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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「入塾テスト」

最近、あまりに塾のことを書いていないので、ここらで筆休めに塾のことについても書きたいと思います。

嚮心塾には、入塾テストがありません。その代わりに一週間の体験授業があり、そこで通っていただいた
結果で入塾されるかどうかをご判断いただくのですが、実はこれが「入塾テスト」代わりになっていたりもします。

嚮心塾は「変わった」塾です。まず授業がありません。これは、授業だけで勉強してきた子達には、つまり勉強とは何かをよく分かっていない子達には、非常に不安だと思います。また(もちろん卒塾生の先生方もいらっしゃるとはいえ、)基本的に全教科を僕が教えます。これも、「各教科の専門のプロが教える方がいいに決まってる!」という常識を持つ子達には、不安要素でしょう。様々な学年の子達が机を並べて勉強するのも、細分化、専門化していく受験業界の常識からは外れています。このように一週間の中で今までの常識に縛られて不安を感じた子は、「やっぱりこんな塾普通と違って変だし、普通の予備校とか通った方が力がつくのでは…」と思って、体験授業をしたとしても、入塾しないというケースも多いです。

しかし、いわゆる普通の予備校が一番ベストな形であれば、そこに通っている子の合格率はもっと高くなければおかしいはずです。あるいは、単純に考えても「講義がない」ことはマイナス面だけではなく、「講義時間に縛られることなく、効率よく受験勉強を組み立てていくことが出来る」や、「レベルにあっていない講義を何となく聴くのではなく、今の自分に必要な勉強に時間を割くことが出来る」などというプラス面もあるはずです。あるいは、「一人で全教科を教える」ということに関しても、もちろん「日本を代表するプロフェッショナル中のプロフェッショナルの先生方よりも、各教科の実力について全て僕の方が上だ!」などという不遜なことは僕は全く思っていません。たとえばゆげ塾のゆげ先生に世界史の指導で僕が勝てる部分など、まあないでしょう。しかし、全教科を一人で教えるということは、一人一人の全教科の勉強の進み具合を全て把握できるということです。そして、大学受験が最低3教科、多ければ(二次試験だけでも)4教科5科目の総合力の勝負である以上、そして、受験生がついつい自分の得意教科に時間を割きがちであり、苦手科目を後回しにしがちなこと、さらには得意教科の中でも自分の出来ているところを評価しがちで、出来ていないところにに関してはできれば触れないままに受験をすり抜けたいという願望を抱きがちである以上、受験勉強全体のバランスを一人の教師が把握できる、ということのメリットはこの上なく大きいものであると思います。

嚮心塾の体験授業では、良いことばかりを見せません。この塾のデメリットについても、徹底的に見せていきます。塾の欠点はまだまだたくさんあると僕自身が痛感しては、日々改善しようとしているわけですが、しかし、それらのデメリットがあったとしてもなお、この場ほど勉強に取り組める環境は他にないと僕は自負しています。空気が違います。そして、それがその生徒に体験入塾期間中にわかるかどうか、というのが塾側としての「入塾テスト」であるのです。これがわかるかどうかに年齢は関係ありません。小学生や中学生でも、「こんな風にみんなが頑張っている中で勉強したい!」と自ら親御さんに言ってくれる子もいますし、高校生や浪人生であっても「ここは、受かるための楽な勉強法を教えてくれるところじゃないな。」という姿勢が丸見えの子もいます。

つまり、嚮心塾の体験期間では2つのことを見ているわけです。

一つは常識を疑えるか、です。自分で勉強してきた子には得心するような仕組みが山ほどある塾だとは思いますが、そうでなく受け身で勉強してきた子には、嚮心塾は決して楽な環境ではありません。世間一般の常識的な「学校」像や「予備校」像(プロの先生がわかりやすい講義をしてくれて、それを予習復習していれば「勉強した」気分になれるもの)からはかけ離れています。その常識とはかけ離れたものを、それでも自分で体感してみたり、そのように賢明に取り組んでいる他の先輩達を見て、「やってみよう!」と思えるかどうかを見ています。(ちなみに、これは勉強に限らず何かを習得するためには必ず必要な要素です。一般に流布している「常識」が自分に本当にベストのものであるのかを考えてはカスタマイズしていかねばなりませんよね。)

