嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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とりかえしのつかないもの。

ご無沙汰をしております。元気にやっております。

塾生にはよくする話なのですが、僕が幼稚園の年長さんの頃、僕の祖父が夜中に亡くなりました。夜中に人の気配がするので起きてみると、父親と母親とがあわただしく動いているので事情を聞いてみると、「おじいさんが亡くなったけれども、もう夜遅いから、お前は寝ていていいよ。」と言われました。どのような言葉だったかは正確に覚えてはいないのですが、そこで僕は「人一人死んだのに、寝てなんかいられない!」とかなりきつく怒ったそうです。

その感情は今でも覚えています。死がとりかえしのつかないものであることはそのときの僕には分かっていたのに、とりかえしのつかない「死」よりも、反復される僕の日常(としての睡眠)を優先しろ、とは一体何事か。僕の両親には大切なものとそうでないものとの区別が何もついていないんじゃないか。幼いながらにそのように憤慨していたことを良く覚えています。振り返ってみると、僕にとってはその頃既に自分が「死」というものとどのように接するかが自分の価値を決めるという思いが強くあったようです。後に本を読んで、ソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」と言っていたことを知っては、我が意を得たり、と喜んだことも覚えています(不遜な僕は、「ソクラテスもなかなかやる。僕と同じことに気付いているのだから。」と思っていましたが)。

 そのような僕が、受験に関わるようになったのも、必然なのでしょう。といきなり言ってもわかりにくいかもしれません。受験もある意味取り返しがつかないものです。どのようなごまかしも、どのような言いつくろいも、不合格という結果によって露呈するわけです。生きている間のどのような虚飾も、死ねば剥(は)がれていくように。もちろん、不合格の全てがごまかしの結果ではないわけですが、不可逆な結果が出てしまう、そしてそのことに対しては事前に必死に努力するしかない、という意味ではきわめて似ていると思います。もちろん、それはどんな仕事も同じ部分もあります。しかし、受験は終わるために努力するわけです。人間が善く生き、善く死ぬために努力するように。自らに終わりがあることを意識するとき、私たちは自らの傲慢な自我をのさばらせている余裕を持ち得ず、現実に、あるいは自然に対して謙虚に努力を重ねるしかなくなると感じます。もちろん、その努力を実際にどこまでなしうるかは別にしても、そのように終わりがあることを意識しているときには、自分が努力していないが故に力がついていないことにもまた、謙虚に認めざるを得ないわけです。

今年の塾生が春先に、(もちろん僕がこう話す前に)「受験とは死に似ている。」とつぶやいてくれていました。
そのように鋭敏な感性をもつ彼も、4月に茫漠とそう思っていたときよりも、遙かに深く自分の言葉の意味を実感しているでしょう。どのように終わるかを選び取るために、努力をするというこの時間を彼らと共有し、鍛えていけることには計り知れない責任の重さと、それ故の喜びを感じています。

それとは別の思いとして、年末が近づく度に、僕はあの2003年のイラク戦争のことを思い出します。もう10年近くになるでしょうか。常識的に考えれば言いがかりでしかない主張を押し通してイラクを攻撃したアメリカ合衆国と、それに追随した日本。その追随の理屈こそが、日米同盟(という名の日常)を守るため、でした。とりかえしのつかないものに対して謙虚に襟を正しては真摯に取り組み、決して惰性で流れる日常のせいでその「とりかえしのつかないもの」を台無しにしてしまわないように取り組む姿勢を若い世代に伝えようと思いながらも、そのように偉そうに若い世代に言える大人など、この世界のどこにいるのか、と心苦しい思いを抱きながら、教えています。東日本大震災以降、それまでのことはまるで忘れられてしまったかのような風潮ですが、原発事故に限らず、我々大人達は起きるかもしれない「とりかえしのつかないもの」に対しては目をつぶった上で、日常をこそ優先させて生きてきたわけです。それは「受験」というとりかえしのつかないものから目を背けて今を謳歌しようとする高校生と何ら変わらない、同じように愚かな姿勢であると思います。

彼らが「終わり」を意識してそこまでの間に何が出来るかを自問自答できるような自覚ある受験生になれるように、僕自身も自らが「とりかえしのつかないもの」に対して、限りある残りの時間の中で何ができるかを、日々絶えず考え抜いていきたいと思います。

人間のどのような愚かしい営みやその結果としての破壊をも回復していくのが自然だとすれば、敢えて愚かしい営みを短期的な利益をにらんでする人類というのは、母親に対してどこまでわがままが許されるかを確かめようとする幼児(おさなご)であるのかもしれません。訳知り顔でそれをとがめ立てするのも、幼いが故の振る舞いかもしれませんが、しかし、愛されることを期待して生きるよりはまだましだと思っています。地球の不可逆な死へと向かう歩みの中で、僕達にできる、学問や芸術、その他の認識の進歩の微々たる歩みが何かをもたらすことなどできるのかどうかはわかりませんが、しかし一歩でも前に進めて行かねばならないとは思っています。

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