嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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設立当初の入塾案内

設立当初(2005年4月)の入塾案内が埋もれていたので、このブログにも載せたいと思います。読み直してみて、細部に関してもっと認識が改まったことは多々ありますが、基本的な思いとしては変わっていないと思います。まあしかし、こんな長い文章をパンフレットとして読むのは大変ですよね。

<開塾に当たって>
私たちが勉強をするためには、非情になることが欠かせません。勉強をするには、まず目の前の本や教材へと「集中」しなければ、その内容が身に付かないからです。それでも、そこで行っている営みが本当の集中になっていれば、つまり「どうにもまとまりのつかないこの世界の広さ、あちらを立てればこちらが立たずというその難しさの中で、何を求めていったらよいのか困ってしまうけれども、かといって手をこまねいているのもやっぱりおかしいと思ってとりあえずこれに取り組もう」と思って集中するのであれば、すばらしいのです。しかし、むしろよく行われている「集中」を正確に表現すれば、自分の視野を狭く狭く固定することで得られる心の硬直化を「お、バランスがとれているぞ」と勘違いしてしまうことが多いのではないでしょうか。もちろんこのように狭い範囲しか自分の視野に入れない人間の方が、「集中」をするのは容易です。実際に自分の集中力を誇り、他の人々の集中力のなさを笑う人々も、たいていの場合は、自らの視野が狭いが故に「集中」しやすいだけであることが多いのでしょう。
それに対して、心から他の人のことを心配してしまう人は、なかなか勉強に集中ができません。しかしそれは、特に若いときには、より多くのものを自らの視野に入れているが故に「集中」ができないという理由がほとんどであるのです。もちろんそのような状態を長く続ける中で怠け心を覚えてしまい、自らが「集中」できない視野の広さを持つことを口実として目の前の責務をさぼりたいだけになる、という失敗に陥っている人々が多いことも確かでしょう。そのようなときに自らの怠け心に流されてしまうことを世間の無理解や底の浅さのせいにしてしまうことは、その人本人のためにはなりません。ただ、そのような人々がそこに落ち込むきっかけは、やはり軽々しく「集中」のできる底の浅く視野の狭い人々が幅を利かせているというこの現実に対する失望、さらには絶望であることは間違いありません。勉強が得意な人間は、自らの力を誇る前に、自らの視野の狭さを反省することがまず必要なのです。(もちろんこれは、僕自身への反省でもあります。)

しかし、広い視野とやさしさを持つが故に勉強に集中できない人々を、そのままに肯定してよいわけでもありません。僕はそれもまた無責任だと思います。彼らがいくらやさしくても、ただ勉強が苦手だという理由だけで、この社会から冷遇されていきます。そのような暴力に苦しめられる彼らを「やさしい」という理由だけで僕が力の限り肯定し励まそうと、それは彼らにとって「充電」程度にしかならないでしょう。それだけではありません。技術のない技術者がただ彼らのやさしさ故に肯定される社会は、果たして正しい社会であるといえるのかという問題があります。やさしさは、とどまるところを知らぬときにのみ、やさしさであると呼べるのだとしたら、そのような技術や知識に対してもまた思いをやらねば、やはりやさしさとはいえないでしょう。そもそも心の傾向そのものを評価されるだけで生きていける社会とは、とても裕福な社会です。そのような社会は、それを支える奴隷の犠牲があって初めて成り立つ貴族社会のようにしか可能ではないからこそ、それではやはりそのコミュニティーの外に対して、暴力的であるのです。
自らの視野を広げ、あらゆる人や物に思いやりを持とうとすればするほど、ますます目の前の勉強に対して「集中」できなくなります。しかし、その視野を広げ続け、ますます「集中」をしにくくしていくことと、それでもなお、その広がった視野に映るこの世界を何とかしていくためにこそ、集中をする力を付けること、その両方を鍛えることのみがただ一つの正しい鍛え方であると思います。つまり集中をしにくくなることと、それでも集中をする力を付けることと、その両方を鍛え続けていくということです。
そのような両方の力を付けていくこととは、即ち、すべてを見捨てないために目の前の一つをがんばるということです。`Think globally, act locally`という言葉もありますが`Think universally, act personally`とでもいえばよいでしょうか。広く見れば見るほど、自分の無力さに絶望し、狭く見れば見るほど自分のちっぽけな力におぼれます。広く見るが故の絶望を深めて、しかし一つ一つに希望を捨てずに努力を重ねていかねばなりません。

