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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

模試の意味について。オリンピックもまた捨てゴマにすぎないこと。

この直前期に書くのもどうかとは思うのですが、あまり模試のないこの時期だからこそ、言えるかと思って書きます。それは、中学受験、高校受験、大学受験において、模試の使い方が親御さんや学校の先生方にはよく理解されていないということです。正確に言えば、「模試によってそこまでの勉強の達成度がわかる。」「模試が良くないのにこのままで受かるはずがない。」という思考様式にほぼ正しいところはない、ということです。

なぜなら、模試を受ける時点で高得点をとれることを期待できるほどに仕上がっている受験生というのは、受験に合格する中でもごくわずかであるからです。また、同じ問題によって様々な層の受験生の実力を測るということ自体が、きわめて雑なはかり方であると言えるでしょう。簡単な問題を大量にこなすことが得意な子、難しい問題にじっくり取り組むことが得意な子など、さまざまなタイプが一つの模試で点数を競うことなど、根本的に無理があるでしょう。それぞれのタイプの子は、もちろん志望校の入試問題で合格点がとれるように努力する中で、自分の弱いところを埋めていく、ということが必要ですが、それをしていくからといって、模試で点数がとれるかどうかはわかりません。むしろ総花的に個性のない模試の問題に自らの力の傾向を合わせていくよりは、志望校の問題に合わせていく方が無駄がないでしょう。

毎年、受験生を教えていると「こんな模試の成績で大丈夫なんでしょうか…。」というご心配をいただくことが多いのですが、純粋に模試の成績は合否とは全く関係がありません。過去問を解いて、その出来具合を見ることが一番です。ましてや、受験学年でない生徒の模試など、当人もそれほど受験に対する準備が出来ているわけでもないのに、他の子と比べて心配になるのは、もったいないことだと思っています。

もちろん、このように書くと「できていないところを知るためには模試を受けた方がよい」という当たり前すぎる反論をいただくでしょう。そして、それはその通りです。冷静に出来ていないところを見つけ、それを穴を埋めるため、というだけであれば模試を受けた方がよいでしょう。しかし、大体の親御さんや先生方はそれができません。点数と偏差値と合格可能性だけを模試の成績表で見るのではないでしょうか。しかし、模試の中でそれらの情報というのは、一番無駄なところです。「合格可能性」の怪しさぐらいはさすがにお気づきの方も多いとは思いますが、点数や偏差値というのも基本的にはその時点で測るのは先に書いた理由から、あまり意味がありません。大切なのは、どのような間違いをしているかそれはどのように復習できて次からは間違えないようになっているか、ただそれだけです。あるいは、その模試の失敗から本人がどのような教訓を汲めているか、と言い換えても良いでしょう。

その意味では、模試の成績はむしろ直前まで悪ければ悪いほどよい、というのは言い過ぎでしょうか。もちろん、一度間違えた間違いを繰り返ししているようであれば、それはそれで問題なのですが(実はそれも一つの有益な情報でもあります。繰り返し間違えるその間違いを訂正することに労力をかけることが果たして有効な勉強方法であるかはきわめてあやしいからです。たとえば「ケアレスミス」を防ぐということについていえば、「ケアレスミス」で多くを失点している子に「とにかくそれを防げ」ということだけ繰り返して言うのは、本人にとって大きなストレスになり、受験勉強が嫌になってしまうでしょう。あるいは、受験生が「どうせ自分はミスが多いから受からない」と諦めることになってしまうかもしれません。しかし、ケアレスミスは緊張感と反比例して減ります。入試が近づき、「絶対に落ちたくない!」という本人の思いが強くなればなるほどに、それを減らすための指導がより効果的になります。)、模試で悪ければ悪いほど、本番の入試で本来出るはずの失敗を事前に明確にできている、ということです。そして、そのように本番の入試前に気付くことが出来ているのであれば対策がとれるという点で、その模試は失敗したことによって有益となっています。(もちろん、それを分析する人がいなくては無意味でしょうが)

