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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

必要性を伝える、ということの難しさ。

長い記事を書こうと書きためては、新たな要素を加えていくうちに、だんだん書き終えられる自信がなくなってきたのと間隔が空きすぎたために、別のことを書きたいと思います。

現在、日本の小中高の生徒達の中で勉強の必要性を感じ、それを自発的にやっている層というのはおそらくごくわずかなのではないでしょうか。ですので、学校や塾も含め、教育機関のやるべきことはただ生徒の知識欲を満たせばよい、ということではなく、勉強をしていかないとどのように将来不利益を被るかを説いたり、あるいは基礎的な勉強自体が様々な学問への土台として持つ意味を話したり、何とかしてその必要性を子供達に理解してもらわねばならないわけです。もちろん、「それをせずに結果だけ出せれば良い」という先生方もいるのかもしれませんが、僕が教えている手応えとしては、生徒自身がその勉強をやることにどのようなものであれ、意味を感じていかねばやはり実力をつけるとしても(かなり低い)限界があるし、それを感じる力がない子に説明能力の高さやステップの踏ませ方のうまさだけで、実力をつけるというのはとりあえずの緊急避難的にそれをやることが必要な場合はあるとしても、長期的にそれをやっていくのはそもそも良い教師ではないと思います。

しかし、必要性を感じていない子というのは、そもそも情報を得る力と想像力が欠如しているわけです。つまり周りが何となく遊んでいるので、自分も何となく遊んでいて何とかなるのだと思っています。しかし、たとえば本を読めば、どのような新書の作者紹介にも「○○大学卒」というのが書いてあるわけで、少なくとも大人が読むような新書を読む子であれば、作者のプロフィールに必ず最終学歴が書かれ、しかもそれなりの新書であれば大体がその著者の出身大学が東大や京大や早慶ばかりであるという窮屈な社会がこの日本であることを知るはずです。あるいは新聞を読んでいる子であれば、役所の人事異動や大きな会社の人事異動が新聞に載るときに、同じく最終学歴が書かれ、かつ事務次官クラスであればほぼ東大ばかりであることは気付くはずです。
この窮屈な社会で生きていながら、それらのことに気付かずに日常を過ごせてしまっているという点で、「勉強は出来なくても他のことが出来れば…」という可能性をその子がこれからの努力によって実現することが出来る可能性はきわめて低くなってしまっている。芸能人を目指してもそこで接するテレビ局の人間はみな高学歴、漫画家を目指してもそこで接する出版社の人間はみな高学歴であるわけです。

突き抜けた才能に学校歴などはいらない。それは事実です。しかし、その突き抜けた才能を駆使したり、あるいはおこぼれに預かるところには高学歴の人間がうようよと群がっている。その事実を少しでも目を開けば気付くことが出来るはずなのに、そのことにあまりにも鈍感すぎて自分の将来を損なってしまっている若い世代があまりにも多いことに驚きます。そして、このことを口を酸っぱくして説いてもまったく危機感が伝わりません。

もちろん、高学歴ワーキングプアは増えているでしょう。それはポスドクの研究者はもちろんのこと、それ以外でもどんどん増えていると思います。しかし、それは日本人の雇用自体がきわめて不安定になってきている中で、東大や京大卒といってもその全てが安定した職業につけなくなっているというだけの話であり、たとえば卒業生の卒後五年の平均収入や、卒後五年時の低所得者層の割合などのデータがあれば、東大や京大、早慶とその他の大学で
かり有意な差があるのではないかと思います。今まで目に見えなかった高学歴ワーキングプアが存在しつつあるからと言って、「だから学歴は無意味だ」と短絡的判断をするのはかなり危険なわけです。

それはなぜか。人間の能力を測ることなどきわめて難しいからです。だとすれば、大勢の人数の中から有望な候補を選ぶためには何らかの短絡的な指標がほしいと考えるのが採用側の理屈でしょう。そして、大学入試の結果という尺度は、おそらくあと何十年かは日本社会において他の尺度にとって代わられることはないでしょう。それは人間の能力を測る尺度としてはきわめて不十分であるものの、しかし、他の尺度よりは、入試における公正な評価を目指す大学教員の教育者の本能という献身的な努力をその評価の公正性を担保できる資源として広く利用できること、我が子の将来を考えそこに投資したいと思う家庭に育っているという背景を本人が持っていること、そして何より本人が努力を出来る人間であるか、努力をして一定の成果を達成できたことがあるかということなど様々な要素を見極めるのにきわめて有効な尺度であるからです。

