嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

1点刻みの、何が悪い。

センター試験が終わりました。
なんとか乗り切れた子も、予想外に悪い点数を取ってしまった子もいるのは毎年のことですが、ここからが勝負です。気落ちをしている暇はないので、ここからの私大入試、さらには国公立入試に向けて、どれだけ万全の準備ができるかが勝負どころです。センター試験での失敗もまた、入試本番の恐ろしさとともに、自分自身の勉強の甘い部分を見つけ、乗り越えていくための一つのlessonでしかありません。そのように、気持ちを切り替えて前向きに勉強していくことが大切だと思います。

現行のセンター試験には様々な問題があると僕も思います。僕の理想を言えば、センター試験自体を廃止し、私大と同じように国立大学も二次試験だけを行うのがよいと思っています。もちろん、それだと足切りがない分だけ、一部の国立大学(といっても東大とあと医学部だけですが)に関しては、合格人数に対して出願者が多すぎて、結局今のような入試の質を保てない、という不安もあるでしょうが、それはそれで合格発表までの日数を増やす、あるいは昔の東大のように各大学で一次試験と二次試験を用意するなど、いくらでもやりようがあると思います。

しかし、実際にはそのような方向性ではなく、現在の教育再生実行会議の答申するように到達度テストによるランク分けと「人物本位の入試」の導入が進んでしまうようです。これには以前にその疑問点をいくつか書きましたが、どのように愚かな政策であっても、それがいかに愚かがわからないところでは、やはり実行に移され、何年かその制度で入試が行われ、そして何年か分の犠牲者を出した上でまたひっそりと直されていくのでしょう。非常に腹立たしい思いを持ちますが、公教育とはそのようなものであるからこそ、僕は塾を自分で開いたのでした。その憤懣を塾での教育の質を少しでも高めるためのエネルギーに当てていきたいと思っています。

とはいえ、この教育再生実行会議の批判する「従来の一点刻みの入試の弊害を改善するため」という主張が、僕はいまいちわかりません。具体的に、一点刻みの何が悪いのかが見えてこないからです。おそらくこの主張は、「たとえば東大入試で340/550とれて合格する受験生と330/550で不合格となる受験生の間に力の差なんかほとんどない。だからこそ、そこはどちらも『一定のレベルに達している』ということで同一の評価をして、別の角度から評価し直そう。」という主張であるのだと思います。ただ、この一見妥当そうな主張の問題点は、大学は学問をするための研究機関であり、そこでの学習や研究に必要なのは、高校までの勉強の基礎力であるということを忘れている、ということです。学力をつけるには様々なアプローチがあります。それこそ、先生の言うことを聞いてコツコツ勉強してきた子から、先生の言うことなんて無視しては学校では遊んでばかりだったものの、それでも特定の分野に関しては高い関心をもち、その分野に関しては驚くべき知識欲で自ら学んできた子などもいます。ペーパーテストであれば、それらのどちらもが、目の前のテストができるかできないか、ということで一定の基準で等しく評価をできていたわけです。しかし、そこに「面接」が入れば、前者の優等生ばかりが合格し、後者の子達は大学に入りにくくなるでしょう。しかし、それはサッカーチームのセレクションをじゃんけんできめるようなもの、あるいは将棋のプロになれるかどうかを(一定の棋力以上の人の中で)あみだくじで決めるようなものではないでしょうか。大学が学問のための場でないのなら、それもありです(そしてそれが就職活動における選考ですよね、そこで学力はもちろんとして、それ以外の要素を見るのは極めて正しいことです。)。しかし、大学が学問の場である以上、その学問のための基礎的な能力以外の要素を入試で見る、というのはそれだけで大学本来の目的からかなりずれてしまうのではないでしょうか(もちろん、この議論は現行の大学入試でそもそもその学力を計り得ているのか、という反省を伴うべきものでなければなりません。そもそも、一から考える能力よりは知っておかねばならない前提となるような知識が多くなってしまっている現行の入試、特に難関大の入試は、そのために知識を詰め込む私立中高一貫校用の予備校(鉄◯会のようにですね)の存在がなければ合格できないようになってしまっていて、その点でも現在の入試で測っている「学力」といっても知識偏重になっているのではないか、という批判は十分に正しいと思います。ただ、「学力」という言葉が知識と思考力を組み合わせたものを指すとすると、知識偏重という欠点は「学力」の内部での偏りであり、もちろん是正すべき課題だとしても、それは「学力」以外のものを導入するよりはまだましであると言えるでしょう、サッカーチームがサッカーをするため、将棋の奨励会が将棋をするためであるように、大学は学問をするためであるわけですから。そして、学問には知識と思考力の双方が必要です)。

