嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その1

先日、人生で初めてアイドルの握手会というものに行ってきました!といっても、それほど大規模なものではなく、CD発売記念にインストアイベントとしてやっているものでした。きっかけは、元塾生で今はアイドルをやっている子から、「明日握手会やるんだけど、来ない?」とお誘いの電話を受け、塾の子をあれこれ誘ったものの、みんな忙しかったため、一番暇な(!)僕が一人で行ってきました。

感想としては、非常に勉強になった、というのが正直なところです。ラーメンの話のところでも書きましたが、自分が「ここにはあまり探究すべきものがない」と浅薄にも判断しているところに、実は様々な深い話がある、ということを改めて思い知らさせられる、という経験をすることが出来ました。

アイドルの握手会というのは、もちろんアイドルですから、みんな美少女だらけです。しかし、本質はそこにはありません。そのような美少女達が僕のようなコミュ障でキモいデブなおっさんに対しても、目を見て親しげに笑顔で話しかけ、積極的に握手をしてくれます。そのことでもたらされる、自己肯定感といったら!異性に対して、あるいは同性に対してすら、自分の言いたいことをはっきり言えず、そのせいで様々に良いところをもちながらも、なかなか理解してもらえずに対人関係で苦い思いを抱いている人々にとっては、彼女たち美少女アイドルは天使です。
「彼女たちよりもかわいくも優しくもない、学校や職場の周りの異性達は、少し自分がうまくしゃべれないくらいで自分たちをバカにして、人の本質なんか少しも見る目がないけれども、それはでも奴らの見る目がないだけで、俺の良さはこの子達にはちゃんと伝わってる!」という自己肯定感は、人とのコミュニケーションが苦手なだけで憂き目を見ている人々にとって(そして、そのような人達の感じる抑圧感というのは、非常に強いと思います。この社会はコミュニケーション能力を不必要なまでに高く評価するからです。それこそ、少なくとも江戸時代の五人組くらいからそうなのでしょう。)、辛い毎日を生き延びるための心の支えになっているのだと思いました。もちろん、僕自身はそういう自分の欠点(コミュ障でキモいデブ)を乗り越えて余りあるくらいの根拠のない自己肯定感(神が人類に与えたもうたこの天才!すみません。)の塊であるので、あまり継続してアイドルの握手会を必要とはしませんが、アイドルは確かに社会を支えているのだな、ということを強く感じました。それとともに、そのために彼女たちが強いられる厳しい努力と犠牲を10代前半かそこらからずっとやり続けている、ということにも感銘を受けました。また、そのように努力を重ねても生き残れる子達はごくわずかである、という厳しい現実にも。その厳しい道を元塾生の子も選び、懸命に頑張っていることに、改めて応援を続けていこうと思いました。

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告である渡邊博史さんが最終意見陳述書で書いていたように、「自身がEXO(韓国のアイドルです)にはまるのがもう少し早ければ、こんな事件は起こさなかったかも知れない。」ということが、たくさんあるのかもしれません。家族や親戚によって支えを受ける、ということが望めないが故に、その外へと助けを求めるためには、それら以外のセーフティーネットがきわめて希薄な日本においては、少なくともコミュニケーション能力が必要とされます。仮に、経済的には必要に迫られて、それがかろうじてできたとしてもなお、精神的なサポートというのは望むべくもありません。そのような時に、たとえばアイドルにはまって、それを応援する、というのは一つの心の支え、生き甲斐になることもまたあるのだと思います。その意味ではアイドルの握手会というのも、もちろん商業ベースで行われてはいるわけですが、広い意味での「社会的包摂」のチャンネルになっていると言えるのでしょう。

それを「握手会のために煽られて踊らされて情けない」とバカにするのは既に自分の人生に於いて自己肯定感をそこそこ持てている人々の浅薄な見識でしかないし、仮にそこで自身で稼いだお金を生活をしていけないくらいまでにCD代に費やしてしまっている人に、生活を立て直してもらいたいと思っても、そのCDを買うという行為だけを辞めさせようとするのは片手落ちに過ぎないのだ、という結論に至り、自身の見方に猛省を強いられました。この機会を与えてくれた元塾生の子に、本当に感謝しています。

と書いたところで、大分長くなってしまったので、次回に続けたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

効率をあげるには。

書きたいことがたまっていて、連日の教育ネタですみません(何度も言いますが、一応学習塾のブログなのです)。

先日、塾でなかなか勉強に身が入らない子と話し合った際に、「自分は効率が悪い。効率さえよくなれば、もっと努力する気になれるのに。」という話になりました。このことについては、このブログでも何度も書いていますが、やはり、こういう認識の子が多いのだな、と思い、また同じ話をしました。それは次のようなものです。

