嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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子ども達の可能性を奪うな。

 塾では例年通り、受験生の勉強のペースが上がってきて、またその中で彼ら彼女らの恥ずかしさやプライド、過信などのよけいなものが少しずつはがれていき、それに負けぬように、こちらも必死に教える毎日です。
 おかげさまで、塾の見学や体験入塾についての問い合わせをうけることも非常に増えています。それ自体が、本当に有り難いことであるのですが、それと同時に「適切な指導と目標さえ与えてあげればこんなにどこまでも賢くなるような子達が、学校の先生からも他の塾の先生からも優秀な生徒とは認識されず、埋もれていっているのか」という驚きを得ることも多いです。中には学校の先生から、勉強に関してはほどほどできれば良い、などと半ば諦めの入った無責任なアドバイスを受けているものの、塾に来て力が付き、自分自身でさらに鍛えていく意欲が湧いてくる、という例も多々あります。
 そのような「埋もれさせられた才能」をこれだけ頻繁に見る度に、やはり現在の日本経済の「地盤沈下」は決して若い世代が駄目になったわけではなく、彼らの潜在能力を見出し、それを鍛えていく育成システムの欠如に依るのだという思いを強くします(それは、いわゆる「進学校」と呼ばれる学校においてもです。現在、学校の授業だけで難関大学に合格できる学校など存在しないでしょう。もちろん、それを当の進学校の先生達は把握できていないでしょうが)。
 学校の先生や予備校・塾の先生方も自分の目にはその子のどの部分を鍛えていくべきかが見えないのであれば、「私の能力では、この子の勉強を鍛えてどうにかなるとは思えません。しかし、それは私の「見る目」自体の限界であるのかもしれません。その可能性を疑いつつも、全力で鍛えさせていただきたい。」とせめて言っていただけると有り難いです。しかし、実際には自らの矮小な認識能力と指導能力を棚に上げて、「この子は勉強に向いていない」だの「今から頑張ってもこの子ではそんな学校には合格しない」だの、子ども達にとっての「死刑」宣告を平気でしては、子ども達の心を傷つけ、頑張る気力を削いでいるわけです。僕にはそれが許せません。
 もちろん、嚮心塾も僕自身も全く完璧ではありません。まだまだ欠点ばかりの塾でありますし、僕自身も自らの矮小な認識能力と指導能力のせいで、鍛えきれなかった子達に対して本当に申し訳なく思ってはさらなる精進を決意する毎日です。しかし、そのようなまだまだ不完全な嚮心塾ですら、通い始めてくれた子達が水を得た魚のように、真剣に勉強する姿を見せてくれるのを見ると、子どもの可能性の芽を摘んでいるのは大人の勝手な思いこみや努力不足であるという事実に気づかされます。それと共に、嚮心塾が他の学校や塾や予備校よりは「まだマシ」だというレベルでとどまらぬよう、子ども達の可能性を見落としたり、見殺しにせずに鍛えていけるような塾へと近づけるよう、これからも努力を続けたいと思っております。   2012年7月21日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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あたりまえとは何か。

ご無沙汰をしております。塾では今、英単語や古文単語を覚えようと多くの塾生が必死に努力しています。このキャンペーンを「英単語を覚えると、英文が読める!」というあたりまえのキャンペーンとして、やっています。

しかし、実際にチェックしてみると、一人一人の塾生が、いかに英単語を覚えていないか、覚えた気になってごまかしているか、ということが赤裸々に現れて、非常に興味深いものです。それと共に、「単語をしっかり覚えなきゃ駄目だよ!」という日頃の僕の指導がいかに無意味であったか、ということもよく分かります。

「覚える」という行為にとりかかるときに、それが受験で通用するレベルの記憶になっているかどうかを自分で考え、チェックする受験生は既にもう一流の受験生であり、おそらく大半の受験生は「ただ眺めているだけ」「言われたら、そんな意味だとわかる」「まぎらわしい他の単語との区別はつかないが意味は出てくる。」「意味が出てくるまでに何秒かかかって思い出せる」ぐらいのところで「覚えた!」ことになってしまっているようです。しかし、これら全ては、受験で読んだことのない英文時間制限がある中で読まなければならないときには、全く使えないレベルの知識にしかなっていないわけです。そこまでのレベルで単語の勉強を止めているのは、実際に使えるかどうかを想定していない努力であり、端的に言えば自己満足でしかありません。