これは、模試だけでなく本番の入試にもまた言えます。中学受験、高校受験はまだ短期決戦ですが、国公立だけでなく、私立も受験する大学受験では、かなり長い期間にわたってとびとびに入試を受けねばなりません。だからこそ、どこにピークを持って行くか、逆にどこの入試はそんなに重視せずに受けるだけにするか、ということを考えていかねばなりません。もちろん、高い受験料を払っていただいて、それを「試し受験」のように使うこと自体は親御さんに対して非常に気が引けるわけですが、この直前期の仕上げの時期に、本命校の前に出てくる失敗は、それだけの価値があるのです。逆にそれを「全部受かるつもりで!」などと焦点のぼやけた勉強をすれば、それこそ全部落ちる可能性もあります。その辺りの戦略、どこにピークを持ってくるか、逆にどこはある程度捨て駒としてでもそこから得る教訓を生かしていくか、というところで指導者の力量が問われるわけです。嚮心塾を卒業した生徒なら誰もが、僕のこの話を自分の受験に引きつけて思い当たる節があると思います。

今朝、北京オリンピックのサッカー日本代表の監督だった反町さんの話を今日新聞で読んでいて、このことを書きたくなりました。
北京オリンピックでは日本代表は一次リーグで敗退して、さんざん批判されたわけですが、その代表からは本田選手、香川選手、長友選手、岡崎選手、など日本のサッカー選手の歴史の中でも必ず名の残るような選手達が育ちました。サッカー選手にとっての頂点はオリンピックではなくワールドカップである以上、どんなにオリンピックに国民の注目が集まり、お金が絡んでこようとも、「そこで結果を出すことが全て」では全くないわけです。むしろ、近視眼的にオリンピックでの勝利だけを目指すのではなく、理解のない国民の批判やプレッシャーに耐えながらも、代表選手一人一人の将来をにらんで、かれらにとってのよい経験になるように指導していたとしたら(そして今日のインタビューではその考えが反町監督にはあったことが感じ取れました)、反町監督は「国賊」扱いされようと、名監督であるのです。指導者とは、そうあるべきですし、僕もそうありたいと思っています。オリンピックの時だけちやほやされようと、そこで選手達一人一人の将来を潰してしまうのであれば、意味がありません。現在、社会に流布している(しかし一時的な)評価によって物事の大小を考えるのではなく、長期的な成功とは何かという観点に従って物事の大小を考えられる人間が一流の人間であるのだと思います。その意味ではオリンピックさえ捨て駒にできる人間こそが、超一流なのではないでしょうか。(将棋で言うと、価値のある大駒や金銀を損してでも一手でも早く相手を詰ませた方が勝ちですが、我々凡人ほどに駒得にこだわっては、大局観を持てずに結局負けてしまいますよね。)

受験で言えば、もっと短い期間ではありますが、最後の第一志望の入試までにちやほやされようと、第一志望に受験生が受かることを犠牲にしてしまえば、意味がありません。逆に、受験期間中は様々に失敗を重ねようと、どんなに徹底的に叩かれようと、その様々な失敗を最後の第一志望の合格に繋げられるのであれば、それは耐えていかねばなりません。

あと一ヶ月、そのように一人一人の受験生の志望校の合格にこだわって、徹底的に考え抜いていきたいと思います。

もちろん、「大学受験での志望校の合格」という近視眼的な成功が、その子の人生全体をダメにするようなものであれば、それはまた問題です。何もかもに僕の意を尽くしては失敗を防いでいくことと、一人一人の自主性を育てることとの間のトレードオフ故に、第一志望の合格の可能性を100パーセントにすることを単に目指せばよい、とはいかないところに、教育のさらなる難しさがあります(鉄○会方式でたくさん合格しても、大学入学後伸びないですよね)。ともあれ、あと一ヶ月、全力を尽くしていきたいと思います。

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この恐ろしき社会の中で。

センター試験は終わり、これから国公立の出願を準備しながら、私大入試、中学受験、高校受験、そして国公立大学の入試と塾はまさに勝負の一ヶ月です。受験生ももちろん僕も様々なことに神経をすり減らす毎日です。

とはいえ、様々なことに困っているご家庭は山ほどある訳で、そういった相談や生徒の心のケアということも極めて大事であるため、なかなかに忙しい毎日です。勉強だけを教えられるのなら、どんなに楽なことでしょう。とは毎年思うのですが、それならそれで僕が学習塾をやる意味などあまりありません。「全教科教えるだけでなく、何もかもについて、できる限り生徒の力になる」というコンセプトを掲げて始めた嚮心塾ですが、これがどれほど大変なことであるのかは、そのコンセプトを掲げた当時には全くわかっていませんでした。

