嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

劇団どくんご『君の名は』東京公演の感想

「意味は無意味、無意味は意味。無意味は無意味で、意味は意味。」

先日、吉祥寺の井の頭公園で劇団どくんごの東京公演を見てきました。どくんご自体はそれこそ5,6年前から存在を知っていて、是非見に行きたいと思い続けていたのですが、子供が小さいこと、夜に野外でやること、公演地も遠くが多いことでなかなか見に行けないことが続いていました。ということで、最近多忙にかまけてチェックを忘れていたのですが、ひょんなことから井の頭公園でやっていることを知り、慌ててチケットを取り、(受験生を除いて)卒塾生でも演劇に興味ありそうな子には連絡して伝えたり、などしてようやく見ることができました。(佐々木敦さんのツイートで有名になったのか、予約は一杯で、キャンセル待ちのお客さんも多かったようです。)

劇は、本当に素晴らしかったです。感動と「また何回も見たい!」との思いで、この1,2週間は大変でした。塾さえなければ、どくんごを追っかけて、何回でも見たいと思いました。それ以上に、彼らがこの30年間もこういう芝居をずっと、それこそ手弁当で続けてきたという事実に僕は打たれました。これほど高密度の、これほど熱量の高い劇を作り込み、しかもそれが商業ベースに乗らなければ乗らないで、自分たちでバイトをしてでも公演を続けてきた、という事実の重みに、ただただ頭が下がる思いです。

既存の道に可能性がないのなら、自分で作ればよい。という思いをここまで当たり前のこととして取り組み続け、かといってそのように歩む自分たちの取り組みに酔うことなく徹底的に「質」を高めていくというこの劇団どくんごの姿勢に本当に心を打たれました。こう言うと何か、まじめで難しいように聞こえてしまいますが、笑えて楽しい劇なのです。実際、僕の子供達もげらげら笑っていました。だけれども、そこにかける作り込みのすごさ、さらにはその作り込み自体が全く押しつけがましくなく、「気付かないなら気付かないでよい」というスタンスを徹底しているその自然さ、何もかもが尋常ではない努力を感じさせられます。そして、同じような道を歩み続けようと思っている(演劇を、ということではありません。大多数の人々に理解されにくいとしても、大切なことは譲れないという仕事を、です)僕自身にとって、非常に励まされると共に、まだまだ自分の取り組みの中で独りよがりな部分、理解されない道で努力しているから、という理由で自分の努力を甘く評価しがちなその甘さに対しても深く反省させられました。自分の人生に苦闘し、頑張っている人には必見の劇だと思います(今度は名古屋公演、その後はだんだん西へと移動していくようです詳しくは、こちらから)。

と、ここで終えると自分が傷つかないで済むわけですが、「見たら感動して人にお薦めできるけど、どう良いかを人に説明するのがきわめて難しい」どくんごの劇の内容についても僕なりの解釈を書きたいと思います。もちろん、一度しか見てないので全てを汲み尽くせるわけは当然ないですし、「どくんごがこの時代に存在すること自体がそもそも意義があるのだ。」という外山恒一さんの解釈ももちろんきわめて正しいわけですが、かと言って内容について誰もがしゃべらなくなってしまうのは僕はやはりよくないと思うので、拙いながらも「どくんご試論」を書きたいと思います。

どくんごで見た劇を頭の中で反芻しているときに僕が強く思い出したのは、やはりシェークスピアの『マクベス』の魔女の台詞「Fair is foul, and foul is fair …」のくだりでした(この話はこのブログでも何回かしてますよね。ワンパターンですみません)。この言葉が我々を既成概念に縛られている日常から我々を自由にし、価値の転倒を引き起こす(そしてそれは、逆説的だがしかしきわめて正しい事実を表している)役割を担っているのだとしたら、一般の不条理劇というのは、「意味は無意味、無意味は意味」という姿勢で観客の価値観の動揺を引き起こし、そこによって日常の常識に凝り固まった偏見を疑わせる、ということを目的にしたものであると思います。
即ち、それは「メッセージ」というもの自体が本来持つ暴力性を暴くことに焦点を合わせたものではないでしょうか。
 