僕は、自身が大学受験生であった20年ほど前には、大学受験の成果をいちいち誇る同級生にウンザリしていました。大学受験など人間の一面しか測れないことは目に見えているし、それの成否が人間の価値を決めるということも、ありえないと思っていました。しかし同時に、この日本社会に於いて大学受験を軽視するということがどれほど恐ろしいことであるかを、おそらく大学受験の成否に大騒ぎする同級生よりも理解しているつもりでした。大学に合格したときに思ったのは、「これでこの窮屈で偏狭な社会の中で、一方的に排除されることはないだろう」という安堵感でした。

そこから20年が経ち、改めてその尺度の恐ろしさを痛感しています。もちろん、誰もが大学受験で結果を出せば成功するわけではありません。そもそも「成功」が何かこそが難しい。しかし、僕の高校の同級生がfacebookで各々流してくる「充実した毎日」を表すかのようなニュースフィードは、残酷なまでに学校歴によって閉じたコミュニティーの中で謳歌(おうか)されるものであり、決して平均的な36才のありようではないと思います。僕は彼らの無邪気な言葉、無邪気な幸せや無邪気な充実に嫌悪感を感じます。しかし一方で、そのような例を引いては、何となく日々を過ごしていけば、何となく生きていけると思っている中学生に意識を変えるように何度も何度も説得しても、全く理解されないままに「勉強なんて面倒くさいから」という理由でサボられ続けていくわけです。
受験勉強が自分の今後の人生に密接に関わっているということを何とか伝えようとしても、なかなかにうまくいきません。

こうした状況は特に地元から高校受験をする中学生に多いのです。しかし、誤解を恐れずに言えば、東京都において高校受験をしている、という時点で、(よほど優秀で中学から私立に行くのがもったいないと言って国立や開成に受かる層を除けば)東大や京大に合格するのは高校3年間ずっと必死の努力をしなければ不可能である、ということであるのです。東京都はどこでも私立の中高一貫校が中学生から生徒を抱え込み、そして高校2年までに全ての内容を終わらせるカリキュラムを組んでいます。都立高校は日比谷や西といったトップクラスの高校であれ、数学ⅢCを高3で終わらせます。これで、中学からの一貫教育組に受験で勝てるわけがないのです。実際に西高生が嚮心塾にも通い始めてくれていて、彼ら彼女らが皆とても優秀であるのにもかかわらず、あまりにも受験勉強のトレーニングを受けていないこと、さらには大学受験の準備の大変さにたかをくくっているのに驚きます。都立高入試のトップレベルの子達ですら、その意識から変えていかねばならないわけです。ましてや、他の高校に入学して喜んでいる子達を見ると、僕は本当に心配になります。そして高校受験が終わってからが本当の勝負なのだと言うことを一生懸命、口を酸っぱくして伝えようとするのですが、なかなかに伝わらないで苦労しています。

もちろん、天才は東大や京大にいかなくてもよいのです。しかし、日本社会に於いてまだまだ学歴が尺度として採用される時期が長く続くであろうこと、さらには(様々な例外は双方にあるものの)東大や京大、早慶を出た人々とそうでない人々との格差がまだまだこれからも続くであろうこと、そしてそれは後から気付いても仕方のない格差であるので(一方で就職には年齢差別もあるので)18才、19才、20才ぐらいの時点でそのことに気付いていて、学歴を得るために努力を出来る子とそうでない子の情報格差、親の教育への投資意識の差、またはそれを許す家庭の経済状況が、一生を通じてとりかえしのつかない所得格差として現れてくる、ということは少なくとも僕は学校で広くみんなに教えるべき事実であると思います。そして、学校の授業だけではそれを補い得ないということもまた、学校で教えるべきことであると思います(まあ、絶対にやらないでしょうが)。