それと同時に、このような取り組み自体がやはり必要なものであることもまた毎年感じています。自分の困っていることについて、「これについては○○に行って相談すれば良い!」とわかる人というのは、既にだいぶ力がある人たちであるのです。どのように社会のセーフティネットを制度設計していこうとも、そもそもその制度を知らなければ活用できません。あるいは、潜在的なニーズが表に出てこないままであれば、そもそもどのような問題があるのかは把握できません。「こんなこと、誰に相談したら良いかよくわからないけど、とりあえず通っている塾の塾長のおっさんに話してみる。」ということがただ「語る」ということを通したセラピーとしての機能を果たすだけでなく、彼ら、彼女らにとって「調べてみると結構具体的にとれる手が(しかもこんな場末の塾のおっさんでも調べたらわかるくらいあちこちに)あるんだ!」という、気づきにつながってきます。それは彼ら彼女らを極端な自暴自棄へと走らせる前に、「調べる」習慣を鍛えていくことができるでしょう。

受験勉強に限らず、ある程度のメリトクラシーが実現していると思われている社会においては、努力こそが美徳であり、
社会的に成功していない人たちは努力不足であると勝手に類推されてしまいます。しかし、そこで問われているはずの「努力」にはその努力の時期によって評価されやすさに大きな偏りがあります。このような学歴社会では、18歳からそこらまでの努力は一生評価され、逆にそこまではさぼっていてその後に努力をどんなにしても、それが報酬として正当に評価されることは極めて少ないのです。
さらには、子供が進学するために必要な親の経済的余裕が、子供の生涯賃金を決めてしまいます。つまり、全く本人の努力だけで計られているわけではないのですが、それにも関わらず、努力が社会的地位や収入の高さによって逆算できるかのように思われてしまいます。ましてや、ここに男性と女性のキャリアパスの違いを考えれば、恐ろしいまでに抑圧的な構造が私たちの社会にはまだまだ根強く残っているのです。そのような中で、根本的に評価されにくいキャリアパスの中では、その本人たちの誠意も努力も安く買いたたれていくだけということになってしまいます。

金銭的に報われる仕事だからその仕事に精を出す人間と、報われない仕事であろうとその仕事に精を出す人間と、どちらが高い人間性をもつかは、極めて自明である(もちろん後者です)訳ですが、それはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法(奴隷は主人の役に立つために様々なことをするからこそ、奴隷に様々なスキルが蓄積され、逆にそれらを奴隷に任せている主人は何もできなくなり、結果として能力の低い主人は能力の高い奴隷にやがてとって代わられるという考え方)」で描かれたようにはうまく社会が流動化することなしに、人間的に成長する方が待遇を改善してもらう仕組みはできないままに、利益はより上へと集積されていきます。こういうと、「じゃあ共産主義がよい!」という短絡的な反応も出てきてしまう訳ですが、強制的に経済的な平等を実現するためには、それを実現する強力で抑圧的な行政機構が存在しなければならなかったわけで、その失敗を僕たちは覚えているでしょう。大切なのは、人間社会をうまく切り盛りするには、人類史上名だたる天才たちの知恵をいくら集積してもまだ決定的な答えなどは出てこないし、それを将来的にも期待するのは不可能である、ということであるのです。マルクスにもヘーゲルにも、それは無理でした。そして、それは彼らの罪ではありません。

だからこそ、生徒一人一人が抱える一つ一つの違和感、生きにくさをどのように「問題」としてとらえ、それに対して解決策をその都度必死に考えていく、ということは一見迂遠であるかのように見えながら、実はとても大切なことであると思っています。「大理論」によって問題をいっぺんに解決することを目指すのではなく、しかし、解決への糸口を丹念に探し続けるという姿勢は、一人一人の問題の解決に必要なだけではなく、彼ら彼女らがその後の人生において、鍛えていくことのできる戦略であるのです。それを伝えたいと思っています。

それとともに、僕が塾でやるべきことは「報われない努力をいとわない子たちに、報われる努力が何かを見つけてはそれも踏まえることのできる力をつける。」ということです。この世界は、子供たちが想像する以上に、はるかに不公正です。「努力をしていれば、報われない努力も誰かが必ず見てくれている。」などという奴隷の道徳を説いては、子供達に自分が道徳的であるかのように振る舞うことで自己満足に浸るくせに、彼らの将来に責任を持とうとしないエセ「聖職者」になるよりは、彼らが報われやすい努力の方向を見つける力と、それを実行する力とをつけていきたいと思っています。

