そもそも「日常を大切にすることこそが大切であり、儀礼という非日常を大切にしようというのは、日常の結婚生活(家事や育児の分担)という、より困難な取り組みとそこから生じる二人の間の衝突をごまかすための詐術にすぎない。」などとよく言っていました。あるいは、「「儀式」という心がこもっているはずのものとして見られるものに心がこもっていることを推定しようとしても、それは幻想にすぎない。むしろ、そのように「心がこもっているはずのもの」として立ち現れる儀式には、そこにはもう既に心がこもっていないことをごまかす働きがある。」とも。そのように僕は儀式嫌い、特に結婚式嫌いでした。

そのような儀式の中でも、なぜ特に結婚式が苦手なのかといえば、「おめでとう!」と素直にいえない、という理由が大きいと思います。既に結婚生活を送られている方は、友人や家族の結婚に際し、「本当におめでとう!」と祝福できますか?僕にはそれを素直に祝福することはできません。もちろん僕自身が結婚生活に恵まれていないかといえば、外側から見れば、かなり恵まれている方であると思います。ただ、僕にとって結婚後の生活は、喜びである以上に苦しみの方が大きいものです(僕はこんなことを言っていますが、僕の奥さんにとっては、僕よりもさらに喜び以上に苦しみが大きいでしょう!それも自覚しています)。違う人間がともに生きていこうとするとき、真剣にともに生きていこうとすればするほどに、互いの違いに悩み、苦しむでしょう。おそらく、互いに決定的に理解できないものを相手の中に見出し、しかし、それゆえに距離を置くことのできた独身時代とは違ってそれを抱える相手と付き合い続ける、というのは逃げ場がないがゆえに、本当につらい取り組みであると思います。もちろん、それは極めて有意義な取り組みです。同質な(あるいはそうだと自分たちが思い込んでいる)もの同士がくっついては、異質のものを排除しようという傾向が強くなりつつあるこの社会において、容易には別れられない異質な相手と向き合わざるを得ない、という取り組みは極めてかけがえのないものです。しかし、そこでかけるべき言葉は、「おめでとう!」ではなく、「がんばれ!」ではないのか。あるいは「こちらももう少し頑張るから、君達も是非がんばって!」ではないのか。この疑問こそが、僕にとっては結婚式を特に縁遠いものに感じさせてきたものでした。

しかし、先日の結婚式では、たった1日の式ながら、そのようなお二人の懸命なこれまでの歩みを感じさせていただけるような式でした。なるほど、このようなお二人に対してこそ、「おめでとう!」という言葉をかければよいのだな、と思わされるような式でした。もちろん、結婚生活は長く辛いものです。人生は、さらにまたそうであるでしょう。当初の感動や理想が、容易に様々な妥協や諦めに固着していってしまうかもしれません。「しかしそれでも、このお二人なら‥」と思わせていただけるような、本当に素晴らしい結婚式でした。
そして、それは僕もまだ諦めるわけにはいかない、ということを改めて決意させられる契機となりました。

「家族は社会の最小の単位である」という言明は、そこでの「家族」というものの定義がそもそも各社会によって異なるがゆえにあまり意味のない言葉ではありますが、しかし、その一つ一つの家族の中に、その構成員同士の決定的な相違とそれを尊重しあえる多様性が存在するのなら、そのような家族からなる社会もまた、そのような相違と多様性を尊重しあえる社会になるはずです。逆に言えば、LGBTの人々を厳しく攻撃する社会、あるいは冷たく拒絶する社会とは、そもそも一つ一つの家族の中に相違と多様性が存在しない社会であるのかもしれません。もちろん、家族の構成員が人間である以上そこに相違と多様性が存在しないことはありえないため、そこでの相違や多様性を見てみないふりをする家族であった、ということがその原因となっているのでしょう。

太宰治の言う「家族の幸福は諸悪の本(もと)だ。」という仮説の正しさを踏まえた上で、僕は自らの家族を作ろうと決意しました。家族の間の違いを見て見ないふりをせずに、家族の中の他者を他者として認め、話し合い続けることが、家族の外の他者をも愛することにつながりうる、と思っていたからです。それは何も僕が始めたことではなく、僕が教師として接する中で尊敬するご家庭はみな、このように言語化はしないまでもそれを当たり前のこととしてなされていました。今回、お二人がそのような道を選んで結婚をされる(と、僕には感じられました。)ことに心からの祝福と、心からの応援とを、常に持ち続けていきたいと思っています。

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