もちろん、サッカーチームや将棋の奨励会と違って、大学入試でこのような議論がなされるのは、大学が単に研究のための組織であるのではなく、労働者の質を担保するための組織である、という社会的要請があるからでしょう。ただ、それは大学入試においてなすべきではないと僕は思います。実際に就職活動の選考の時に有名大学出身であっても勉強しかしてきてないのであれば、それは評価が低くなるようになっているわけです。もちろん、その際の「人物評価」がどれほどの精度であるのかは、大学入試でそれを導入した時と同じように怪しいものであるのは事実であると思います。実際、人間が他人を評価するときはだいたい、自分に似た性質を持つ人間を高く評価するbiasが働くでしょうし、逆に自分に理解しにくいものについては低く評価しがちであるというbiasが働くものでしょうから。しかし、大学入試は(一部を除いて)学力で、その後卒業して就職する際に、学業以外に「人物」も見られる、という現行の仕組みは、大学という本来的には教育・研究機関であったものが、社会の要請によって労働者の質を担保する、という役割を担っていったという歴史的過程を振り返ってみれば、極めて妥当な選抜方法ではないかと思います。

大学入試をこのように変えて、唯一、一時的に「得する」のは新卒一括採用を行う大企業だけでしょう。そこでの選抜コストを大学入試に転嫁できるわけです。大学入試時に学力だけでなく、他の要素でも選抜がなされているわけですから、その評価に乗っかれば自社での新卒一括採用時の選抜コストを下げることができるでしょう。まあ、それぐらいが狙いなのかな、と僕は思っているのですが、しかし、これも浅はかであると思います。なぜかといえば、まずこのような事態になれば、新卒一括採用は、今にも増して学校歴で切られてしまうことになってしまいます。学力以外の他の要素で選抜されて決まった大学入試は、就職選考時には覆しようがないでしょう。いわゆる「勉強以外の要素」をすでに吟味したものが学校歴となってしまうわけですから。
そこでは再チャレンジはできません。つまり、18か、19かの大学入学時で落ちこぼれてしまえば、もうその先にもう再チャレンジできない社会になってしまいます。どのような選考も、人間が作り人間が行うものである以上、必ず評価をしきれないという失敗を伴います。しかし、それが「学力以外も考慮した包括的な選考」である(という建前である)以上、そのような評価の取りこぼしを再チェックしていこうという試みはおそらくなされないのではないかと思います。結果として、うまく用いれば必ず有用な若い人材を、ただ学校歴だけで弾く、という今の選抜制度の悪弊が、さらに強化され、さらに反論しにくい形でできてしまう、ということになるでしょう。

話が飛びましたが、一点刻みの弊害を正すために、学力以外の要素を入れる、というのは、サッカーで勝負がつかないからコイントスで優勝を決めましょう、という話でしかありません。そもそも、一点刻みの何が残酷なのでしょう。自分が必死に磨いてきた種目と違うところで勝負が決まることの方が、よっぽど残酷なのではないでしょうか。

ここで再び、「一点刻みの、何が悪い。」と僕は主張したいのです。もちろん過去の塾生にも、何人も僅差で涙を飲んできた受験生がたくさんいます。中学受験生でたった一点差で入試に落ちた子もいます。東大受験生もセンター試験でたった4点の差で足切りに合い、涙にくれた受験生もいます。また東大入試はセンター試験を110点満点に換算するので、過去の受験生では一点どころか0.8点差で不合格だった受験生もいました。それらのすべては、僕に責任があります。全て、その僅差を乗り越えられるくらいに鍛えきれなかった僕が悪い。しかし、その上でなお言わせてもらうなら、その僅差で不合格だった子たちは志望の大学には行けなかったとしても、それだけの力がついて他の大学に行くことで、必ず得るものがあったと思っています。おそらく、順当に第一志望に合格する以上に、です。自分の必死の努力によってもなお、ほんのちょっとの差で実現できないということがあるのだ、というこの世界の厳しい現実を、18や19にして学んでいるわけです。それは、「努力をすれば叶う」という幼稚な人生観しか持っていない子よりもはるかに鍛えられているといえるでしょう。さらに、受験を通じて鍛えた学力は第一志望に合格しなくても決して消えません。第一志望に不合格であろうと、高い実力はついています。このような子たちが、その高い実力を基礎として悔しい思いをバネに、ここから4年、ないし6年鍛えて行けば、きっと一流の人間になれる、と僕は信じています。

