嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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将棋の王座戦第五局について

違うのです。本当は、左派リフレ派が何で存在しにくいのか、という話を、昨日の朝日新聞に載っていたポール・クルーグマンのコラムを手がかりに「正義感」というキーワードで書いてみようと思っていたのですが、その前に、一昨日の将棋の王座戦第五局の棋譜を見ていて、あまりに感動してしまったので、このエントリーを書いています。(僕は将棋は本当にそんなに強くないので、あくまで勝手な解釈です。あと、その左派リフレ派を阻むものについてはまた近々書きます。)

まずはこの局の棋譜をどうぞ。このリンク先から読めます。

この王座戦第五局は羽生王座と豊島さんの共に二勝二敗で迎えたのですが、その最終盤、タイトルを守る立場である羽生さんの135手目、「8二同龍」が本当にすごい手でした。その後紆余曲折があって、結果最後は羽生さんが勝利して防衛したわけですが、この前の豊島さんの8二銀が、「12時間近く戦い抜いた末に少し劣勢になりつつも、まだ粘るぞ!」という覚悟を決めた手であり、その執念に感動しただけに、それに対しての次の8二龍は何というか、「羽生さんという第一人者が、しかしまだこの先へと踏み込むのか…。」というさらなる感動を覚えました。もちろん、この手に関して周りのプロの方々にもその8二龍という手で最後まで寄せきれると見えていなかったのに、羽生さんは見えていて指した、ということも恐るべき事です。しかし、僕がもっと恐ろしいと思うのは、羽生さん自身がその8二龍以降を寄せきれるかどうか完全には見えていなかったのに、そちらに踏み込んだ、ということです。実際にこのあとの9一銀打は局後に「敗着になっていたかもしれない間違い」とご自身で認めておられます。もちろん、そこからその9一銀を補うかのような絶妙な打ち回しで勝利をつかむわけですが、タイトルのかかった最終局で、12時間コツコツ少しでも優位を築こうとねじりあう展開の中で、しかもその長いねじりあいの中で自分が優勢を築きつつある中で、さらに険しい道へと踏み込む、しかも局面が難解すぎて最後の寄せまで完璧に見えているわけではないのに踏み込む、というこの姿勢は、たとえこの踏み込みが正しかろうと間違っていようと、大きなショックを相手の豊島さんに与えたことは事実であると思います。

僕なんか将棋に関して本当にど素人もいいところなわけですが、このように天才中の天才(そもそもプロ棋士であるだけで、東大理三生など及びもつかない天才です。一年間にたった4人しかプロになれないわけですから。その中でも羽生さんは歴史に残る大天才です)である羽生さんが、しかしあの緊迫した状況でさらなる未開の道に踏み込むという姿勢に本当に心打たれました。心から感動し、何というか、元気が湧いてきました。

私たちが厳しい現実を目の前にして、勝手に諦めてしまう前に、まだまだ様々な可能性があるはずであるのです。「この先には道がない」とおもっているところに、道があるかもしれません。そこを最後まで諦めずに懸命に模索し続けなければならないという事実を、この羽生さんの指し手から改めて教えられたように思っています。本当にありがとうございました。
まだまだ頑張っていきたいと思います。

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ブログを書く意味について。

最近、「ブログをもっと頻繁に書こう!」と決意しては、二日に一度は書いています。(どくんごの感想のように何回も下書きをしたものを除いては)どれもたいてい30分から1時間くらいで書いているので、だいぶ論理展開に粗があって、どこかで直したいとは思っているのですが、まあ、それはまた機会を得たときでよいでしょう。ともあれ、僕が日々感じていること、考えていることの一端を、少しでもこのブログに残していけたらと思っています。

それは何も僕の余命が短いなどという理由ではなく、そもそも塾のホームページをもっていない嚮心塾にとっては、このブログこそが生命線であるからです。生命線というのは、営業のためということではなく、むしろ逆です。嚮心塾は合格実績だけをとれば、そこそこ結果を残している方の塾だと思います。もちろん、「奇跡的な」とか「全員合格」ということは、なし得ていないわけで、そこは毎年本当に悔しいし、少しでもより良くしたいところではあるわけですが、それでも周りから見れば、少しは「異常な」ぐらいの良さになると思います。しかし、そこは嚮心塾の本質ではありません。

