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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

届く言葉と届かない言葉について

教えるということは、生徒一人一人に届く言葉を鍛え続けていかねばなりません。こんな当たり前のことを書かざるを得ないのは、世に溢れる「教育」というものが、いかに一人一人に届かない言葉に満ちあふれているか、についてどうしてもウンザリとせざるを得ない状況ばかりであるからです。

たとえば何かについての説明、というのも、説明をする側の理解をただ繰り返すだけでは全く無意味であるわけです。相手が何をわかっていないかを把握していなければ、どのようにelegantな説明もまた、無意味でしかありません。さらには、初学者にあまり詳細な説明をすることが効果的でないのは、大分そのことが分かっている人に簡便な説明をすることが効果的でないのと同じです。その意味で、説明というのはまずそのことに自分が深く通じた上で、さらにどこを取捨選択すると分かりやすいか、という判断力、さらにはそのことについて被説明者がどれくらい分かっていないか、ということについての理解力が必要です。その前提をふまえてみると、教えるということの果てのなさ、きりの無さに途方に暮れざるを得ない、というのが僕の正直な感想です。それでも、日々必死に工夫しながらやっているわけですが、逆にこれを皆どのようにやっているのか、何となく為されているのではないかと思うと、怖くなったりもします。

もちろん、これは教育だけに限ることではありません。
言葉というのは、コミュニケーションをとるために発せられるものであるというのがスタート地点であるとしても、しかし、相手とコミュニケーションをとらないためにも、使えてしまうわけです。自分勝手な話をひたすらに続ければ、相手とコミュニケーションをとらずに済んでしまいます。そのような講義・教え方・会話に私たちはあまりにも慣れすぎてしまっていて、むしろそういうやりとりを超えて踏み込んでいくことも、踏み込まれることも苦手になってしまっているのではないでしょうか。

しかし、僕は断言します。表面をなでるだけのやりとりを、何億年続けようとも、人と人とはコミュニケーションをとれないのです。相手の中に切り入っていくことからしか、できないコミュニケーションがあります。あるいは、そのようにしかできない教育があります。そこを私たちは、今までさぼりすぎ続けてきたのではないか。そのように思えてならないわけです。

ですので、嚮心塾では、届かないように発する言葉を一言たりとも許したくありません。もちろん、届く言葉をお互いに必死に探そうと、それでも届かないことばかりなのが現実なのでしょう。しかし、届かない言葉を互いに話しては、安全に勉強しようだの、安全に人間関係を取り繕おうだのをすることには、僕は無意味さしか感じません。それでは、もちろん勉強面でも鍛えることに限度があると思いますし、生産的な関係性を生み出すこともまた、できないでしょう。(政治の問題というのも、結局はここにつきるのかもしれません。民主主義も、選挙制度以上のものではない表面的なやりとりになってしまっている。有権者と議員とで、互いに自分の主張を繰り返しているだけになってしまっているのでしょう。)

 もちろん、届く言葉のみを追い求めれば、自分がいかに相手に届く言葉をもっていないかを思い知らされる、絶望的な毎日が待っています。しかし、その苦しさや難しさに耐えかねて、届かない言葉を意図的に吐いてしまえば、もうそのような状態から抜け出ることは難しいのだと思います。言葉が思いや内容を伝えないことに日々自覚的であり、日々悩み苦しみ続けている人間だけが、誰よりも豊かな内容を伝えられるのではないかと信じて、今日もまた教えていきたいと思っています。もちろん、僕は誰よりも届く言葉をもちたいわけではありません。誰かと比較するなど意味のないことです。僕自身が(それが勉強の内容であれ、生徒達一人一人の生きる姿勢についてであれ)伝えなければならないと思うことを全て伝え切れていない、ということを少しでも100%に近づけていけるように、努力していきたいと思います。

