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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

『ドストエーフスキー覚書』森有正著(ちくま学芸文庫)

さて、予告していた書評の一回目として、森有正の『ドストエーフスキー覚書』について書きたいと思います。もちろん、このブログの読者というマニアックなみなさんなら、「森有正」と「ドストエーフスキー」という二つのワードは何回も出てくることに気づいているわけで、「その森有正がドストエーフスキーについて書いている本なんだから、当然昔から読んだことあるんでしょ?」と思われると思うのですが、実は最近になって初めて読みました。もちろん、森有正全集の中で最初から気になっていたのですが、ドストエーフスキーを全部読むまでは理解の仕方に森有正のバイアスが入るのが嫌だったこと、全部読んでからはむしろ僕の中で勝手に森有正を日本にいる時の「前期森有正」とパリに渡ってからの「後期森有正」に分け、「前期森有正の本を読む必要ってあまりないかも」と思っては後回しにしていたところがあります。

しかし、今回文庫版が出たのを契機に読んでみて反省させられたのは、まずは自分のその下らない弁別の仕方でした。思想家としての森有正の萌芽は、学者としての森有正の中に確かに存在していた、そのことがとてもよくわかるのがこの本です。「覚書」という謙遜からもわかるように、これはドストエーフスキーの作品について、なんらかの学術的視点から分析をしたものではありません。もっと正確に言えば、分析をしていこうとしては、途中で挫折をしてわけがわからなくなっている、という方がよいかもしれません。しかし、そのわけがわからなくなっている部分が、とてもよいのです。そこでのもがきながら言葉を紡ぎだそうとする森有正の苦闘は、ドストエーフスキーの作品に対して、それと同じような重みで応えようとする苦闘であると思います。結局、その語り得ないものをなんとか語ろうとして挫折するその試み自体が、パリという触媒と出会い、彼をして自らの思想を自らの言葉で語ろうともがき苦しむ思想家への道へと引っ張って行ったことがとてもよくわかる本であると思います。その意味で、僕はその森有正のこの本に現れたもがき苦しみ方に、読んでいて何度も涙してしまいました。また、それが確かにドストエーフスキーの作品のテーマと響き合った部分と出会った瞬間には、この上のない感動を覚えました。

ドストエーフスキーについても、僕は彼の作品について書かれた本(で僕が今まで読んだ本)の中で、最もお薦めだと思います。だいたいは、ドストエーフスキーの解説書というのは、彼の作品のわけのわからなさを、わけのわかるように解説しようとしているわけですが(まあ「解説書」なのでそれは当然です)、そもそも解説書でわけがわかるようなものがかけるなら、あんなうっとうしい小説書く必要がないわけです。森有正のこの本はドストエーフスキーの小説の中でひっかかるべきポイントについては、かなり丁寧に網羅できていると思います。もちろん、それらのポイントを説明できるかといえば森有正をもってしても四苦八苦しているわけですが、たとえばドストエーフスキーを読んで、「この小説の何にみんなはそんなに感心したり憤慨したりしてるの?」と何も残らずに読み終えてしまった人は、この本を読むとどこに論点があるのかはよくわかるのではないかと思います(まあ、何も引っかからずに読み終える人は、この本を読んでもよくわからない可能性も高いでしょうが)。

ふう。もっと書きたいことは山ほどあるのですが、一回目なのでこれくらいにして、書きたいことはまたブログの方で書こうと思います。皆さんもよかったら、ぜひ読んでみてください。


