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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

絶望を、怠るな。

塾では夏休みに入り、受験生も非受験生も勉強に集中できる状況になってきました。もちろんまだまだ意識が低い受験生も多々いるわけですが、しかし、ここまで口を酸っぱくして説いてきたことが少しずつ結実しつつある手応えは感じています。

一方で、3月から懸命に努力を怠らずにきた受験生はこの7月、そして来る8月は過去問を解いては夏の模試に備える、という時期に入っています。実際に日々そのような取り組みを重ねる受験生には様々な不安が生まれます。レベルが高い受験生であれ、東大や京大や旧帝大などの国立大学の入試問題をとけば、やはり「自分がこのレベルを解ききって合格することなどできるのだろうか」と不安に感じざるを得ないでしょう。そもそも東大であれ合格のための二次試験の得点率は5割強なのですから、そのレベルの問題に日々取り組む、ということは、勉強の準備が出来ていない受験生はもちろん(というか準備できてないなら過去問を解いていてはダメですが)、しっかりと勉強してきた受験生にとってもまた、日々絶望を感じることになるわけです。

しかし、受験生の指導をしていて、一番感じるのは、その日々の絶望をどれほど積み重ねていけるかが勝負である、という事実です。もちろん自分の力が圧倒的に足りないで絶望を感じるのであれば、それは今取り組む勉強の内容を変えるべきでしょう。しかし、そのような「何も出来ない」零点は、実はふわふわした絶望、リアルではない絶望ゆえにダメージが小さいのです。しかし、必死に勉強し、入試問題に立ち向かい、時間内には全然出来ないが
解説を読めば理解できる、という段階に来ると「読めば理解できるという問題を時間内に手がかりをつかんで解ききることがいかに難しいか」という、よりリアルな絶望に直面します。そのショックは、そこまで勉強を進めていった受験生でなければ分かりません。なぜなら勉強をしていないうちは「勉強をすれば伸びる」と楽観的に思うことが可能であるからです。しかし、勉強を進めていき、基本的な勉強には穴が無くなり、それなのに難関大学の入試問題を解いてみても解けない、というこの絶望感は、自分自身を全面的に否定するきっかけにつながります。「そもそも、自分の能力ではこの大学には合格できないのかも知れない」「所詮自分は凡人なのかも知れない」、そのように思えてしまいます。

しかし、そのような絶望は(一部の天才を除いて)合格する誰もが、味わってきた道であるのです。そして、その絶望に日々打ちのめされながら、それでも「この問題を解くためにはどうしたらよいか」「試験中にこういう危機的状況に陥ったときはどうしたらよいか」を、諦めずに考え抜いて準備していく受験生が合格します。その意味では、今絶望を味わいながら努力している受験生は、その歩みを決して止めてはなりません。入試までにあと何回その絶望に直面し、そしてそれを乗り越えられるかが勝負であるのです。まだその段階に入っていない受験生は、急がねばなりません。勉強を一通りの範囲、終えてからが勝負です。もちろん自分の知識の抜けや演習量の足り無さは分野によって個別に鍛えていかねばならないものの、「入試」という、時間を計ってその時間内に答案に書いたことだけで全てを判断されるという厳しい状況、それまでのどのような努力もその場で見落としや思いつかないことがあったらそれでおしまい、という厳しい状況をできるだけ早く疑似体験していかねばなりません。(そして、それは模試では無理です。試験範囲やレベルが違うので。あるいはそもそも難易度のブレ方が違うので)

入試本番までにあと何度絶望できるか。それこそが勝負です。そして、懸命に試み、努力する人間にしか、絶望することは許されません。そのことを理解して孤独に取り組む、一人一人の受験生の力に嚮心塾はなりたいと思います。

大学受験でそのような絶望を感じずに済んだ「天才」達も、後にいずれどこかでその絶望を感じざるを得ません。それを感じずに一生涯を生きられるとしたら、それはただ現実から逃げて生きているだけなのだと思います。だからこそ、絶望を怠らずに、努力し続ける姿勢は一生を通じてとても大切なものです。そのことを塾生達には、伝えていきながら鍛えていきたいと思います。

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どくんごの感想追記:坂口安吾の『茶番に寄せて』と江頭2:50さんと道化の概念

ご無沙汰しております。塾はきわめて忙しいながらも、元気にやっております。

以前に劇団どくんごの公演を見た際に、どくんごの劇を拙い言葉でなんとか表現しようとしてみましたが、
坂口安吾の『茶番に寄せて』を読んでいる際に、これはどくんごの劇評としてぴったりなのではないか、と思うようなくだりを見つけたので、長くなりますが、ご紹介します。


(以下引用)
(前略)正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶のうちにそっくり昇天させようというのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了(しま)おうというわけである。
(中略)
だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に不合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは合理の国で悪銭苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突き出したのである。
(以下略、引用ここまで)


まさに劇団どくんごの劇はこのような舞台であるがゆえに、われわれが存在し、必死に努力する毎日の悲しみとおかしみ、そして喜びを表していたのだと思います。それとともに、ナンセンスがナンセンスとして意味を持つためには、そこまでの懸命な意味を追求する努力がなければならない、ということをここまで明確にテーマ化できている文章があろうとは。坂口安吾のこの『茶番に寄せて』は、小品ながらすばらしい文章です。Kindleでも無料で読めるので、ぜひ読んでみていただけると嬉しいです。

ちなみに、この文章を塾で説明するときには芸人の江頭2:50さんのことを例に出しながら、「江頭さんがみんなを笑わせようと必死に努力しても全く笑わせることができず、切羽詰まってタイツを脱ぐ。そのとき、戦い破れた合理精神が非合理を丸ごと受け入れて、道化となり、笑いが生まれるのだ!あれは最初からタイツを脱いでも全く面白くないし、中途半端な努力で笑わせようとしてから途中で脱いでもダメだ。誰よりも必死に笑わせようとして、でも笑わせられず、切羽詰まってタイツを脱ぐから、大きな笑いが生まれるのだ!」と話しました。だいぶうまく説明できたと思ったのですが、「タイツを脱ぐ」ところばかりが、印象に残ってしまって、よく理解してもらえなかったかもしれません。まったく、合理精神というものは、戦い破れてばかりのようです。まあ、めげずに少しでも正しい説明へと漸近していきたいと思います。


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