それに対して、昨今の受験勉強では「無駄なものを切り捨てて、効率よくやる」ことが流行しています。しかし、「無駄」かどうかはそんなに簡単に僕達にわかるものではありません。まずそれは何を目的とするかによって、全く変わります。受験にとっては必要ですが生きるのには無駄なことも多いですし、生きるのに必要でも、受験には無駄なものもあります。「生きる」というのも様々です。ただ自らの口を糊するだけの「生きる」と、心に誠実に「生きる」こととで、何が必要であり、何が必要でないかは全く変わってきます。何が無駄であるのかを判断するためには、僕達は子供達にどのように生きてほしいのかをまずはっきりと明確にしなければなりません。
さらにこのことから、「無駄なものは切り捨てる」という姿勢で育った子供たちが大人になったとき、彼らが困っている人々や苦しんでいる人々のために努力することができるかどうかという問題が生じます。「自分は様々なものを切り捨ててきたが故に目の前のことに努力をしてこれたのだ」という自覚のない人間は、困っている人々や苦しんでいる人々を「努力が足りない」という平板な見方しかできないでしょう。そのような切り捨てによる「努力」とは、つまりみんなで山登りをするのに重い荷物をすべて振り捨てて、一人で真っ先に山の頂上に登り、喜ぶようなたぐいのものです。その自分勝手な一人の捨てた荷物を背負い、踏みにじった草花を繕っては、ゆっくりと登っていく人々、あるいは自分たちが踏みにじってきた草花をもう繕えないというその事実に愕然とし、心を痛めてそれでも何とか自分たちにできることはないかと模索し始める人と比べ、どちらが努力しているといえるのでしょうか。
目的をはっきりさせなくてはならないだけではありません。たとえその目的が考え抜かれたものであろうと、「無駄」というのは、恐ろしい言葉であるのです。私たちは、あるものを「無駄だ」と判断するときには必ず、「そのものに価値があるかどうかが今の私にはわからない。」という程度の認識にすぎない自分の愚かさを省みることを忘れてしまっています。僕自身、自分の人生を振り返って、あるいは一人一人の生徒を教えていく中で、自分では「無駄だ」と判断して捨ててしまった自分や生徒の中のある部分に、それにはそうならざるをえない歩みがあり、決して無駄ではないのに、それを「無駄」としてしか見ることのできなかった自分の見方の浅さを、苦い反省を伴って思い知らされるという失敗ばかりでした。
もちろん、だからといって「無駄」を省かずには生きていけないことも確かです。大金持ちの大邸宅には差しあたり必要としないものがいくらでも置けるかもしれませんが、六畳一間に三人暮らしでは、必要のないものを置いている余裕はないでしょう。それと同じ事で、何が無駄であるのかを考えないですべてを肯定する人生は、もはや自分が生き延びられることが保証されている人生においてしか、可能ではありません。ですから無駄として切り捨てることの失敗におびえて、すべてを肯定する、というのもやはり解決にはなっていないのです。まずそれは、自らが正しいと思うもの以外もすべて認めることによって、自分で何が正しいものであるのかを判断できなくなるでしょうし、たとえその判断力を失わないとしてもそれは余裕のある人間にしかできないことです。
しかし、無駄は省かねばならないことを認めたとしても、今日の食費にも窮する身にも、詩や歌や絵は必要であるかもしれません。むしろ、広大な大邸宅にそろう楽器の数々よりも、六畳一間に申し訳なさそうに置かれている一本のギターの方が、その人にとって必要なものであることが多いでしょう。そのギターは稼ぎの道具にならないとしても、無駄ではなくやはり必要なものであるのです。
初めから狭い範囲しか見ていない人間がそこを見るしかできないだけであり、集中力があるわけではないのと同じように、自分の身の周りだけにやさしさをとどめておける人々は、そのために「努力」することをいとわないのも当然です。そのような「努力」ではなく、本当に自らの心のやさしさに正直に、あらゆるものに思いをやり、支えていきたいと思うが故に苦しむ子供たちを支え、鍛えていきたいと思います。

