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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

与えられていないということは、与えられているということ。

国公立前期試験が終わりました。結果は受験生にとって悲喜こもごもであったと思います。塾の受験生でも過去の模試でもないくらい、最高の手応えがあった子もいれば、実力を出し切れずに落ち込んでいる子もいます。どのような手応えであれ、次に向けて準備をして行くことが僕は大切であると思います。終わってしまった試験について、いくら身悶えして点数計算を何百回と繰り返そうと、それで合格できる確率が上がるわけではありません。それならば、国立後期試験、さらには今年がダメなら次の年もやらねばならないわけですから、そこで合格する確率を少しでも上げていくために勉強をして行くことが大切です。

その中で、塾でも誰もが認めるほどの努力をしている受験生の一人が、前期試験の手応えがあまりよくありませんでした。その子の勉強量、密度、知識や理解度は本当に素晴らしいぐらい鍛えられているのですが、やはり時間を計っての試験となると、本人はなかなか時間内にうまく立ち回ることが苦手であり、本番でもそれがネックで解けるはずの問題が解ききれなく、手応えが悪かったようです。

本当にそれは僕自身も悔しいことではあるのですが、しかし、昨日話し合ったのは、「試験時間に小器用に振る舞い、点数を稼ぐことが無理なら、自分にとって出来が悪くても受かる実力をつけよう。」ということでした。器用に振舞ってはたいして勉強もしていないのに、しっかり受かっていく受験生ももちろんいます(僕自身も高校生の時はそういう受験生でした)。不器用な受験生にとっては、それを羨ましいと思うことも当然あると思います。しかし、そこで器用さを身につけようとしては失敗をするよりは不器用でも合格できるだけの力をひたすらに鍛えていくことの方が大切ではないか、という話をしました。そして後期試験までにここから10日以上あるわけで、そこを徹底的に勉強して行けば、当日の出来が悪くても合格できるので、それを目指して頑張ろう!と話しました。

実力以上に器用に振る舞うようなスキルがない、ということは、器用に振る舞えないとしてもそれで通じるような圧倒的な実力をつける機会を与えられている、ということです。その意味では、器用に振る舞える才能を与えられていない、ということは、それを補ってあまりあるだけの実力を鍛えるための努力をする才能を与えられている、ということでもあるのです。その話をしっかりと理解し、(一昨日の夜遅くに東京に帰ってきたのに)昨日から勉強を再開しているその子に、本当に頭が下がります。

何かの才能を与えられていないということは、つまり別の何かの「才能」を与えられているということです。それは、「人それぞれ様々だから、君には君のいいところがあるよ。」という無責任な慰めではありません。その与えられていない才能がなくても結果を出していくためにはどうしたらよいかを必死に考え、努力し補おうとして行く契機を与えられているという事実自体が、その才能を元々与えられている人には得難い成長のチャンスであるからです。(最近では歌手の大森靖子さんが、同じようなことを話されていました。本当にその通りだと思います)

大切なのは、与えられていない才能を求めては嘆くことではなく、その代わりに自分に与えられている才能を徹底的にbrush upすることです。その意味で、人生を愛すること、運命を愛することが大切であるのだと思います。

一方で、何かを与えられているということは何かを与えられていないということです。僕は勉強も含め、
何でも小器用にこなせました。その意味でそれらの習得に自分で嫌になるほどの努力というものを要したことがありません。しかし、このこと自体は僕を呪うものとなりました。努力をして結果が出ず、それでもなお努力をする、という経験をしたことのない者にとって、努力をする姿勢を身につけることは本当に難しいものです。その事実に23、4歳で気づいてからの僕は本当に絶望したものです。そこから努力する姿勢を身につけようともがく毎日でした。今もまだ、それは同じです。

どんな天才もその天才性だけでやっていける時期は短いのです。さして勉強もしないで東大に入れる子もいますが、東大に入って専門分野で研究者になろうと思えば、そこでは天才性だけではどうしようもありません。あるいはその研究者としてのレースに天才性だけで勝つことができようとも、それだけで独創的な研究ができるかどうかはかなり怪しいでしょう。その意味で、どのような「神童」や「天才」(として扱われる人)も自分が凡才であることに気づき、それを努力によって乗り越えなければならないと気づいてからの人生の方が圧倒的に長いのです。
その「凡才としての自分の人生」に大学入学前から気づき、ひたすらな努力を重ね、それがうまくいかなくてもなお、次の努力を重ねるその子の姿勢こそ、彼の明るい前途を保証していると僕は感じています。