言い方を変えれば、単純に合格実績だけを上げるのであれば、もっとやれることは山ほどあります。それはすなわち、塾に通っている子の中で、努力をしていてかつそもそも勉強がそこそこ進んでいる子に僕の指導を全力で注ぎ、勉強がそもそも嫌い、あるいはやる気があっても現段階で既に大分遅れている子に対しては適当にやれば、合格実績はもっと飛躍的に上がるでしょう。そして、これは実際にほとんどの学習塾や予備校でやっていることです。

しかし、嚮心塾では一切、そのようなことをしていません。端的にいえば、状況によっては、必死に頑張っていて東大や医学部にあと少しで合格する子の質問に答えることを後回しにしては、塾に来ても勉強する気がなくすぐ居眠りしてしまう子を起こす時間や、「それだとこういうふうに困るよ。」と何回も説明する時間をとっている、ということです。
もちろん、僕だって頑張っている子の力にこそなりたいですし、特にここからの受験直前の時期は、そのようなことで時間や手間が取られ、一生懸命勉強している子の質問や相談に乗れる時間が削られてしまうことを本当に悔しく思います。しかし、僕がそのようになかなか勉強に対してやる気になれない子達を見捨てることは、実はやる気になれない子達にとってだけではなく、そこで必死に受験勉強をしている子達にとっても良くない影響を与えてしまう、と思っています。

それはどういうことかといえば、受験勉強を頑張るのは、他の誰かの為ではなく根本的には自分の為です。将来の自分の利益の為に、現在の犠牲を払っているだけです。なぜなら、ここはそのような努力が非常に「お得な」社会であり、18や19くらいのどこの大学に入ったか、ということが一生付いて回る再チャレンジしにくい社会であるからです。そのような構造に気づき、あるいは親に叩き込まれてそのように努力をする子達は、利にさとい、百歩譲って、「賢い」子達であっても、その努力は所詮自分の為であり、それ自体は何らほめるべきことではありません。ただ、大人というのはどうしてもその勉強の必要性を子供に説き疲れているので、自分から勉強をする子を「偉い」とついつい褒めてしまいます。そこで、その子達にとっては大きな勘違いが生まれてくる訳です。努力している自分たちが、努力をしない人々に足を引っ張られるのは、おかしい。などなどですね。よく、エリートっぽい人たちが言いそうなことです。しかし、自分が利益を得る為に努力しているのは、別に自分の為であって、そこに何らかの言挙げすべき道徳感などないでしょう。そこを子供達に勘違いさせてはなりません。

さらには、そのような「なぜ目の前の目標に対して頑張らないのかわからない」と努力をする子達が馬鹿にするその対象の子達のような状態に、馬鹿にしている側の子達もまた、容易に陥る可能性があるのです。人間は誰しも弱いし、ちょっと足を踏み外せば、とたんに逆の立場に転落することもあるでしょう。その自分の中にもある弱い自分を認めることができるかどうかが、人間性への一人一人の理解を深める為には必要なことです。それがなければ、極めて薄っぺらな人間観しかもちえず、同類の人間としかつきあえないでしょう。

だからこそ、嚮心塾は、どちらの子をも大切にしたいと思っています。徹底的に鍛えるアスリートのような受験生も、リハビリのように少しずつ頭を動かす生徒にも、そのどちらの努力も尊いことを伝えたいと思っています。それがこの社会を分断させない、ということです。そのためにも、合格実績だけを追い求めて最適化する、という方向を今までもとっていませんし、これからも決してとらないでしょう。その結果塾がつぶれるのなら、それはそれで仕方のないことです。

という塾なのだ、ということを理解して納得した上で入っていただきたいと思っているのですが、あまりブログを書かないでいると、この「ちょっと変わった塾」ということがあまり伝わらないままになってしまうと思って、ブログの更新頻度を上げようと思った次第です。

まあ、それだけ覚悟してやっていても、勉強が嫌いな子ほど、こちらのどのような働きかけにもなかなか応えてもらえず、親御さんがしびれを切らして辞めていく、ということが多いのです。正直、塾業界でそのように学習に困っている子を本気でなんとかしようとしている塾など、ごくわずかしか存在しないのでは、と思います(そこをメインターゲットにしている塾だけですよね。しかし、それはそれで逆にコストがかかる塾が多いと思います。なぜなら、勉強が苦手な子を教えるというのは、非常に手間のかかるものであるからです。嚮心塾のような月額でそれをやろう、というのはかなり経営的にもアホなことであるのだと思います。まあ、絶対やめませんが。)。

