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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

2012年度合格実績

2012年度の合格状況(確定版)です。
<国公立大学>
東京大学理科Ⅰ類            1名(進学先・第一志望)
大阪大学医学部             1名(進学先・第一志望)
北海道大学医学部            1名
一橋大学商学部             1名(進学先・第一志望)
東京外国語大学国際社会学部      1名(進学先・第一志望)
東京学芸大学教育学部中等国語科  1名
<私立大学>
慶應義塾大学医学部           1名(進学先・第一志望)
慶應義塾大学医学部(1次合格)    2名
慶應義塾大学理工学部         1名
早稲田大学政経学部           1名(進学先・第一志望)
早稲田大学国際教養学部(AO入試) 1名
早稲田大学基幹理工学部        1名
早稲田大学社会科学部         1名(進学先・第一志望)
早稲田大学文学部            1名
早稲田大学文化構想学部        1名
上智大学経済学部経営学科      1名
上智大学総合人間学部心理学科   1名
国際基督教大学教養学部        1名(進学先・第一志望)
順天堂大学医学部(1次合格)      1名
日本医科大学医学部(1次合格)    1名
明治大学文学部              1名
学習院大学文学部            1名(進学先・第一志望)
学習院大学経済学部           1名(進学先)
中央大学法学部政治学科        1名(進学先)
文教大学教育学部            1名(進学先)
明海大学歯学部              1名(進学先・第一志望)
成蹊大学現代社会学部          1名 
成蹊大学文学部               1名
日本大学経済学部             1名
獨協大学文学部               1名
昭和女子大学人間社会学部       1名
<アメリカの大学>
Mills College 1名
Lake Forest College 1名
Knox college              1名
<高校入試>
日本学園高校                1名(進学先)
<中学入試>
女子美大付属中              1名(進学先・第一志望)
大学受験生19名(うち国公立受験生12名)、高校受験生1名、中学受験生1名での結果です(合格校の右の人数は延べ人数です)。どの受験生のどの結果に対しても、彼ら彼女らが真剣にこの一年を苦しみ抜いた結果ですので、合格であれ、不合格であれ、心から誇りに思っております。
                                                                嚮心塾

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入試の前に。

国公立大学の入試が今日、2月25日から始まります。塾では東京近辺の学校を受ける子達は昨日まで、移動しなければならない子達は一昨日まで必死に切磋琢磨して、勉強していました。塾を出るときには、皆、不安を抱えながらもとても良い顔をして帰って行きました。

「良い顔」とは何か。今年の受験生は、そもそも去年に東大に受かる実力が十分にあった受験生、難関大の医学部を受験するにもかかわらず、どの教科もかなり余裕を持って合格できる力を持つ受験生、何もかもハイパーな受験生など多士済々です。しかし、その誰もが、自らのちっぽけな優位性にとどまることなく、足りないものを探しては徹底的に鍛えるという日々を重ねてきたからこそ、「入試を受ける中でまだまだ自分の予期せぬ困難に直面するかもしれないが、しかしそこをたとえ乗り越えられないとしても、そのことから目をそらしたりはしない!」という決意のある、本当に「良い顔」をして受験に望むことができると思います。

逆に「悪い顔」とはなんでしょうか。自分の弱さから目をそらし、自分の強さばかりを恃(たの)むとき、人間は優越感に浸ることで現実をごまかしているわけですが、そのときの顔が「悪い顔」ですね。そのとき人は、見たくない現実に心のどこかでは気付いているわけですが、しかしそれを何とか他の部分の強さから打ち消そうと必死であるわけです。空しい全能感と分かっていながらも、そこに浸らなければ現実の怖さから目を背けられない、そのように感じているとき、人は焦点の合わない、うつろな目をします。これが「悪い顔」であるわけです。