ドストエーフスキー覚書 (ちくま学芸文庫)ドストエーフスキー覚書 (ちくま学芸文庫)
(2012/04)
森 有正

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反転授業のためにタブレットを配る前に。

最近定着しているのか、下火になっているのかはよくわかりませんが、反転授業という概念自体は
以前より浸透しているのだと思います。しかし、反転授業はタブレットを配って動画を見ることではありません。
「自分で学習し、わからないことを教師に持ち寄って教えてもらう。」というのなら、学校で
数学や算数の教科書の解答と解説を配る方が、はるかに低予算で効果的に生徒たちが勉強できると思います。
これを(もちろん教科書ガイドという抜け道はあるものの)長年やらずに放置している時点で、学校には本当には教育をする気などない、と僕は思っています。(「教科書の答えを配れば、皆が授業を聞かなくなる」という批判は的外れです。なぜなら、学校は授業を聞くために行く場所ではなく、勉強を身につけるために行く場所であるからです。授業を聞かなくても、家で教科書を読み、問題を解き、そこで力がつくことの方が、50分間黙って講義を聞いては人生の貴重な時間を無駄使いするよりもはるかに勉強が身につく、と言えるのではないでしょうか。また受動的な講義の聴取よりは、自らが読み、問題を解き、というプロセスの方がはるかに勉強になることは誰でも経験したことのある真理であると思います。教科書の解答を配らない唯一の合理的な理由は、粛々と内容のない講義をする先生の権威に挑戦する生徒を生み出さない、という従順な人間をつくるための馴致のためでしかないと思います。)

そういう基礎的な部分こそ、家でやってくればよい、あるいは嚮心塾のように数学の時間に一人一人のペースで読んでは解き進めてもらって、わからないところを数学の先生に手を上げて聞く方式にすれば、もっとはるかに学習効果が高いと思います。
もちろん、現学年の教科書がどうしてもわからない子は、前の学年から遡っていったり、さらに高校範囲の前に中学範囲に遡って、さらには中学範囲の前に小学範囲へとどんどん遡っていけば、なおいっそう効果的です。しかし、そのように広い範囲の全てを教えることを高校や中学、小学校の先生に要求するのは難しいでしょう。逆に、先に進んで次の学年や学校の範囲をやることが適切である子についても、それが言えます。そういった子には学習塾を薦めるなり、あるいは学校の先生が課外で補習をするなり、ということをしていければよいと思います。

「学習塾は家計に厳しい」ということから、学校の先生からは敵視あるいは贅沢品として見られがちなわけですが、学校での教育にも当然多大な税金をかけているわけで、小中高と学校がまるまる学習効果が極めて低い現在の状況、というのは学習塾や予備校にかかっているお金以上に、はるかに巨額な税金を無駄に使っているのだと思います。学校の予算を削り、その何%かでも学習塾の補助をしていただけると、学習塾も家計も助かるのですが、問題はなぜ現在の学校教育がこれだけ無駄が多いか、ということであるのだと思います。

ということで、せめて解答くらい配りましょうよ。それでサボる子よりはそれで勉強できる子の方が圧倒的に多いのですから。それでサボる子はそもそも、授業だって聞かないと思いますし。

嚮心塾はタブレットとの配布とか、見当はずれな方向へと教育予算が使われている間にも、反転授業のメソッドをもっともっと鍛え抜き、その限界を洗い出しては対策を考えていきたいと思います。文部科学省の皆さんも、いつでも聞きに来ていただけたら。

(念のために書いておくと、もちろん僕も「全ての講義が無意味である」とは全く思っていません。所詮、本と教科書を使って自分で勉強するものなど、自分が予想する、あるいは本が提供してくれる貧弱な内容しか身につかないものです。それらの内容が有機的につながっている素晴らしい講義は、確かに講義を聞くことで感銘を受け、そもそも勉強する動機へとなりうる可能性をもった不可欠なものです。しかし、今の小中高大でそれができているか、という問題であるのです。たとえば、教科書レベルの基礎的な内容は反転授業形式にして、どんどん進めていく方がかえってそのようなinspiringな授業に先生方も取り組めるのではないでしょうか。教科書の内容も初めて聞く生徒ばかりの中で、教科書の棒読みのような授業をせざるを得ない状況で、さらにそのようにinspiringな講義をすることを求めること自体が大きな矛盾であると思います。講義には講義の形式でしかできないことが確実にありますが、少なくとも現在の小中高大は、それが可能な場所にはなっていない、と言えるのではないでしょうか。)

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書評を始めます。

この塾のブログを始めて以来、書きたいことを好き勝手書いてきたわけですが、この方式ですとこのブログを偶然探し当てるのがかなり大変であると思います。まあそれでよいし、それで塾が潰れたら潰れたでいいや、と思ってやってきたわけですが、嚮心塾に新しく入ってくれた塾生が、人が変わったかのように必死に勉強し始めるのを毎年見ていて、「やはりもっと多くの人にこの塾のことを知ってもらった方がよいのではないか!」と(11年目にしてようやく)思うようになりました。そこで、この塾を知らない人の検索にもヒットするような、塾とは関係ない具体的な何かについての内容もこのブログに定期的に書いていこうと考えました。