もう一つは、「勉強を教えてもらおう」ではなく、「自分が勉強しよう!」と思っているかどうかです。
もちろん塾でも教えるわけですが、基本的に大学受験の勉強など(あるいは高校受験や中学受験はなおさら)参考書に書いてあるレベルのものがちゃんとできれば、理三でも受けない限り、問題がないわけです。
「わかりやすく教えてもらう」ことを期待してその欲求が満たされても、結局自分で徹底しなければ、身につきません。むしろ、わからないところを徹底的に調べ、それでもわからないことを聞くという姿勢の方が遥かに力がつくわけです(僕はよく、塾で「書いてあることを聞くな。書いてないことを聞け。」ということを塾生に言います。それはそのような意味です)。もちろん、最初からそれができる学生は少ないとしても、それをいとわない
心持ちがあるかどうかを見ています。

と、書いてしまうと、ネタバレですね。困りました。これからの体験入塾をどうしましょう。ただ、体験入塾は、体験生が塾を審査するプロセスだと思われがちですが、塾も体験生を審査しているのだということはご理解いただければありがたいです。我々は一方的にテストする、という特権的な立場などに立つことは出来ず、テストするということは、テストされるということなのですから。まずは一度嚮心塾という塾をテストしに/自分をテストされに、足をお運びいただければ、嬉しい限りです。

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生き永らえることとは。

僕自身に生きる意味や目的などは、もうとうに摩りきれてなくなってしまっているわけですが、
それでも「生きねば」と思う瞬間とはやはり、この世界に僕に出来ることがまだまだたくさんあると
感じる瞬間です。僕でなければ出来ないことを感じる瞬間、と言い換えてもよいでしょう。

僕には人生を謳歌することは無理だし、自分のしていることに誇りをもつことも難しい。
そもそも好きなことなど、生まれてこの方ありません。それを幸福と取るか、不幸ととるかは別として
僕には没頭できる何かはありませんでした。これからもないでしょう。それは様々なものを深くくみ取らないのとは別なのです。何かをどんなに深く汲み取ろうとも、それは目的にはならない。
その深みを目的にするのは、実存を前提としているという意味で欺瞞でしかないからです。
ベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』は、人類に向けてのこの上ない贈り物であり、また厳しい提言であるのでしょうが、あの提言の厳しさに、人類は耐えられない。あるいは、耐えるためには、何かしらの欺瞞を導入しなければなりません。そして、僕にはその欺瞞は耐え難いのです。

というように、僕の人生はもう既に終わっているも同然なのです。あるいは、より的確に(そして森有正風に)表現すれば22,3の時に僕の人生を終わり始めさせることを決意してから、この13,4年間の間でさらに終わっていったのです。

ただ、それでもなお、やらねばならないことは残っています。それも、大量に。
塾に通ってくれる一人一人の塾生、あるいは通うことは出来ないけれども僕を頼りにしてくれる
元塾生達に、少しでも力にならねばなりません。その意味では、誰に対しても力になりたいと思いながらも、
それと同時に、僕自身が彼ら、彼女らに生かされているというところがあるのだと思います。
そのことに対して、どんなに厄介に思うことがあろうとも、深く感謝もしていかねばなりません。

世界中の誰にも肯定されなくても、誰か一人の力になることができる以上は、生きねばならない。

その厳しすぎる要請に日々押しつぶされそうになりながら、それでもなお生きる全ての人に、心からのエールを送りたいと思います。
人生は、即ち生命に課せられた運命とは、あまりにも残酷であるが故に、美しいのですから。

まあ、お互いに、できるとこまで頑張りましょう。

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教育再生実行会議の「人物本意の選抜案」に関して②

前回は、教育再生実行会議の「人物本位の選抜案」が、いかに実行不可能か、あるいはそれを実行可能にするためには結局さらなる厳しい学力の選抜か、機会の剥奪によって再チャレンジを許さない社会になっていくことを書きました。今回は、そのような実現可能性の話ではなく、そもそも面接試験で「人物本位の選抜」をするとどうなるのか。それは本当に「受験エリートではない、多様な人材」を選抜することにつながるのか、についての僕の考えを書きたいと思います。