 しかし、どくんごの劇はそこで終わらない。様々なナンセンス、ひどく凝り固まっているがゆえに真剣に取り組んでいることが現実とずれ、そこにおかしみと悲しみとを体現する(この辺りはベルグソンの『笑い』にまさに通じるところです。あるいは江頭2:50さんの芸風とも。真剣だからこそ、そして、それが現実とずれているからこそ、そこに悲哀とユーモアが立ち上る。)人々の場面を描きながらも、観客は、やがて気付かされていきます。「あれ?これは、私たちなのではないか?」と。

先の言葉とつなげれば、「意味は無意味、無意味は意味。」だけでなく、その後に「無意味は無意味、意味は意味。」とつながっているのが、どくんごの劇だと思います。そこには「意味は無意味、無意味は意味。」とメッセージの暴力性を破壊した後に、(そのことから普通陥りがちな)「一切は無意味だ」と決めつけるニヒリズムを超えて、しかし、「無意味は無意味であり、意味は意味である。少なくとも私たちはその両者を選んで良いのだ」という自由を見せてくれます。

「自由」という言葉を使いました。しかし、これは恐ろしいものです。硬直的な「意味は意味、無意味は無意味」という大多数の思考停止と判断放棄も、それは自分で解釈する余地を残してしまえば、責任を取らねばならないという「自由」を恐れるがあまりの硬直化でしょう。あるいは、「無意味は意味、意味は無意味」というナンセンス礼賛、あるいはそこから生じるニヒリズムもまた同じものです。「メッセージの暴力性、定義され終えた意味の暴力性を批判していさえすれば自由だ」という発想自体は、それがどのようにその暴力性に虐げられてきたが故の態度であれ、やはり別の硬直化を招いていると言えるでしょう。

どくんごの劇はそのどちらも、超えていきます。無意味に思えることにこだわる劇中人物に、親しみといとおしみを感じさせ、意味があると思われる台詞と動きの横に、無意味な機械的運動をとりまぜ、我々が無意味と感じるものを頭では排除しながらもいかに、意味以外の部分で判断し、生きているかを感じさせます。それと共に、我々が意味と考えているものがいかに無意味なものに我々自身が貼り付けたレッテルでしかないこともまた、感じさせます。その上で、最後の場面では狂人の戯言としか思えていなかったものにも、深い意味を見出すことができることを、突きつけて行きます。そこで、私たちは気付かされるわけです。ある時代の常識は、別の時代の非常識であり、地球の常識は宇宙の非常識であるかも知れず、我々が定型的に判断しているその全てが実は、正しいもの、意味があるものにはなりえないのだということを。そして、何が正しいのか、何が意味があるのかなどは、誰にも分からないのだということを。別の時代、別の星からみればきわめて無意味な、滑稽なことに懸命に生きる我らは、劇中のどこかずれたことに懸命にこだわる彼らと同じであるのかも知れないということを。

しかし、どくんごの劇はただその批評性の根源的鋭さにとどまるのではありません。私たち自身の、そのような絶対的に立脚する基盤のない、標(しるべ)なき人生を歩まねばならない運命への共感に満ちています。押しつけるのでもなく、諭すのでもなく、攻撃するのでもなく、必死に生きる全ての者に寄り添った上で、彼らの劇はこう問いかけるかのようです。

「意味は無意味、無意味は意味。かといって無意味は無意味だし、意味は意味。さて、あなたはどれを選ぶ?」

もちろん、それはどの選択肢かが正解であるというわけでは、全くありません。正解など、誰にも分かるわけがありません。ただ、「それを自分で選ぼうよ。たった一度しかない君の人生なのだから、誰かのせいにしている暇はないよ。」ということです。「君の夢は、君しか見れない。」「僕の夢は、僕しか見れない。」という最後の場面での繰り返しは、私たちが確かな外部(神や国家、思想、科学その他何でもです)に依拠することは永遠に出来ないのだという絶望と、しかしそれは何よりも大きな希望でもある、ということの現れであるように思いました。自分のことを根源的には誰にも理解してもらえるはずがない、という社会的な絶望は、しかし、敗北と失敗にまみれるこの人類の歴史の中に、それでも自分が人生を懸けて取り組むべきテーマはある、少なくとも我々一人一人が違う夢を見て生きている以上は、という希望の裏返しであるのだと思います。

まあ、これもまた、僕の勝手な解釈であり、僕の「夢」であるのでしょう。「僕の夢は、僕にしか見えない。」正邪や正誤を判断する前に、まずはその夢の意味を一人一人が考え抜くことが大切だと思います。