そもそも、勉強に限らず、どんなものでも自分が練習している量や時間が少ない中で、どんどん効率の良い練習の仕方を考えては効率を上げていける、というのは天才でしかなく、それは、東大や医学部に合格できる、というレベルではなく、余裕で合格するレベルの子達なんだよ、と。当然努力というのは、始めた当初は方向違いの無駄がたくさんあるもので、しかし、それをやってみて、「なるほど、この方向の努力はあまり効果的でないな。」という反省の繰り返しの中で、段々とピントがあっていくものなんだよ、という話もしました。そして、そこに至るまでは、努力の質をいちいちとやかく気にするのではなく、まずは量をこなさなければならない、と。

ただ、この内容をきつく言ってわかるほどには、現段階でその子の認識の歩みが追いついていない、と思ったので、「まあ、とりあえず今月はテスト勉強頑張ろう!」程度の結論に落ち着かせました。

この話の内容自体は、まあ、このブログを読んでおられるマニアの方から見れば、あるいは自分で真剣に何らかの分野への努力をしている方であれば、当たり前の話です。学習院の田崎晴明先生も以前、ご自身の日記でドラクエとファイナルファンタジーの違い、という形で「決まったストーリーをなぞるファイナルファンタジーよりは、あちこち歩き回ってはだんだんと(進むべき方向への)見当がついていくドラクエの方が、研究に近い。」という話を書かれていましたが、基本的にそれは受験勉強のような(範囲が決まっていて見当をつけやすい)ものであっても、本来はそうあるべきです。というより、受験勉強ほど見当をつけやすいものですら、他人から教えられるばかりで自分で見当をつけていけないのであるとしたら、それ以上に複雑な実社会の中でどのようなことが効率がよいか、どのようなことが有益か、どのようなことが社会的に意義があるか、などについて見当をつけていくのはほぼ不可能であると思います。受験勉強というのは、その一つの練習場であると思いますし、その「自分自身で見当をつけて洗練させていく技術を鍛えていく」ための指導をしないのであれば、結局生徒達は、将来生きていくときに、また別の人からの教え込みを必要とする、というあまり力のない大人になってしまうと思います。

ただ、この「努力の初めには多少無駄になる時間がつきものだ。」というきわめて真理に近い事実への許容度が、生徒一人一人でまるで違います。そこに、教育者としての腕の見せ所、逆に言えば難しさが出てきます。子ども達が全体として「少しの努力で最大限の成果」を求めては、努力の量を先に上限を決めておく、という子が多くなってきているのは事実であると思いますが、それでも世代の差よりは一人一人の個人差の方がきわめて大きく、その「報われない努力」への許容度を見ては、その子にとってのbest policyをこちらが考えていかねばなりません。その許容度が低い子に正論を話したとしても、それが定着して力になる前に、努力を辞めてしまうでしょう。その場合には、その努力の量のハードルを少しずつ、上げていく必要があります。(その意味で、内田樹さんのように、「最小の努力で最大の利益を得ようというマインドがそもそもおかしい!教育する側がそれに毒されているから、子ども達もそうなる!」という主張は、僕もきわめて正しいとは思いますが、しかし、伝えようという努力を欠いた提言であると思います。それをなるほど、と思える人はそもそもそのような何かができない状態にあまり陥っていないのです。そして何かを自分が苦手意識をもち、それに触らないでいたいのに、周りからはそれができないことばかりを責められる、という状況下で「(その苦手なことをする)努力に見返りを求めるな!」というのは、きわめて伝わりにくいでしょう。それを理解できる子は、自分自身を根っこから反省することの出来る、ごく一部の既に準備が出来ていて、あとはきっかけだけを求めている子達です。)

さらには、努力に抵抗感がなければよい、というものでもないところがまた難しいところです。一般に努力に対して抵抗感が少ない子ほど、その努力が自分の力となって身についているかどうか、つまり「効率」を気にしない、という傾向があります。つまり、自分の人生を勉強に費やすということにさほど抵抗感を感じない子ほど、そこで頭を使って何とか身に付けようという努力には無頓着であることが多いです。これは、「勉強をする」こと(つまり、机に向かって頭を使わずにノートにペンで何か書くこと)自体を褒められて育ってきた子に多い傾向です。これはこれで、ある方向の努力(机に向かうこと)を懸命にしては、別の方向の努力(頭を使うこと)を避けてきているわけで、指導者としてはその子の勉強の姿勢にメスを入れていかねばなりません。