嚮心塾は、「親の収入格差が教育格差になり、それが子供の世代が成人した後の貧富の差を拡大再生産する」というその負の連鎖を断ち切る一つの仕組みとして機能しようと、「月々2,3万円程度(受験生と非受験生で違います)で全教科を見る、夏期冬期講習費なし、教材費なし」という値段設定で8年前の創立当初からやっています。それは「私立高校の学費(月4,5万円)+塾や予備校に払う費用(これも月最低4,5万円、高いところだと月10万円以上+講習費)」を3年間ないし6年間払える層でなければ東大や京大、早慶や医学部に行けないという事態を防ぐための塾としてです。おかげさまで、塾自体は様々な方の支えもあって、東京のみならず千葉や埼玉、神奈川からも通っていただいております。しかし、そこで大勢通ってくれている生徒の一人一人は、やはり「受験勉強で努力してしっかりと自分の夢を叶えたい!」と願っている子が多く、「受験勉強なんかやりたくないから、できるだけさぼりたいな」という子の意識を根本的なところから変えていくところまでは、なかなか仕事が出来ていないのというのが苦い現状です。もちろん、僕はそれを諦めません。必要性を伝えることの出来ない自分の言葉の足り無さを練り直し、彼ら彼女らがどのようにそこで苦しめられていく可能性があるのかを丹念に描き、その上で努力をする手助けを少しでも段差を小さくしては取り組みやすくできるようにしていきたいと思っています。

しかし、このことだけは是非皆さんに伝えたいのです。東京都において、高校受験を強いられている時点で、もう大学受験への準備という意味では(一部のトップ層を除いて)差をつけられているのだということを。その中で難しい高校へ合格しようと、簡単な高校へ合格しようと、高校受験の偏差値を信用しないでほしいのです。それは(中高一貫校の囲い込みにより)純粋に選択肢が少ないからこそ、高校からの入り口を維持している高校の偏差値が高くなっているだけのものです。しかし、高校から早慶に行ったとしても、大学受験組よりは学力が圧倒的に低く、学部の四年間でその差はとりかえしのつかないものだということが思い知らされるでしょう。そうなればもはや「早」や「慶」に自分のアイデンティティを重ねるような大人にしかなれません(早慶に行くのなら、東大や京大に落ちて早慶に行くのには意味があると僕は塾でよく話しています)。

東京都での高校入試は、サッカーで言えば海外組が誰も集まれないから集められる日本代表のようなものです。あるいは、奨励会員が出られない将棋の高校選手権のようなもの(囲碁も同じですね。院生が出られない高校選手権のようなもの)です。プロとして一線で活躍する人は出られないのです。そこでの優越を誇ることがいかに本番(この場合は大学入試)では通用しないかがよくわかるでしょう。そして、この事実を中学校の先生はおろか、高校受験用の学習塾も何も言わないことが僕には許せません。高校受験をした子は、そこからが勝負であるわけです。そこから中学受験で着々と大学受験の準備を中2や中3からやっている子達と勝負できるように追いついていかねばなりません。それを「井の中の蛙」のような自己満足で終わらせては、結局才能を磨かずに不本意な大学受験を強いられていくという悲劇を少しでも減らせるように、嚮心塾は努力し続けたいと思っています。
何度話しても伝わらなくても。あるいは、浅い満足感を子供達に与えては、それ以上努力しない方向へと誘導する
大人達がどんなに周りに多くても。


(補足)「これからはアメリカの大学への進学が主流になっていくから、日本の東大・京大なんて…」という声も最近はあります。たとえばIvy Leagueと日本の東大や京大の研究者のレベルや研究環境の差は当然あるわけですが、「日本の優秀な層が皆アメリカの大学に行って東大や京大が空洞化する」ということは僕はまずありえないと思います。その理由の一つはたとえばHarvardであれば、年間300万円くらいは学費がかかるわけで、それが4年間+生活費などを含めれば、東大・京大に通う子のどの家庭でも負担できる額ではないからです。もちろん、向こうの大学は奨学金が充実しているわけですが、しかしアメリカ東海岸の大学でfull scholarshipを得るなどというのは、日本人の中でもきわめて優秀な層、東大、京大のほぼトップクラスでも厳しいのではないでしょうか。それにはやはり他のアジア諸国の優秀な層(しかも彼らは国内の大学に進んでも仕方がなく、アメリカに行かねばならない強い動機がある)が応募してくるからです。