「詰め込みではなく、思考力を鍛えます」というキャッチフレーズの塾も多いですが、その「思考力」重視の主張はあくまで、「受験のためのツールとしてそちらの方が有効だ」「受験の後の人生も思考力がある方が充実して生きていける。」というものでしょう。しかし、このような「思考力」は、ある一つの方向に画一的にそろえられている以上、本当に思考力であるとはいえません。たとえば、人間にとって事実を知ることや考えることの意味は、それが楽しみを越えたところから始まります。知ることが辛い事実を知りたくはないけれども、それでも知らなければならないと思って目を開くとき、その知識には意味がありますし、考えると辛くなることをそれでも考えなければならないと思って必死に考えるとき、その思考には意味があります。それは私たちのこの社会をよりよくすることに最も必要な、勇気に裏付けられた努力です。「思考力を鍛える」といううたい文句があろうと、その思考の「対象」がきわめて限られたものであれば、やはりそれは自らの思考の限界に気づくことのできない人間になるのです。
嚮心塾では、すべてに対して考え抜く力を子供達に鍛えてもらいたいと思います。そのような思考力は対象を限定していないが為に、つらく、時には危うい印象を受けるかもしれません。回り道や失敗をしてしまう可能性も出てくるでしょうし、安易な妥協をできない自分に苦しむことも多いでしょう。しかし、そのように取り組まずにはたどり着くことのできない生き方があります。それを子供達に伝えていきたいと考えています。

最後に、悩んでいる一人一人のお子さんへ。嚮心塾の「嚮心」とは「心に嚮(む)きあう」という意味です。僕は自分の心に嚮(む)き合えば、君たち一人一人の心に決して嘘をつかずに、嚮(む)き合わざるを得ません。しかし、そのように僕が君たちの心に嚮(む)き合うことが、君たち自身が自分の心に嚮(む)き合うきっかけにしてくれれば本当にうれしいし、君たちがそのように自分の心に嚮(む)き合って、決してそれに対して嘘をつかないでいることがまた、僕自身をさらに自分の心に嚮(む)き合い、そこから逃げないように駆り立てます。そのようなコミュニケーションの場としての塾に、一歩を踏み出していただけることを心からお待ちしております。
嚮心塾塾長    柳原浩紀

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ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法(就職する君へ)、現場一流トップ三流 その1

 下働き、雑用、と言われるものをほとんど全ての若い子達は嫌がります。「こんなことをしても意味がない!」「そもそも自分に何のメリットもない!」という反応がほとんどではないでしょうか。また、そうでなく下働きを嫌がらない子達も、それは何らかの「社会への奉仕」なり「自分の属する共同体への奉仕」を1つの美徳として、幼いときからすり込まれているが故にそれらに対して肯定的であるわけです。しかし、僕はそのどちらの態度も間違っていると思います。下働き、雑用を徹底的にすることは、自分が力が付くという意味で、純粋に自分のためになります。

 僕がそれに気付いたのは中学三年生くらいでしょうか。結局何かをよく知っている人に任せる、ということがこの社会における分業を作り出しているとしても、その「よく知っている人」というのはほとんどの場合「凡才にはわからないような高度な内容を専門的に勉強してきた人」である必要が無い場合が多いと思います。つまり、「ちょっとIpadの使い方がわからなくて…」とか、「ちょっとパスポートの取り方がわからなくて…」ぐらいのことは、言ってみればそれをやろうという意志と、そのやり方を調べる努力、さらにはそれをやる際に起こる些細な細かい手違いに耐える忍耐強ささえあれば、誰にでも身につくものであるわけです。しかし、実際には若い子はともかく、大人であってもそのように今までの自分が経験してきていない作業に関しては、二の足を踏んでしまい、結局誰かに聞かざるを得ない、あるいは聞いてもできなくてお金を払ってお願いしたりせざるを得ない、ということが多いのではないでしょうか。
 そして、下働き、雑用とはそのような何かをしていく際の煩雑な手続きその他を自分にそれをやる必要が無くてもこなす機会を与えてもらえるわけですから、そのような作業を徹底的にやり、様々なことの手順に精通していくことが、どんどん自らの「力」になっていきます。自分が普通に生きていく中では決して関わることの無かった手続きやプロセスに習熟する機会を得られ、しかもそれをやることによって、周りの人からは感謝を受ける。これほど「お得」なことはないわけです。だからこそ、若い世代には、学校のことであれ、部活のことであれ、ボランティアのことであれ、その他様々なことに取り組み、どれ1つ面倒くさがらずにやっていってほしいと思います。みんなが嫌がる仕事を率先して徹底的にやっていけば、みんなからの人望を得られるという小さな利益以上に、君たち自身の中に、さまざまな手続きに習熟し、それに対する心理的抵抗感がなくなっていきます。それこそが何よりも君たちの頼もしい力になるでしょうし、この残酷な社会の中で君たち自身が一目置かれ、生きていくためのスキルとなるでしょう。(就職によって身につくことはそれなのかな、と僕は思っています。「自分のやりたくない仕事をしたくない!」と飛び出すのは上に述べたような「くだらない仕事」の数々がいかに人々の意識を支配し、それをできるかできないかによって、その人が周りから重宝されるかどうかを決定するという事実をあまりに軽視していると思います。しかし、だからといって、そのような雑用を決して嫌がらない姿勢やそれが自分の力に確かになっていく、それぐらいほとんどの人々は自分の習熟していない雑用を乗り越えることができずに暮らしている、ということを学んだ人間がその後もなお、その「奴隷」生活を送るべきかどうかは僕には疑問です。この意味でも就職にもまた効用の限界があると思います。)

