
塾では毎日受験生が必死に勉強をしています。今年は懸命に頑張る受験生が例年よりさらに多く、それが相乗効果になっているのか、一人一人の勉強の完成のペースがとても速いと感じています。しかしもちろん、それは決して安心材料ではありません。様々な知識を埋めるだけではダメで、それがどのぐらい瞬時に使えるか、あるいはどのくらいミス無くこなせるかが勝負であるわけです。その意味で、本格的な受験勉強はまさにこれからだと言えるでしょう。
その一方で、なかなか勉強に前向きになれない子達も塾生の中にも少数ながらいます。特にまだ受験を近くのこと、あるいは不可避のことだと感じられていない子達は、どうしても日々の勉強をどのように効率よくこなし、作った空き時間で他のことをやるかばかりを考えているように思います。そして、「うまくやる」ことを目指しているが故に、うまくいかずに失敗してしまうことが多いようですが、このような取り組み方は本当に「効率がよい」と言えるのでしょうか。「テレビも見て、音楽も聴いて、部活もやって、その上でなお成績がよい。」状態になることを理想としてもつのは構わないとしても、それができていないのであれば、何を自分の人生の中でまず第一に優先していかねばならないかを考えることが大切だと思います。
そして、今の日本において受験勉強をすることは、僕はかなり「楽な」生きる道であると考えています。一般に受験勉強は、17,18の頃の労力に対して得る見返りが純粋に一番多い努力であると思います。たとえば全く勉強をしていない状態から始めても、1年あるいは2年必死に勉強すれば、俗に言う「G-MARCH(学習院・明治・青山学院・立教・中央・法政)」ぐらいは合格できるものです(いやらしい話ですが)。それがほとんどの受験生にできていないのは、適切な指導の欠如と本人のやる気の無さのせいであると思います。たったそれぐらいの努力で、得ることのできる就職機会や生涯賃金を、どうして見殺しにしてしまえるのでしょうか。それでは現実を見ていない態度であると思います。
もちろん、とびきり賢い子が、このような受験勉強と学校歴に基づいた「能力主義」(それが本当に能力を担保しているかどうかがわからないのでかっこつきです)はいずれ(大した根拠のない信仰に基づいているが故に)崩壊する、と見て、別の努力をすることは素晴らしいのです。それを大人達が理解できなかろうと、あるいは、たとえ彼らの見込み通りには世界が動いていかないとしてもなお、そのような若い世代はきっと現実に対応していく力を備えていくでしょう。しかし、そのようでなく、ただ今自分が「やりたいこと」をしていて、受験勉強(あるいはそのような現実を見据えた努力)をしないでいる子ども達は、どのように生きていけるというのでしょうか。ただ食いつなぐことが目標だ、というのは貧しい人間観であるのは間違いないでしょう。しかし、そうは言っても自分の信じる様々な価値をこの社会に実現していくためにもまた、生きていかねばならないし、そのための戦略が必要です。その戦略をどのように立てていくかについて、我々大人は、子ども達を甘やかしていてはならないのだと思います。
もちろん、いきなり子ども達に向かって、「全速力で走れ!」というのは無理な話です。そこは段階を追っていかねばなりません(自分自身のことを思い出してみてください。回り道も多かったでしょう)。あるいは「受験勉強さえしていい大学に入ればおまえの人生安泰だ!」などと固定観念丸出しで言っても、これからの混迷した時代では、説得力がないでしょう。しかし、「何も必死に努力して生きていないのなら、受験勉強くらい必死にやったら?それは少なくともあと幾ばくかの期間はそれなりに有効性が残るのだろうし。わからないことをわかっていくというプロセス自体は、社会がそれへの(現状での)過大評価をこれから見直していくとしてもなお、一定程度には評価されねばならないものなのだから、そんなに「損」のない努力だと思うよ。そういうところでまず、努力して結果を出す練習をしていくとよいのでは?」ということを子ども達に教えていくことは大切だと思っています。塾をやっていていつも感じるのは、子ども達は正しい意見に対して敬虔である点で、大人以上に賢いということです。その子ども達に、考え抜かれた正しい意見や戦略を提供できないのだとしたら、それは大人のせいである、ということを肝に銘じておくことが大切であると思います。