まずは話題になった秋田大学医学部での面接入試で0点になった例についての記事をご紹介しましょう。この記事です。
この記事にあるように、現在ほぼどこでも面接を課している医学部入試では、面接によって高卒認定試験を受けた受験生や再受験生が面接によって差別をされるということはよくあるようです。実際に塾でもそのような受験生には志望校を慎重に選ぶように、というのも具体的には、面接というむこうのさじ加減でいくらでも合否を調節出来てしまう制度に配点を高くしている大学を受験させないようにそのような受験生には指導しています。

年齢による差別はまだ「国立大学では税金を使って医者を養成するのだから、実働年数が明らかに低くなる学生を取るのはよくない。」などというそれなりの大義名分が立ちそうです。(もちろんこれもおかしな話で、そもそもこれだけ異常に難しくなっている国公立大学医学部入試に現役で合格するなど、一部のきわめて賢い子を除けば、中1から塾や予備校漬けの「受験サイボーグ」しかいないと思うのですが。その子達は医師になることに何らかのやりがいや使命感を感じているからではなく、ただ単に「食っていける(と思われる)職業であるから」そこを選ぶわけです。そのような子と、紆余曲折を経て再受験で医師を目指す子とどちらが社会にとって有り難いかは年齢だけでは一概に判断できるものではないと思いますが。)しかし、この秋田大学の医学部での面接で前期後期とも0点になった子は高卒認定試験を受けているとはいえ、現役生と同じ年齢であったため、そのような年齢による差別ですらありません。推測するに、単純に「高卒認定試験」というだけで、「社会性がない」と判断されたのでしょう(もちろん面接での受け答えもこの記事だけからは全容がわかるわけではありません。しかし、医学部の面接はどこの大学でも基本的にこのようなあまり大した内容でない質疑応答が多いです。それだけで200点の面接点を0点にするだけの大きなエラーを受験生がおかしたとは考えにくいと思います。)。

まあしかし、こうした事例は氷山の一角です。実際に医学部受験生を抱えていると様々な理不尽な話があります。
そのたびに、結局思うことは「面接試験」というのが一種の思想統制、あるいは同質性の確保のために使われているという現状の恐ろしさです。

これはしかし、考えてみれば当たり前のことで、人間という者は自分の価値観に近い者に当然共感を覚えます。
逆に、自分の価値観から遠い者については、よほど明白にその人のすごさが伝わらない限りは、あるいは伝わったとしても、拒絶する対象となるのではないでしょうか。たとえば大学入試で言えば、若くても40代の、しかもそこまでに研究なりなんなりで(最低限は)研鑽を積んできた大学の先生を、その先生の価値観とは違うとしても、しかし明白に素晴らしいものを持っているので、合格させてもらえる20才前後の受験生など、一体何%いるというのでしょうか。面接試験というのは、簡単に言えば、既にestablishmentである層が、自分と同じタイプの若者しか認めないためのシステムであり、有害でしかないと僕は思っています。

「有害」と言いました。これは言葉を換えれば、「入学者の多様性を阻害する」ということです。教育再生実行会議の提言として、「面接による人物評価は受験エリートだけでなく(ボランティアや部活動に積極的であるなど)多様な入学者を認めることになる。」ということらしいですが、所詮は面接官によって自らが共感しうるタイプだけが入学を認められるという点では、入学者の多様性はどんどん先細っていきます。逆に学力試験のみであれば、
もちろんその学力試験を通る学力は必要となるわけですが、それ以外の面では「面接」という思想統制がない以上、きわめて多様な入学者がいます。勉強だけをやってきた人、勉強以外にも様々なことをやってきた人などさまざまです。そこでお互いが互いの価値観の相違を認め、自分にはない価値観を持つ同級生から学ぶということができると思います。点数だけで決まるのであれば、もちろん再受験生や高卒認定試験を経て合格する同級生もいます。何も考えずにとりあえず勉強してきた自分に引き比べて、自分の目的をかなえるために学費から自分で働いて捻出してきた再受験生と机を並べて勉強してくる子、あるいは自分が何も疑いなく過ごしてきた高校生活に疑問を感じたり違和感を感じて、それはやめたものの、しかし将来のキャリア形成のために自分で勉強して大学に入ってきた高卒認定試験生など、様々な道を歩んできた同級生から学ぶことができるのは、自らの価値観を揺らされ、見つめ直すことの出来る、かけがえがない学生生活でしょう。そのような貴重な機会をアホな教授による面接試験によって奪われている時点で、僕は秋田大学の医学部の学生を本当に可哀想だと思います(もちろん、不合格にされた受験生本人が一番可哀想です。しかし、その子は勉強も出来るでしょうから、そんなアホ医学部など行かなければいいだけです。入ってしまったらむしろ苦しんだことでしょう)。