受験生の皆さん。あるいは、そうでないみなさんも。
運命を呪っている暇があれば、それが自らに与えてくれた機会を活かして徹底的に自分を鍛えていきましょう。
それが、自分の人生を愛する、ということです。足りないもののおかげで、その足りないものをカバーするために、どうして行けば良いのか、という創意工夫や努力の契機が生まれるのです。
是非、そのように取り組む受験生の力になっていけるように、最後まで頑張りたいと思います。

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国公立入試二日目です。

一人一人の受験生が、最後まで全力を尽くして戦えるように、この二日間は何度もやりとりをしています。

そういえば、先日他の塾にも通っている塾生が、「他の塾の浪人生とかって全然勉強しないんだね。
この塾の浪人生を毎年見ているから、そこに驚く。」という話をしていました。
僕もよく街中で自分の勉強をしているときに、予備校生がカフェで勉強しているのに遭遇しますが、
正直勉強をしているのか、雑談をしているのかよくわかりませんし、そもそもその「勉強」も、予備校から与えられた教材の予習復習程度で満足していて、それ以外の勉強というのがあまりできているように思えません。
本来は予備校の授業の予習復習は、そこでわかる自分の弱点を炙(あぶ)り出す為のものでしかなく、
それを終えたところから本当の勉強が始まると思うのですが、なかなかそのようにはやれていないようです。

嚮心塾の塾生は、そういった世間一般の予備校生に比べれば、本当にみんな頑張って努力をしていると思います。それでも合否が別れるのは、ひとえに僕の力量不足です。その力量不足を少しでも埋められるように、必死にあがき続けていきます。しかし、本当に大切なのは、そのように塾生の一人一人に芽生える、自分から努力をして行く姿勢であると思います。どの受験であれ、中学受験や高校受験はもちろん、一般には最後と見られる大学受験であれ、それで人生が終わるわけではありません。努力をし、結果を出すために工夫をして行く姿勢をその段階で身につけられることこそが、何よりも大切であると思います。もちろん、それに志望校の合格がついてくるように、こちらは必死にやるわけです。しかし、たとえ第一志望に合格しようともあるいは不合格になろうとも、大切なのはそのように自分で創意工夫し、努力して行く姿勢だということを塾生には最後の最後まで伝えていきたいと思います。

ここから結果が出るまでが例年非常に辛い時期ではあるのですが、最後まで最善を尽くせるようにやっていきたいと思います。

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塾をしていて、一番辛いこと。

学習塾をしていて一番辛いことは、まだ合格できていない子がいるときにでも、他の子の合格を心の底から喜ばねばならないことです。これがまだ家庭教師とかであれば、そのお家ごとに切り替える(かのように振る舞う)ことはできるのですが、塾ではそうもいきません。塾を開いてもうすぐ10年になりますが、これだけは慣れることがありません。おそらく、一生そうであるのでしょう。

情報を処理することや思考は訓練によって分割して処理をすることができます。いわゆるパソコンのマルチウインドウのように、です。ただ、感情だけは、やはり分けられないようです。
そのような感情の処理の仕方が稚拙であることを、不完全さの現れであるとみなすのか、人間らしさの現れであると見なすのかは難しいところですが、ここに関しては長く教えれば教えるほどに、逆に感情としては強くなっていくように思います。たとえば教えることを始めた時と比べ、今の方が逆に、その痛みを強く感じるようになったと思います。もちろん、感じなくなるのであれば、他に教えるスキルがどれほど向上していようとも、塾などやっても仕方がないでしょう。嚮心塾が終わるとしたら、経営がうまくいかないで潰れる、僕が死ぬ、という可能性以外に、僕自身がこの痛みを感じなくなったらもう閉めるべきである、と思っています。しかし、その感情が年々風化するどころか、逆に強くなっていくのには、10年間を経て僕自身が驚かされています。

塾でも様々に合否が出てきています。しかし、ここからが国公立前期試験に向けての最後の追い込みです。
その最後の追い込みの中で、決して後悔のないように徹底的に、一人一人の受験生を鍛えていきたいと思います。

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うつ病の認知行動療法と教育の相関について。Half a cup of tea。