このブログは僕の中高の頃の同級生もたまに読んでくれている人もいるみたいですが、僕はぶっちゃけあの開成という学校があまり好きではありませんでした。深く考えて生きてもいないのに、勉強やスポーツ、運動会や文化祭、という見えやすい目標で他人を評価する感じと言いますか、その評価基準の薄っぺらさに辟易していたところがあります。もちろん、その薄っぺらさを自分では真っ向からは否定できず、その薄っぺらさに苦しんでは「劣等生」扱いされていくようなごく一部の同級生ほどの勇気もなく、結局勉強やスポーツを努力して結果を出してしまう自分の信念のなさも含めて、とても苦い思い出です。もちろん、自分の為に努力できない人間に他人の為の努力ができるかといえば、それは難しいでしょう。しかし、自分の為の努力は、人間として賞賛すべき努力の必要条件ではあっても決して十分条件ではありません。しかし、そんな当たり前のことすら、なかなかにわかっていない子供達が、ということは即ち、大人達も多いように思います。去年の受験生で、本当に誰よりも努力していた子が、「自分の為に努力するのは当たり前」ということを自身の努力を褒められた際に(謙遜ではなく、むしろそんなことを何故褒められるのか困惑した様子で)言ってくれていました。そのように感じられる子達の力にこそ、どこまでも、いつまでもなるための塾でなければならないと思っています。その子は塾の力が足りず、残念ながら第一志望に合格することはできなかったのですが、しかし、その気持ちと姿勢を忘れないでいる以上は、ここからの努力で必ず一流になれると思っています。

話が飛びすぎましたね。
ともあれ、ここからの受験本番で、このペースを守れるかはわかりませんが、多少ペースは落ちても、何とか書き続けていきたいと思います。

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劇団どくんご2014『OUF!』東京公演の感想

劇団どくんごの東京公演、見てきました!また内容について説明するのが難しい劇ですが、しかし、その魅力に僕の言葉が耐え得ないのを覚悟の上で、感想を書きたいと思います。あのような熱量の高い、素晴らしい劇を見て、何もしゃべらないのは、言葉を持つものの怠慢であると思うからです。

「ここは双子星のうちの一つ」と登場人物が語る場面がありました。つながりが失われていることを知る前は、自分たちが失ってしまったとは思いません。つながっていたはずなのに、それを失うからこそ、悲しみが生まれてくる訳で、そもそもつながっていないときには失っていることに気づきません。最後の「田中君」のエピソードもそれと通底していると思います。このエピソードから、全体を読み解いていきたいと思います。

今回の劇は脚本がある劇、ということでしたが、去年の『君の名は』が「つながっていないようで、つながっている」作品だとしたら、今年の『OUF!』は、「つながっているようで、つながっていない」作品であると感じました。宇宙、SFという設定は共通しているものの、つながっていないのです。

山下陽光さんの「全力で30点をとりにいく」劇団だ、という評価が正しいと思います。何故、全力で30点をとりにいくのか。それは、何が100点かわからないからです。相手が求める100点が、本当に100点かどうかは、その相手が国家であろうと、あるいは人類社会全体であろうと、それらにとって100点である、ということが本当に正しいことであるかはわかりません。その「30点」に全力でこだわることの方が、実は人間社会への大きな貢献につながっているかもしれません。

それはすなわち、伝わらないものを何とか伝えようという行為であるのです。偏執狂じみた、あるいはどこかずれた一人一人の登場人物は、みな、必死に何かを伝えようとします。それは私たちにとって、伝わらないのに必死にそれに取り組む彼らを見て、その滑稽さ、ベルクソンの『笑い』のような機械運動が生の現実を外れて、自動運動に入るとき、(その存在意義を見失うという意味で)我々は滑稽さをそこに感じるのだ、という、あれです。しかし、どくんごの一つ一つの場面は、滑稽さだけを湛えているのではありません。彼らが必死に伝えようとしている姿勢に私たちは心を打たれます。なぜなら、それはある特定のディスコミュニケーションを描いているのではなく、伝わらないけれども、懸命に伝えようとする、というその姿勢こそが、コミュニケーションの本質を体現しているからであるのだ、と思います。