英語の勉強に単語を覚えることが必要なのはあたりまえとして、それをどのレベルまで鍛えなければならないかを自分で気付くことのできる学生はよいものの、ほとんどの学生はその「あたりまえ」がどれほどに厳しい努力を必要とするのかからは目をそらして、自己満足に励んでいます。しかし、そのような努力をいくら重ねようとも、受験には通用しません。ましてや、社会に於いては、ですね。

「原子力ムラ」の人達が見たくない現実から目をそらしていたことを声高に批判することは、去年の3月11日以降においては、ある意味「安全な」議論です。もちろん彼らも現実から目をそらしては、自分たちに都合の良い想定を信じていたのでしょう。しかし、それは英単語を覚えているつもりで全く使えるレベルで覚えていない受験生にも、あるいは「英単語を覚えなきゃだよ!」と言っておいて、彼らがその「覚える」という言葉が要求するものをどこまで理解できるかについては楽観的であった僕自身にもあてはまっている姿勢であるわけです。

勉強の効果というのが、仮によくどこかで見るような「勉強の質×勉強量」という安直な図式で表されるようなものだとしても、その「質」を獲得するためには徹底的な注意深さが必要となるわけですが、その「質」を獲得するための徹底的な注意深さが、現実を見たくない人間に対しては要求できるようなものではないわけですから、もしその「質」に気付くことなく、ただ「勉強している振り」で済ませて自己満足を得たい、あるいは他の人々に対して言い訳を作っておきたい、と思っている人々には、彼らが「質」を獲得できるように徹底的に彼らの努力の仕方、認識の仕方へとメスを入れていかねばならないわけです。

しかし、それでも受験勉強はまだ簡単です。「それをやらなければ合格しない!」という事実はある意味分かりやすいからです。原発の保安の仕組みや証券会社のインサイダー取引防止などは、それをどのように防げるというのでしょうか。短期的な利益、近視眼的な利益に関してはむしろ不正を行うことの方が圧倒的に大きいわけですから。このような場に於いては、不正を行わない、という「あたりまえ」がそもそもどうして必要となるのかから考え、教育をしていかねばならない、ということを考えると、「日々生徒の認識の仕方にメスを入れていき、現実を直視してもらう」というしんどい作業に従事する覚悟を決めている僕ですら、しりごみをしてしまうくらい、大変なことであると思います(話はそれますが、こうした教育に「社会」や「(「神の見えざる手」としての)市場」、国家の安定、あるいは宗教と何らかの全体性、あるいは完全性を引き合いに出し、それへの背馳であるという教育の仕方には僕はもう限界があるように思います。私たちはこれまでの歴史を経て、そのような全体性や完全性をもはや信じられなくなってしまっているわけです。それは、嘆こうと悲しもうと事実であると思うし、むしろそういう方向へと人間は歩んできたことでさまざまな恩恵を受けてきた以上、この方向性のもたらすこのような欠陥についてもまた、これはこれでどう対処していくかを考えねばなりません。道徳心や国民教育の刷り込みがこの後短期間通用したとしても、それは強いる犠牲の割にはすぐに制度疲労を起こすような類の無理な抗(あらが)い方ではないでしょうか。何かを全体と考えることで部分についての倫理観を規定する、という手法における「全体」を空間的にどこまでも拡大していこうと、それは共感を欠いたフィクションへの盲従を代わりに導入するだけになってしまいます。この対処法について、私たちはこれから考えていかねばならないようです。)

一人一人の塾生の努力の仕方や認識の仕方にメスを入れ、それが自己満足になっていないか、現実を直視した努力に近づけているかどうかを絶えずチェックし、鍛えていきながらも、僕自身のそれらの努力もまた、それが自己満足になっていないか、現実を直視した努力に近づけているのかどうかを絶えずチェックしていかねばならないようです。そのためにも、あたりまえの努力を、そこに「あたりまえ」が共有できていると勝手に仮定することなく、徹底していきたいと思います。

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