結論として、その子がどのような状態に入れば学習効果が一番高いかについて教育者が深く理解している、ということは教育というプロセスのスタートであって、決してゴールではない、ということが言えると思います。もちろん、そのスタートすら理解していないのかも、と思えるような先生方が多いのは残念なことではありますが、「この子にはこういうところが足りていないから、それをこういうふうに鍛えていかなければ!」ということが的確に見えていたとしても、実際にその子をそこまで
鍛え続けられるかどうかは、うまくいくこともあるとしても、うまくいかないことも多く、苦い思いをすることばかりです。もちろん、こちら側から諦めることなどはありませんが、本人、あるいは周りのご家族が諦める、ということになってしまうのであれば、(その諦めるという判断にこちらとしては様々な異論があろうとも)やはりそれは教育者の責任であるのです。

本当に、こんな難しい仕事をよくも選んでしまったな、と思い続ける毎日ですが、何とか一人一人の成長のために、
今日も悩み続けていきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

天才達に学ぶ。

塾を開いた頃のぼくの目標は、「あらゆることに精通し、どの分野に於いても生徒達の力になること」でした。また、それが可能であると思っていました。しかし、開塾から来年で十年を迎えようとしている今、ぼくのスタンスとしてはむしろ一人一人の生徒達の「天才」を見つけ、それに敬意を払いながら理解をしようと努力し、そしてサポートしていく、というように変わってきたと思います。

これは、一つには一人一人の子達の抱えているものがあまりにも、深く鍛えられていることに感銘を受け続けた結果であるとも思います。もちろん、受験勉強で必要な科目についてそのように深く学んで僕を凌駕する子、というのもたまにはいますが、それよりも、小説、パソコン、カメラ、ゲーム、アニメ、鉄道、音楽、ペン回し、その他いわゆる世間では「必要」とはとらえられていない、あるいは所詮趣味としてしかとらえられていないものに、深く没頭し、こちらが知らないような深みをそこに感じている子達に学んでは、僕も視野を広げさせてもらえてきた、というところがあります。

学問の世界ではいわゆる実業や実社会から必要とされるものだけでなく、「役に立たない」とされるものを研究することの意義などは少しは理解されやすいのかもしれませんが、一旦学問の世界を離れたときには、私たち大人というものはどうも「必要性」にとらわれては、「これはいらない。」「これは必要。」と軽薄に判断しがちです。しかし、子供達は、そのように実社会からの圧力にとらわれず、軽薄な実用的判断をしません。それゆえに、そこに豊かな世界が広がっていることを、私たち大人よりも柔軟に感じとることができ、かつそこに対して没頭が出来るのです。そして、そういった一つ一つの(大人から見たら「必要」のない)世界をバカにする大人達を、目の肥えた子供達はバカにしています。僕は大人の端くれながらも、その子供達から少しでも学んでいきたいと思っています。

もちろん、学習塾など、学校以上に受験勉強の「必要」を説き、子供達に勉強をやらせる機関であるわけで、そういう意味では大人の求める「軽薄な実用性」の走狗でしかありません。しかし、「遊んでないで、そろそろ頑張りなよ。」という呼びかけも、彼らが何故「遊んで」いるのかに対する理解や共感を抜きにして語りかければ、単なる暴力にしかならないでしょう。
それでは、嚮心塾がある意味などありません。とはいえ、あるがままの彼ら彼女らをそのままに肯定し続けるだけであるのなら、(塾がビジネスとして成り立たないという問題だけでなく)そういった個々の天才性を抱えながらもこの社会との適応に悩む彼らの力になり得ているともいえません。そういった個々の天才を見抜き、評価する力がこの社会の大多数になくても、彼らは生きていかねばならないし、彼らがその天才性を抱えたまま生きていく力をつけていく、ということ自体が彼らにとってもこの社会にとっても必要なことであるからです。

この矛盾した課題にどのように取り組むかを、一人一人について絶えず苦しみながらも、しかし、一つ一つの彼ら彼女らの深く掘り下げた分野に教えを請うことを今の僕は本当に有り難い契機であると思っています。

そもそも僕自身は何かに「ハマる」ということのない子供でした。「熱中」というところからもっとも遠い子供だったと言えるでしょう。何かにハマらないからこそ、自分は何も(そこそこはできても)超一流にはなれないのだ、という事実に気付き、悩んでいた時期もありますが、何にも熱中しないからこそ、熱中してきた人に対してできることもまた確かにあるのです。そのことを、今日も一人一人の天才達に語りかけては、力になっていこうと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。