 話を戻すと、僕は少なくとも高校生の3年間はそれに気付いていて、それに気付かない周りの同級生達が「雑用」をいやがっては勉強したがるのを「なんてアホなんだ!」と思いながら、自分は徹底的に働いていました(今考えると、嫌な奴ですね。すみません。もちろん勉強もできました。なおさら嫌な奴です。さらにすみません。ただ、弁解をしますと、このことに気付けない子達がいくら勉強をしても、このことに気付ける子には勝てない。それは厳然たる事実だと思いますし、教えていてもその違いを感じます。視野を狭く狭くとって「ここだけが受験に出るのだからここだけやっていれば大丈夫!」ということを子供達の感性を殺さないよう戦略的にやるのではなく、一人一人の感性まで根こそぎ殺してしまうかのようにやってしまうのでは、やはり限界があるわけです。「感じるな!考えるな!覚えろ!」という勉強方法ではやはり上限ができてしまうと思います)

 その後ヘーゲルを読み、『精神現象学』における、彼の「主人と奴隷の弁証法(注1)」について知ったときにも、「こんな僕みたいな子供にもわかることをおおげさに言うだけで大哲学者と呼ばれるなど、楽なものだなあ。」と不遜にも思った覚えがあります。(もちろん、力を蓄え独立を準備していく奴隷と、奴隷に依存していく主人との間での力関係の逆転が起こるということを、その当時の僕はたとえば日本の平安時代から鎌倉時代に移行する過程での貴族から武士の権力の推移などと結びつけて社会経済的な観点から肯定していただけでした。それがヘーゲルの言うように内面の問題としての自由となるかどうかについては、かなり難しいと思います。ニーチェの言うようにそれが「奴隷の道徳としてのキリスト教」的な側面、つまり「奴隷が奴隷労働を通じて精神的な自由を獲得できる」が故に、「奴隷は(精神的に)自由だ!」という主張は、「だから奴隷はそのまま奴隷でよいのだ!」という主張へと容易に置き換わるわけです。個人的な心情としては僕はヘーゲルの言うこと(彼の言う「自由」)がよく分かるのですが、それを主張することはこの社会における戦略としてはあまり正しくないと思います。そして、このことについては以下で触れていくつもりです。)

 しかし、今回の福島の原発事故でもよく言われた、「現場一流、トップ三流」という言葉を考えてみると、僕はどうも、ヘーゲルの言葉の含蓄をくみ出し切れていなかったのではないか、そこにまだまだ学ぶものがあるのではないか、と思っています。それは社会経済的にも、あるいは精神的にもです。

 この「現場一流、トップ三流」という言葉はトップの情けなさを揶揄し、現場のすばらしさをたたえることで、ますます現場の人に頑張ってもらおうという意図でよく使われていると思います。しかし、そもそも「現場一流、トップ三流」であれば、やはりシステムとしてはうまく機能していないと言えるのではないでしょうか。もちろん、逆よりはまだましにせよ、「現場一流、トップ三流」という言葉をことさらに言い出して、トップを揶揄してもあまり建設的ではないように思います。

そうそう。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」にもどれば、奴隷が様々なことが出来るようになり、自由を感じ、能力も高まることはもちろん当たり前の事実であるわけです。「主人は奴隷の奴隷となり、奴隷は主人の主人となる。」うんうん。その通りでしょう。しかし、問題はそのように最前線で働くが故に英知も技術も鍛えられる人々の意見が、全体には反映されていかないというこの仕組みをどのように変えていくことができるか、という困難な問題に対して、まだ人類社会は答えを出せていないということなのではないでしょうか。奴隷と主人との間でどうしてもそのような鍛えられ方の差ができてしまうとしたら、そこで主人と奴隷が入れ替わらなければならない。それをたとえば暴力的な革命に依らないとしたら、他の方法を私たちはまだ見いだせていないのではないでしょうか。