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無知を笑っていてはいけない。

 今回の東日本大震災で、特に福島の原発事故後には、様々な専門家の方がテレビや新聞に出て解説をしてくれました。その需要は今でも、続いています。僕自身もまた、「原発など、人間の乏しい知恵と有限な存在ではどだい無理なのだ。つまり、原子力発電とはその無理を押して行われていることなのだ。」と昔、高木仁三郎さんの著書を何冊か読んで結論づけてから、しばらく不勉強のまま放置していたので、とても勉強になりました。
 しかし、僕がテレビで見ていて気になったのは、たとえば震災後、首都圏でおきた物の買いだめなどに対し、否定的、もっと言葉を悪くすると、冷笑的な態度が多かったことです。もちろんそれ自体は愚かしく、無知のなせるわざであるかもしれません。しかし、そのようなニュースについて、私たちが考えねばならないのは、「どうしてこのようなことが起きてしまうのか。」であると思います。
 
 あるいは、放射線量についての人々の過敏な反応を笑う(「それよりタバコや飲酒(最近の話題では携帯電話)の方がよっぽど発がんリスクが高い」云々)知識人達にも僕は腹が立っています。彼らは現在の医学について、多少情報を得やすいだけです。そもそも、その現在の医学自体が、どれほどまでがんのことを理解できているというのでしょうか。小指の爪の先ほどのリスク想定に基づいて原子力発電を擁護していた人々が、また小指の爪の先
ほどの人間のがんに対する医学的知識を振りかざしては冷静になることを主張しているのを見ると、僕は悩んでしまいます。もちろん、ヒステリックな反応をするよりは、冷静な反応の方が良いとは思います。しかし、何も信じられないというパニックを、何かを信じる人々が止めたとしても、それは単なる理不尽な「蓋(ふた)」になっているかもしれない、と思っています。

 大切なのは、そのように「本能的」に見える多くの人々の反応もまた、(戦略的には失敗が多いとしても)事実としては、あながち間違いではないと思えるかどうかだと思います。そのように自らが信じるもの(科学)に対して、その信仰を疑い、歩み寄ろうという立場をとれる人たちの言葉でなければ、やはり本当には科学の有用性も伝わりにくいのかもしれません。その意味では、決して人々の無知を笑ってはいけません。むしろ、他の人の無知を少しは改善できるようにその人々に語りかけることができていないのは何故かを自問自答することが、専門家には大切な姿勢なのではないでしょうか。

 そして、教育関係者は、莫大な学校での子供達への教育、さらには学校が終わった後の塾通い、それらの全てが、一人一人が(とりあえずは)理性的な行動をとることに何ら繋がりえていなかった、という事実に対して、猛省が必要なのだと思います。高みの見物をする前に、科学的知見の効用と限界とを冷静に分析する姿勢を教育が大多数の人々に与えられていないことを、もちろん僕自身も含めて、猛省しなければなりません。人々の無知を笑って、自分の知を誇る人間など、僕は何の役にもたたないと思っています。人々の無知を無知でなくしていくことが、教育なのですし、何かについての「知」を持つものが「無知」なものを笑うということは、その「知」を持つ人の存在意義が社会全体にとってはほとんどない、ということでもあると思うからです(直接的であれ、間接的であれ、ある部分についての特化した詳細な知識をもつ人々というのは、ものを作るなり、家事をするなり、様々な活動を他人に依存しなければそのような知識を持ち得ていないわけですから、自分が知っていることについて無知な人を笑う資格がありません。ある人がある分野について無知なのは、そのことについてよく知っている自分自身の努力が足りていないからです)。

もちろんそのような取り組みは、同輩の知識人からも、あるいは自分が教えようとしているその相手の人々からも、双方から異端視され、石もて追われる、ということになりがちなのが人間の歴史であるのかもしれません。その学問や文化の価値を分からない人に、その価値を伝えることほどつらいことはないですし、逆にそれを伝えられる側にとっても自分が「わからない」と放棄したものを話されることは、やはり苦痛であるからです。それでもその「断絶」を自らの身をもって埋めていこうとする姿勢が、僕は何よりもこの社会に著しく欠けているが故に、大切であると考えています。自分がある分野について詳しく、しかもそれが重要であると考えているとき、他人の無知を笑う暇があるのなら、それを少しでも伝える努力をしていかねばならないのだと思います。

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