今月号のNatureダイジェストをパラパラと見ていたら、うつ病の認知行動療法(CBT:cognitive behavioral therapy)について書いてありました。今までの抗うつ剤のように薬に頼るのではなく、一つの現実についての見方、考え方をトレーニングすることによって、鬱状態からの脱却を目指すという治療法で、それが薬を使った治療よりもまた鬱状態になりにくい、という記事でした。もちろん、この認知行動療法はそもそも、ピタッとはまることが難しく、さらにはそもそもどうしてそれが有効なのかもよく分からないというものらしいので(しかし、そもそも抗うつ剤もまた、なぜそれがうつ病に効くのかはよくわかっていないそうです。50年前に偶然別の病気のために使った薬がたまたまうつ病の症状の改善にきいただけで、そこから50年間現在に至るまで、その最初に見つかった二つの薬の毒性を弱めた似たような成分の抗うつ薬しかつくれておらず、他の薬で効くものが見つかっていないどころか、そもそもその最初に見つけた二系統の薬がなぜうつ病に効くのかもよくわかっていないまま、現在でも使い続けているということなので、これは薬の方が「科学的」であるわけでもないようです)、まだまだこの治療法にも課題が多いらしいのですが、僕はこのような方向の治療法の模索というのはとても良い方向なのではないかと思います。うつ病ならそこに至るまでの精神的な態度や癖というもの自体を、変えていくように練習していかなければ、薬で改善しようとするのはその場しのぎでしかないと思うからです。もちろん、その場しのぎが必要な場面は多々あります。しかし、その場しのぎだけを「治療」と言ってしまうのは、やはり無責任であると思います。

(ちなみに、この認知行動療法について、僕が望ましいと思うのはいわゆるpositiveな(とされる)思考習慣を身につける、ということではありません。それは一種の洗脳でしかないでしょうし、だからこそ短期的には効果が高いものの、長期的にはやはり効果がなくなってくると思います。大切なのは、一つの事象について、自分のとりがちな悲観的な見方が、実はそれほど必然的なものではないということに思い至れるようにする、というトレーニングが大切であると思います。魯迅の言う「絶望の虚妄なることは、希望(が虚妄であるの)と同じである」ですね。そんなに簡単に絶望も希望もできない、ということに思い至れる練習が大切なのではないでしょうか)

このように僕が考えるのは、受験生を毎年教えていて一番鍛えなければならないのが実は勉強面ではなく、精神的な態度であることが多い、という事実を毎年痛感するからです。しっかりと勉強していて知識やその応用ができる子であっても、ほんの少しのことで悲観してしまい、結果として力が出し切れないということがあまりに多いのです。例えば、「本番で数学ができなかった」という事実から、「もうこの入試はダメだから、諦めよう。」という結論に至るまでには多くの飛躍があります。まずは、その数学の問題ができなかったのは、自分だけであるのか、という観点が必要です。当然ながら周りの子も同じようにできていなければ、そこで差はつきません(もちろん、逆もそうです。自分ができたからと言って楽観もできません。)。次に、その科目で自分が周りの子よりできていないとしても、他の科目で取り返せている可能性はないのか、ということも考えなければなりません。ここまで考えてきて悲観的な推論しか立たないとしても、そもそもそれらは推論であり、しかも合否という結果が出るまではかなり確実さの低い推論であるわけです。それなのに、その一教科ができなかったくらいで、「残りのテストを受けないで帰ってきていいですか?」というかなり本気の電話を、毎年のように違う受験生からもらいます。(卒塾生のみなさん。心当たりがありますよね!)しかし、その不確かな推論に基づいて残りの試験を受けなければ、確実に不合格になるわけです。現実の意味は極めて多面的であり、それを的確に捉えることは特に冷静さを失っているときには難しいものです。だからこそ、それを自分の思い込みによって判断してしまわないこと、自分が事実だと思っていることが実は自分の不確かな推論にすぎないこと、さらにはそこから出てくる自分にとって恐ろしい結末もまた、一つの可能性にすぎないことをわかれば、実は試験の勝負所は一つ目や二つ目のミスではなく、その先にあるということもわかるわけです。しかし、それが本当に難しいと思っています。
ここからの受験直前の時期は、そういったところまで徹底的に鍛えていくこと、そういった絶望的な状況を思考実験しては、その状況がいかに絶望的に見えてもまだいくらでもチャンスがあるか、その状況を絶望的であるとみなして努力を止めるが故に、本当に絶望に変わってしまうのか、ということを口を酸っぱくして具体的なケースについて、教えていきたいと思っています。これは、受験に限らず、彼ら彼女らのこれからの人生においても必ず必要なことであると思うからです。