ゲーデルの「不完全性定理」もまた、同時代の数学者を何人も自殺においやったとはいえ、それは絶望ではなく、希望であるのです。無矛盾性をを公理系の内部からは示すことができないからこそ、希望があるわけです。ここまでの数学全体も、あるいは人間の科学や思想の全体もまた、人類が見てきた一つの夢かもしれない。だからこそ、そこに価値を置くかどうかは、どこまでいっても一人一人の人間の判断が必要になる、という意味でそれは希望であるのです。

劇団どくんごの劇は、是非お薦めです。こんな小難しいことを言わないでも、誰でも見た後に、見る前よりも、自由になれることは確かです。もちろん、その新たに生じた「自由」を、見た人がうれしがるか、嫌がるかは人によって分かれるでしょうが。

来年、また東京公演があれば、是非見に行きたいと思います。

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ある日の塾の風景から

先日、塾で教えていて、うれしいやり取りがありました。それは、このような会話から始まりました。

Y君:先生、問題集で数学の復習が終わったんですけど、次は大学の過去問に入ればいいですか?
僕:(やる気なさそうに)うん。そうだね。
Y君:どこの大学の過去問をやったらいいですか?
僕:(いいかげんに)どこでもいいよ~
Y君:え!?どこでも、ですか?
僕:うん。どこでもいいよ~
Y君:(渋々と)わかりました…

という(僕のいいかげんな返答に彼が不服そうに下がった)やりとりの後、しばらくして、またY君が
僕のところに来て、もう一度聞いてくれました。

Y君:先生、さっきの「どこでもいいよ」というのは、「今の僕の力が総合的にどうであるかは実際に過去問を解いてみなければわからないから、どこか実際に解いてみて、そのでき具合、あるいはできなさ具合を判断してその大学の過去問を解き続けるかどうかをまた考えていくべきだ、ということですか?」

僕:すばらしい!さっきの「どこでもいい」がその意味だってよく気づいたね!そうなんだよ。そういう意味でどこでもいいって言ったんだよ。だからこそ、まず東大とか京大とかを除いてどこかの大学をやってみたらいい。勝負はそこからだ。そこでできたもの、できてないものを徹底的に分析していくことが大切だよ!

というやりとりになりました。

一見、迂遠なやりとりであり、無駄な時間を受験生に使わせているように思えるかもしれませんが、僕の「どこでもいい」がどういう意味を持つのかを考える力をY君が備えたことは、今までの(本当に真面目であるがしかし、自分で考えるのが苦手なゆえに、つい判断を指導者に委ねがちである)彼からすれば、本当に大きな成長でした。

嚮心塾では、このような指導をしております。というと、語弊がありますね。このようなたくらみを誰に対しても、いつでもしているわけではありません。たとえば僕との信頼関係ができる前にこれをやってしまうと、
「この先生、いいかげんでたよりない!」と生徒に思われて、僕の言葉の意味をよく考えることなく、ただ塾をやめるだけになってしまいます(実際、僕は(ここまであからさまではないものの)塾の体験入塾期間でもけっこうこれをやってしまいます。そのせいで入塾しない子も実に多いです。しかし、それは一種の「入塾テスト」だと思っています。相手の対応の意味を考えられる子か、相手の対応を紋切り型に拒絶することしかできないかの、その子の精神の余白をみている、といえばいいでしょうか。その意味で、きょう心塾の「体験入塾」は親御さんが塾をお金を払って我が子を預けるに足るかを見るテスト期間であるだけでなく、僕がその子に自分自身のだらしなさや情けなさを変える心の準備があるかどうかを見るための入塾試験でもあるのです。自分のattitudeを変えるつもりはなく、成績だけあげてくれ、あるいは大学だけ入れてくれ、という子には、当然その教育にも限界があります。)。

また、そもそもそこを自分で考えに考え抜く姿勢がある子が、それでも他の人の判断も欲しいと思ってそのように聞いてきた場合にこのように突き放すことは、指導者として無責任です。その意味でも一人一人に対して違う対応が求められるだけでなく、その子の発達段階に応じて、つまり同じ受験生であっても月単位、細かいときには週単位で必要な対応の仕方が違います。塾での僕は、ボーッとしているように見えるかもしれませんが、ひたすらにそういうことばかりを考えていて、どういう対応が一人一人の塾生を鍛えるのに今必要とされているかを考えています。もちろん、志望校に合格させるために。さらにはそれにとどまらず、そのあとも自分の頭で考えて勉強できるように。

