
先日、とても賢い受験生(というのは、「勉強ができる」という意味ではありません。)に、「先生は何のために生きているのですか。」と半ば、詰問調で問われました。
そこでの僕の答は、それこそ塾を始めた9年前から、あるいは教える道に自分の人生を費やそうと決めた13年前から、あまり変わっていなかったかも知れません。いや、ところどころマイナーチェンジはあり、そもそも表現として洗練されていく、ということはあると思います。しかし、その答えが全く違ってしまっていては嘘だとも思いますし、かといってこの教え続ける日々の中で進化という形で変わっていなければ嘘であるとも思います。
しかし、日常の中で誰にもぶつけることの出来ないその問いを、この大人にはぶつけてみよう、と少なくとも思ってもらえている、ということを僕は本当に光栄に思いますし、また、彼のその信頼に対して、改めて身が引き締まる思いを抱きました。だからこそ、用意していた答を話すのではなく、その場で懸命に言葉を選んで話しました。
この世界が、とりかえしのつかない誤りを塗りつぶすために生み出される偽りだけからなりたっているのなら、そんな世界など滅びてしまった方がよいでしょう。しかし、一人一人の人間にとっては、自らの誤りを、自分の全存在をかけて見直し、反省することができる可能性をもまだまだ秘めています。自分が大切だと感じているものを、生きていくためには諦めなければならないかもしれないという可能性を突きつけられて、そこで懊悩する彼の姿を見る限り、どのように卑劣なものがはびこっているこの世界であろうと、「まだ、世界は美しい。」と、僕は不謹慎にも感じました。どこかの記事でも書きましたが、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルのテーゼを生物学から文化構造へと読み替えれば、人間は、自分たちの文明と歴史とを振り返る機会を、必ず個体としての学習の過程で通過することが出来るわけです。そこに、「大きな見落とし」から人類全体を引きはがす契機が生まれます。「教育」というきわめて効率の悪いやり方、クラウド上の「唯一の正解」としてのデータを一人一人の脳に同期できればそれで済むようなことを、延々と何千年とやっているのは、それが学ばれる過程で一人一人の内部との点検がなされるというメリットの方が大きいからだと思いますし、たとえ将来技術的にそのような「同期(syncronization)」が可能になったとしても、僕はそれは為されるべきではない、と思います。この一つの懊悩こそが、誤りに気付くきっかけとなるからです。
むろん、青年期の彼らを称えるだけでは何の意味もありません。彼ら彼女らが、どのように自分の理想を守り抜いていく力を身に付けられるか、「社会で通用する」だけではなく、「自分たちの大切なものを守りながら、社会で通用する」力をつけていけるかどうかは、純粋に僕の責任です。僕自身がその課題に若いときにさんざんに悩んでいたからこそ、それは彼らだけが抱える問題ではなく、あの日の僕への答えでもあるのです。
そのために足りない力は、粛々とつけていくしかありません。引き続き、頑張っていこうと思います。
そこでの僕の答は、それこそ塾を始めた9年前から、あるいは教える道に自分の人生を費やそうと決めた13年前から、あまり変わっていなかったかも知れません。いや、ところどころマイナーチェンジはあり、そもそも表現として洗練されていく、ということはあると思います。しかし、その答えが全く違ってしまっていては嘘だとも思いますし、かといってこの教え続ける日々の中で進化という形で変わっていなければ嘘であるとも思います。
しかし、日常の中で誰にもぶつけることの出来ないその問いを、この大人にはぶつけてみよう、と少なくとも思ってもらえている、ということを僕は本当に光栄に思いますし、また、彼のその信頼に対して、改めて身が引き締まる思いを抱きました。だからこそ、用意していた答を話すのではなく、その場で懸命に言葉を選んで話しました。
この世界が、とりかえしのつかない誤りを塗りつぶすために生み出される偽りだけからなりたっているのなら、そんな世界など滅びてしまった方がよいでしょう。しかし、一人一人の人間にとっては、自らの誤りを、自分の全存在をかけて見直し、反省することができる可能性をもまだまだ秘めています。自分が大切だと感じているものを、生きていくためには諦めなければならないかもしれないという可能性を突きつけられて、そこで懊悩する彼の姿を見る限り、どのように卑劣なものがはびこっているこの世界であろうと、「まだ、世界は美しい。」と、僕は不謹慎にも感じました。どこかの記事でも書きましたが、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルのテーゼを生物学から文化構造へと読み替えれば、人間は、自分たちの文明と歴史とを振り返る機会を、必ず個体としての学習の過程で通過することが出来るわけです。そこに、「大きな見落とし」から人類全体を引きはがす契機が生まれます。「教育」というきわめて効率の悪いやり方、クラウド上の「唯一の正解」としてのデータを一人一人の脳に同期できればそれで済むようなことを、延々と何千年とやっているのは、それが学ばれる過程で一人一人の内部との点検がなされるというメリットの方が大きいからだと思いますし、たとえ将来技術的にそのような「同期(syncronization)」が可能になったとしても、僕はそれは為されるべきではない、と思います。この一つの懊悩こそが、誤りに気付くきっかけとなるからです。
むろん、青年期の彼らを称えるだけでは何の意味もありません。彼ら彼女らが、どのように自分の理想を守り抜いていく力を身に付けられるか、「社会で通用する」だけではなく、「自分たちの大切なものを守りながら、社会で通用する」力をつけていけるかどうかは、純粋に僕の責任です。僕自身がその課題に若いときにさんざんに悩んでいたからこそ、それは彼らだけが抱える問題ではなく、あの日の僕への答えでもあるのです。
そのために足りない力は、粛々とつけていくしかありません。引き続き、頑張っていこうと思います。