で、何について書こうかといえば、僕が人より多少詳しいものなんて、ラーメンと本ぐらいしかないわけです。
で、どちらか、あるいは両方を書こうと思ったときに、ラーメンブログは僕もたくさん読んで参考にさせていただいているわけですが、ラーメンブログを書いてしまうと書いている皆さんのようなあのペースでラーメンを食べ続けなければならない、ということに気づきました。ただでさえ不摂生の極みの僕が塾を知ってもらうためにラーメンを食べ続けるのは、塾を広く知ってもらう頃には僕が不摂生で倒れる恐れがあります。さらにはラーメンブログとして有名になったら、ラーメン店主さんに新しいお店の開店試食とかに呼ばれて、ズブズブの付き合いになって、そうすると食べても本当の意見が書きにくくなっちゃって、あるいは「これでいい評価お願いします」とか袖の下を渡されて、でも「僕は真理の追求のために本当の意見を書くんだ!」とか決意したり、「でも自分の書く内容であの店主さんの幼い息子さんが笑って暮らせるなら、むしろ筆を曲げて誉めまくることの方が正しいのではないか」とか夜中に悩んだりして、ちょっと何と戦っているのかよくわからなくなってしまう気がします。あるいは飽きさせないために、様々な地域のラーメン屋さんに食べ歩いてはネタを仕入れてくる、とかやっていくと、そのために塾を閉めざるを得なくなり、ともう本末転倒になりそうです。

ということで、書評を書いていこうと思います。もちろん、塾をやりながら、さらには教えるために様々に勉強をしながら空いている時間で読んだ本についてですので、ペースは大したことがありませんが、ときどき書いていこうと思います。また、卒塾生がどんな本を読んだらいいか参考にする際に、このブログを参照できるとよいかな、とも思っています(ラーメン屋さんの情報は直接僕に聞いてください)。

もちろん、書評のブログだって松岡正剛さんの千夜千冊とか、有名で素晴らしいものはたくさんあります(僕は山形浩生さんのこのサイトをいつも参考にさせていただいています。)。
それらに近づくために、毎日生徒をほっぽっておいては必死に本を読み、ブログを書いて文章の推敲に時間をかける、などという本末転倒なことをしてしまうと、ラーメンブログと同じ失敗に陥りますので、あくまで片手間に書いていきたいと思います。
さらには昔読んだ本についても、僕自身まとめとかを全く書いていないので、それも思い出しながら書いていきたいと思います。なんと「(改めては読まないで)思い出して書評を書く」という前代未聞のいいかげんな書評ですね!まあ、今まで読んだ(中で紹介したいと思える)本について書くだけで1日ひとつ書いたとしても、死ぬまでに書き終わるかどうか、ちょっと心配なところです。

真面目な話をすれば、思想史や文学史、あるいは数学史や物理学史の理解としては、「誰が誰の本をどう思っていたか。」というのは、極めて重要な情報であると思います。マルクスがヘーゲルをどう思っていたのか、レヴィ=ストロースがベルクソンやデュルケムをどう思っていたのか、とかです。クロポトキンはドストエフスキーの著作を「精神病者しか出てこない小説」と言いました。その真意がどうであれ、クロポトキンがドストエフスキーをそう評価している、という事実は(そこからどのような結論を引き出すにせよ)考えるに値することであると思います。

なので、僕の書く書評で、僕の各著作に対する理解の深さも浅さもさらけ出していけたらいいと思っています。

まあ、僕が読んできた本を検索してこの塾のブログを見つける時点で、そもそも相当マニアックな層であるようにも思うのですが、そこまで気にして今度は「検索に引っかかりやすい最近売れてる本を読もう!」とか、またこれはこれで貴重な時間を使っているのに、何のために本を読むのかよくわからなくなってしまいますので、読む本の選定基準は、検索にひっかかりやすいかどうかは考慮に入れないで、自分で読むべきだと思った本だけにしていきたいと思います。

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嚮心塾開塾10周年記念!ボツになったキャッチフレーズシリーズその1

嚮心塾も塾を開いてからもうすぐ10周年になります。
そこで!今回からは特別に、塾をひらくときに考えていたけれど、結局使わなかった塾のキャッチフレーズをいくつか書いていきたいと思います。