ちょっと話はかわるのですが、今でも印象に残る物語として、確か、James Kirkupか誰かのHalf a cup of teaという短編がありました(ちょっと今検索してみたら見当たらなかったのでうろ覚えなのですが)。お茶をなみなみと注ぐのでもなく、少ししか注がないのでなく、ちょうどカップの半分くらいをついでくれる思いやりのある女性と結婚したい、と思っている主人公がカップの半分だけを注いでくれるそのような女性と出会ったと思い、めでたく結婚して幸せなまま長年連れ添ってから、人生の最終盤にあのときのことを話したら(「カップ半分注いでくれた君の思いやりに感銘を受けて、君を選んだおかげで君と幸せな日々を過ごせたよ」的なセリフだったかと)、「ああ、あれはポットの中のお茶がちょうどカップ半分しか残っていなかったのよ。」と言われてしまう、という短編です。この結末については人と人とが分かり合えているようで実は全然分かり合えていない、というシニカルな見方をすることもできるとは思いますし、実際にいくら親しい友人同士であれ、あるいは家族同士であれ、長年連れ添った夫婦であれ、このようにお互いに深くは分かり合えないままに生涯を終えていくことの方が圧倒的に多いのだと僕は思います。しかし、同時にこの短編の結末は、僕にとっては一つの小さな希望でもあります。私たちはとかくこの世界に絶望し、あれこれと不平を並べてしまうのだけれども、それは本当に現実を少しでも正しく捕らえられているのか。それほどに、人間の物の見方というのは欠陥だらけで、まったく違うことを勝手に決めつけては突き進む、ということだらけなのではないか。本当ににっちもさっちもいかないくらいに追い詰められているかのように見えても、ものの見方や考え方を転換することで、そこに何らかの希望があるのではないか。そのようにこのラストは感じさせられます。

私たちは、一生をかけて信じてきた価値観が実は大したものではないことを死ぬ間際になってようやく気付くことになるかもしれません。それは外から見れば、滑稽であり取り返しのつかない悲劇であるかのように見えるかもしれませんが、僕はそのような気づきには、希望があると思います。

現実についての多様な見方を、人生のかかった受験の中で、自分が追い詰められる局面だからこそ、身につけてほしいと思っています。この世界は、世界中の最高の天才たちが思い描く以上に、豊かな可能性をもっているのです。ましてや、凡百の我々風情の推論通りになるわけがないではありませんか。自分を信じる必要などありません。その現実の多様性を信じ、自分のちっぽけな思い込みにとらわれないようにして最後まで戦い抜けるように、みんなには頑張ってもらいたいと思いますし、そのために僕も残りわずかな日々をしっかり教えていきたいと思います。

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愛人稼業。

著名人の愛人80人騒動なども世間ではありましたが、学習塾や家庭教師などというものは、所詮、愛人稼業であると僕は思っています。「正妻」(学校)の不満や足りないところを補うための役割を期待されて、ちやほやされたり持ち上げられたりしたとしても、少しでも役に立たないと思えば途端に切られてしまいます。あるいは、他にもっと条件のいい「愛人」(別の塾)を見つければ、すぐに切られてしまいます。教育産業で働く教師というのは、誰でもその悲しみを抱えながら教えているのではないでしょうか。結果を出せればよいものの、どんなに努力してもなかなかに結果が出なければ、「貴塾の教育理念に感銘を受けて‥」と言いながらも、さっさと別の塾に乗り換えられてしまいます。
 それだけではありません。そのように、打算からしか始まっていない関係であるのに、教師は塾生や卒塾生を献身的に思いやることを要求されるわけです。それも、そのように一方的に切られた相手をも含めて、いつでもその子のためを考えていなければならない、というわけです。このような、自分にとって非対称的な「愛」を貫くことができるのは、聖人のような心根の持ち主か、あるいはそのような努力の代償として経済的利益を得られるかのどちらかでしか難しいでしょう。しかし、そんなに聖人のような心根の人は多くない以上、そのような家庭のエゴイズムに対して多くの塾の教師が異議を唱えないのは、それでも異議を唱えないことの方が経済的利益を得られる、という打算からの選択であるのだと思います。儲け重視の教育産業というものを僕は本当に唾棄すべきものであると思っているのですが、しかし、逆に儲からなかったらこんなしんどいことなどやっていられない、というのが彼らの本音であり、それはやはり一定の理解を示さねばならないのかもしれません。