それを、「かわいそう」だのと外野がさわぐな、と僕は思います。彼ら、彼女らの人生はここからであり、その経験をかわいそうにするもしないも、これからであるのです。もちろん、僕自身もそのために、卒業した後も彼ら彼女らの力になり続けていきたいと思います。1点刻みで決めるのをかわいそう、という人間は、そもそも1点刻みの悔しさを味わったことがないのではないかと僕は思っています。

しかし、です。これからの入試の変更で、「学力は同じ到達段階だけど、面接で落ちた」ときには受験生をどう励ませば良いのでしょうか。面接官の顔色を伺い、求められていることを答えられることに全力を注ぎ、それでも評価されなかった場合には、自分の何を反省すればよいのでしょうか。教師に従順ではない自分を反省しなければならないのでしょうか。しかし、尊敬できない教師に従順である生徒は、単純に卑怯であるだけだと僕は思います。もちろん、自らの視野の狭さゆえにその教師の尊敬できる点を見つけられない、ということは往々にしてよくあることではあるのですが、しかし、今現在はその教師の尊敬できる点を見いだせていないのに、従順にしておく方が自分にとって有利であるという打算がきく若い学生は、おそらく大成しないと僕は思います。中学の内申点、さらにはこのような面接重視の大学入試、という方向への入試改革は、若者の多様性が死滅し、国を滅ぼすことにつながるのではないか、と危惧しています。

全くおかしな話です。しかし、そうした状況においても、愚かな政策によって、その時代の受験生一人一人の人生が狂わされないように、全力を尽くしていきたいと思います。そして、どこで批判されようとも、「一点刻みの何が悪い」と言っては、その一点にこだわって生徒の力になっていきたいと思います。

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ブログを始めて5年。有料プランにしました。

たいしたことではないのですが、このブログを有料プランにしました。
そのため、広告などは非表示になっていると思います。

このブログを始めてもうすぐ5年になり、ありがたいことに今では
この(文字だらけで、肝心の塾の説明の少ない)ブログ経由で嚮心塾にお問い合わせをいただくことも増えています。そうした際に広告が出ているというのも申し訳ない、という理由(今更ではあるのですが)と、もう一つはどうしても忙しいことにかまけてブログを書くことをさぼりがちになってしまうので、それを防ぐためにもブログにお金を払っていこう、という理由からです。

書くべきことは山ほどあり、書きたいことも山ほどあるのですが、そこに踏み込んでいくにはもう一段階、僕の側のさらなる覚悟が必要であると思っています。伝えたい意味の重さに、僕というちっぽけな人間が耐えられるかどうか、ですね。ということで、有料にしたことをきっかけとして、またできる限り書いていきたいと思います。

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センター試験初日に。

昨日までの嵐のような忙しさから一転して、今まさにセンター試験に取り組んでいる受験生が大きく失敗しないことを祈る時間を過ごしています(もちろん、塾で中学受験生や高校受験生を教えながらですが)。
一人一人の塾生に細かいところまで確認作業をしてきたつもりですが、
それでも想定外のことが起きるのが、入試本番というものです。その意味で、すべてを想定内のこととして、
大過なく終われる受験生というのはごくわずかなのではないでしょうか。
万全を尽くした準備を、と教えつつも、それを裏切ってくる思いもかけない様々なトラブルの数々に毎年毎年改めて驚かされます。

しかし、想定外のトラブルがでてきたときこそが、自身の人間としての力が問われる時であるのです。
予期せぬ失敗をしたときに、そこで悲観して手や頭を働かせるのを止めてしまうのか、それともそこで歯を食いしばり、勇気を振り絞って次の問題に立ち向かうのか、その姿勢の違いこそが、結果を大きく左右します。
その意味で、前回に書いたように絶望的な状況に直面したとしても、そこで絶望するかどうかは自由であるのです。少なくともどのような絶望的な状況というものであっても、それによって自身が絶望しなければならない、という論理的帰結を導きません。結果はどうであれ、その最後まで考え抜き、最後まで考えぬく姿勢を、塾生に限らず
厳しい受験を戦う若い世代にはなんとか頑張って貫いて欲しいと思っています。