今回は最初に考えて気に入っていたこの言葉です。

「嚮心塾は、あなたたちのα(アルファ)であり、ω(オメガ)でありたい。」

もちろん、元ネタは新約聖書でのイエスの「私はあなたたちのαであり、ωである」ですよね!
この意味を勝手に解釈すると「私はあなたたちにとって、信仰や真理の探究のはじめのきっかけとなる(つまりこれが「アルファ」)だけでなく、あなたたちが信仰や真理の探究を長く続けていく人生の中で最後に辿り着く終着点(これが「オメガ」)でもある。」という意味でしょう。

嚮心塾も生徒たちにとって、そういう存在でありたい!何かについて真剣に考えたり努力をしたり、という初めてのきっかけであるというところから生徒一人一人が真剣に努力を重ねて生きていく中で、もっと年を取っていったときに「あ、やっぱりあのおっさんの言ってたことは結構正しかったな。」と思ってもらえるような塾でありたい!という思いを込めて、このキャッチフレーズを考えたのですが、また、その後の経過を見てもそれこそ東大や医学部受験(「オメガ」)から、勉強自体が手につかない子の指導(「アルファ」)まで、嚮心塾の別の側面も表していて、なかなか良いと思うのですが、いかんせん、ちょっとこれをキャッチフレーズにする勇気は僕にはありませんでした。
塾がつぶれるかどうかも不安ですが、そもそも始めるにあたってパクリの言葉ってどうなの、というのもありますし、何より「嚮心塾」という感じの並びがそもそも怪しいのに、さらにこんな怪しいキャッチフレーズとか、もう、ちょっとお腹いっぱいすぎる感じです。

ということで、このキャッチフレーズ自体は使わなかったですし、こうやって書いてしまった以上今後もおそらく使いませんが、この思いというのはたえず僕の中で持ち続けてきたものです。

僕は生徒たちに、僕や塾のことなど軽く打ち捨てて次のステップへと進んでもらえればよいです。そもそも受験産業に関わる人間などそれが宿命ですし、それが嫌だからといってカリスマぶる先生もいるでしょうが、僕はそういう努力は感情的にはわかるものの、まあ無意味なことだと思います。たとえば、僕が卒塾生に「大学行ったり、就職したり、いろいろな大人と話してきましたが、やっぱり柳原先生以上のすごい人はいませんでした!」と言ってもらえるとして、その僕のすごさが(仮にあるとして)、その子にその時点で伝わるようでは僕はそれほどすごくない、ということでもあります。まあせいぜい、γ(ガンマ)かδ(デルタ)くらいでしかない、ということであるのです。

僕にとって僕の師匠は、自分がもがき苦しみ、その中で工夫を重ねれば重ねるほどにその師匠の苦闘の意味がよくわかってくる存在です。あるいは本によってその足跡を感じる先人たちもまた、同じです。そのような人たちのすごさを僕が勝手に「わかった!」などと言えば、何をわかったのか怪しいものでしょう。そのように決して容易には分かり得ないような実在に、自分もなっていけるようにもっと努力を重ねていきたいと思います。

他者に評価されなければこの市場経済の中では生きていけないにもかかわらず、他者から短いスパンで評価できるレベルのものは、あまりたいしたものではない、というこの矛盾こそが若い時の僕が悩んでいた問題であるのですが、その両立を目指してやっていくというその困難な試みがとりあえず10年はもった、ということを改めて感謝するとともに、「塾自体、すなわち僕自身が所詮ガンマかデルタくらいでしかないから10年もってしまった。歴史に残るような場を作りたければもっと先鋭的にならなければ!」という反省も込めて、もっともっと精進していきたいと思います(つぶれそうになったら、だれか止めてください!)。

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教え続ける意味。

昨年度の入試は、本当に辛い結果の連続でした。どのような年でも全員が納得のいく合格というわけにはいかず、そのたびにこの仕事を辞めたくなるのですが、昨年度の入試に関して言えば本当に落としてはいけない受験生が(おそらく僅差で)落ちてしまう、という受験ばかりであったため、本当に落ち込みました。

しかし、受験生本人が落ち込んでいる中で、こちらが落ち込んでいるわけにはいきません。そのように必死に自分を叱咤激励しては生徒たちを励ましていく中で、一つ気づいたことがあります。それは、僕の仕事は受験生を合格させることにあるのではない、ということです。