私たち自身が親しい友人や家族、それどころか大志を共有できるような同志のような存在の友人と腹を割って会話をしているときにでもなお残る、互いに理解できない部分に対して、どうしても私たちは足を踏み入れることを恐れがちです。そこに踏み込んでしまえば、結局お互いにけんか別れするしかなくなるのではないか、けんか別れをしてまた新たな友人とここまでの関係が果たして持てるだろうか、という逡巡のもとに、結局私たちは本当に一番親しい友人の、しかし、ここから先は自分には理解できないという一線を超えて踏み込むことを諦めていることが多いのではないでしょうか。相手に対して、遠慮しては踏み込めないだけでなく、少なくとも自分にはそういった理解され得ない部分が存在するという事実をこちらから親しい相手に話すことすら、なかなかできていないのではないでしょうか。

もちろん、このおかげでうまく行っていることも山ほどあります。小異を捨てて、大同につくのは政治や社会活動の基本であるでしょうし、あまりにも異なる一人一人の違いに拘泥すれば、それこそセクト主義になってしまって、ごくわずかな差異を巡っての、絶え間ない相互攻撃しか生み出さないかもしれません。その意味で、我々は皆、異端としての心を持ちながらも、しかしそれをどこかカミングアウトできずに生きている、と言えるでしょう。セクト主義への恐怖故に、自らが独自の意見を持つことを恐れ、そしてそれを隠している。このような姿勢には相手の異端としての部分を理解できないという恐怖以上に、自分の異端としての部分を理解され得ないことへの恐怖が大きな原因となっているのだと思います。

もちろん、そのような動機に支配されない人々もいます。それは、「狂人」です。彼ら、彼女らは決して
相手におもねることなく、自分の言いたいことを言い続けているでしょう。もちろん、この「狂人」というのは
世間的に見て、ということであり、人々に理解しがたい(がしかし、優れている)内容を語る、という意味ではイエスやその他の思想家、革命家達も「狂人」であるといえるでしょう。

ここまでを踏まえて、どくんごの劇に戻りましょう。
どくんごの劇において、各場面での一人一人は、懸命に彼らの思いを伝えようとします。その懸命さ、その彼らの確信は、社会的コミュニケーションに慣れきった私たちにとって、その彼らのコミュニケーションの稚拙さ、現実からの乖離は笑いの対象でしかありません。「この社会の中でうまくやっている私たち」に比べて、何と愚かなもの達か!という優越感さえ感じさせてくれます。その意味ではまさに「道化」を演じているように最初は感じてしまいます。しかし、様々な場面で、様々な登場人物達が彼らの思いを必死に伝えようとしているのを見ているうちに、自分の中の「社会的コミュニケーション」が実はコミュニケーション本来のもつエネルギーを失っていることを徐々に思い知らされてくるのです。
聞いてもらえないなら、話さない。聞いてもらっても、わかってもらえないのなら、話したくはない。そのように、私たち一人一人が「自分語り」を諦めて、生きていることを振り返るきっかけを、彼ら一人一人が与えてくれます。このどくんごのテントに集まる我々は、「狂人」を見に来ているようで、実はどちらが狂人かがわからなくなります。自分を見失い、コミュニケーションを諦めている私たちは確かに「100点」「90点」とこの社会の中でされているものをとっているのかもしれないが、しかし、それは「30点」を全力でとっている彼らに、胸を張れるような振る舞いであるのか。そのような問いが、つきつけられます。

去年に見たときも感じましたが、そういう意味で、どくんごの劇への反応は見事にまっぷたつに別れると僕は思っています。それは100点や90点とされるものを踏まえていないことに不満を感じる人間と、それに固執していた自分を笑い飛ばせる人間と、にです。人類の歴史が様々な文化や制度を生み出し、それが長い年月の間に蓄積され、一つの見るべき形になったとはいえ、それは唯一の正解ではありません。どくんごの劇は、その意味が組み立てられていった結果として社会の中でがんじがらめになって生きる私たちを、その意味が成立する前の太古の原初へと立ち返らせてくれ、意味を初めから、考えていくことを促してくれます。自分の思いが恥ずかしいものであれ、理解されないものであれ、それを伝えようとしていいのだ、と強く励まされます。
その、人類社会が積み重ねてきては、自分の中に堆積してきた様々な偏見が引きはがされていくことを快感と感じずに苦痛と感じる人にとっては、つらいかもしれません。