こういうと、非常にかっこよく終われるのですが、ただ教えるのではなく、このように一人一人の勉強するattitude(態度・姿勢・生き方)からを問い、鍛えていく、ということは非常に難しいことです。おとといのY君とのやりとりはうれしい驚きになり、本当によかったのですが、失敗も本当に多いのです。というより、毎日一人一人に対してとてもたくさんの失敗をしては、それを次にどう取り返していくか、という試行錯誤の毎日です。

勉強だけ教えている方が実は圧倒的に楽ではあるのですが、それをしない理由の一つとしては、そこまでやらねば受からないレベルがある、ということがあります。知識や理解だけ増やせば難関大学に合格できる人間、というのは実はもう既に何らかの選抜を受けているか、あるいはそうでなくても、もともとそれなりに賢い子であると思います。もし、嚮心塾が他の塾よりも塾生の可能性を伸ばせた、という事例があるとしたら(そしてそれはそこそこあると自負しているのですが)、この一人一人のattitudeまで、踏み込んでいく、というところにあると思います。

ただ、これは同時に非常に難しい取り組みになるわけです。小手先の技術や知識を「受験で合格するために」変えることは、ある意味簡単ですし、誰もが進んでやることでしょう。しかし、ここで書いているattitudeは言ってみれば、その子達が18年間、あるいはそれ以上の時間の中で身に付けた思考習慣です。それを疑い、変えるというのは
ある意味で今までの自分の人生を全面的に見直すことになります。それは(大人にとって極めて難しいことはもちろんとして)若い子達にとってもまた極めて難しいことであるようです。

さらに難しいのは、そのように一人一人の生徒のattitudeの傾向を見抜き、限界を指摘するのは指導者としてできるとしても、本当にそれが変わるためにはそのことに本人が自分自身で気づかねばならない、ということです。
こちらからできる指摘も、その本人の気付きを促すものであれば有益ですが、誰でも今までの自分のやり方、考え方の根本を見直すということはしたくないからこそ、そのように的確に指摘することが、逆に今までのその子のattitudeに固執することにつながってしまうこともまた多いのです(この辺は童話の「北風と太陽」を思い出すとわかりやすいかと思います)。これは、ほとんどの人間は、自分自身のattitudeを客観的には評価できず、自分に近しいattitudeの人を肯定的に評価し、自分に遠いattitudeの人を否定的に評価する、という傾向ゆえに、どうしても警戒心をもってしまうことが多いようです。すなわち、自分自身の拠って立つattitudeを指摘されるだけで、たとえその限界、たとえば(近い目標としても)それでは受験に受からないことを説明されても、自分自身の人格の否定のように感じざるを得ないのです。実際に世の中では、異なるattitudeの集団同士は、互いに互いをバカにし、排斥しています。それゆえに警戒心でいっぱいになり、反省を加えることなどできなくなってしまうわけです。だからこそ、その警戒心を解き、僕自身のattitudeを彼ら、彼女らに押し付けようとしているのではないということを深く理解してもらい、信用してもらえた上で、「でも、君はそのattitudeを一生貫いて、本当に後悔しないのかい?」と問いかけていかねばなりません。

ですから、指導者の役割は「一人一人の受験生のattitudeのよいところと悪いところを的確に見抜き、よいところを伸ばす一方で、悪いところに関しては、なんとか直していこうと思い続けながらも、その悪いところを本人に自分で気づかせる契機を何とかして作っていこうとしなければならない。」ということだと思います。「見る」ということに関しては、僕はこの指導歴の20年弱でだいぶ鍛えられた自信がありますが、「自分のattitudeの限界に自分で気づいてもらえるような教育をする」ということに関しては、道半ば、といったら言い過ぎなくらい、先の見えない非常に難しいことであると日々感じています。