徹底的に準備をすることは、その準備の徹底の「外」にあるものに対して、心の準備を作ります。
内包の探求が外界への準備となるように。あるいは、ソクラテスの「哲学とは死ぬための準備である。」という言葉も、「生(せい)」という内部の徹底(としての哲学)こそが「死」という外界への準備となる、ということを伝えたかったのかもしれません。逆に言えば、外部からの暴力的な邂逅の可能性のない世界は、人間にとって絶望でしかないのでしょう。そこには、外部との出会いによって大きく変わる自分というものはありえないからです。

ともあれ、そのような外部に必死に立ち向かう受験生を、今日明日と、さらにはこの先、受験が終わるまで
こちらも必死に支えていきたいと思います。



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お久しぶりです。

いつもながら、日々の塾に忙殺され、気がつけばセンター試験一週間前、中学入試も今日を皮切りに始まるという時期になってしまいました。ブログに書きたいこともストックしていたつもりが、
なかなか書くことができずに、こんな時期になってしまいました。
ここから先、ますます忙しいのですが、しかし何とか時間を作ってはポツリポツリと書いていこうと思います。

どの受験もそれぞれに大変なことが多いのですが、特に大学受験というのは勉強をやらされてやるものではないだけに、自分自身のこれまでの人生と向き合わざるを得ない受験生が多いように思います。
自分の人生を振り返り、あるいは試験が間近に迫ったこの一年を振り返り、嫌になることが多いでしょう。
特にこの一年に関しては、情けない自分を思い知らされる一年だったかもしれません。
しかし、それでも受験生の皆さんは、残りわずかな時間を、少しでもまともな努力を積み重ねることが大切です。
なぜなら、どこかから、「区切りよく心機一転頑張る!」ということができないのが人生であるからです。
人生は切れ目のない敗北の連続です。それは「受験での合格」のように、解りやすい勝利によって目をそらそうとしてもそらしきれないほどに、無力な私たちを圧倒していくものです。その中で、外側からの切れ目が自然に生じて、そのチャンスをうまく自分もつかむことができて、今までの情けない人生を変えることができる、などと期待しても、結局うまくいかずにそのまま一生を過ごすことになるでしょう。
 
絶え間ない敗北の連続に、それでも諦めることなく、何とか今日こそは違う1日を過ごそう!と必死にもがく
人間にだけ、もちろん理想通りにとはいかないまでも、もがいた成果が必ず残るはずです。
もちろん、その「成果」もまた、より視野を広げては広い世界を見渡せば、何の成果にもなりえていないことを
また気づかされることは必然であると思いますが、しかし、そこでの新たな敗北にも、敗北の連続から立ち上がったという経験自体は、通用するかもしれません。

今までの自分がどんなに情けないままであろうとも、それは次の瞬間も情けないままであることを決して決めはしません。決定論は、自由に耐えようとしない精神の怠惰さ故に作られたものであることをベルクソンの『時間と自由(意識に直接与えられたものについての試論)」は述べているのだと僕は思っていますが、しかし、確かに、それは敗北に敗北を重ねている人間にとっては、耐え難い主張であると思います。たとえば20代にそれを読んだときに受けた感銘は、30代を終えようとしている今、改めて考え直すに、極めて重い十字架のようにも感じられます。敗北を積み重ねてくればくるほどに、この次の瞬間の「自由」に対して、もはや耐え難くなるのです。

そこに自由さえなければ。汚れて失敗した自分が、そのようであり続けるのは、過去の自分のせいであり、現在の自分のせいではない、と言い張ることができます。しかし、現実は残酷です。汚れて失敗した自分が今この瞬間にもなお、そのようであり続けるのは、現在の自分がそれを選びとっているからであるのです。過去は(少なくともこの瞬間の行為の選択には)関係がありません。恐ろしいほどまでに、我々は過去から自由であるのです。

受験生が、日々頑張れなくなるのは、まさにそのような自由を日々突きつけられるからであると思っています。
彼らを励ますことができるのは、同じようにあるいはそれ以上に敗北にまみれ、ダメな自分を突きつけられてもそれによって自分が頑張らない理由を探すのではなく、今この瞬間に頑張ろうともがき苦しむ人間だけであると思います。
僕自身がそうであるかどうかは、自信のないところではありますが、しかし、そうでありたいとは
思い続け、もがき苦しんでいることは確かです。そのように苦しむ受験生に、少しでも力になれるように、残りわずかですがしっかり教えていきたいと思います。

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