聞いてもらえない、あるいは聞いてもらえても理解されないからしゃべらないのではなく、聞いてもらえなくても、あるいは相手がどんなに一生懸命聞いてくれてもなお理解されないという悲劇の中に我々が生きているとしても、それでもなお私達は自分の中の「異端」を話していかねばならない、という責任感をどこかに持ち続けているのではないでしょうか。それは、「自分が相手に理解される」という心地よい心理的報酬のため、という動機を諦めた後に、相手を愛する、ということにつながります。まるで、人類が自らの言葉を理解できずに自らを迫害する、とわかっていて、それでも話したイエスのように。そして、そのような迫害は、決して昔々の愚かな人類だけが犯してしまった過ちでは決してありません。現在もなお、同じように理解の範疇を超えているが故の迫害は続いていると言えるでしょう。

ここまで話を広げなくても、どくんごの劇は、様々なレベルで「伝わらないから、諦めてきた。」という私たちの悲しい諦めを揺り動かし、勇気を与えてくれます。それは、まるで、生まれたばかりの赤ん坊がまだ言葉を覚える前に、声を出したり、泣いたり、じたばたしたり、懸命に何かを伝えようとする、あの姿に似ているのだと思います。私たちは、言葉を覚え、うまく嘘までつけるようにもなりました。しかし、伝わるかどうかわからないとしても、伝えようとするあの赤子の一生懸命さを、それらの手管を覚えれば覚えるほどに、自分を傷つけない為にもたないようにしてきてしまったと言えるでしょう。彼ら彼女ら赤子が、伝えられるかどうかを少しも不安に思わず、伝えたいという思いだけから様々な働きかけをする、あの姿勢に、私たちは勇気づけられます。どくんごの劇は、意味と無意味の間を自在に飛び越えながら、自分の外の社会の不自由を内在化しては、伝わらない言葉はしゃべらないようにしよう、と悲しい決意をもつ私たちに、それが唯一の可能性ではないのだ、ということを優しく教えてくれるようです。

私たちは、こんなにまで社会の規範を内面化し、自分が言いたいことも言えないままにぐっと我慢しては物わかりの良い人として生きていかなくたってよいのではないか。相手を思いやることも愛だとしても、自分の中に確かに感じるこの感情、この思想、この衝動、その他諸々を表現しようとすることもまた、愛なのではないだろうか。

切り離された双子星の一つとして、外界から切り離されたこの地球という牢獄の中で、私たちは失ったものにしか
気づくことなく、鈍感ながらも生きている訳です。しかし、それでもなお、失ったものには気づくことができる。
それに気づきさえすれば、ほんの少し勇気を出して、伝わらないかもしれない言葉をぽつり、ぽつり、と話していくことができるかもしれません。

と、ここまで書き連ねてきても、うまく説明できている気がしません。まあ、でも、よいのです。
どくんごの劇を見て、誰でも何かを語りたくなる、ということ自体が、どくんごの皆さんがやっていることの
本当の凄さであるわけですから。今年も素晴らしい劇を、本当にありがとうございました。

(ようやく書き上げて初めて、来年のどくんごの旅がおやすみになるということを知り、ショックを受けていると共に「やはりそうか。」という気持ちがあります。本当に素晴らしいものは、どくんごに限らず、長く続けるのが本当に難しいものです。あのような厳しい旅を毎年続ける、ということのものすごさと共に、その困難さは外から想像できる以上のものであるのだと思います。再来年の旅を心から楽しみに待つとともに、その劇団の皆さんの凄まじい努力に恥ずかしくない何かをまた再来年持ち寄れるように、頑張りたいと思います。)

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がん放置療法は、何故流行するのか。

以前、TBSの『金スマ』という番組で近藤誠さんが出て、自身の持説である「がん放置療法」について語っていた、という話です。僕はその番組は見ていないのですが、その近藤誠さんの主張に対する反論は様々に読みました。たとえば、
腫瘍内科医の勝俣範之さんのtwitter、あるいは(この番組に直接ではないものの、以前に近藤誠さんに反論した)NATROMさんのもの、さらには金スマのこの回に関してのdirectな反応としては、このブログなどが有名でしょう。