しかし、それでもその目標を下ろすわけにはいきません。それは、やはり僕にとって「教育」というものが知識や理解だけを与えても仕方がない、という思いがあるからだと思います。そんなものはそれこそ、インターネットの普及(Sugata MitraのHOLE IN THE WALLのようなです)や、これからまだ起きるであろう、その他の大きな変化によって、いくらでも時代遅れのものになると思っています。しかし、この、「人に今までのattitudeの限界を気づいてもらうために、寄り添い、励まし、批判し、そして気づく契機を提供できるように手をさしのべながらも、本人が気づくそのときまで待ち続ける」というattitudeに働きかけるための教育は、やはり人対人でなければ絶対にできないことであると僕は思っています。そのような意味での教育には、人生をかける価値がある。僕自身が、小手先の相対的優越感では自分自身のこの世界に対する絶望を振り払えずにいた少年時代に、「君の見る世界から可能性を奪っているものは、君のattitude自身なのではないか。」という深い問いかけをもらったことが、その後の指針となり、財産となっているからこそ、僕はそのような教育をやっていかねばならないと思っています。

ということで、Y君とのやりとりは本当にうれしい出来事でした。このように一歩先へと一人一人の認識を深めて自らのattitudeを疑い、さらに鍛えていくことのために、また毎日塾を頑張りたいと思います。

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『風立ちぬ』を見ての感想

みんなが書きたいトピックについて語るというのは、どのような発言をしようとも注目され、そしてそもそも注目されることだけで一定のメリットを得られるわけで、僕はそのようなことにかまけてはいられないと普段は思っています。

しかし、ジブリの新作『風立ちぬ』については、僕が見たジブリ作品の中では一番素晴らしかったので、是非それについては書きたいなあ、と思いつつ、他の人の書いたので共感できるものがあったら紹介するぐらいかなあ、と思ってチェックすること、はや1ヶ月強、全くそれが見つからずに時間を空費し、「もう自分で書いた方が早いかな。」と思っていたのですが、とうとう見つけました。ということでご紹介したいです。このブログの記事です。

ここに書かれていることに関しては、全く同感です。しかし、このブログでは「ほら、やっぱりクリエーターの上から目線なんだよ。」という批判に対しては答えられていません(もちろん、この筆者の方は、それでよいと考えているでしょう。それは一つの肯定しうる立場です)。

しかし、僕はこの映画に関して、クリエーター/クリエーターでない人という差別や、前者の特権的意識が
見えるというよりはむしろ、人類全体の残酷だがいとおしい運命を描こうとしたように思っています。知性をもって生まれ、本能のままには生きられないが故に、かえって様々な迷いを持ち、よかれと思って必死にやったことの結果、もっとひどい結果を引き起こしては絶望する、というこの悲しみ。「男性/女性」や「クリエーター/クリエーターでない人」という対立を超えて、僕はこの映画の主人公の抱える悲しみに、人類全体が本来的に抱える悲しみを感じました。

私たちは、どんなに真剣に悩み苦しみ、考え抜いたとしても最善の行動を選ぶことが出来ない。それは昆虫のように種の存続のために個体が機能するようにプログラムされているのであれば、ある意味で幸せであるのです。なぜなら、考えることなく最善の行動をとれるからです。そのような生き物には選択も自由意志もない、という意味では人間には耐え難いように思えるかも知れませんが、しかし、そうなればそうなったで暴力も大惨事も起きなくなるわけです(というより、種の存続のために行われるあらゆる暴力を「暴力」として認識しうる主体がいなくなる、ということになります。これはSF小説でも伊藤計画(本来は旧字体です)さんの『ハーモニー』などはそのような着想ですよね)。

このこと自体はそれこそ、聖書の「エデンの園」から禁断の知恵の実を食べて追放された人間、というたとえ話からこのかた、人間を悩ませ続けた問題です。知性や意志などというものが中途半端に存在することで、確かに人間は一つの種としてはあり得ないほどの様々な成功を収めてきました。もちろん、それがもたらす人間の解決能力を超えた大きな問題にも次々と直面せざるを得ないのが人間の歴史であり、生物種というものの中に「人種」、さらにはより人工的な「国家」というものを発明することで大きな問題を引き起こしたのもまた人間の歴史です。それらは全て、中途半端な知性や意志が、その中途半端な意志が拠り所を必要とするために、その拠り所として機能する新たなしくみを知性によって作り出していく、という欺瞞の歴史であるわけです。果たして、知性や意志を持ったが故に、人間は幸せになれたのか、それとも不幸せになったのか、と暗澹たる気分で考えなければならないのは、ルソーの『学問芸術論』を引くまでもなく、誰でも(特に福島の原子力発電所の事故以降は)思い当たる経験ではないでしょうか。