さらには、courselaやedxの発達があります。これは(長い記事で大学というものの意味と将来像についてまとめて書こうと思っていたのですが少し書くと)映像授業の発達により、一流の講師の授業がonlineで世界中で見られれば見られるほどに、それを発信する側の大学とそうでない大学とで役割が明確に変わってきます。一部の「世界大学」と大多数の「地方大学」へと分極していく、ということです。そして東大や京大は(自身は「世界大学」になりたがってはいるでしょうが)明らかに「地方大学」になっていくと思います(日本語という制約があるため)。また、無理に世界大学を目指さない方が逆に良いようにも思います。そのような分極化がこれからますます進んでいく中ではやはり、日本という地方における「地方大学」として東大や京大の権威というのはむしろ局地的に増すのではないかと思います(一歩日本を出ると誰も知らない、という今も揶揄される状況がさらに強まっていくのではないかと思います。)。その意味で、「もう東大や京大なんてlocalな学歴なんて無意味だ」と言いたい気持ちはよくわかるのですが、むしろそこで判断されてしまうという圧力はより強くなっていく可能性もあると思います。

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つなぐ。

ご無沙汰しております。今、少し長い記事を書いていて、そのつなぎとして短い記事を書きたいと思います。

ゲーム理論において、応報戦略(しっぺ返し戦略)が全員の利益を最大化するとしても、それは利益しか見えていないわけです。少なくとも相手のした通りにしっぺ返しをしようという心のさもしさ、「冷たく当たられれば冷たく返す」という壁を作り、それが何らかの理由でひどいことを繰り返ししている人には、出口を無くしていきます。「そういう人は冷たく当たられることで、学習していくから良いのだ。」と人ごとなら言えますが、自分が精神的にどん底まで落ち込んでいるときに、それが故に人に対して冷たく接してしまい、しかし、そこで「これは自分の態度が悪かったのだな。」と学習する姿勢を発揮することを一人一人に求めてしまうのは、僕はあまりにも要求水準が高すぎることであると思います。人間は、この僕も含め、そんなに賢くはありません。

そういった「どうしようもない(と他人に見られるまでに虐げられ、屈折せざるを得ない)人」を描き、共感のきっかけにするのが文学であったわけですが、それも最近はどうなのでしょう。クロポトキンがドストエフスキーを「精神異常者ばかりの登場する小説を書く。」と批判していましたが、僕は文学とはそうあるべきであると思うので、それ故にドストエフスキーの小説には価値があると思っています。天才や狂人と凡人との間の橋渡しをするのが文学です。言い方を変えれば、天才や狂人は凡人を理解しているからこそ、凡人が天才や狂人を理解するための補助線となるのが文学です。彼らが何故孤立し、何故一見ひどい振る舞いをするのかには理由がある。いわば、彼らは鋭敏であるが故に、社会の「毒」の影響を真っ先に感受し、それでおかしくなってしまうわけです。炭坑のカナリヤです(カナリヤが人間より有毒なガスに鋭敏かはわかりませんが)。彼らの苦しみと屈折とそれ故の暴力への道筋を理解することで、僕たちは自分たちの人間性を奪っていくものについて前もって理解をできるわけです。
しかし、最近の小説は、狂人を描かない。あるいは狂人を描いたとしても、その狂人が狂人になる必然性を描かない。(もちろん、これは批判ではなく、自戒を込めてです。僕はこんな風に文学を語りながらも小説家になることは捨てて、教育に取り組んでいるので、僕自身にも責任があると思っています。)