こうしたお医者さん達の反論(「そもそも大多数のがんは早期発見により治せるがんであり、近藤医師の『本物のがんは見つかっても治せないし、がんもどきは放っておいても大丈夫だから、がんを治療しても仕方がない』という二分法はおかしい」)は僕も正しいと思います。ただ、それをいくら声高に主張しても、こうした近藤さんの主張を信じたい人々にはあまり効果がないのだとも思います。このような近藤さんの主張は、それを必要とする人々のニーズに支えられているからです。それがお医者さんの間ではいまいち、よくわかっていないからこそ、こうしたデマが広がる隙を与えているのだと思います。

そもそも、人間は厳しく残酷な現実に目を向けたがるものではありません。できればそのような現実に自分が直面していることからは目を背け、だましだまし生きていきたいものです。しかし、ある日自分ががんである、とわかったら、そのような残酷な現実に急に直面させられるわけです。自分ががんである、という事実以上に厳しいのは、その時点から手術、化学療法などその厳しい現実と、そこから先何年も絶えず向き合うための努力を要求されるということです。合理的に判断できる人であれば、(もし長生きしたいとその人が思っているならば)それらの努力をすることでまだ長く生きられるのであれば、そのような治療に取り組む道を選ぶはずです。しかし、そのように合理的な判断をするよりは、何となくその厳しい現実に向き合いたいたくない、というぐらいの逃げの姿勢で「そのことについては考えないようにしたい」と思っている人は(医師のような知的エリートには想像つかないくらい)多くいるのです。そして、その人達にとっては近藤さんの話す「放置療法」は天啓のように聞こえるはずです。

ですから、本来は近藤さんのこのような主張に説得力を無くしていくためには、もちろんその主張の誤りを指摘していくことは大切だとしても、それだけでは大して影響がありません。それは理性的にどちらの主張が正しいかを判断できる人々にしか響かないからです。そして、それはごく少数でしょう。

それよりも、がん患者の治療に於いて、もっと手術にいたるまでの、そしてそれに加えて手術後のメンタルケアを充実させる、というところこそがより根本的な解決になるのではないかと思います。そして、そこに関しては僕が寡聞にして知らないだけかも知れませんが、まだまだ不十分であり、「手術とそれによって生まれるメリットを理性的に判断すれば、患者はみな手術を喜んで受けるはずだ!」という人間の理性を過信した取り組みしか為されていないように思います。近藤さんの主張が広まる、本当の原因はここにあるのだと思います。そもそも外科手術自体が(医療行為として)市民権を得たのがせいぜいこの300年くらいの話でしょう。がんの手術で100年ちょっとです。その技術の発達に多くの人々の意識が追いついていないことなど、当たり前である以上、人々の意識の低さに対してどのようなアプローチをとるかを医療に携わる人々が考えていかねばならないのだと思います。

というのを、教育に引きつけて書きますと、「このままじゃ受験、絶対落ちるよ!」「このままじゃ定期テスト絶対悪いよ!」ということを毎日口を酸っぱくして言っていたとしても、それがどのような現実へとつながっていくかを感じ取り、現在の見たくない現実を直視して一歩一歩努力できる子など、そもそも元々賢い子がちょっとさぼってました、というだけであり、全体の中ではごくレアケースです。たいていの子達は、自分の5年後、10年後など想像しないで生きていますし、毎日が楽しい、楽しくない以外にあまり関心がありません。その結果として自分が将来困ることを口を酸っぱくして周りの大人が説こうが、そもそもそれをイメージすることも、ましてやイメージした上で苦痛を伴う現在の努力を始める、ということなどはできません。だからこそ、それがどのように困るのかを丹念に本人にわかるまで何度でも具体的に説明していくことが大切です。

