
「教育とは、裏切られ続けること。」ということをどこかで書いたと思います。
ただ、これはたやすいことではありません。何度裏切られても、そこで諦めずに、もう一度生徒を信じなければなりませんし、どのように思いやりをかけようと、努力を積もうと、それら全てを目先の衝動、目先の利益、目先の正義のためにたやすく裏切られるとき、人間の残酷さに絶望します。そのような事態に直面し、「もう二度とそのような思いやりももちたくないし、努力もしたくない!」と思うのは自然な人間の本能です。
しかし、そこで諦めては内にこもるのではなく、何度でも信頼し、思いやりをもっていくことこそが、大切であると思っています。どのようにひどく冷たく自分の利益しか考えていないように思える人も、かつてはそのように優しさをもって生きては、それを裏切られるという辛い経験からそのようにひどい振る舞いへと退行してしまっているからです。自分がそうなることは、この世界の暴力に加担することになるだけでしょう。
それとともに、「裏切る」という経験ほどに、悩み、苦しみ、考えさせることはありません。相手の善意を自分の都合で裏切る、ということはその選択が後から見て正解であれ失敗であれ、その人にとっては徹底的に考える契機になります。その考える契機は、その本人を厳しく鍛えます。もちろん、ここでも問題となるのはそもそもそれを「裏切り」と感じるまでの関係性を構築できていないことで、それこそが一番の失敗であると言えるでしょう。
なので、塾生・元塾生のみなさん。是非、僕のことをどんどん裏切ってください。僕はそんなことで心折れやしません。
その上で、その裏切りを自分の力に変えられるように、是非死にものぐるいで頑張ってください!(なかなかそれがうまくいかずに塾に戻ってきてしまい、戻ってきたときには「問題」がそのまま残ってしまっている、ということも多いのですが。そうなった場合は、それも何とかします!)
僕自身は、自分の失敗を誰かのせいにしたことは、人生で一度もありませんでした。他者と関わる際には、その他者との時間を失敗にしないために、自分が努力をすればよい、という姿勢でした。そのような僕が、そうではない
「他者」としての人類を愛そう、と決意してから教育に関わり続けたものの、結局、当初に想定していたよりもはるかにしんどい努力を強いられている僕の人生は、幸福です。次から次へと降りかかる不幸に、「幸福とは何か」を分かったつもりで定義せずにいられるからです。
その上で、選択自体に正しいか正しくないかなどはありません。それを正しいものに出来るかどうかはその後の自分の努力次第なのですから、お互いに頑張りましょう!しかし、困ったときはいつでも言ってもらえれば、力になりたいと思っています。それがたとえ、10年後20年後であろうとも、です。
ただ、これはたやすいことではありません。何度裏切られても、そこで諦めずに、もう一度生徒を信じなければなりませんし、どのように思いやりをかけようと、努力を積もうと、それら全てを目先の衝動、目先の利益、目先の正義のためにたやすく裏切られるとき、人間の残酷さに絶望します。そのような事態に直面し、「もう二度とそのような思いやりももちたくないし、努力もしたくない!」と思うのは自然な人間の本能です。
しかし、そこで諦めては内にこもるのではなく、何度でも信頼し、思いやりをもっていくことこそが、大切であると思っています。どのようにひどく冷たく自分の利益しか考えていないように思える人も、かつてはそのように優しさをもって生きては、それを裏切られるという辛い経験からそのようにひどい振る舞いへと退行してしまっているからです。自分がそうなることは、この世界の暴力に加担することになるだけでしょう。
それとともに、「裏切る」という経験ほどに、悩み、苦しみ、考えさせることはありません。相手の善意を自分の都合で裏切る、ということはその選択が後から見て正解であれ失敗であれ、その人にとっては徹底的に考える契機になります。その考える契機は、その本人を厳しく鍛えます。もちろん、ここでも問題となるのはそもそもそれを「裏切り」と感じるまでの関係性を構築できていないことで、それこそが一番の失敗であると言えるでしょう。
なので、塾生・元塾生のみなさん。是非、僕のことをどんどん裏切ってください。僕はそんなことで心折れやしません。
その上で、その裏切りを自分の力に変えられるように、是非死にものぐるいで頑張ってください!(なかなかそれがうまくいかずに塾に戻ってきてしまい、戻ってきたときには「問題」がそのまま残ってしまっている、ということも多いのですが。そうなった場合は、それも何とかします!)
僕自身は、自分の失敗を誰かのせいにしたことは、人生で一度もありませんでした。他者と関わる際には、その他者との時間を失敗にしないために、自分が努力をすればよい、という姿勢でした。そのような僕が、そうではない
「他者」としての人類を愛そう、と決意してから教育に関わり続けたものの、結局、当初に想定していたよりもはるかにしんどい努力を強いられている僕の人生は、幸福です。次から次へと降りかかる不幸に、「幸福とは何か」を分かったつもりで定義せずにいられるからです。
その上で、選択自体に正しいか正しくないかなどはありません。それを正しいものに出来るかどうかはその後の自分の努力次第なのですから、お互いに頑張りましょう!しかし、困ったときはいつでも言ってもらえれば、力になりたいと思っています。それがたとえ、10年後20年後であろうとも、です。