まあしかし、秋田大学の医学部の教授が特にアホだというわけではないのです。他の大学の医学部の教授もまあ似たような者でしょうし、別にそれは医学部に限らず、他の学部の教授もそうでしょう。あるいは大学教授といわず、高校の先生であればなんであれ、やはりそうでしょう。もちろん、僕も例外ではありません。
人間というのは愚かであるが故に、自分が共感を持てるような人物を高く評価しがちであり、他のありよう、他の生き方、他の価値観については実際に突きつけられ、そのようなものと共存しなければならないという極限状況に置かれて初めて、真剣に考えるわけで、「自由に選んで良いですよ。」と言われれば、自分と似ているだけのものを「これがベストだ!」と意気揚々と選ぶものです。面接試験なんて僕は本質的にはそういうものだと思いますし、もちろんそのような人間の愚かしさに警戒心を持ち続けられるようなきわめて賢い人がたまたま大学教授にはたくさんいて、その人達だけで入試業務をやってもらえる、というようなことがあるとしたら最高なのですが、そんな期待をするのは夢物語であると思います。
だから、学生の多様性を確保するためには、面接で選ぶくらいならむしろまだくじ引きの方がましだと思います。一定の学力基準を超えた人の中で抽選で選ぶとかはどうでしょう。

もちろん、就職の際にはやはり面接があるというか、面接ばかりなわけで、「大学だけ面接をしないのはおかしい!」という主張も一理あります。しかし、現在の日本社会に於いて、どこの大学を出たかは、一生履歴書に書き続けねばならないものです。簡単に言えば、ある会社でのキャリアが終わり、別の会社に行くときも絶えずつきまとってくる者であるわけです。そのような一生を通じた資格証明である大卒の学歴が、面接官の教授の価値観に類似したものかどうかで左右されてしまう、ということでもう、多様な人材を社会が活用できるかどうかが大きく変わってしまうのではないでしょうか。能力や熱意があっても、ある場所に於いては人間関係や周りとの理念の違いによって活躍できなかった人が、再チャレンジを許されるかどうかのその資格証明としての大卒の資格が、そのように審査する側の価値観によって狭く限定されてしまっているとしたら、今以上に人材のミスマッチが起きざるを得ないのではないでしょうか。僕は、そのような社会を許したくはありません。

面接によって「多様な人物を評価できる」という考え自体が妄想です。それは、自らが拠り所にし、人生を懸けてきた価値観を「これもまた真理への漸近の一つの道に過ぎない」と客観的に判断できる、人間離れした知性の持ち主が面接官であって初めて可能なことだと思います。

もちろん、学力にとらわれずに我々が神のごとく、そのような的確な判断ができれば、それに越したことはありません。しかし、それが全くできていないことぐらいは、いい加減気づきませんか。少なくとも、大学関係者の皆さんには、氷山の一角にすぎない去年の秋田大の記事を見るにつけて、そう言いたくもなります。

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教育再生実行会議の「人物本位の選抜」案に関して①

このような妄言であっても、反論をしていかないとそれが通ってしまうのが悲しいところですので、このような制度にしたときに考えられる問題点を挙げて批判していきたいと思います。