受験勉強で言えば、「わかる」「解ける」だけでなく、「点を取る」ということにどれだけこだわれるかです。毎年受験生を教えていて、優秀な子であっても(特に再受験生にその傾向が強いのですが)点を取るということにこだわれていない子があまりにも多いことに驚きます。しかし、大学受験は、この不公正な社会においては、一生を決めるものです。あまりにもそこに対する恐怖がないままに、不用意に臨まぬように、受験勉強を馬鹿にせずに準備をしていく姿勢を何とか伝えねばなりません。そこを、誰よりも「報われやすい努力」を見つけるのに敏感な、即ち人間性の低い僕が、最後まで徹底的に鍛えていきたいと思っています。

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失敗を重ねるということ

いよいよ明後日がセンター試験の一日目です。塾でも受験生たちが最後のチェックに余念がありません。
しかし、本番までどの教科も思いのままに点数がとれて本番を迎える受験生などは毎年ごく僅かしかおらず、
たいていは解いては失敗し、その反省や分析を活かして解いては、また失敗するという、とても不安になるようなプロセスを繰り返す中で少しでも前進しようともがいています。

その中で、自分の失敗の原因の核心に迫ったと思っては、それとはまた別の要因が見えてくる、というだけでなく、
あるミスの仕方と他のミスの仕方とでそのどちらも防ぐのはトレードオフの関係となり、微妙なバランスが必要になることもまた、多くあります。失敗の反省と分析が「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」になってしまわないように、細心の注意を払って調整をしていかねばなりません。

先が見えない、あるいは見えたと思ってもなかなかそれが壁を突き抜けることにはつながっていないわけですが、
しかし、このような大変な作業に付き合い、少しでも彼らの力を鍛え上げることに専念する中、このような取り組みをできている彼らを非常に羨ましいとも思います。

たとえば、このプロセスの中で、彼らはカール・ポパーの『歴史主義の貧困』など読まなくても、過度に過去を理想視して真似しようとすることも、過度に過去を忌避しようとすることも、その双方ともに現実を損なうのだ、ということを肌で感じていくでしょう。大学受験という通過儀礼(それは、(大学へ進学する層にとっては)この社会において成人式よりもはるかにinitiationとしての役割を担っていると思います。initiationとは試練である必要があるからです。)に際して、様々な精神的な態度を身につけることができるのは、彼ら彼女らにとっては、必ず意味のあることになると思います。

とはいえ、それ以上に重要なことがあります。
センター試験についても、失敗を避けるために徹底的に努力を重ねる訳ですが、それでも必ず失敗は起こります。しかし、その失敗が起きたところからが勝負です。そこで、すべてを諦めるのか、それともそこから諦めないで最後まで戦い抜くのか。
そこで戦い抜くことこそが何より重要です。

失敗をしないための徹底的な準備と努力は、失敗をしたその瞬間に戦えるようにするためである、というと
逆説的すぎるかもしれません。しかし、毎年教えていて、強く実感するのはこの言葉が逆説的でも真理の一端をうがっているということです。準備を徹底的にしていく受験生ほどに、失敗に際して自暴自棄になったりしません。最後の一分一秒まで諦めなくなります。それこそが、本当に重要なことであり、この直前にどこまでも徹底的に準備をしていくことの本当の意味であると思います。

思えば、人生も失敗だらけのものです。どんなによかれと思ってやっていても、どんなに努力しても、思いやりを尽くしても、失敗だらけなのです。僕の人生も失敗だらけでした。過去形ではありません。一昨日も所属してくれていた塾生が一人、なかなかに勉強と真正面から向き合うことができずに、結局塾を辞めるということになりました。大きな失敗です。しかし、そのように(というのは塾をやめないように、という意味ではありません。その子が自発的に頑張れるように、ということです)ならぬよう、あの手この手で必死にやっていたからこそ、塾を辞めるというこのことをまた、その元塾生の成長に資するように、懸命に知恵を絞ることになります。失敗を失敗のままで終わらせるかどうかは、その瞬間以降の踏ん張りであるのですから。

残り一日、センター試験で失敗しないよう、徹底的に準備を塾生たちとともにしていきたいと思います。
それでも起こる不測の事態に対して、彼ら彼女らがその瞬間に少しでも勇気を振り絞れるようになるためにこそ、ですね。

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書評『なくしたものとつながる生き方』尾角光美著

2009年に塾でも講演会をしていただいた、尾角光美さんの初めての単著、「なくしたものとつながる生き方』が先日サンマーク出版から発売されました!