塾生がそのように現実から目をそらさない「良い顔」をして、この日を迎えられることを、僕は何よりも意味があることであると思っています。

願わくは、彼ら彼女らが受験を終えてもなお、その心を忘れないでいてほしい。まあ、と言ってもすぐ忘れることは確かなのですが、少なくとも一度はそこまで徹底的に自己を鍛えた経験は彼ら彼女らがどのように幸福感に浸り、必死に歩み続けることを忘れたときであろうと、そのような自分に対して本来的ではない感覚をどこかに残してもらえるものだとは信じています。

ここで終わると美しく終われるのですが、もう少し本音を書きましょう。僕はもはやそれを信じてはいない。いや、少なくとも信じる理由を持つことはもうできません。たとえ、人生のある一時期に必死に自己を研鑽したことがあろうと、それがその人の一生を照らし得るほどには人間は賢くはない。恥辱と失敗を繰り返し、そしてそれを必死にごまかしては自己正当化を繰り返すのがほとんどの大人の末路です。自分さえもなしえなかった一生を通じての克己を、若い世代に期待しているかのようにして教育へと心血を捧げるのは、たいていは教師の側の自己欺瞞と自己正当化ゆえでしかないでしょう。(ちょうど宮沢賢治が『サキノハカという黒い花といっしょに』で詠んだように。)僕は、ほとんどの学校教育と学校の教師(大学教授も含め)、さらにはほとんどの塾や予備校の教師に絶望していますが、それは結局この事実に自覚的である人間はあきらめ、自覚的でない人間は底の浅い使命感に駆られているからです。

若い世代に期待するためには、彼らの未来を祝福するためには、既に恥辱と失敗を繰り返し、それを必死にごまかしては自己正当化を繰り返し続ける存在としての、教師としての自己を徹底的に憎み続けねばならない。その上で、自身が少しでもまともな人間になれるように必死に努力しなければならない。

それだけでなく、教える人間は何故教えるのかを考えていかねばなりません。僕はその1つは、「火」を絶やさない、ということなのかな、とは思っています。たとえば、今年の受験で受験生が必死に自己を研鑽していったその姿勢が彼らの中でやがて消える日があったとしても、それが残っている期間の中で、他の誰かに伝わるかもしれません。灯した一人一人の中に、その「火」が消えてしまうかもしれないことにがっかりして、「火」をともすことを僕がやめてしまえば、本当にその「火」が存在しなくなってしまうかもしれません。個々の「火」が消えてしまうことを覚悟しながらも、それでもなお「火」を死ぬまで灯し続ける、というのが、教育に関わるものに要求される心構えであるように思っています。それがどのように大きなものを犠牲にしていようとも、です。

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この世で最も美しいもの、この世で最も醜いもの。

この世で最も美しいものが何かを聞かれたら、人間が自らの愚かさに気付き、それを乗り越えようと必死になる姿だと僕は答えます。逆に、最も醜いものが何かを聞かれたら、人間が今の自分の愚かさにしがみつき、愚かな自分を訂正しないようにしがみつく姿であると答えるでしょう。

人間が自らの愚かしさに気付き、乗り越えようとするその姿の美しさに比べれば、どのような絶景も、あるいはどのような美術作品も、見劣りがすると僕は思っています。またその逆もしかりです。つまり、人間には最も美しいものと、最も醜いもののどちらでも生み出す自由が、常に与えられているということです。

塾では、受験生が、現在の自分の愚かしさに打ちのめされながらもそれを乗り越えようとまさに必死に努力する毎日です。入試の結果も出つつあります。しかし、どのような結果になろうとも、そのように取り組む彼ら、彼女らの姿はこの上なく美しい。その事実に自信を持ってほしいし、僕が彼ら彼女らに送ることのできる唯一のgiftは、合否よりもその事実を伝えることであると思っています。

ということで、全世界の数少ない嚮心塾通信マニアの皆さん、ブログを書けていなくて、すみません。もう半月だけ、そのように数々の美しい姿を、さらにより美しく鍛え抜いていくことに、時間を費やさせて下さい。

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