①問題その一。面接に手間がかかりすぎる。
たとえば、わかりやすいので東京大学を例にとりますが、東京大学では第一段階選抜で約一万人を残し、その受験生達に2次試験を課しています。たとえば一万人に面接試験をするとなると、どれくらい時間がかかるのでしょうか。一人10分で10万分、1666時間に当たるわけで、これは面接官のチームを10チーム(30人)くらい作るとして、166時間、一日8時間やるとして17日かかります。半月ですね。さらにはそこでの面接の結果を考慮して、合否判定までを考えれば、ほぼ一ヶ月を入試に費やすことになります。学部生や院生の指導も含めて、大学教員にそのような時間があるのでしょうか。ましてや明治大学や早稲田大学のような受験者数であれば、最低でも入試を受験してから合否が出るまで二ヶ月かそこらがかかるのではないでしょうか。

受験生の側から見れば、大学の併願がしにくくなります。なぜって、試験を受けて早くても一ヶ月後に合否が分かる大学ばかりなのですから。合否が分かってから普通は、入学手続きの期間は2週間くらいです。ここは、経営戦略上、入学者数の確定を急ぎたい大学側は長く待つということが難しいでしょう。現在でも早く合格のわかった大学に押さえとして、捨てるお金になることを覚悟して入学金を振り込む、という自体がありますが、これが長期にわたり、様々な大学をおさえるために入学金をあちこちに振り込む、ということになれば、経済的な格差が学歴格差にさらにつながり、貧富の差の再生産につながるでしょう。

②問題その二。さらに学力重視になるという矛盾が生じる。
上に書いたように、面接をこの人数に対して、どこの大学でも行うことはほぼ不可能だと思います。だとしたら、「面接による人物本位の選抜」という建前を守るためにはどうしたらよいか。簡単です。面接を受けられる人数を減らせばよいわけです。具体的には先の東大の例で行けば、現在の第一段階選抜のラインは大体例年センター試験で80%の得点率ですが、これを90%にあげれば人数も減りますし、面接をすることも現実味を帯びてきます。もちろん、センター試験は廃止にする意向でしょうから、大学入試の新テストにて、それだけのランクをとっていなければ、東大は受けられない、とすればよいのです。これで「面接の膨大な手間」は防げます!

しかし、これは「人物本位の選抜」になっていると言えるのでしょうか。また、「1点を争う競争をやめよう!」というからには大学入試の新テストはおそらく現行のセンター試験よりもおおざっぱなランク分けになるはずで、そのおおざっぱなランク分けで現在のセンター試験90%の得点率以上のランクを作るって可能なのでしょうか。それって受験生人口の何%になるのでしょう。

このように、面接試験が(それを通じて大学の教授が受験生の人物評価が出来る能力があるかどうか、という根本的な問題はひとまず棚に上げたとしても)手間と時間が膨大にかかることを考えれば、一人一人の受験生に現在のような受験の自由を確保することは出来ないからこそ、併願の禁止、あるいは要件とされる学力の厳格化によって、ようやく可能になる以上、「人物本位の選抜」は難しくなります。受験資格を得る学力的な要件を今よりもはるかに厳しくしておいて、その上で面接試験を行うことにより、「(建前上は)人物本位の選抜をしております。」という事態になってしまうのではないでしょうか。

③問題その三。最悪の道。「滑り台社会」の早期化。
実は②のように、現行のセンター試験以上の細かいランク分けと大学入試の新テストにおける高い学力要件を課さないでも、大学入試の面接人数を減らすことができる道があります。そしてそれこそが最悪の道だと僕は思っています。それは、現在の案では大学の一般入試に関わらないとされる導入予定の「高校での基礎学力テスト」もまた、大学入試の新テスト以外の要件としていく、ということです。即ち、新テストで最高ランクであるだけでなく、高2時点での基礎学力テストも最高ランクであることを要件にする、あるいは高1にもその基礎学力テストを導入して、それも最高ランクであることを要件にする、というように前倒しに受験資格審査を増やせば、当然全て最高ランクである人数は絞られるわけで、その人数に関しては面接試験は可能であるでしょう。