献本いただいた後、すぐに読み終えて、とても素晴らしいと思っていたので、感想を書こうと思っていたのですが、あまりの忙しさに忙殺され、書くのが遅くなりました。すみません。

この本は、巷にあふれる「癒し」や「回復」を目指した本ではありません。その意味で、心の痛手から立ち直るヒントを求めて読んでしまうと、拍子抜けするかもしれません。この本に現れている尾角さんの思想は、「痛みを抱えながら、罪を感じながら人はどのように生きていくのか。」ということだと思います。自分自身の「回復しよう」という姿勢、「立ち直ろう」という姿勢自体が、その深い喪失を真剣にとらえている人ほどに、苦しめてしまう事になるということは多いのではないでしょうか。

あるいは「立ち直れたかな?」「乗り越えられたかな?」という他者の思いやりから生まれたはずの言葉もまた、そのかけがえのない喪失に直面した人にとっては、暴力としてしか作用しません。回復できるような悲しみは、そもそもそんなに深い悲しみではありません。回復できない悲しみこそが、「失う」「なくす」という語を使うときでしょう。それに対して、
さんざんに苦しんできた尾角さんが、でも自分はどのように生きていくのか、という一つの姿勢を打ち出したのがこの本であると思います。

端的に言えば、この本はわかりにくい。感涙を誘っては読者のカタルシスに役立つことをどこかでやんわりと拒絶している部分があります。しかし、それがよい。生きるということが様々な痛みを、つまり大切なものや人を次々と失い続けることだけが人生であるのだ(家族や愛する人を一生失わない人間はいません。)、という尾角さんの覚悟が見えます。そこには、「失ったことを乗り越える」という「健常」への偏向や「異常」への拒絶に自分の感情を委ねることなく、その大切な人やものを失うことも含めて、人生を丸ごと愛そうとする覚悟が見えます。「風邪が治る」ようにdepressionからの脱却を「回復」と呼ぶのであれば、大切なことを忘れやすいほどに「心の健康」を維持できることになってしまいます。もちろん、それは事実としてはそうなのでしょうが、「心の健康」を保つ人が正しく、保てない人が正しくないわけでは決してありません。自らの罪を、喪失を抱えて生きざるをえない人間と、それを忘れて生きられる人間と、どちらが人間らしいと言えるのか。僕は前者であると思います。

優しいからこそ、大切な人やものの喪失に深く傷ついている人々にとって、そのような罪や傷を抱えながらも生きている尾角さんの存在は、一つの福音であると思います。もちろん、それがモデルケースではありません。一人一人、罪や傷を抱えながら生きていく、ということはそんなに簡単にまねのできるものではありません。あるいは、尾角さん自身、ここからどうなるかもわかりません。すべての「これをきっかけに私は生きる勇気が出てきました!」という気づきは、そのような気づきにその人自身の心が既に準備されているが故に起きるものです。それは、きっかけをもらうのではなく、何かをきっかけと自ら主体的に見なしているだけですし、そのようなきっかけをこの本に求めても、無駄でしょう。しかし、自分の罪や傷を抱えて生きるために、様々なきっかけを主体的に見いだしている尾角光美という一人の人間の言葉は、外から押し付けられる心ないきっかけを排除し続ける人々にもまた、「他から与えられるきっかけが嘘くさいものだからといって、自分自身が人生を肯定することを諦める理由にはならない。」という一つの灯をともしてくれる、そのような本であると思います。

人間らしく生き続けるのは、難しいことです。ドストエフスキーが『悪霊』で描いたように、キリスト教にもし深い部分があるのだとしたら、それは、罪の自覚を強制されない立場にあるものが、それでもなお、自らの罪を自覚することの中にあるのだと思います。しかし、『悪霊』のスタヴローギンがそうなるように、人間にはそれに耐えるだけの強さがありません。誰かの責めには抗することができても、自分の良心の責めに耐えることはできません。だからこそ、歴史の上でも様々な暴露や革命が可能であったのでしょうが、一人一人の運命を考えるときには、自らの犯してきた罪への深い悔恨という人間性の回復は、その人間の社会生活を困難にしていくでしょう。端的に言えば、自らに対して深い反省をもつような生きるに値する人間こそが、生き続けにくいのです。僕の塾もまた、少しでもそのような人々の支えになれるよう、引き続き努力していきたいと思います。

アマゾンからも買えますので、興味を持たれた方は是非読んでみていただけると嬉しいです。

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