ともあれ、現実を見据えた研鑽の場としての嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいです。大変ですが、一緒に頑張っていきましょう。
2011年11月11日 嚮心塾塾長 柳原 浩紀
その一方で、なかなか勉強に前向きになれない子達も塾生の中にも少数ながらいます。特にまだ受験を近くのこと、あるいは不可避のことだと感じられていない子達は、どうしても日々の勉強をどのように効率よくこなし、作った空き時間で他のことをやるかばかりを考えているように思います。そして、「うまくやる」ことを目指しているが故に、うまくいかずに失敗してしまうことが多いようですが、このような取り組み方は本当に「効率がよい」と言えるのでしょうか。「テレビも見て、音楽も聴いて、部活もやって、その上でなお成績がよい。」状態になることを理想としてもつのは構わないとしても、それができていないのであれば、何を自分の人生の中でまず第一に優先していかねばならないかを考えることが大切だと思います。
そして、今の日本において受験勉強をすることは、僕はかなり「楽な」生きる道であると考えています。一般に受験勉強は、17,18の頃の労力に対して得る見返りが純粋に一番多い努力であると思います。たとえば全く勉強をしていない状態から始めても、1年あるいは2年必死に勉強すれば、俗に言う「G-MARCH(学習院・明治・青山学院・立教・中央・法政)」ぐらいは合格できるものです(いやらしい話ですが)。それがほとんどの受験生にできていないのは、適切な指導の欠如と本人のやる気の無さのせいであると思います。たったそれぐらいの努力で、得ることのできる就職機会や生涯賃金を、どうして見殺しにしてしまえるのでしょうか。それでは現実を見ていない態度であると思います。
もちろん、とびきり賢い子が、このような受験勉強と学校歴に基づいた「能力主義」(それが本当に能力を担保しているかどうかがわからないのでかっこつきです)はいずれ(大した根拠のない信仰に基づいているが故に)崩壊する、と見て、別の努力をすることは素晴らしいのです。それを大人達が理解できなかろうと、あるいは、たとえ彼らの見込み通りには世界が動いていかないとしてもなお、そのような若い世代はきっと現実に対応していく力を備えていくでしょう。しかし、そのようでなく、ただ今自分が「やりたいこと」をしていて、受験勉強(あるいはそのような現実を見据えた努力)をしないでいる子ども達は、どのように生きていけるというのでしょうか。ただ食いつなぐことが目標だ、というのは貧しい人間観であるのは間違いないでしょう。しかし、そうは言っても自分の信じる様々な価値をこの社会に実現していくためにもまた、生きていかねばならないし、そのための戦略が必要です。その戦略をどのように立てていくかについて、我々大人は、子ども達を甘やかしていてはならないのだと思います。
もちろん、いきなり子ども達に向かって、「全速力で走れ!」というのは無理な話です。そこは段階を追っていかねばなりません(自分自身のことを思い出してみてください。回り道も多かったでしょう)。あるいは「受験勉強さえしていい大学に入ればおまえの人生安泰だ!」などと固定観念丸出しで言っても、これからの混迷した時代では、説得力がないでしょう。しかし、「何も必死に努力して生きていないのなら、受験勉強くらい必死にやったら?それは少なくともあと幾ばくかの期間はそれなりに有効性が残るのだろうし。わからないことをわかっていくというプロセス自体は、社会がそれへの(現状での)過大評価をこれから見直していくとしてもなお、一定程度には評価されねばならないものなのだから、そんなに「損」のない努力だと思うよ。そういうところでまず、努力して結果を出す練習をしていくとよいのでは?」ということを子ども達に教えていくことは大切だと思っています。塾をやっていていつも感じるのは、子ども達は正しい意見に対して敬虔である点で、大人以上に賢いということです。その子ども達に、考え抜かれた正しい意見や戦略を提供できないのだとしたら、それは大人のせいである、ということを肝に銘じておくことが大切であると思います。
ともあれ、現実を見据えた研鑽の場としての嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいです。大変ですが、一緒に頑張っていきましょう。
2011年11月11日 嚮心塾塾長 柳原 浩紀