さらには、です。こちらが様々な子を教えていくプロセスとして、近藤さんのように「放置」しているかのように接することも、実はその子によってはあります。なぜなら、最初からその子の問題の部分に全て切り入り、「こうした全てを改善しないと後で大変だよ!」と言って、そこで始められる子、というのも既に一定の(現実を直視するだけの)心の準備のできている子であるのです。それをやったとたんに、「努力したってそんなに大変な状況だから、努力したって損するだけだ。」となる子の方が圧倒的に多いでしょう。また、今の楽しさを将来の苦しみとそもそも比較できない子も居ます。あるいは周りの大人にとても危機的な状況を耳にタコができるほど叱責され、それでそもそも大人の言うことは聞かなくなっている子もまたいます。
そうした子達には、一見「放置」しているかの外観をとりながら、その子との信頼関係を深めていき、その中で残り時間をにらみながら、だんだんと勉強のハードルを上げていく、という粘り強い努力が必要です。基本的に勉強をさぼってきた子達にとって、塾の教師というのは(親の言いなりで自分の嫌いな勉強をさせようとする)敵です。そのように敵意をむき出しにしてくる子達には、「こちらは敵意がないよ。」ということを示すところから入らざるを得ません。しかし、いつまでも楽しくおしゃべりをしながら勉強をしているだけでは、その子が受験に間に合わなくなりますし、結局はそれで将来その子自身が困ります。そういう意味でもその子の残り時間をにらみながら、しかし、徐々にステップアップしてはその子にとって見たくない現実を見ては、それに向かって努力するという姿勢を鍛えていくことが大切であると思います。

そういう意味では、「放置」もそのままに終わらずに治療の入り口とするのであれば、それはまた一つの高度な戦略であるのだと思います。そこにやってくる人々は、「手術や抗ガン剤による治療」というきついが正解である選択肢を選ぶ(少なくとも病気に関しては)理性的な患者ではないからです。近藤さんがこれだけ「放置療法」を大々的にアピールしながら、そこで自分の外来に来る患者さんにそのように接しては徐々に「やはり手術を受けた方が良いね。」という態度をとっていたら、稀代の名医だと思うのですが、現実はそうではなさそうです。ただ、それを近藤さん批判で終わらせずに、先に述べたように、そういった人々に対して医療従事者がどう取り組むかということが、教育者と同様に現在も問われ続けているのだと思います。もちろん、偉そうに書きましたが、ここでいう「そういった人々」というのは、僕自身も含まれています。自分のよく知らない分野、あまり興味がない分野について、自分が放っておいてひどい状態になっているとして、それをしっかり考えましょう、というのは誰にとっても苦痛であると思います。近藤さんの主張に飛びつく患者のことを嘆く医師も、あるいは将来を考えずに学習を後回しにする生徒のことを嘆く教師も、別の分野に関して言えば、同じように理性的でない行動をしているものです。本来、人間は理性的に振る舞うことがきわめて苦手であり、そのような理性的な行動というのは一種の訓練によって初めて獲得することが出来るものであることをもっと一人一人が自覚していかねばならないのだと思います。だからこそ、自分が訓練を積んでいないところに関しては、非理性的な行動をどうしてもとってしまいがちである、ということをよく頭に入れて自分を疑うこと、あるいは自分がプロとして接する相手の人々に対しては、そのような非理性的な行動をとる可能性が十分にあるはずだと想定した上で、どのように接していくかを考えていくことが大切であると思います。

塾の卒業生で医師になる道に進んでいる子も多いですが、彼ら、彼女らにもこの問題に真剣に悩むような医師になってほしいと思っています。

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人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その2

前回の続きです。

アイドルが確かにこの社会で役立っていること、そのために彼女たちは必死の努力をしていることなどを教えられた、という話を前回は書きました。しかし、それはアイドルに限ったことではありません。たとえば芸人のマキタスポーツさんはビジュアル系バンドが何故売れるか、という問いに対して、ビジュアル系バンドの圧倒的なまでの「ファンに対するおもてなしの心」を指摘されていました。CDを買う、というのは、これだけ音楽配信が手軽になった現在に於いては、(自分が聴く音楽の)新たなジャンルの開拓のため、というよりは応援したい対象に対する忠誠心の証としての意味の方が強くなっているのでしょう。そこでは「音楽」が重要なのではなく、真摯にファンサービスをしてくれるヴィジュアル系バンドやアイドルといった彼ら彼女らに対する恩返し、あるいは応援する気持ちを形に表したものとして、CDを購入する、という行為だけが形骸化して残っていると言えるでしょう。それに対して、売上を伸ばすために音楽とは別の付加価値をつけることに異論はもちろんあるでしょうが、そういったファンの間ではむしろ彼ら彼女らの帰依するアイドルやアーティストが演奏し歌っている音楽は二の次の価値しかないのだと思います。