「しっぺ返し戦略」以外の取り組みがきわめて細く狭くなってきていることを強く感じています。それは最近の小説にも見出し得ないし、昔の小説にたどりつくまでには、長いハードルがある。そもそもそれは周りの人が誰も読んでいないからこそ、そこにたどり着くまでにはある程度の教養をもってそれを指し示す大人や先輩、同級生が近くにいるか、本人の懸命な努力によってそこまで自力で到達するかのどちらかです。しかし、それはどちらにせよ、きわめて確率の低いことであるでしょう(ドストエーフスキーの小説を読んだことがある大人は結構いたとしても、その小説の意義を苦しんでいる若い世代に語れる人が、どのくらいいるでしょうか。)。かといって、人間関係においては、「しっぺ返し」以外の戦略は見る陰もありません。メールだけでなくFacebookやtwitterやLineなどコミュニケーションの頻度が高くなればなるほどに、広範囲に「共感」可能な言葉以外はしゃべれなくなっていくという傾向があると思います。たとえば、一対一でその人に向けてしか話せないような言葉、話しても意味が通じなく曲解されるであろう言葉を話し、そういった言葉を鍛える場自体はむしろかなり減ってしまっているのではないでしょうか。誰にも傷つけられず、誰をも傷つけない言葉以外を話す場を持ち得ないがゆえに、誰かを傷つけるものの、ものの本質に迫る言葉を鍛える場や人間関係をもちえていません。そのような中では自分からは破綻的な攻撃性を示さないものの、誰かに攻撃されればとたんに攻撃的になる、という戦略を採らざるを得ないでしょう。しかし、それでうまくやって行っているつもりでも、言葉や思考は力を失っていくわけです。

「自分が傷つけられたから、相手を傷つける。」という行為の連鎖からは何も生まれません。もちろん人間の心は弱いので、そのような反射的な行動をしてしまうこともあるでしょう。そして、そのような行為をした自分を正当化する何百もの理由も見出すことが出来るでしょう。それはもしかして、しっぺ返し戦略の説くように「全体の利益を最大化する」ことに資するかもしれません。しかし、その負の連鎖を続けることをどこかで断ち切る自己がいてもいいとは思うのです。しかも、「それが全体の利益に資するかどうかなんてしゃらくせえ!俺は自分が傷つけられた腹いせを他人にしたって気が晴れねえんだ!」という態度こそが、実は意志の力を必要としない応報戦略(相手からよいことをされたら、相手によいことをする。相手から悪いことをされたら、相手に悪いことをする。)よりも、意志の総量を地球上に増やしている、という意味では実は正しい戦略なのかも知れません。生存効率だけを考えるのなら、昆虫のように本能だけで全てを管理できることこそが一番良いはずなのですから。しかし、本能に抗うノイズのようなものである意志を発達させた人間が、このように発展してきたということこそが、意志を必要としない「もっともらしい戦略」が、その戦略によって最大化される利益だけによってそれを正当化できるかどうかを疑う一つの根拠なのかな、とも思います。全体の利益の最大化にとって、無駄なものだけをhumanityと呼ぶのだとも思います。

人類史上最高の天才の一人とされるフォン・ノイマンの大成させたゲーム理論も、結局は人類史上最高の天才程度の作ったものにすぎません。それが人間の認識の限界の最先端であるとしても、人間の認識自体が外界に対してきわめて小さいもの、小指の爪の先ほどのものでしかないものであることを忘れてはなりません。精緻(せいち)にくみ上げられた人間の知の体系もまた、一つのお題目にすぎない。つまり、それは一面の真理にすぎないじゃないか、そんなものを俺たちに押しつけるな!という心の叫びの表明がロックンロールです。つまり、「俺たちはバカだ!でも、バカだからってだまっちゃいねえんだ!」という叫びです。

ということで、嚮心塾ではしっぺ返しをいたしません。生徒達よ、何度でも僕を裏切ればよい。何度でも僕をごまかせばよい。君たちがとっているその脆弱な「最適化」戦略が、いかに子供だましか、いかに真理づらした自己正当化かを、君たちが思い知るその日まで、僕は諦めません。たとえ、新聞紙上の人生相談で美輪明宏さんですら、「バカは自分で懲りるまでほっとけ」とアドバイスするという絶望しきった時代であったとしても。
あるいは、たとえ、君たちの周りの大人達が、今の君たちと同じように「世の中ひどい奴だらけなんだから、ごく少数の家族や親友以外は、良くしてくれた相手にはよくして、冷たい相手には冷たくしていればいいの。」という戦略を採用している人ばかりだったとしても。君たちをそんなくだらない大人にはさせません。

そして、僕自身も暴力の連鎖を自分の意志で止められる人間に、今以上になっていかねばなりません。
この決意を固めてから、早15年くらいはたっているのですが、あの頃想像していた以上に、この道が
やればやるほどさらに逃げ場がなくなっていくだけでなく、誰からも理解されないということがしんどいところですが、まあ、それはさぼる理由にはなりませんね。頑張っていきたいと思います。

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