
人間って、本当に非効率的な生き物です。ある人がどんなに必死に勉強したって、それが決してその子孫に伝わるわけではないし、他の人に伝わるわけではない。だから、次の世代、あるいは勉強をしていない他の人たちは同じように勉強をしなければならないわけです。これを一人が勉強したことが他の人も「同期」できるような仕組みになっていれば、世の中からどれほど「バカ」が減るでしょうか。結局王様や貴族やその他諸々をなくして「民主主義こそが人類普遍の原理だ!」などと声高に言うのは勝手ですが、それでは結局必死に勉強をしていない大多数のアホな意見が反映されてしまいます(なぜなら、何かを必死に勉強することは誰にとってもつらいことである以上、自分の生活を維持すること以外に社会の一員として勉強をしていく動機を強く保ち続けることができるのは、きわめて少数の人々であるからです)。それが本当の意味でうまく機能するためには、このある個体が獲得した知識や経験、技術を他の個体にも瞬時にダウンロードできるような仕組みが必要なわけです。だから國分功一郎さんが指摘するように、民主主義自体に閉塞感が漂っていることを私たちは直視しなければならないということには僕も全く大賛成なのですが、だとしたら効率の悪い「教育」とか「教育学」などもうやめて、誰かひたすらに勉強する勉強担当の人と、その人の脳のデータを他の人にダウンロードするシステムを研究する優秀な人に、ひたすら資金も人手も割き、あとの凡人はそのシステムができるまではしょうがないから勉強するしかないですが、システムができあがるために税金をひたすら働いて納め、そのシステムができたら、世界一優秀な頭脳を持つ人たちから様々な分野の知識や技術その他必要なものをダウンロードしてもらえばいいわけです。すると、一票の価値がまさに均等になり、どの人も同レベルの知的水準を保つが故に、熟慮や討議を重ねて候補者が選ばれるわけです。これこそ、民主主義の理想型なのではないでしょうか。また候補者だって同じような知的レベルになるわけです。そうすれば、優秀なだけでなく、有権者から見ても「あいつはダメだ」と言えない。なぜって自分と同じものをダウンロードしているわけですから。だから、その政治家に何もできなければ、そもそも人類全体の知見がまだその問題を解決するところまで来ていないと(確信をもって)言えるわけです。それなら、「あいつが悪い。」「いや、お前だ。」などと揚げ足取りの連続という不毛な政治的ゲームに費やす資源をムダにせず、そのような困難な問題を解決するために研究を進めるというより建設的な方向へと使うことができるようになるわけです。
なんて、SFチックに書いてみましたし、現状がこれだけひどいとこのSFについ飛びつきたくなりますが、僕は根本的にこのようなことはそもそも無理であるし、また、すべきではないと考えています。
結局このようなSFは、「人間の科学なり知識が紆余曲折はあるにせよ、長い目で見れば進歩する」という前提の元に立っていると思います。しかし、この前提をそのままに受け入れがたいのは、その「進歩」が間違いであることなどいくらでもある、ということです。そして、その「進歩」が間違いであることに気付くのには何十年、何百年単位の時間が必要なものもまた、あるわけです。その間違いに気付くことのできる能力を、そのような「ダウンロード」によって画一化された脳をもつ私たちが維持できるのでしょうか。人間は自分の努力によって獲得した知識についてすら、それが誤りであることを認めたがりはしません。ましてや、それが当たり前に自分の吟味を経ないでダウンロードされてインストールされている状態でのそれらの莫大な数の諸々の知識に対して、1つ1つ吟味などできるでしょうか。僕は決してできないと思います。
もちろん、上のようなSFチックな話は、技術的にも倫理的にも問題があるのですが、それらの話を書くと長くなるので割愛いたします。僕がここで強調したいのは、このようなSFチックな解決法が実は技術面や倫理面での問題点という部分でなく、そもそもその手法の目的とする「人類全体にとっての正しい知識と技術の増進」という目的にとってもプラスかマイナスかわからない(長い目で見れば見るほどマイナスであると僕は思います)、ということです。そして、ここにこそ、人間がこのような非効率的な知識や技術の伝達方法である「教育」という行為を(当事者はさんざんに文句を言いながらも)やらざるを得ない理由があると僕は思います。いや、むしろこの非効率が実は効率がよい、という話です。
ということで、話の導入でおわってしまいました。次回に続きます。
(國分功一郎さんの「民主主義についての『資本論』的分析を加えた書物の出現が待たれる!」というご指摘の本こそ、まさに僕が大学を卒業して以来書きたかったものです(その習作的なものは10年前くらいに書いていました)。これもいずれ、よりしっかりと勉強して書かねばならないと思っています(自意識過剰ですね。いえいえ。それが大切なんです。太宰治の言うように「大空を独り支えるアトラスの気概がなければ」生きることに意味なんてありません。))
なんて、SFチックに書いてみましたし、現状がこれだけひどいとこのSFについ飛びつきたくなりますが、僕は根本的にこのようなことはそもそも無理であるし、また、すべきではないと考えています。
結局このようなSFは、「人間の科学なり知識が紆余曲折はあるにせよ、長い目で見れば進歩する」という前提の元に立っていると思います。しかし、この前提をそのままに受け入れがたいのは、その「進歩」が間違いであることなどいくらでもある、ということです。そして、その「進歩」が間違いであることに気付くのには何十年、何百年単位の時間が必要なものもまた、あるわけです。その間違いに気付くことのできる能力を、そのような「ダウンロード」によって画一化された脳をもつ私たちが維持できるのでしょうか。人間は自分の努力によって獲得した知識についてすら、それが誤りであることを認めたがりはしません。ましてや、それが当たり前に自分の吟味を経ないでダウンロードされてインストールされている状態でのそれらの莫大な数の諸々の知識に対して、1つ1つ吟味などできるでしょうか。僕は決してできないと思います。
もちろん、上のようなSFチックな話は、技術的にも倫理的にも問題があるのですが、それらの話を書くと長くなるので割愛いたします。僕がここで強調したいのは、このようなSFチックな解決法が実は技術面や倫理面での問題点という部分でなく、そもそもその手法の目的とする「人類全体にとっての正しい知識と技術の増進」という目的にとってもプラスかマイナスかわからない(長い目で見れば見るほどマイナスであると僕は思います)、ということです。そして、ここにこそ、人間がこのような非効率的な知識や技術の伝達方法である「教育」という行為を(当事者はさんざんに文句を言いながらも)やらざるを得ない理由があると僕は思います。いや、むしろこの非効率が実は効率がよい、という話です。
ということで、話の導入でおわってしまいました。次回に続きます。
(國分功一郎さんの「民主主義についての『資本論』的分析を加えた書物の出現が待たれる!」というご指摘の本こそ、まさに僕が大学を卒業して以来書きたかったものです(その習作的なものは10年前くらいに書いていました)。これもいずれ、よりしっかりと勉強して書かねばならないと思っています(自意識過剰ですね。いえいえ。それが大切なんです。太宰治の言うように「大空を独り支えるアトラスの気概がなければ」生きることに意味なんてありません。))