そのような購買行動は昔からあったのでしょう。近所の商店街で買うのは、何もそのお店が近隣のどこよりも品質が高いからではありません。家の近くで入手できるという、という利便性以外にも、よく自宅の前までまとめて掃き掃除をしてくれている、とか、忙しいときにちょっと自分の子どもを見てもらってた、とか、そういった人間関係に対してお金を払っている部分があるでしょう。そのような小さなcommunityが地縁社会の中で成立していたときには、そのような購買行動はむしろ自然だったのだと思います。都市化が進む中で、そのようなcommunityが減ってくれば来るほどに、逆にアイドルやヴィジュアル系バンドのように、広い地域でのそういった擬似communityが必要となってきたと言えるのではないでしょうか。それ自体は(もちろんあまりにも加熱しすぎて犯罪その他につながるのでなければ)批判すべき事ではなく、社会の変化に対してそういった文化の仕掛け人がニーズを感じ取り、対応してきている結果であるのだと思います。また、実際に一人一人の内面に於いて、社会的包摂の一つのチャンネルになっていることは前回書いたとおりです。

ただ、考えなくてはならないのは、このような擬似communityによる「社会的包摂」がその擬似communityの土台となっている社会とどのように接点をもちうるか、であるのだと思います。端的に言えば、地縁社会におけるcommunityは常に国家との関係性を意識させるものであったと思います。communityが国家に対抗しうる根拠となる、などと楽観的なことを言うつもりではありません。むしろcommunityは国家のミニチュアとしての同調圧力、まさに手先としての役割を担うことの方が多かったでしょう。いわゆる「非国民」という言葉がこのことの一つの具体例です。「非国民」は、国家に逆らうから糾弾されるのではなく、近所の迷惑になるから糾弾されていたのだと思います。「そのcommunityの安寧を保つ」ことが、国家規模での勤労・兵役への動員と思想統制の具現化のチャンネルになっていたといえるでしょう。だからこそ、そのような地縁社会におけるcommunityは、ある意味で国家に対する態度決定を要求するものであり、それ故に批判を持つ人も少数ながら存在し得たのだと思います。その意味で、わかりやすい暴力性があったと言えるでしょう(端的に言えば、生まれ落ちた瞬間に、あるcommunityの中に存在する、ということが、それに対して従順であれ、反抗するのであれ、問題意識を涵養する、ということですね。)。
 しかし、擬似コミュニティによる「社会的包摂」は戦う相手を明示しません。そのコミュニティの中での同調圧力に倦み疲れれば、そこから抜けるなり、別の擬似コミュニティを探せばよいだけです。そこでの「同調圧力」という暴力性は、国家という権力の暴力性の代理人ではないがゆえに、国家の暴力性に対する問題意識を育てにくいままに終わるのだと思います。しかし、それは国家という権力が弱くなる、あるいはなくなることとは違います。そうした擬似コミュニティが成立するためには、政府による許認可事業であるテレビ局の影響力がきわめて大きいこともさることながら、そもそもそうした流動的な擬似コミュニティの存続にとって唯一のありうる危険性は、それが政府によって何らかの理由で規制されることであるからです。

これに、さらにはそもそも固定した地縁社会が弱くなり、国籍以外に抜け出ることのできないcommunityというものがなくなっていることこそが、最後の拠り所として「愛国心」を要求し、ことさらに言われるようになっている現状を作り出していることとあいまっての現状は、なかなか問題があると思っています。

もちろん、社会的包摂のチャンネルの多様化自体は好ましいことです。また、地縁社会の影響力の低下も、避けられないことでしょう。しかし、現在進んでいるこれはこれで、また意味を考え、なすべきことを考えていかねばなりません。前回、黒子のバスケ脅迫事件の渡邊博史さんの話を書きましたが、「彼がアイドルを好きになっていればよかったのに。」という話で終わらせてしまってはいけないのだと思います。いやいや、アイドルもビジュアル系バンドも必死になって頑張っていると思います。本当に、素晴らしい努力です。

しかし、その上で思うのは、
社会的包摂をアイドルやビジュアル系バンドだけに任せるなよ、という思いです。それは、彼ら、彼女らの仕事だけでなく
私たちの抱える課題なのではないか、とも思うわけです。所属するcommunityを自由に選べるかのように思えるこの時代だからこそ、異なるcommunity同士をつなぎ合わせていくための工夫がより必要になると思っています。

嚮心塾もそういう一つの場になれれば、と思ってやっていますが、まあなかなか難しいものです。
諦めることなく、頑張っていきたいと思います。

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