しかし、それを許容すれば、そもそもどこかの時点で勉強から離れればその取り返しが一生つかない、という社会にこの社会を変えてしまうことになります。日本の社会は一度レールから外れるとなかなか社会復帰の出来ない「滑り台社会」であるということが批判されるわけです。大卒かどうかでいわれなき多くの差別を受ける、それですらも理不尽なわけですが、そもそもそのように前倒しによい成績をキープできなければ、15才、あるいは16才時点で一生のレールが決まってしまうことになります。そこまでの自分の努力の足り無さに後悔を覚え、やり直したいと思っても、そのように大学入試の要件が前倒しになればなるほどに、努力によっては覆せない烙印が一人一人の若者に押されてしまうわけです。

もちろん、再チャレンジの可能性が若い内に摘まれてしまう社会は、犯罪率もあがるでしょうし、不安定な社会となるでしょう。しかし、「やり直し」を応援する嚮心塾としてはそれ以上のことを声を大にして言いたいのです。挫折を知らないエリートなど、何の役にも立たないのだということを。学び直す必要を感じている人間から、その機会(当然これはその後の職業人としてのキャリア形成と結びついていなければ無意味です。裕福な人間の教養主義しか満たせないものは、教育機関ではない。)を奪うことほどに愚かしいことはありません。

まあまあ、冷静になって考えてみても、高2や高1のときから成績の良い奴って、だいたい嫌な奴が多くなかったですか?「一点を争う競争は無意味だ」と言いますが、「部活もボランティアも生徒会もやって成績もいい」程度の成績でよい、という考えは非常に残酷だと思います。塾では高2まで、あるいは高3の夏まで部活やその他の活動に打ち込み、そこから慌てて勉強をするという受験生が山ほどいます。現行の入試は、そのような子達も残りの時間の頑張り次第で何とか逆転が可能なものです。それを選抜のための要件を早期化すればするほどに、「中高一貫の私立で中一から大学入試目指して予備校に通ってます。」という生徒ほどに有利になってしまいます。それは果たして、「人物本位の選抜を促す」ことになっているのでしょうか。逆に勉強ばかりの子が多くなるのではないかと思います。

批判ばかりでは仕方がないので「では僕が教育制度を改革するとしたらどうするか」もいずれ書きたいとは思うのですが、まあしかし、ざっと考えてみても、これだけのつっこみどころがあるものがさらりと政府の諮問会議の結論として出てきてしまう辺りに、危機感を感じてしまいます。経過を注視していきたいと思います。

(補足1)反論として、「あらゆることを頑張りながら、早い時期から勉強も出来る子もいる。」という意見もあるかもしれません。しかし、それはあくまできわめて優秀な層です。僕自身もそうでしたが、それはどんな制度になろうと合格できる子達です。しかし、そのような子は(我が子や教え子にそうであってほしいという親御さんや高校教師の願望に反して)きわめて少ないという事実はふまえた上で制度設計をしていかねばなりません。

(補足2)「そのような学力に頼らない判断をするために面接をするのだ。」という批判に対しては、学力試験をせずに面接だけで合格者を決めねばならない大学教員の不安を考えてもらいたいと思います。やはり一定のレベルの学力がなければ、そもそも大学の講義が成り立たないわけです。ある程度その学生の学力レベルがそろっていれば、それが高かろうと低かろうと、それに合わせて対策を練ることが出来ます。しかし、もしそれがバラバラであれば、そもそも大学教員の個人的な努力だけではそのバラバラなレベルの学生に教育効果を発揮することは出来ないでしょう。だとすれば、面接をするとしても「一定の学力水準」を受験生に求めるのは当然でしょうし、それが大学入試の新テスト、あるいは高校での基礎学力テストというおおざっぱな判断基準に頼らざるを得ないのだとしたら、ますますそれを厳格に適用するしかなくなるでしょう。ある意味で、「面接重視型」の入試をしろ、というのは「どんなレベルの学生がきても鍛えろ!」ということであり、それは今までの大学教員には求められていなかったスキルです(まあ、嚮心塾ではそんな仕事ばかりですが)。当然、少しでも学生の学力の幅を限定したいが為に、新テストの基準に過度に依存することが起きるでしょう。

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