いやいや、それは不合格が続いているから起きた現実逃避でしょ、というご批判はもちろんです。あるいはそもそも学習塾など受験生を合格させるためだけに存在するようなものでしょう。その本来の目的を見失う、あるいは放棄するつもりは毛頭ありません。自分に力が足りないところに関して言えば、もっと必死に補って、もっと合格できるようにしていきたいという思いは強く持ち続けています。しかし、それが全てではありません。大切なのは、合格すればそこまでの過程の全てが肯定され、不合格であればそこまでの過程の全てが否定されるかのような受験において、いかに最後まで諦めないでいられるかどうかであるのだ、ということです。一つの結果を見て絶望する人もいれば、それを契機として以前よりもさらに頑張っていく人もいます。入試がどのような結果に終わろうとも、そこで彼らの人生が終わるわけではありません。そこでの失敗が多少あろうとも、そのあとも努力をし続けていくことが大切ですし、そこでの成功がたまたま得られたとしても、そのあとの努力を怠っては結局ろくでもない人間になります。

つまり、結果が全てである入試に毎年携わる僕自身こそが、受験生の誰よりも「この一つの結果が全てではない」ことをどこまで信じられているかが問われているのだといえるでしょう。今年の様々な堪え難い不合格の結果を見る中で、僕自身が生徒たちにしてあげられることとして、そこの覚悟を伝えることこそがより本質的な教育なのだ、ということを改めて実感させられました。

そして、だからこそまた難しいのです。
結果が全てだと狂信的に信じることができれば、結果は出やすいものです。
(最近は医学部志望者に多いです)
しかし、それは原理主義者としての自己、出口のない自己を定めることになってしまいます。
とはいえ、「出口」という名の逃げ道ばかりを作る相対主義者には、何事も成すことはできないでしょう。

カール・R・ポパーの言うように、「人類のここまでの科学の進展そのものを現時点での有効な仮説としては評価するものの、それが仮説であるという限定を決して忘れない。」というアプローチは僕には正しいものだと思えますが、そのような「自分がfanaticには信じ切れないもののために、命がけで頑張る。」という崇高な姿勢に人類が耐えうるかどうかが、問題であるのだと思います。

それはまた、大栗博司先生のブログにあった、この議論とも関わってくる問題です。
このブログ記事の中での田崎晴明先生のツイート部分の「そもそも、「正しいビジョン」というのも、多くの場合には、単に今の時代で支配的な価値観に過ぎず、普遍的なものとは言えない と考えています。」というところにこそ僕は全面的に賛成をするわけですが、そのように考えながらも、その「正しいビジョン」が少しでもより正しくなるために努力をする、という姿勢自体が人間にとってはかなり厳しいものであるのだと思います。自分の様々な努力や時間、苦労が普遍的なものに資していると考えたくなるのが人間というものですから。科学者というのは、その点で、自分の一生をかけた努力が、一つの仮説に過ぎないという厳しさと対峙をしなければならない存在だと思います。だからこそ、その覚悟で取り組む一人一人に僕は心から敬意を持っています。

もちろん、このような問題意識自体は僕も開塾当初から持っていました。
それはたとえば、この塾を開いた当時の塾の紹介文からもわかると思います。ただ、あの頃
「問題」として捉えていたものが、自分から遠く離れたところにある難問としてではなく、自分の生き方として切実に問われざるを得ない、ということを10年経ってみて、今年改めてまた教えられた、というのが偽らざる感想です。それを「進歩していない」ととるのか、「初心を忘れていない」ととるのか、あるいは森有正風にかっこよく「問題が深まっている」「質が変化している」というのかは、まあどうでも良いのですが、「教えることで教わることの方が多い。」という少なくとも中学生の頃には気づいていた事実にもまた、改めて気づかされるこの1年だったと思います。

ともあれ、新年度が始まりました。
今年も受験生一人一人に、「絶対に落ちないために何をしていくべきかを徹底的に考え抜き、相談していく」という作業と「受かるか落ちるかが君たちの人生を決めるのではない。一生努力できるかどうかが君たちの人生を決めるのだ。」というメッセージというその相反する二つのことを、どちらも必死にやっていきたいと思います。

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