 僕自身のことを言えば、教え始めはこのことが本当に苦痛でしかありませんでした。こちらは様々なものを犠牲にして必死に教えていても、少し成果がでなければ(そしてそれは往々にして勉強する本人のモチベーションの低さという要因が強いのですが)とたんに首を切られてしまうわけです。その理不尽に、怒りというよりは深い悲しみを覚える毎日でした。過去形のように話しましたが、それはもちろん、今でもずっと続いていることです。
 しかし、それとともに、そのような価値観の中でも評価され得るように、自分を鍛えなければならない、とも思ってきました。僕のため、ではなくその子たちのために、そのような価値観でしか測れないとしてもその狭いストライクゾーンの中で評価してもなお、嚮心塾が「ストライク」と判定されるような努力をすることで、彼ら彼女らの力になるきっかけを作れれば、と思ってやってきたところがあります。
 かつて、僕の師が、灘やその他全国のトップレベルの受験生を集めて、「せめて君たちのその狭いテレビ画面のような枠に僕を映し出してくれれば、僕はそこからでも君たちと出会えるように努力したい。」という話をされていて、彼らの枠の狭さ、頭の悪さをバカにしていた当時の僕としては、そのような優しさというものを人間が持つことができることに、感銘を受けていました。しかし、今になって自分がそのように取り組むことを続けてきて思うのは、それ以外には道がないのだ、ということです。他に道がないからそうせざるをえないことを、「英雄的な努力」とみなすことは、まさに自分がその「他に道がない」という絶望的な現実と向き合っていないからこそできる態度でしかなかったのだと、改めて反省させられます。それは、どちらか一方(この場合は灘高生)が愚かなのではなく、お互いに狭いストライクゾーンの中でしか他者を理解できない、という条件の下で、人間が他の人間をどのように理解しうるのか、という普遍的な難題であるのだと思います。

そしてさらに難しいのは、そのような互いにずれた狭いストライクゾーンを端緒としてもなお、人間同士でわかりあえることがあるとしてもしかし、それはもっと幸福になるとは限らない、ということです。永遠にわかりあえないでいるのなら、それはそれで幸福感を味わえるのでしょう。人間と人間とがわかりあえてしまうことは、永遠にわかりあえないでいることよりも、はるかに残酷な結果を引き起こすのかもしれません。わかりあえていないのに、わかりあえている振りを続けることができなくなるからです。そのような深い関わりを、いかにして避けて生きるか、が幸福であり続けるためには必要なのだと思います。しかし、それでは真理の探究は犠牲となるでしょう。

わかりあえないという絶望を嘆いているときのほうが、分かり合えるとして、しかしそれはより深い絶望でしかないと気づくことよりもはるかに幼稚な態度であるのでしょう。人間は残念ながら、分かり合える。しかし、それは人間にとって他者として設定している人々への理解を拒むことで成立するほとんどの人間的関係を乗り越えてしまうが故に、希望ではなく、絶望である。あるいは、連帯ではなく、孤立への道である。そのことを、森有正の『ドストエフスキー白書』や原田正治さんの『弟を殺した彼と、僕』という本を読みながら、考えていました。

閉じた内部を愛することしかできないのなら、人間は昆虫と同じです。それはベルクソンが言っている通りだと思います。しかし、閉じた内部から出て、外部を理解しえてしまうという、この人間の認識能力、というより情動能力は、人間自身にはかなり耐えかねるものなのだと思います。それが、ドストエフスキー自身が、何度も書き連ねた人間が根本において直面している問題です。いや、これは別にドストエフスキーが書こうと書くまいと、根本的な問題として、人間自身がずっと直面してきたことなのでしょう。

その意味で、今年も最後まで僕は自らの「愛人稼業」に誇りを持って、生徒一人一人を教えていきたいと思います。自分が理解されないとしても、自分が理解をすることを恐れずに、一人一人を鍛えることに専念して、残りの厳しい受験を徹底的に戦っていきたいと思っています。

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