「国会議員は国民の中から選ぶから、主人と奴隷の入れ替えがおきているはずだ。」というのは建前としてはわかりやすいのでしょうが、世襲議員はもちろんのこと、そうでなくとも実はこの建前は破綻していると僕は思います。たとえば各業界団体の中で国会議員候補として祭り上げられる人たちは、(それが日本医師会であれ連合であれ)大体現場で働くことから離れて、その団体の政治活動に熱心である人たちが多いわけです。あるいはメディアでの露出が多い人もまた、国会議員になりやすい。あるいは地方議会を経て、ステップアップして国政へ、という人も政治という現場では働いてきているのでしょうが、社会の現場では働いていない。即ち、現在の日本に於いては、何か1つの職業を徹底的に極め、一人の職業人(政治家・メディア露出の多い職業を除く)としてキャリアを積んできた人が国会議員になるのはきわめて難しいわけです。この例外といえば、起業家ぐらいでしょうか。

では、会社はどうでしょうか。会社でもやはり、出世コースがあると聞きます。たとえば東京電力では、福島第一原発の所長は出世コースなのでしょうか。東京電力では、本当かどうかわかりませんが、「東大法卒、総務畑」が社長コースだと言われているそうです。というと、やはり出世コースからは外れているのかもしれません。そんなことを言わないまでも、そもそも今実際に福島の第一原発で体を張って作業をされている作業員の方々の一体誰が将来東電の幹部になれるのでしょうか。いや、そもそもその作業員の方々は東電の正社員ですらない場合がほとんどかもしれません。そのような事実を鑑みると、そしてこれが東電だけではなく、広く日本企業に蔓延している総合職と一般職、さらには派遣労働者という身分差別、さらには官庁におけるキャリアとノンキャリアの差別などを総合して考えれば、やはり「奴隷」は「主人」になりえないシステムしか我々は作り得ていないのではないか、という忸怩たる思いを持たざるを得ません。

 本当に「現場一流、トップ三流」に問題意識を感じるのなら、そもそも就職試験に「大卒」という要件を外す大企業が増えるべきでしょう。あるいは初期の選抜でそのようなものがそれなりには必要であるというのなら、社員の評価制度を整え、コースをもっと流動的にすべきでしょう。しかし、そのような議論にはならない。それは結局「現場一流、トップ三流」と揶揄されようと今の仕組みを変えない方が、現在の「偽装能力主義」を変えずに済む点で、(現在の仕組みに慣れている人々にとっては)ありがたいという合意があるのではないでしょうか。現場を賞賛し、トップは揶揄に耐えさえすれば、奴隷は労働に自由を見いだし、主人は奴隷に隷属するという精神論によって、身分の変更を避けることができてしまうわけです。まさにニーチェの批判したとおり、「奴隷の道徳」の徹底のためのスローガンが僕は「現場一流、トップ三流」という言葉なのではないかと疑わざるをえません。

そのように考えると、ヘーゲルの言葉も、もちろんニーチェの批判した側面はあるものの、奴隷的立場に居た人々に対する応援歌であったようにも聞こえてくるわけです。「今は苦しいかもしれないが、君たちにはどんどん力がついていく。そして、その力はいずれこの社会のありようも変えて、君たちを今の立場から解き放ってくれるだろう。それも必然的に。そのときを待とうではないか。彼ら(主人)はやがて、力を失っていく。しかし、その力を失う前に、無理矢理反抗をしてはならない。それは結局君たちの命を粗末にするだけだ。君たちは今、自分対に力が付いていき、彼らからは力が失われていく、というただその一点を心の支えにして、頑張れ!」という、応援歌だったのかもしれません(ちょっと好意的な解釈すぎるとは思いますが)。

 しかし、私たちはその後の時代に生きています。人々が現場で苦しみ、どのように力を付けようと結局それが組織全体に響いていかずに、主人は主人、奴隷は奴隷の関係が決して入れ替わることのないシステムを、皆が信じている時代に生きています。どのような努力も、苦労も、それが次の英知を生み出す母体となる前に(人もその人達の経験も)使い捨てられていく社会に生きています。そのような社会に於いては、主人と奴隷の弁証法を信じることは、もはやその最良の意味に於いてすら、ごまかしにしかなりません。この辺りが、現代の抱える閉塞感なのではないでしょうか。このような社会では、結局身分関係を維持し続けるために、現場で生まれた英知は社会全体にフィードバックされることなく闇に葬られていくわけです。その結果として、社会全体がより、様々なことへの対応能力を失う方向へと退化して行かざるを得ない。それが、現在の私たちが抱える問題であると思っています。

その意味で、「福島の人たちを見殺しにするな。」「現場の人たちを見殺しにするな。」という意見は、単なる同情を超えて、思想的に意味のある言葉であるわけです。

と書いて、力尽きました。次回に続きます。

 

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