人間は愚かだ。人間は大切なものと、大切ではないものを簡単に見誤る。そして、人類に善かれと思って、懸命に人生をかけた取り組みが、結局人類に善かったのか悪かったのかわからないままに死んでいく。善いものを志し、探し、そしてそれに何もかも、本当に愛する人の幸せすら、うち捨てて取り組み続けたとしても、結果としてそれが本当に善いものを生み出したのか、それとも悪いものを生み出したのか、よくわからないが、

「それだからこそ、人間はいとおしい。様々な間違いは起きざるを得ないとしても、それでも僕は人間を愛そう!」というメッセージを僕はあの映画を見て感じました。

それは、その愚かしい迷走も、迷走から始まる努力も、全ては無駄であり、逆に悪いものを生み出すだけであるのだとしても、それが人間であるのだ、という覚悟です。もちろん、それは、間違いを正さなくてよい、ということでは毛頭ありません。しかし、我々が人間である以上、正しいものをめざそうと、常に誤りばかりであることは
避けられない。そして、私たちに課せられたその宿命を、少なくとも私はもう呪ったりはしない。自らが誤り続けることに耐えかねる自分の心の弱さから、絶対的な正しさを求めては、神や国家にすがったりもしない、という姿勢を感じました。

「私たちは、正しいものを求めては、誤り続ける。しかし、それがいくら辛いからといって、決して呪ったり、あるいはたやすく「正しさ」を与えてくれるものにすがりはしない。かといって、正しいものを求めることを諦めもしない。」という、姿勢が一貫して主人公に対してあったのがあの映画だと思います。もちろん、あの映画を見て癒されるクリエーターや企業戦士も、それに対して「結局男はあの主人公のように都合よく女を使い捨てる。」という見方も、まあ合っています。しかし、僕はあの映画の主人公のような人生とは、つまり人類そのものの成功と過ちを必ず伴う歩みを表しているように感じました。

もちろん、映画などは話の種です。僕はあの映画にそのような意図が込められていなくても、善いものを求めては、過ちを繰り返す(もちろん僕を含めた)この愚かな人類が少しでもマシになるように、全力を尽くし続けていきたいと思います。森有正がリルケの末期の言葉を引いて書いていたことがありました。リルケの「絶望して死ねる。これほど幸せなことはない。」という言葉は人類の未来に希望を懸け、そのために死ぬ最後の瞬間まで尽力していたからこそ、出てくる言葉だ、というやつです。「失敗」がチャレンジし続けなければできないのと同じように、「絶望」は希望を持ち続けなければ、やがてできなくなります。

私たちの思考など、生物的本能の単なるvariationでしかないと強調してみても、思考は私たちに罪の概念を与えたことは事実だと思います。その「罪」の概念は、私たちを時に深く反省させ、時に私たちをしばりつけるあまりに暴虐な行動へと駆り立てるという意味で、少なくともその恩恵以上には害悪の源となってきたことは確かでしょう(パレスチナ、エジプト、シリア)。しかし、僕は少なくとも人間が自らの罪を感じるということには可能性があると思っています。たとえ、それが新たな暴虐の種となろうとも。ドストエフスキーの描いたように、「罪」の自覚がChristianityのもっとも深い部分だ、ということに僕も深く同意しますが、「罪」はChristianityなど軽々と超えて、より人間性の根幹を規定するものであると僕は思っています。

そして、その「罪」の概念を決して外側から他人が伝えることなど出来ないのだ、ということもまた伝えたいことです。「罪」という言葉が仰々しければ、「責任」でもよいです。「責任」という概念を他の人が外からいくらなじろうと、説き聞かせようと、それを誰かに伝えることはできません。それは、人間に本来的に内在するものであるにもかかわらず、決して外からは育てることの出来ないものです。まあ、しかし、そこを何とか悪戦苦闘はし続けていこうと思っています。そのためにはドストエフスキーの『悪霊』で、スタヴローギンが陵辱する相手である「少女」に僕はならねばならないわけです。今日も、塾生に対して、徹底的な善意と思いやりを、踏みにじられ続けては、頑張っていきたいと思います(と書きましたが、『悪霊』とか今の子は読まないですよね。。僕はドストエフスキーの小説の中では一番好きで、お薦めです(注))。彼ら、彼女らがさまざまな人の善意を、自分の弱さ故に踏みにじっていることに自分で気がつく、その日まで。

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